では、その気持ちとやらを数値化してくれ。それは会社にどれくらいの利益をもたらす?


by ジェフ・ライリー社長室長
「SUPER JUMP」2003年17号「KUROFUNE−黒船−」より
原作・周良貨
作画・森左智


<文脈>
 業界万年最下位の自動車メーカー・南海モータース。経営が行き詰まったこの会社は、ついには外資に買い取られた。そしてアメリカ人の新社長と社長室長とがヘッジファンドから派遣されてきた。彼らがまず南海モータースで行おうとしたのは、社内革命。非合理で採算の悪い会社の在り方を、徹底的に破壊し、再構築するために彼らは派遣された。
 そしてその「社内革命委員会」の委員長に抜擢されたのは、勤続3年のヒラ社員・響大輔。大学を出て新卒で採用され総務部に配属された、大した英語力もなく、専門的な知識・技能もない、平凡な若者だ。新社長直々の命令だが、社内の誰もが、この人事に驚愕した。そしてヘッジファンドから派遣された社長室長ジェフ・ライリーにとっても、この人事は理解に苦しむものであった。
 ライリー室長は響に問う。英語力、マーケティングや会計についての知識、大学時代の専門・・・。しかし響は問われるような能力を持っていない。ライリー室長はなぜ社長が彼を委員長に推したのか、不思議がる。そしてライリー室長は聞く。
「専攻専門もなく、英語も満足に話せない・・・君はどうして自分が革命委員会の委員長に選ばれたと思う?」
「・・・正直・・・わかりません・・・でも・・・南海モータースを思う気持ちは誰にも負けません!!」
 南海モータース発祥の地で産まれ育ち、南海の車に憧れてきた響。彼に自信を持っていえることはそれだけだった。しかしライリー室長は冷徹に言い放つ。


では、その気持ちとやらを数値化してくれ。それは会社にどれくらいの利益をもたらす?では、その気持ちと君のキャリアからの、再建計画を聞こう」
 会社の具体的な実情も知らない響には、答えることはできなかった。


<コメント>
 日本の世間は、数値とか責任・権利・義務とか、具体的な話を嫌う。すべて皮膚感覚と心意気、人情、熱意、やる気といったもので話を片づけたがり、数値や責任といった具体的なものを求める人間に対しては、人間ではないマシーン、冷血漢、受験勉強の点取りの延長でしかものを考えられないキチ@イといった評価を下しがちだ。だが、会社とは本来、利益を上げるために存在する。利益を上げるために存在し、利益を上げ続けなければ存在できない。そして従業員は会社に労働力や技能を提供し、利益をもたらすことによって自らの糧を得ている。会社は決して家族でも友達グループでもない。情熱を説いただけで左右され、数値というコトバにジンマシンが出るようでは、とても商売なんかはできない。だけれども、情熱を礼賛し、数値だ責任だといったコトバを煙たがる人間は少なくない。


 マルクスは言う。原始的な社会では、すべての人間関係は家族を模される、と。日本はその典型ではなかろうか。親方。親分。弟子。子分。大家(家長としての意味がある)。店子。おかみ。ママ。はては陛下の赤子。こうした関係は、近代的な株式会社、それも大会社に於いてさえも生き続けている。会社の上司や先輩は、部下や後輩をあたかも息子や弟のように扱い、指導する。それはそれで便利な面もあり、心安らぐ面もあろう。けれどもそれは、経済活動には向かない。弱点がいくつかある。


 1つ目は、親でも子でもないのに、「下」の全生活・全人格を「上」が管理し、あまつさえ指導しようとする傾向が強い点。住み込みの職人なんかはどうだか知らないが、本来現代企業に於ける従業員同士の繋がりは経済関係と権力関係以外に存在しない。例え部下の結婚が遅かろうと、上司よりもいい車を買おうと、そんなことは会社にとってどうでもいいことである。
 だけれども、「上」り者は「下」の者の生活をすべて知ろうとし、そして自分の望むようなスタイルを強要して「指導」をしているとして悦に入る。そうして尊厳を得ようという単純な抑圧移譲なのだろう。これは、「上」の人間の趣味嗜好のにってすべてが決められるという横暴である。「上」が好むか好まないか、というだけの問題なのに、あたかも「社会人として不的確」「社会人たる者は・・・」などというもっともらしい文言を伴って横暴は行われる。これは大変な士気低下を招く。くだらないことで優秀な人材がよりつかなくなる。
 余談だが、会社の利益を損なうようなことを強要する事例も多い。社章をつけたまま連れだって風俗や博打に行く、飲酒運転をさせる、などなど・・・。結局、家族を気取っていても親や子ほど思ってなどいないのだから、自分が調子に乗った「指導」をして、その結果どんなことになろうと知ったことではないのだ。


