大人の娯楽としてのアニメ(大学)

  予備校の寮生活から帰省した後、念願だった「エヴァンゲリオン」のLDを鑑賞し、高校時代に読んでいたマンガも一気に予備校時代の一年分買い漁り、欲しかったプレステも手に入れることができた。「DEATH&REBIRTH」を映画館で観たときは、感無量であった。


 大学生活が始まってからは、夢のテレビ東京を受信する喜びに満ちていた。テレビアニメは2台のビデオデッキをフル稼働させ、週に12本ものアニメを留守録の「毎週録画」にセット。日曜日は録画したテープを消化するのに苦労した。しかし、何か違うような気がした。
 私の二次元生活は、これでいいのか?


 理由はなんてことない。観ていてもつまらないのである。
 私は入学早々武道サークルに入り、生活は多忙であった。
 体力的にも疲れていた。
 やっとの日曜に作業の如くアニメを垂れ流しても、楽しめるはずがないのである。


 観たくて仕方がなくなるような作品ならば、無理をしても観て楽しめた。しかし、当時住んでいたマンションはケーブルテレビまで入っており、私は観られるほとんどのアニメを録画していたのだ。それも、無差別に。
 私はようやくアニメのリストラクチャーを開始し、「毎週録画」は四分の一以下にまで減った。当たり前のことなのだが、本当に観たい番組だけを観ればよいのである。
 そうした、観る番組を「切る」ということを覚えたのは、大学に入った6月ごろだったか。さほどでもないテレビアニメを観ることよりも、途中まで揃った「エヴァンゲリオン」や高校時代に観た「ガンダムW」をダビングして観た方がどれほど生産的な鑑賞となることか。


 また、高校時代に狂ったように買い漁っていたグッツも、ほとんど買わなくなった。
 大学入学当初から現在(1999/11/17)に至るまで、私の部屋にはポスターの一枚もない。グッツも最低限しか手元になく、ノートや便箋などの実用的なモノがほとんどである。これは「作品は作品そのものだけで楽しむ」と姿勢を変えたためである。
 高校のときから、「オレはなんのためにこんな代物を買っているんだ?」との疑問を持つことはあった。しかし、高校時代はグッツを見たらそんな考えもふっ飛び、「全部揃えねば」との半ば強迫的に買ったものであった。
 一年間の予備校生活で、ようやく「なくてもいいものは買わない」との発想が根付いたのである。


 逆に言えば、作品そのものへの集中が強くなったとも言える。
 ポスターを壁とし、同人誌を買い漁り、グッツで部屋を満たす。そんな生活もわるくはなかったが、やはり私としては「付随するモノ」ではなく、「作品そのもの」に集中することにしたわけである。
 そんなときに登場した「吸血姫美夕」は、私のアニメに対する新しい姿勢を確固たるモノとした。
 それはアニメを分析し、評論することである。意味内容の解釈から私の情緒への影響に至るまで、考えて文章化することはアニメ作品を通して自己の考え・情緒をまとめ、明確化することである。これでこそ、教養ある大人の楽しみ方というものである。


 新番組が始まると、私は一度は「毎週録画」に組み込む。アニメ雑誌を見て「観る必要がないな」と思っても、一度は必ず観るようにしている。肌に合わなかったり、出来がわるかったりすると、速攻ビデオを止め、ビデオの録画予約を抹消する。そして、文章でその作品をこき下ろすのだ。できるだけ論理的に。
 嫌いなモノ、出来がわるいと判断されるモノを、何故そう思うのかはっきりさせることはなかなか面白い。自分の嗜好や世間の流行りが目に見えてくる。これも一つの勉強であると私は考える。
 だが、大学も三年になってくるとやらねばならないこと・やるべきことが増え、そうそう全部の新番組をチェックするわけにはいかなくなってきているのだが・・・。

作成日1999/11/17


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