「俺は特殊な集団が好きなんだよね。相撲部屋とか、自衛隊とか、応援団とか、ちょっと封建的な感じの集団が」
宮下あきら氏談。
「魁!!男塾奥義の書 魁!!男塾である!!!」集英社・2000年刊から抜粋引用。
シャバから隔絶された閉鎖的空間。シャバにはびこる価値観やシャバの人々がやるようなことを軽佻浮薄・薄志弱行として軽蔑し、自分たちの内部価値と自分たちの意識・意志力こそ最高のものと信奉する。宮下氏が述べる「特殊な空間」とは、そうした場所のことであろう。
確かに、こうした集団は強靭である。嘲笑であろうと優越の確信であろうと、外界に対して背を向けた集団は、成員同士の間に共通の「敵」が存在するので結束が固まりやすい。
そして、世間の人々は数多く溢れる情報や物質の中で、広く関心を持ち、多くのことに手を伸ばす。そうしなければ、世間の話題から取り残されるのでは、という不安がある。そして巷に溢れる商品や娯楽はとても魅力的だ。しかしカネ・時間・体力・その他あらゆる能力を駆使しても、享受できる趣味も摂取できる情報も限られている。だから、浅く広く、にならざるを得ない。
だが閉鎖的空間に於いては、やるべきことが決まりきっている。讃えられること、目指すことが決まりきっている。多くの場合、その目標こそが集団の存在理由だったりもする。スポーツや格技の選手は鍛錬に稽古に打ち込み、軍隊は訓練に打ち込む。予備校ならば勉学にいそしむ。
やることが決まりきっていて皆でそれに向かう為に、他の多くを捨てている。だからこそ、こうした閉鎖的集団は強い。
男塾もまた、例外ではない。男塾の目的は、男を磨くこと。将来の日本の舵取りを担う人材を育成すること。抽象的な目標であるが、男を磨くなる文言は常に塾生の目標として掲げられ、その文言の下に艱難辛苦が与えられ、塾生は歯を食いしばってそれを乗り切る。
男塾の教練の数々が必ずしも意味があるどうかは疑問だが、かくして彼らは結束を強め、体力と根性、精神力を高め、そして自信を深めている。半端な集団ではない。
ここで、男塾を礼賛しなければならない点が二つある。
まず、こうした絶対的な目標を掲げ、それに向かう閉鎖的空間では、ややもすると艱難に堪えることそのものがすばらしいことで、楽をすることが罪悪であるかのように捉えられがちになる。ただただ変態的なまでに困難に身を置くことが目的化しかねない。困難を避けること、楽をすることを悪と見なすようになりかねない。そうなると、例え楽な方法こそが本来の目的達成への近道であっても、敢えて無意味にイバラの道を歩む以外に道がないかのような錯覚に陥ってしまう。これはもう、病気である。
しかし男塾には、そうした逆転現象がない。自ら望んで艱難の道を進んでいるように見えて、実はそれが必ず最適な道である。無意味に苦しめばいい、嫌なことをすればいいという、寝ぼけた集団に成り下がることなく、適切な道を選ぶ。選択の結果として艱難が降りかかろうと、目的を成し遂げてしまう。目的達成のためならばイバラの道を突き進むことをも辞さない心意気と、無駄に艱難に挑戦するのではなく、実は適切な方法を選択する判断力。これはすごいことだ。
二つ目は抑圧移譲の問題である。
何かの目的のために修練に励む集団は、目指す道を進むためにあらゆるムダを捨て、妥協することなく弛まぬ研鑽を続ける。そこでは必然的に、個々人に格差が現れる。スポーツならば技のキレや身体能力に歴然とした差が出てくる。軍隊でも機械整備の技能や体力に差が現れる。企業ならば営業成績という数字で歴然とした差が示される。これは当たり前のことだ。
そして集団内部で能力や成果に劣る者は、もちろん集団指導者によって叩かれる。しかし集団内部に於いて相対的に上位の者であっても、安寧としていられない。集団指導者は、目的への邁進の為には妥協も気のゆるみも障害と考え、いかなる成員に対しても安息など与えない。だからこうした集団の成員は、やれどれもやれども評価されず、短期目標をクリアしたとしても喜ぶことさえ「油断」として弾劾される中で、常に抑圧状態にあると言える。
そこで集団の成員たちは、剥奪されかけている自己の尊厳を守り、揺らぐ自信を保つ唯一の方法として、自分よりも劣った者へ抑圧を移譲する。殴ってストレス解消、というような単純なものではない。殴るとか罵るとかいう「手段」などよりも、「劣者」を見出し、優劣関係に基づいて「正当な行為」として「集団の異端者」「集団の足手まとい」を弾劾・注意・指導するという「発想」そのものがひどく暴力的なのである。
さらに言えば、このときの「劣者」は必ずしも集団内部で一番能力や実績で劣る者とは限らない。立場が弱い者、人脈が薄い者、あるいは単純に抵抗しなさそうな御しやすそうな者が選ばれる。「劣者」と認定され非難される際には、集団の目的を達成するために用いられる二義的な価値観が用いられがちである。例えば前述の「油断禁物」といった発想を流用して、対象が笑ったり喜んだりうまくいったと思ったり自分のやり方が正しいと思ったりしただけで、非難弾劾の対象とする。あるいは、能力や成績に優れた者への妬みから他の成員が連合して、「協調性」を武器にくだらない要求を突きつけるということもあるかもしれない。これがまた、やっている人間は「自分は正しく、適切であり」、「ダメな奴を指導してやっている」などという思い上がりや自己正当意識を持っていたりするところも暴力的。こうなると、エスカレートしておそろしく理不尽なことを自分かが言っていても、それに気づかなくなるから恐ろしい。
だが、男塾に於いてはそれがないのである。男塾の目的は男を磨いて将来の日本の指導者になる、という甚だ抽象的なものだ。ゴールがよくわからず、いかなる努力研鑽をしても見える結果は目標に遠い。だから、教官は無限距離の目標を目指すかのごとく、徹底的に容赦ない指導を行い続ける。塾生たちはひどい抑圧状態にあると言える。
しかしそれでも男塾では、「劣者」を造り出して一方的にすべてを否定したりはしない。体力に劣る者を助け、あるいは奮起を奮い立たせ、気力が衰えている者には喝を入れる。少なくとも、わけのわからない文言を振りかざして不当に他者を貶めてはいない。あくまで為すべき目的のため、あるいは生存のために、気力体力に劣る者を支援し助けているのだ。しかもその方法が適切ときている。
そう、優劣関係というのは、有利な人間が不利な人間に対して適切な方法を指導し、互いの利害が一致する限りは、大変強力な補完関係となる。こうした関係は士気を高めるだけではなく、劣者をサポートすることによって貴重な戦力を失わずに、劣者をも活用しているのだ。同一の目的を集団で達成しようとする場合には、これは理想型の一つと言える。
閉鎖的で、同質性が高く(そして同質性が重んじられ)、一つの目的に邁進する集団は、しばしば不合理を生む。だからこそ、こうした「共同体」は忌み嫌われがちであり、実際、本来の目的から逸脱した価値観がまかり通り、オカルト的とさえ言えそうな行動指針をも掲げられたりする。
原始的な人間のあり方とも言えそうな「共同体」だが、これは適切に機能すれば強烈である。少なくとも個々人の帰属意識の薄い集団が、このような閉鎖集団へ対抗するのは難しい。男塾の存在と行動は、これを証明するかのようではないか。旧弊的・封建的として絶対悪と見なされかねないような集団のあり方にも、可能性はある。そこが男塾の魅力なのであり、塾生たちの魅力なのである。
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