勝負に絶対はありえない。
何もせずに天明を待つのは愚の骨頂だが・・・・・・全てを完璧なまでに人智をつくしたとしても、やはり人は天明を待たなければならない。それが勝負というものだ。
by コミックマスターJ
「YOUNG KING OURS」2001年8月号「コミックマスターJ」より
脚本・田畑由秋
作画・余湖裕輝
<文脈>
辣腕編集者・前園竜一は、新しく創刊される少年マンガ誌の新編集長として任命され、売れる雑誌作りに燃える。人気作家の連載をカネで確保し、スポンサーから資金を引き出し、かつての伝説的人気作品のリバイバルにこぎつけ、発刊前からその新雑誌は話題をさらう。
完璧な連載陣・最高の戦略・そして常勝編集長。こうして作られた雑誌の名は「少年タイタン」。
だが、「少年タイタン」は発刊から半年後、連動企画のアニメは野球中継による休止が相次いで視聴率が伸び悩み、人気作家の連載も今ひとつ決定的な傑作たりえず、雑誌は赤字を出し続けていた。そしてメディアミックスの映画化企画が流れ、雑誌売り上げは大幅にダウン。「少年タイタン」は撃沈寸前の状況に至っていた。
いくら最高の布陣・最高の采配を敷いても、駒が思い通りに動かず、編集長・前園は悩む。その前園の前に現れたコミックマスターJ。彼は言う。
「漫画は人生よりも厳しい。
人生には堅実な人生もあるが、我々の求めるものはそうではない。
本気で描く漫画はいつも、のるかそるかだ」
つまり、どれほど作家が作品に心血を注いでも、精一杯描こうとも、ダメなときはダメということ。ある程度の水準に達する良作は描けるとしても、時代の潮流をも変えうる傑作を描けるかどうかはマンガ家本人にもわからない。この「少年タイタン」では、一流の作家を集めたが残念ながらそうした大傑作が出ることはなかった。
ここでコミックマスターJは続ける。
「勝負に絶対はありえない。
何もせずに天明を待つのは愚の骨頂だが・・・・・・全てを完璧なまでに人智をつくしたとしても、やはり人は天明を待たなければならない。それが勝負というものだ」
<コメント>
人間関係も、就職活動も、商売も、何もかも駆け引きだ。Jの言うとおり、人事を尽くさないで天命を待つのは愚の骨頂だが、人事を尽くしてもうまくいく保証などない。決まりきった必勝策などないのだ。人生もスポーツも仕事も殺し合いも政治経済も戦争も、これは同じだ。上の前園は非常に優秀で、雑誌作りにその手腕を発揮したが、残念ながら結果を出すことは出来なかった。
ここではその「人事」、つまり「人の為しえる行為」について、二つの例を挙げてコメントしたい。
一つ目の例。
私の知人の■■に、好きな女が出来た。■■はメガネを流行りのものに換え、服を今風のものにコーディネイトするなど、見てくれを取り繕う努力をした。話題作りと称してドラマなんぞを観たりも。だが、それだけでうまくいけば誰も苦労はしない。■■に限ったことではないが、■■は必勝策を求めてTVや雑誌を追い求める。流行りの若者として振る舞えば、目当ての女性に気に入られるとでも思っているのであろうか。
こうした努力を徒労とは言わないし、これが功を奏することもあるだろう。だが、■■の場合はうまくいかなかった。■■がダメな理由は、■■の会話センスが絶望的に低いこと、当たり障りのないことしか言わず、都合の悪いことは隠せばそれでいいと思っていることなど、指摘できるだけでもいくらもあった。だが、最も問題なのは、必勝策を求め、人の真似して手引き書通りにやることしか知らず、自分で何かを出来ないということだ。
■■は何もしない奴よりはマシだったのかもしれないが、必勝策という型を追い求め、「このようにすれば必ずうまくいく」「このようにやらないと、絶対ダメだ」と選択肢を自ら固定化しているようでは、問題に対して的確に対応するのが困難になる。型やマニュアルを求めることは否定しないが、そうした型やマニュアルは「ありそうなパターン」を解説しただけであって、あらゆる状況に対処できる必勝策ではない。
例えば武道に於いては、型を稽古しても、やがてはそれを打破し、そして型を離れて自ら主体的に対処する能力を養うことが必要とされる。無論、型を離れ、目の前の状況に対して最も適切と思われる手を打ったとしても、それでうまくいくという保証などないが。
