1997年5月8日の感想


 私が大学へ入学し、「クレクレタコラ」と邂逅したのが5月7日。私が入部した棒術部では、この作品のLDとテレビ神奈川の録画が古来から保管されており、部員の必須科目として扱われていた。新入生に対しては半年か1年は封印しよう、という取り決めがあったのだが、入学/入部からわずか1ヶ月程度で私はクレクレ・インパクトの洗礼を浴びた。その翌日に、私が全部員に対して書き記したのが、下記の文である。


1997/05/08木


 今日は一限が休講なので、「クレクレタコラ」についてのレポートを書かせて頂きます。

 はっきり言って、あの作品は私の想像をはるかに超える代物でした。
 凄絶な設備、殺人的な構成、大胆な効果音、驚嘆すべきキャラクター・・・どれも類例のない、画期的なものであったような気がします。脊髄がかゆくなってくるあの音楽とともにビデオを見ること20分。後頭部に脳内麻薬がたまって、痛みとも重みとみつかない感覚を覚えます。例え、何もせずにボケていようと、英語の予習をしようとも、「この作品を見る」ということを止めて別のことをしたら、どんなに楽になるだろうか。そんな気がしましたが、部内に名高い「残酷スイカ割り」を見ずには止められません。そのまま鑑賞を強行しました。
 「マッドマックス」をも超える暴力シーン。友人が描いた同人誌よりも特異なストーリー・・・この作品の「クレクレタコラ」たるところを味わいつつ1時間。このころから全身が脱力し、「タコラ」の何を見ても聞いても、どこからか笑いがこみ上げてくるようになりました。何もかも、愉快。そういう気分になりました。


 しかし、この作品の真価はそのような表層的なものではありません。この作品全体の奥底に流れる基本思想こそが「クレクレタコラ」なのです。
 私にはあのキャラクターの行動原理は理解できません。しかし、彼らは多くの場合、モノに対する欲求で行動します。これは実に画期的なことです。日本という国民の同質性の高い社会では、モノよりも精神が価値あるものとされがちです。
 「努力すればそれでいい」「自分の利益を追求するのはよくない」などはその例でしょう。しかし、多様な価値観念がせめぎ合う中では、このような精神は共通の価値を持ち得ません。ローマとギリシアの妥協、異民族の侵入、移民などによって、数多くの人種・民族がせめぎ合ったヨーロッパ、アメリカ、そして中国に於いては、目に見える結果やモノだけが共通(に近い)価値を持ち得たはずです。この「クレクレタコラ」の世界に於ける物質主義は、日本的な独り善がりな価値を破壊する、世界的思想と言えましょう。


 そして、彼らの手段もまた、実に実際的であります。彼らは武器を多用します。棒キレ、棍棒、日本刀、弓矢、リボルバー、銃剣、ライフル、突撃銃、大砲など、その多さに驚くばかり。彼らは物事を実力によってのみ解決しようとする。そして多くのオチは報復の暴力による。この点もまた、脱日本的であります。多くの日本人は、「倫理」や「良心」を神聖不可侵のもののように捉え、「悪人」に対しては「何故こんなことをする」「みんなが『良心的』ならいいのに」「『悪いこと』をする奴がわるい存在自体が何かの間違いだ」と言うだけで、全く自衛行動をとらない傾向にあります。法律が警察という暴力装置によって効力を持っていることさえ理解せず、「法治国家」に於いては犯罪は「法の理念」のみによって抑制されるとさえ考えている人間までもがいる始末ですから。
 しかし、法や倫理などは頭の中の理念にすぎず、物理的には全く意味がありません。銃口の前にて、いかなる法も倫理も楯にはなりません。自分の身や財産、利益を確保するためには、武力こそが必要なのです。さすがに武力で他人の財産を奪うことには賛同できませんが、武力こそが実行力という思想には感服いたしました。「悪事」に対しては自分一人の「正義」で対処するのではなく、実力による報復で解決するという思想は、実に理に適っております。武力の強い者が勝ち、武力の強い者も、策によって負けることがあるという自然さがここにあります。「日本的価値観」から脱却したい人は、この「クレクレタコラ」を見ることを勧めます。


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