長いお別れ
レイモンド・チャンドラー作、清水俊二訳、早川書房、1976年刊

 ハードボイルド小説の傑作と呼ばれる一冊。全ての価値に対して無頓着なわけでもなく、かといって道徳律に貪欲であるわけでもない。絶対の正義を胸に抱くこともない。しかしこのマーロウなる男が魅力を持つのはどういう面にあるのか。それが最もよく現れているのが、この「長いお別れ」ではなかろうか。


 ハードボイルドの定義とは何か、と問われて、私は気の利いた答えを出すことはできない。都会の街にコートの男がチャカを持って歩くとか、なんとなく漠然としたイメージは浮かばないこともない。しかしそれではサスペンスやアクションとは違うのか、なにをもってハードボイルドと称し、あるいはハードボイルドではないと言えるのか、という問いに対してコトバで答えることはできない。
 それでもってハードボイルドの巨匠と呼ばれるチャンドラーの代表作、「長いお別れ」を買ってみたのが高校2年の前半だったか。気張って読んでみたはいいが、50ページ程度読んだところで栞を入れて放置して、それっきり忘れていた。読んでみても、物語に没入できもせず、乗らなかったのだ。ライアルやヒギンズを読んでも、16才の私にチャンドラーはわからなかったか。
 それから浪人し、大学へ行き、そして就職してから。私は再びこの「長いお別れ」を手に取る気になった。自分自身の引っ越しと、実家の立て替えとが重なり、手持ちの本も実家にある本も含めて、徹底的に本を淘汰しなければならなかった。読まないままの本、読みかけの本はほとんどすべて処分してしまったが、この「長いお別れ」だけは前述の「ハードボイルドとは何ぞや」という疑問が頭に浮かんで「処分箱」に放り込む気にはなれず、ついついその場で読んでしまった。そして片づけをほったらかして、深夜までかかって読破してしまった。


 ハードボイルドなマーロウ氏は、価値に対してどんな姿勢をとるのか。それが私の関心事であった。銃を持つとか、与太って歩くとか、そんなことにハードボイルドのエッセンスはない。ハードボイルドとはおそらくは、価値に対する姿勢のことであろう、と私は常々思っていたからだ。既存の価値すべてを否定するニヒリズムか、シニカルな虚無主義が支配する話か。そんな想像もしていたが少なくともマーロウはそういった類の人間ではないらしい。
 出来のわるい高校生のように、内心大学へ進学するのが唯一絶対の価値と思っていながら、自分が出来ないから試験で人間の何が計れる、そんな試験通って大学行ったってクソだと唾棄するような奴はクズだ。「大学」をカネとか権力とかに置き換えてみれば、そんなセリフを吐く奴はここそこにいるものだ。創作の中にも、それがカッコイイとばかりに何者でもない分際で、ただ金持ちや権力者を唾棄し、嘲笑している主人公はよくいるものである。だが、マーロウはそういうクズではない。
 あれもよし、これもよし、人それぞれだと言えば柔軟で寛容で視野が広い人間たれる、というような人間でもない。マーロウの世界観は、わりと決まり切っている。こうせねばならない、こうに決まっている、というドグマは持っていないが、万事にはわりとどうでもいい。自分とは違ったスタイルの人間や、自分には共感しえない行動をする人間がいても、アホだとか間違っているとか判定して回らず、どうでもよくやりすごす。
 確固たる正義の倫理律を持っているわけでもない。だけども、自らの情と信念には正直である。それがマーロウらしい。


 ただ価値を否定し、律を持たない与太者になるのは簡単だ。だけれども、そんな人間には誰も魅力を感じない。正義だ情だ友愛だ信用だといったものを完全否定し、ただ自ら物欲や性欲といった即物的な利益を追求する。そんな奴には魅力はない。マーロウは正義・友愛・信用といったものを否定しているわけではない。あんまり関心がないだけである。多くの人がいて、雑多な価値がある中で、これがいい、あれがいい、などとおこがましいことを言って回らない。しかし、なんとなくこうした方がいいんじゃないか、という程度の認識は持っている。
 「万人には万人の価値がある」の名の下に、他者を放置するのとは違う。闘争はするし、言いたいことは言う。否定もする。侮辱もする。 だけれども、ちょっと気になった、ちょっと世話になった、ということをも無視して忘れることはできない。なんとなく無関心なようで、人間味ある感情、青臭い面もちょっとばかり覗かせる。それがハードボイルドに於けるマーロウの魅力なのではなかろうか。
 この一冊でハードボイルドとはなんぞや、などということを語れるわけではない。けれども、ハードボイルドの主人公の魅力について考えるいい契機にはなった。


戻る