メリケンテロル
2001年09月12日(水)

新宿駅に於いて。防弾着で身を固めた警官が配置さる


 NHKのニュースで、世界貿易センタービルに二機目飛行機が突っ込むのを観たのは11日の22時ごろだったか。最初は、ただの事故なのかテロなのか考えた。2機もの飛行機が突っ込む事故というのは考えにくいが、例えば誘導設備の異常など、同じ原因で起きた事故ということも考えられる。それと同時にテロということも即座に考えた。そちらの方がよほどありそうなことであった。アメリカは飛行機の個人所有が多い国だ。コミューターの小型ジェットに爆発物でも積んで突撃したのか、などとも考えた。だが、まさか乗員乗客を乗せたままの大型旅客機を乗っ取り、そのまま突っ込んだとは思わなかった。小型機なんかではなく、私が普段、釧路−羽田間を飛ぶのにも使っている旅客機である。


 これには戦慄を覚えた。オフィスで仕事しているときに突然爆死するのも恐ろしいが、自分の乗る飛行機がビルに突っ込むのは心理的にはもっと恐ろしい気がしてならない。機体・燃料・誘導設備、そして人質などは相手のものを利用し、小火器程度ではまったく阻止できない大質量の物体を、空中から高速で突っ込ませるとは・・・なんという高効率なことをしてくれるか。
 ここで「人質」というコトバを使ったことに対して、「どうせ一緒に死ぬのだから人質ではないのではないか」との声もあるだろうが、これは人質である。爆死するその瞬間まで、乗員乗客は生きている。この事件が起きる前までは、乗員乗客ごと機体をぶちかます攻撃をするとは予想しにくかったし、予想したところで撃墜などの対処にも躊躇が出る。命令系統をたどって撃墜命令を出されるまで時間がかかる。撃墜を命じられたパイロットや高射砲・ミサイル部隊員の精神的圧迫感も尋常ではなかろう。十二分に人質である。


 日本時間で日付が替わったあたり。テレビでは、国防総省にも飛行機が突入したという未確認情報が。やがて映し出された国防総省は煙を上げていた。10機以上の旅客機が通信途絶しているという怪情報が飛び交い、連邦議会でも爆発があったなどという怪情報も飛び込んでくる。そしてピッツバーグ近郊に旅客機が墜ちたとの報。その間に、崩れ落ちる世界貿易センタービル。何もかも混乱していた。後で聞いた話、この映像を新しい映画の宣伝だと思っていた人もいたという。それだけ荒唐無稽な出来事だったが、これは事実らしいというのが私の脳髄を興奮させた。虚報や事実と反する情報もあり、報道は錯綜していたが、崩れ落ちる世界貿易センタービルと炎上するペンタゴンの厳然とした現実であった。


 私は中学校あたりから、人の世の暴力に対し、空想的な理想を排して力の論理を考え続けていたガキであった。ベルリンの壁にハンマーが入れられ、マルタでブッシュとゴルバチョフが冷戦終結を宣言したのをリアルタイムで観ていたが、これで平和が来るなどと考えもしないガキであった。「東西冷戦が終わった。これからは平和になる」などと漠然とした期待を抱く大人を、軽蔑し、嘲笑していたガキであった。
 だが、この当時に「テロと紛争の時代が来る」「危機管理云々」「自己防衛が必要だ」などと言った日には、キ@ガイか悪い本に影響された盲信者としか見なされなかった。「平和な時代がくるのに、なぜ今戦争のことを考える必要がある」などと叫んでいた人々が、湾岸戦争に度肝を抜かれたのには溜飲を下げたが、日本人−というか私の目に見える人々の意識は何も変わったようには見えなかった。
 そしてルワンダ、コソボと内戦の報道が相次ぎ、「冷戦終結=平和」の幻想は徐々に崩れていった。血気盛んな有事論が一部で叫ばれるようになったが、まだまだ多くの人々は、昨日までの生活が、明日も当然のように続くと確信しきっているようだった。そこに叩き付けられたのが、この事件である。
 NY市民の日常は一瞬にして崩壊した。そして日本人にとっても、それは他人事ではないように思えたことだろう。テレビの映像は映画やゲーム同様に現実感に乏しいものであったとしても、翌日以降の株価や為替レートの下落、航空会社や旅行産業の収支悪化など身近にせまってくる事件の影響。日本でも新宿駅等の街頭に、防弾着で身を固めた警官が立ち、米軍基地前では土嚢が積まれ、重機関銃が据えられた。事件の起きたNYから遠く離れた日本の人々も、昨日と今日とが違うこと、今までの生活が暴力によって変えられたことを、痛感せしめられたことであろう。
 ちなみに、私は血気盛んな有事論者ではないのであしからず。ただ、暴力というものを遠い世界のことと考えたくないだけである。


 事件直後、フロリダで演説をしたブッシュ大統領は、一時姿を消した。ワシントンに向かっているとも囁かれたが、数時間後、大統領はルイジアナな戦略空軍基地から怒りに満ちた演説を行った。このときの大統領専用機の移動には、(少なくとも)2機ずつのF15とF16の護衛戦闘機がついていたとのこと。かの強国の大統領が、国内の移動に護衛戦闘機をつけ、戦略軍基地に待避するとは。
 これからの時代、テロ・不正規戦が頻発することぐらいは認識していたが、やはり現実の映像を見せられると度肝を抜かされっぱなしであった。私は必要ないとき以外は、テレビをつけることなどないのだが、この米国の事件、発生直後から数日、テレビを付けっぱなしにしていた。グリーンアロー出版のテロ年鑑を読破したことがあるが、これほど大胆・大規模なテロは例がない。合衆国の中枢部に攻撃をしかけたのも異例だが、同時ハイジャックによる自爆とは凄絶な。米国は数多の戦争を経験してきたが、国防総省に打撃を与えられることなど絶無だった。国内にこれほどの大被害があるとは影響が心配された。


 アメリカはとにかく巨大な国家である。善し悪しは別として、事実上地球上の経済・政治・軍事の中核としての役割を担い続けている。アメリカが大国であり、支配力・影響力を持ち続ける限り、アメリカへのテロも絶えない。私の親戚もNYに在住しており、他にもアメリカ在住の知人も何人かいる。ま、無事だろうけれども、こんな情勢では日常生活も精神的にも大変であろう。
 そして、この日の朝に開始される東証では、どんな恐ろしい株価・為替レートになるかを懸念した。この事件は、日本経済にも、アメリカ経済にも、他の殆ど全ての資本主義国にも、影響を残すと予想された。凄まじい数の人々が死傷したのは大惨事であるが、目に見えない資源(金融資源・情報資源・ネットワーク資源)で失われたものも大きすぎる。この影響は、注視していく必要があるだろう。


 さて、ここまでが興奮さめやらぬ内に、掲示板に記述したテロの感想をつなぎ合わせて加筆したものである。
 しかし、我ながら脳髄を興奮させまくっていて、あまりにお粗末な文章を書いたとも反省。
 少し冷静になってから、テロと戦争、暴力について考えてみたい。特に「テロ」というコトバを、私自身を含めて誰もが安易に使っているが、このコトバ自体が難物である。この定義についても掘り下げる必要があるだろう。

外国滞在者にとってのこの事件
戦争形態の変遷について


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