 2つ目は、責任という概念が消失しやすいこと。つまり、「上」の人間が納得しさえすればそれで済む構造ができあがってしまうということ。例えば、仕事でミスをしたと決めつけられたとき。実際には自分のミスでなかったり、あるいは共同作業に於けるセクション全員のミスだったりしても、「下」の人間が悪いとされたとき。謝罪し、説教を聞かなければならない。それ以外のあらゆる行動は「屁理屈」「反抗」と見なされる。逆を言えば、わびを入れればそれで大抵のことは済むということだ。
 本来仕事人は安易に謝ってはならない。それが自分の責任ではないのならばなおさらだ。自分のミス、責任だと認めてしまえば、自分の専門家としての見識・技能を疑われることになり、場合によっては懲戒解雇や賠償の口実ともなる。謝るということは、それだけ大変なことなのだ。しかし家族的企業では、「上」が悪いと思った奴を屈服させ、謝罪のコトバを引き出し、自分の判断が正しかったという感覚を得ることが重視される。その結果、結局どこにどんなミスがあって、誰の責任だったか、どこを是正すればいいのかはわからなくなってしまう。「上」の人間が「下」にアジ演説でもかまして、「下」が努力するとかそんな抽象的なことを言えばそれで終わってしまう。


 3つ目は、情熱とかやる気とかわけのわからないコトバでしか、仕事を計れない傾向が強まるということ。もちろん最終的には成功・失敗、増収・減収といった結果は出る。それはどんなバカでもわかる。しかしその課程や細かな仕事について分析し、弛まぬ改善を続けていくのは難しい。バカな指導者は、経営者であろうと現場指揮官であろうと、「がんばれ」「気合いでやれ」としか言わない。そこで成功すれば「皆よくやった」、失敗すれば「気合いが足りない」「やる気がない」としか言えない、考えられない。そんなバカは、有名な会社にも結構実在するものである。
 もちろん部下の「やる気」というものは極めて重要だ。だけれども、それこそ指導者がコントロールするものである。すばらしい働きを適切に評価し、昇進や給与に加味する。この程度の当然のことが適切になされるだけでも、随分と「やる気」は向上するものである。しかしそうした個々人の働きも何もみないで、「やる気を出せ」「やる気がない」などといってもムダ以外の何者でもない。しかし家族的企業では、こうした言説が通ってしまう。
 逆に言えば、成果を上げられなくても「総員血が出る思いでやってきましたが至らず・・・」とか「次こそは必勝の信念で当たります!」とか言えば「上」は納得するということである。利益が上がっても、苦労して血ヘドを吐くようなプロセスを経て、四苦八苦の様を見せない者は評価されないということでもある。こんなことで商売になるだろうか。利益が出ない奴は、何を言おうと苦労のそぶりを見せようと、降格され減俸されクビになる。それが当たり前だ。利益を上げる奴は、暑苦しい言説を吐かなくても、「上」に気に入られるようなアジ演説をしなくても、数値に応じた待遇をする。それこそが企業として自然な姿だ。
 部下の「情熱」「やる気」とやらに上司や経営者が感動しようとカネは降ってこない。「情熱」「やる気」を表さずにクールに仕事をこなす人間を評価しなければ、どんなに出来る人間でも「やる気」を失う。当たり前のことだ。企業とは経済共同体であり、そこに所属するあらゆる人間は経済関係と経済関係に根ざした権力関係しか持たない。そこを勘違いして、「情熱」を尊び、苦労のそぶりをありがたがったりしてそれだけで考えるのをやめるようでは、厳密な商売は出来ない。親方のために魂を捧げるような殊勝な従業員ならばともかく、ただ食うために能力を売ってカネを貰う従業員の意欲は低下する。社内価値ではなく市場価値でものを考えようとはよく言われるが、正直それ以前の価値に囚われている商売人というのは少なからず見かける。


 この「KUROFUNE−黒船−」に於いては、まずは「情熱」に対して、万人共通に近い価値を持つ「数値」というコトバで切り替えされた。まあ、響委員長の「やる気」を「数値化しろ」というのは意地悪な気がしないでもないが、情熱だけアピールすればそれで済むと思っている日本社会に辟易している私としては、痛快な一言であった。
 大学時代に所属していた運動部。それは正に、上記3点の家族的共同体の問題をすべて抱えていた。たかが学生サークルと言えども、100万以上のカネを一度に扱い、貴重な大学生活の時間や労力を動員している。テキトーな熱弁だけで理不尽や不均衡が許されていいはずはない。だからこそ、私は改革に闘ってきた。そして大学を卒業し社会に出た。日本に住む人間で、知らない者はほとんどいないような大企業に入ったにもかかわらず、上記のような家族的な弊害は腐るほどあった。大学サークル以下の面も少なからずあった。そして、他の会社に入った人々の話を合わせても、日本の会社には少なからずそうした面があるようであった。ただ、外資に入った人間だけは話す会社の様子はまったく違った。もちろん、熱弁だけ振るって、一緒に酒飲んで、なあなあでやっていけるぬるい会社というのは、それはそれで楽かもしれない。何を言おうと数値目標を上げないと叩き斬られる外資は、それはもう血ヘドを吐いて成果を上げないとならないだろう。けれども、どちらの会社が日本市場を席巻するかは目に見えている。日本人は、気持ちとか心意気に囚われるのをやめて、数値目標を追い求める姿勢を持った方がいいようである。というよりも、そうしないと食っていけまい。 


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