この橋ができるまで、この地区の人たちは何キロも迂回しなければならなかった。この橋の立案がこの地方の政治家だとしても、それはそれで意味があるんだ。
 公共とは、少数を切り捨てる事とは違うからね。
 一番の問題は、今の予算で2橋以上架けることができるってことだ。

by四倉
「SUPER JUMP」2001年21号「東京」より


<文脈>
 公共工事の利権を巡り、汚職の風土体質を持つある地方。
 ここで汚職と闘うキャリア公務員・四倉。
 彼は女を連れて、「誰も通らない立派な橋」を車で通る。
 ここでの会話。

女「ほんとムダね。こんな橋、誰が使うの。ここに車で何台の車とすれ違った?一台もよね。だもんね税金が無駄になるわけよね」

四倉「これを無駄と呼んじまったら、公共の意味をなさなくなるんだ。この橋が生活手段になっている三つの集落が存在する。ま、人数にして20数名と聞いているけど」

女「20何人かのためにこの橋を・・・」

四倉「そうさ、20数人だけで生活が成り立つわけないから、その人たちに関わる人だな。それにしても効率は悪いよね。
 でもね、この橋ができるまで、この地区の人たちは何キロも迂回しなければならなかった。この橋の立案がこの地方の政治家だとしても、それはそれで意味があるんだ。
 公共とは、少数を切り捨てる事とは違うからね。
 一番の問題は、今の予算で2橋以上架けることができるってことだ


<コメント>
 近年、日本では経済の構造改革が叫ばれ、公共事業や政府系法人の見直しが進められている。そこで必ず登場するのが、土建。その中でも、とりわけ橋を含んだ道路の「無駄」が叫ばれている。テレビや新聞で「特殊法人や公共事業を検証する」などという特集が組まれていたら、必ず「この高速道路は一日何台も車が通らない」などということが取りざたされる。だが、公共事業というのは、本来数量だけでその価値を決められるものではない。


 物事を為すのには、どんなことであろうとカネが要る。住民生活のために橋を架ける。伝染病が流行っているからワクチンを生産する。犯罪者の増加に伴い、刑務所を拡張する。戦争が起きるから武器弾薬を増産する・・・例えどんなことであろうと、どんなに緊急で「正義」があろうと、なにかをするのには必ずカネがいる。「正義」のためにただ働きしたいという気持ちがある人間でも、カネを稼がないと、メシも食えないし、欲しいモノの一つも買えない。当たり前のことだ。
 世の中の需要に対して、供給が商売になるとき、事業者は商売とする。だから世の中様々な企業やその他の事業者が存在して、商品やサービスを提供している。その商売・経済活動の結果として、社会が整備されていく。例えば、医療も教育も福祉も、商売になるから存在していられる。もちろん、政府がインセンティブを付与するなどして商売として成立するようにし向けている面もあるが。だが、社会に必要なサービスや生産の中でも、人手や物品が欲しいのだが、商売にならないからそれを行う事業者がいない分野というのもある。そこを補うのが、公共事業であり、ボランティア(注)なのである。


 もともと公共事業というのは効率がよくない。この「東京」で四倉が言っているように、小さな集落の交通のために、橋やトンネルを作ることを考えてみればよくわかる。人口20人ちょいは極端だが、例えば人口1万程度の町に橋を架けても、工事費・維持費がかかるだけで、経済効果はほとんどないことなど往々にしてある。もし政府が19世紀のように夜警国家を決め込んだのならば、田舎に橋やトンネルは永遠にかからないことであろう。学校や病院は都会にしか出来ず、しかも金持ちしか利用できないだろう。障害者や老人、子供は一人では生きていくのはかなり困難になる。
 話を土建に戻す。民間の事業者だけで橋を建設しても、よほどの大プロジェクトで大工業地帯を建設するとか例外がない限り、費用を回収できない。それ以前に、そのための資金は他の事業者も金融業者も誰も出さない。当たり前だ。
 誰も改善のための事業をやらないが、生活の不便に苦しんでいる人々がいる。こうした人々は、邪悪な下心どころか、ただ他の国民や他の県民並の生活をしたいだけだ。だったら交通の便のわるいド田舎に住むな、などというのは都市の論理だ。人には事情がある。生まれたくて田舎に生まれたとは限らないし、都市の人間と違って、仕事や住居の関係から転居は困難だ。ド田舎に住んでいるというだけの理由で、大多数の他の市民よりも極端に不便な生活を強いられることはない。少なくとも、この国の憲法はそう謳っている。だからこそ、それを解決するものとして公共事業があるのである。税金として広く国民や県民から資金を調達して、カネが回ってこないド田舎の格差是正に使う。効率はわるいが、それが果たしてムダと言えるのであろうか?


