アニメ復権の兆し(中学校)

 アニメを観なくなってから、私はひたすら洋画を録画し、マンガを買い漁っていた。このころから既に、「世間の流行に合わせて娯楽を享受すること」から脱したという意味に於いて、脱世間的になっていたのかも知れない。


 私がアニメ離れをしていた時期は、世間に於いても「アニメ冬の時期」と呼ばれる時期であり、アニメ番組はゴールデン・タイムにほとんど見られなくなっていた。そんな中、私は土曜のテレビ欄の七時に、アニメの新番組を見つけた。その番組は「美少女戦士セーラームーン」とのタイトルであった。


 摩訶不思議なタイトルが気になり、何気なくその番組を(自分の部屋で)観てみた。案の定、ガキ向けで、雰囲も真摯とはほど遠い番組であった。しかし、別に嫌悪感や抵抗はなかった。もう、「ガキ向けであることの抵抗」など、どうでもよくなっていたのであろう。
 それから、その番組を時たま思い出したように観ることはあったが、別に「観たい」という能動的な意志はなかった。しかし、事態は徐々に変わっていった。


 どうしようもなくアホな敵、アホで単純だが強烈なキャラクター、儀式を伴った変身、ワンパターンな勝利、服装がちょっと変わっただけなのに変身したら正体がわからなくなる謎・・・一笑に付すべきことばかりのはずなのだが、私はこの番組に関心を引かれていった。だからこそ、たまにであっても観続けていたのだ。
 次はどんなアホな敵が出てくるか、この強烈なキャラクターは次にどんな騒動を引き起こすのか、正体がわからないことがどんな影響をもたらすのか、ワンパターンな勝利に相違点はあるのか・・・。
 特に、主人公クラスが五人いるというのが、決め手だった。この組み合わせによって、ストーリーから戦闘の展開まで、けっこう変化が付くのだ。これは気になった。


 関心が決定的になったのは、月野うさぎが地場守を守るために、正体がバレることを覚悟で変身するときの葛藤である。ワンパターンに見えて、実はストーリーにメリハリがあるのではないか。しかも、観ているこっちまで「どうするんだ!」との気になってしまった。
 それからは、定期的に「セーラームーン」を人知れず観るようになった。と言っても、アニメというジャンルそのものには関心がなく、「セーラームーン」も「ちょっと気になった」という程度のことであった。それよりは「ダイ・ハード2」を観た方がはるかに楽しかった。
 まだまだアニメは、趣味と言える代物ではなく、観ることに抵抗は依然としてあった。
 これが中学生の私である。  

作成日1999/11/17


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