寡黙な戦争映画
この映画の主題は、ディナルドの海兵隊としての栄光と堕落した自己とのアンビバレントな現状であり、無敵の海兵隊員ハフナー上級曹長とディナルドとの対比であろう。舞台となる前線基地の名はGloria。海兵隊としての「栄光」を暗示しているのか。
しかしこの主題は、海兵隊のなんたるかを認識しているアメリカ市民と、慎重に物語の意味内容を咀嚼する人間以外には、見えてこない。ただ戦闘シーンばかりが続く戦争映画にしか見えないだろう。海兵隊について疎い私にも、そうした海兵隊魂なるものについては、なかなか見えてこなかった。それでも、私はこの映画に感じ入るものがあった。故に私は、敢えて主題の「海兵隊としての栄光」については触れず、その背景として描かれている戦闘と兵士の戦いぶりについて述べてみたい。
この映画に於いては、延々と名もない前線基地を巡る攻防が描かれる。大抵の視聴者には、戦闘アクションが売りの戦争映画にしか見えないはずだ。「地獄の軍団スクワッド」などという陳腐で低俗な邦題も、この映画をくだらない三文アクション映画として認定しているかのようではないか。
しかし、違うのである。
「海兵隊としての栄光」を巡る諸問題を抜きにしても、この映画は、ハデな戦闘に熱くなり、無敵のヒーローの活躍にバカ笑いして観るような代物ではない。
この映画には、超人的なヒーローも万人を歓喜させる英雄も出てこない。
確かに、「フルメタルジャケット」の鬼教官リー・アーメイ演じるハフナー上級曹長や主人公ディナルドはなかなか目立つ。特にディナルドなんぞは、バカみたいにM16A1を乱射して、ナタを振り回して大活躍しているかのように見える。
しかし、彼らも戦場に於ける一人の兵士(あるいは下士官)でしかない。たとえディナルドが局地的に活躍しようとも、戦局にはほとんど影響がなく、解放戦線兵士は次々と基地へと大挙して来る。個々の名も無き兵士達は、土嚢と塹壕だけで出来た小さな拠点で泥と土埃にまみれながら、圧倒的に不利な戦況のなかで戦うのだ。この映画の影の主人公は、そうした名も無き兵士達である。
殺しても、殺しても、軍隊蟻のように人海戦術を繰り返す解放戦線。味方の銃口の数よりも、敵兵は何倍も何十倍も多い。もしかすると、弾薬の数よりも敵の数の方が多いんじゃないだろうか・・・。そんな圧迫感の中で、戦い続ける。このときの兵士の心境は如何様なものだろうか。
そうした心情描写なんぞは一切出てこない。ただ、彼らはこの日この時を生き抜くために、銃を撃ち、ナタを振り回して目の前の敵を倒すのである。
くどい心情描写を繰り返す映画よりも、こうした寡黙な映画の方が、観る者は前線の兵士の心境を無意識に酌み取ろうとする。大写しのスクリーンの端にしか映っていないような名もない兵士も、皆、必死で照準をつけて銃を撃ち、ナタを大振りし、勢い余って塹壕から転がり出そうになった兵士を別の兵士が引っ張り上げる。
こうした「不特定多数」の兵士が、自らの命をかけて死にものぐるいで戦っている様が、生への渇望を感じさせてやまないのである。
この映画は凡庸な娯楽戦闘アクションなんかじゃあない。
超人なんかはいやしない。
敵に向かって.223Rem弾のシャワーを浴びせるディナルドも、「立派な海兵」として恐れずに敵を圧倒しようとしているだけだ。素手で解放軍兵士を何人も叩きのめした黒人兵もいる。しかし、彼が解放軍兵士をナイフと蹴りだけで何人も倒す様も、決してヒーローなどには見えない。危うく銃剣をかわし、渾身の力を敵に叩き付ける様には、死への忌避しか窺えない。
死の恐怖と格闘し、それをねじ伏せながら、生きるために戦い、海兵としての栄光のために戦う。主人公格の名のある俳優だけではなく、画面の端々にしか移っていないような「兵士」役のエキストラに至るまで、その姿には悲愴感を禁じ得ない。
特に、名前のある連中ではなくて、「画面の一部分」でしかない兵士の生き死には、観ていて自分がその兵士になったかのような一体感を覚える。ごく少人数の登場人物がストーリーを独占せず、ただ戦いの推移のみが描かれるからこそ、同じ兵士の死に対しても、毎回違った感慨を持つことが出来る。
こんな、観るたびに観た分だけ感慨を持てる映画なんて、よほどの名作を除けば、そうそうはないだろう。この映画は、個々の兵士を主体者として戦闘を描くという、アメリカ映画としてはめずらしい手法をとっている。エキストラは、撃ったり、撃たれたりするだけの断片的な存在ではなく、「戦場で戦う兵士」として描かれている。それだけでも特筆に値する映画である。
私は好きな映画は、2回3回どころか、50回でも100回でも観るのだが、この「地獄の軍団スクワッド」は、そうした繰り返しの視聴に堪える良作と言える。DVD化を待ちたいところである。