 四倉は公共事業の汚職と闘う正義漢の役人だが、こうした公共事業そのものをムダとは考えていない。ここに私は共感を覚えた。
 もちろん、必要な公共事業と言えども、政府そのものの財政面から、そう簡単に事業を連発するわけにはいかない。限りある希少資源たる税収入は、効率よく配分する必要がある。そのため、採算のとれない事業を連発することは見直す必要があるし、場合によっては田舎の住民に不便をガマンしてもらうこともあるだろう。理想はどうあれ、出来ないものは出来ない。
 だが、利用者が少ない=ムダと決めつける精神は、公共事業の精神を逸脱している。無論、この財政赤字の世の中では、公共事業にも効率性採算性を求めてしかるべきだが、見るべき効率性が利用者の数量だけでは粗末すぎる。見るべき視点は、まだまだある。


 この「東京」では、四倉が言うとおり、1橋の橋をかけるのに2橋以上ものカネがかけられた。これは汚職の結果なのだが、現実には今の時代ここまで派手な汚職はない。これは公共事業をめぐって政官民そして極道の癒着を描けば受けるだろうというマンガ的な発想である。「公権力横領捜査官 中坊林太郎」と同じく、読者が期待していることをもっともセンセーショナルに描くという手法である。読み物としては面白いが、読んでいてあまりの悪意のステレオタイプが気になって仕方がない。だが、規模ややり口はどうあれ、現実に汚職というのは存在する。汚職は時に効率をもたらす面もあるが、基本的には資金配分の効率を落とす。「ムダな工事をすること」よりも、その工事の建設費そのものを、市民は厳格にチェックする必要がある。
 そしてもう1つ。工事のやり方、設計そのものの効率性の問題だ。例えば、現実に存在する道東自動車道は北海道東部の唯一の高速道路なのだが、利用者はほとんどいない。これは必ず「ムダな公共事業」の特集番組で叩かれる。ここで問題なのは、「ムダな場所」に高速道路を造ったことではない。「ムダな体裁」で高速道路を造ったことだ。道東自動車道は、人口十数万の帯広市から片側一車線で人口8000人池田町までつないだ道路である。この道東自動車道は、「未完成」である。帯広以外は大きな都市もない。この道は、札幌から道東を通してはじめて意味が生まれる。今のままで誰も使わないは当然。未完成な道路を指して、「利用者がほとんどいない」ではなくて、「こことここをつなげれば、どれだけ利用者が生まれるか」こそが問題なはずだ。札幌から釧路までの高速道路が貫通すれば、道東の交通事情がドラスティックに変革され、非常に使われる道路となったことであろう。ここでは、半端に予算を使って、「いつつながろだろう」と短距離でつぎはぎのように道路を作り、そのまま放置してあるので利用者が少ないのである。公共事業に非効率性・不採算性はつきまとうが、「効率がわるいから、いらない」ではない。地域の実情や完成時の効果、建設の優先順位を分析することが必要である。


 今後、財政赤字を巡って経済の構造改革とやらは、少しずつ実行されていくであろう。だが、利用者の数だけで事業のスリム化を図っては、ややもすると少数者の切り捨てになりかねない。経済効率を鑑みつつも、出来るだけ多くの人にサービスを提供するように努めるのが公共事業。極めて難しい課題であるが、少数者切り捨ての視点はなるべく持たないでもらいたいものである。


注:ボランティア・・・
 簡単に少し言っておくと、「商売にならないところに人手を志願して動員すること」がボランティアであって、「一銭もカネを受け取らない無償労働」ではない。ボランティアへの参加者は経費や多少の給金を受け取ることはあるし、大学の単位や社会的評価といった利益も受け取ることが出来る。
 日本では「ごくごく些細な経費や礼金」を受け取っても「無償ではないからボランティアではない」と言われ、「大学の単位や社会的評価」といった無形の報酬を目的として参加しても「見返りを求めて動機が不純だからボランティアではない」などと言われるが、それは間違いである。だから日本はボランティア後進国なのである。


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