戦争形態の変遷について


 国家対国家という戦争形態は、そう古いものではない。
 ようやく主権国家めいたものが萌芽しつつあった17〜18世紀の戦争は、いかに絶対主義国家の名の下に於ける戦争と言えども、その実体は17世紀以前と同様、諸侯の連合体vs諸侯の連合体というものであった。もちろん国家公務員としての常備軍など存在せず、王侯貴族の配下の騎士や領地の平民が動員され、また、傭兵隊も多用された。国民国家として民族やイデオロギー集団がまとまっていたわけでもないので、この時代の戦争はのどかなものであった。
 ここに於いて敵というのは、相手の騎士・兵士であり農民や都市の住民ではなかった。物資食糧の強制徴発や略奪は相次いだが、食糧・金品を差し出せば素通することもあったし、都市は城壁によって自衛した。そして戦闘というのは、相手の陣と向かい合って何日・数週間も睨みあい、その間の疫病などで死ぬ兵士の方が、戦死よりも多く、前線指揮官同士が「戦ったこと」にして戦死者だけ報告して引き上げることさえ珍しくなかった。もちろんハデな合戦もあったが、そうした戦いはすぐに終わった。この時代、戦争の死者はほぼ兵士・騎士が占め、その数もそれほど多くはなかった。


 戦争が今日の様相を呈したのは、19世紀末期からであり、20世紀初頭に起こった第一次世界大戦でその形態は完成したと言える。つまりは全体戦争・total warである。
 国民統合によって初めて「日本人」「フランス人」というような意識が広まり、行政は官僚機構によって国土の隅々まで支配が行き届き、公務員としての常備軍を持つ国家・・・今日我々がただ「国家」と呼ぶ「国民国家」が誕生し、また工業が急速に発展してからは、戦争の様相は大きく変わった。そこに於いて敵とは、敵の軍人・民間人・生産設備すべてをひっくるめた国家そのものとなった。徴兵された前線の兵士とは別に、生産力を上げるために国民全体が総動員され、相手国のそうした工業力や意志そのものを挫くために国土・国民そのものまでもが攻撃対象となった。
 そして、戦争目的も変わった。かつて戦争目的は国王の野心や国家理性であったが、国民国家の誕生は必然的に民族紛争の火花を散らした。国民統合とは「国民」の結束と同質化であるのだが、それは同時に国家中枢部の民族に支配されるをよしとしない民族の抵抗を生み出した。また迫害される民族と近い民族性を持つ国民国家が、他国に介入して救済することが大義として語られるようになった。さらに20世紀に至ると、民族紛争だけでなく、イデオロギー対立が紛争理由に加わった。こうした民族・イデオロギー対立は、かつて雲の上だった国王・宗教指導者の意志とは違い、国民一人一人にとって戦争目的が重大事となり、戦争はより苛烈さを増すこととなる。
 これが今日の戦争である。ここの於いての戦争の死者は、技術革新と攻撃目標の拡大によって加速度的に急増する。また軍民比率は逆転し、第二次世界大戦に於いては、はじめて軍人の死亡者を民間人の死亡者が上回ることになる。


 だが、こうした全体戦争は、核兵器の登場と経済の高度化によって、第二次大戦以降はほとんど起きていない。戦争になれば、全てが核によって灰燼に帰し、核が使われなくとも経済的に得るものはほとんどなくなったからだ。経済の発達は、わずかな物理的損害で流通・金融に大ダメージを受ける脆弱な社会をもたらし、また市場の拡大によって、国々は相互脆弱性を持つに至った。
 また、19世紀から20世紀初頭までは敵国を支配し、資源と市場を奪えば勝利であったが、今日では戦争や占領地の維持にコストがかかりすぎる。そのため、小規模・局地的な戦争しか起きなかったのが20世紀の半ばから終わりまで。ベトナム戦争でさえもアメリカによっては小規模・局地的な戦争であった。
 冷戦期の特徴は、東西ブロックに陣営が二極化されて世界規模で対立していたのにもかかわらず、大規模な戦争が抑止されていたことである。ここに於いては、周辺に於いて小規模・局地的な戦争が起こったが、こうした「周辺部の戦争」たるベトナム戦争では軍人5に対して民間人95にまで至り、戦争の被害者は民衆という構造が固まった。


 そして今、ポスト国家対国家戦争として注目されているのが、国家対非国家主体の戦いである。これが「新しい戦争」として語られる事象だが、もはや「戦争」と呼べるのかどうかも疑わしくなっている。そしてこの戦いの特徴は、国家がイデオロギー集団・民族集団という、目に見えにくい、小さな目標を叩くのは極めて困難である一方、イデオロギー集団・民族集団にとって、国家という巨大なターゲットを攻撃するのは容易であるということ。国家に限らず、正面に看板を掲げる大企業や国際組織も、攻撃された場合、圧倒的に不利である。
 これから先の世の中、どうなっていくのかは予想できないが、宗教・民族の対立から、堕胎・遺伝子解読を巡る倫理対立に至るまで、いわゆるテロが頻発することは想像に難くない。反グローバルを掲げる暴徒集団が国際会議の粉砕を掲げて暴動を起こし、自然環境を破壊していると言われる企業に嫌がらせ・営業妨害が相次いで収支を悪化させ、堕胎を認める医者が射殺されるというようなことは、20世紀終盤から相次いではいた。
 今後の世の中は、国家、企業、そして個人であれ、自己防衛を怠れない時代が到来しているということであろう。安全な社会は理想だが、武力に対しては武力で対抗するしかない時代が、まだまだ続くかと思われる。そして、この時代を生き抜くための方策は、小火器や戦車の数だけでは計れないことだけは確かだ。今後の社会に起きる事象を注視していくしかあるまい。


戻る