人は、何の保証もなく、確かな解決策など存在しない中で、手探りでよさそうな策、うまく行きそうな策を組み立て、問題に当たっていくしかない。確かな方法などは存在せず、よさそうな策・堅実そうな策をとったからと言って、うまくいく保証などない。それでも、何か目的を達するためには、暗中模索し、努力していくしかない。
二つめの例。
世間では往々にして学識経験者やエリート(注)の評判がよくない。大衆が地位や名誉、収入に於いて自分よりも高い位置に居ると思われる人間を僻む、ということを除くと、大衆が学識経験者やエリートを蔑む理由は、大衆が確かな真実や解決策を求めるからだと言えそうだ。確かな真実・解決策・・・そんなものはない。あるのは研究と分析と仮説だけである。
しかし大衆はそれをわからんので「学者なんて偉そうなこと言ってるが、何も役にたたん」「エリートは学歴ばっか高くて、世の中をちっともよくしない」と言う。大衆は、確かな結果を出さないと、相手を認められないのだ。「少年タイタン」の前園のように、優秀だが運悪く結果を出せなかった人というのは数多く存在する。例えば米国のフーバー大統領。彼は多くの歴史書・教科書に「大恐慌に対して無為無策」と批判されている。だが、フーバー大統領は、決して歴代合衆国大統領の中で劣った人物ではないのだ。ただ当時は、フォーディズム的資本主義の下ではじめて起きた大恐慌に、有効な政策を出せる人間は絶無に等しかった。彼も例外ではなかっただけである。
どういう背景があろうと、結果を出せないと認められないのが世の常だが、どうも大衆は人間が最初から「偉人」と「無能」の二種類に決まり切っているかのように、人間を判定したがるようだ。現在の日本は、経済不況という巨大な重苦しい状況の中で、世の中が暗いという空気が蔓延している。そこで人々は政治家や官僚や経済学者、企業経営者を「無能」と責める。結果を出せなかった人間が責められるのはやむなきことだが、ここで問題なのは大衆の心理である。
少なくない大衆がこう考えている。「高学歴の人間は、受験の歪みやら特権意識やらでダメだ。学歴社会が生み出したエリートがこんな日本にした。この日本を正しい方向に導けるのは、どういう類の人間か」。
別に、「受験制度の下で精神をおかしくした高学歴の人間がのさばっているから」日本が不況なわけではない。不況というのは、圧倒的な量のカネ・人・モノ・情報が行き来する資本主義社会に於いて、そうした循環がある状態になっているだけのこと。指導者がどういう人格・精神だから不況になるというものではないし、個々人や政府・学会・企業がどれだけ人事を尽くしても、良好な循環状態に保っておくのは困難を極める。
繰り返すが、結果を出せなかった者が批判され、結果を出せた者が評価されるのは、世の常であり、そうした評価は正当だ。だが、あらかじめ「優秀な人間」と「無能な人間」とに人間が決まり切っているわけではない。偉人伝なる書物に出てくる人物も、もちろん優秀だという前提はあるが、たまたまうまくいった人間であるにすぎない。優秀な人間でも、条件・環境・タイミングの些細な違いで、出せる結果は大きく違ってくる。結果だけで人間の能力そのものを判断することは難しい。
あたかも「優秀な人間」と「無能な人間」とに、人間が最初から設定されているかのような認識をしていると、物事が失敗した際にその原因を「無能な人間」のみに全て帰結し、失敗原因の分析を阻害する。また、「無能な人間」に全ての失敗の原因を帰結するような精神構造では、「物事をすべてうまく行う優秀な人間」の登場を期待することしかできず、それっぽく見える人間が登場すると、無条件にそうした人間を信頼し、最終的には独裁体制を大衆自身が作ることになる。
大衆が、確固たる真実や唯一絶対の解決策を求め、そうしたものをもたらす指導者を求める精神構造を持っていたがために、ドイツやイタリアで大衆自身が独裁者を作り出したことを忘れてはならない。所詮、人事に絶対はありえない。
注:エリートとは地位の高い人のことではなく、高学歴で高度な専門能力によって高い地位に就く人間のことである。地縁・血縁など封建的な制度の下で支配者になる人間を、エリートとは呼ばない。
蛇足ながら、現在の日本は大学院の役割が未だに社会に認められておらず、地縁・血縁もはびこり、それほど学歴社会なわけではない。