「優秀な人間とは・・・人を殺せる人間のことです」
ひどく誤解されそうな文言。別に武道部だから、その気になれば人を殺せるだけの技術と身体能力を身につけろということではなくて、実務運営上のもっと抽象的な話である。
例えば、兵隊は命じられれば人を殺さねばならない。死刑執行に携わる刑務官でもよい。職務で人を殺す人間とて、よほどの異常者を除けば、誰も好き好んで人を殺すわけではない。誰だって殺したくはない。社会に於いて、あるいは組織に於いて、人を殺す必要があるとされる場合に於いては、人は殺人そのものを否定はしなくても(あるいは賞賛しても)、自分では殺したくはない。そこに於いて、人を殺せる人間が優秀な人間だ、ということである。
まだ誤解を招く。
より簡単に言えば、誰だって楽をしたい。苦労もしたくない。嫌な思いもしたくはない。それでも、必要ならば敢えてそれをやるのが優秀な人間だ、ということである。もちろん本来「優秀」というのは、能力のことを指す。兵士ならば射撃や格闘、兵器・車両の保守整備能力−すなわち人を殺すための能力そのものの優劣をもって、「優秀」とされる。
だけれども、それ以前の段階というものがある。会社だろうと、軍隊だろうと、大学の運動部だろうと、まず楽をしたい、苦労や責任を背負いたくないというのが人情。そこに於いて、とことんサボる術や努力しているそぶりばかり研鑽し、組織のため、社会のためには何ら自己の役割を果たそうとしない人間というのは、少なくないのではなかろうか。ま、寝ててもマジメにやっても、楽しても泥かぶっても、給料が同じで評価もされないというのならば、楽を極めるというのもよかろう。しかし、その影では必ず、組織や社会が存立していくためには、必ず誰かが必要な努力をしている。楽をしても給料が出て、誰も屋台骨を支えようとしなくて潰れてもいいのならば、別に楽をしてもよかろう。しかし、給料をもらうためであれ、社会的使命であれ、居場所として楽しいということであれ、組織を潰したくないのならば、存立のために働いてしかるべきである。その意思そのものがない人間が多い中で、何のためであろうと動機はさておき、意思を強烈にもった人間こそが、まず「優秀」と評される資格の第一歩を持つ。
学生サークルとて、会計・人事などの管理部門に於いては小さないい加減な会社よりもよほどシステマティックに制度化されている場合がある。そこに於いては、人は最小限の責任配分で社会参画ができ、責任もある程度果たせる。しかし、そうした責任分配の制度がない乱世の時代。ここに於いて、楽を決め込んで誰かがなんとかするのを待つか。それとも英雄として立つか。それが人間としての成長や人望の獲得に於いて、多大なる分岐点となることであろう。
■後年記■ |