切磋琢磨してアニメを観るうちに、一週間のほとんどのアニメを観るようになった。さすがに、あまりにもつまらないものはすぐに止め、大衆的なモノは観もしなかったが。
当時観ていた主なモノを挙げてみると、「魔法騎士レイアース」「魔法陣グルグル」「新機動戦記ガンダムW」「飛べ!イサミ」「美少女戦士セーラームーンS」「マクロス7」などなど。さらに「ふしぎの海のナディア」のような過去の名作のダビングも開始した。洋画のために2台買ったビデオデッキが活躍したのである。
そうしてアニメを見続けているうちに、アニメの世界がなかなか甘美なもののように思えた。現実逃避としてのアニメではない。私は現実に於いてよき友に恵まれ、尋常ならざる生活を楽しんでいたし、日々の自らの日常に満足していた。
私にとってのアニメは仮想現実の場である。「逃避」ではなく、虚構と対話し自らの糧とする「創造」の場なのである。これは別に、現実と虚構の区別もつかないアブナイ人ということではなく、川端だの鴎外だののような文学作品を味わうことと同様のことである。
純文学であろうと、娯楽小説であろうと、映画であろうと、アニメであろうと、人間にとっての創作物の効能とは、虚構との対話によって、自らの見識と情緒を発達させることである。
しかし、私は日本のドラマに対してこれが出来ない。そもそもドラマは嫌いなので見たくもないのであるが。
私が三次元(ドラマなど)を嫌う理由として、「わざとらしく感じる」というのがある。どんなに演技がうまく、脚本がよく考えられていても、私の目には某という俳優がどこぞのロケ地で脚本のセリフを話し、監督の指導の元で芝居をしているようにしか見えない。
これは当たり前のことだ。しかし、私には仮想現実としての「ドラマ」ではなく、現実としての「芝居」しか見えないのだ。
それに対してアニメは最初からすべて作り物だ。セル画が動き、コンピューターで造った効果音が鳴り響き、声優がセリフをしゃべる。部品にバラせば、それぞれ絵であり、合成音であり、声でしかない。アニメとは、初めから虚構を構築するための部品によって成り立っている。だから、素直に虚構を、仮想現実を楽しめるのである。
蛇足だが、私が洋画を好きなのも、身の回りにいない異人種の俳優が知らない外国語で話し、行ったこともない外国の街を舞台にしているからだろう。私にとって外国とは「現実」として想起できない世界である。だからこそ、「芝居」を日常や現実の延長としての「芝居」と見なさず、素直に仮想現実である虚構に浸れるのである。
そういうわけで、私にとってアニメとは仮想現実の場であった。
しかし正直、中島敦や森鴎外の小説を読んだ方が、より多くの情動を得ることが出来た。より深く考え、感じることができた。そんなことは当時からわかっていた。文学のカタルシスに対し、アニメのなんと浅く、拙いことか。
しかし、アニメは単純な反面、それ故意味内容を読みとりにくいという性質を持つ。単にセル画に描かれた絵だから、効率と費用を考えると表現は単純にならざるを得ない。そんな不完全な表現から意味内容を汲み取るのは骨の折れる作業である。制作者にとって、何の意味も持っていないカットである可能性も高い。そこに意味を見出すのが快楽なのである。
さらにセル画と音と声による直接的な神経への刺激には、麻薬的な魅力がある。形而上学的な意味解釈や、情緒によるドラマの味わいを繰り返しているうちに、セル画がただのセルに描かれた絵には見えなくなってくるのである。
そして、セルに「美」、それも日常や現実の延長には存在しない、手の届かないモノとしての「美」を感じるようになってくるのである。目に見え、耳に聞こえるが、決して同じ世界には存在し得ないモノ。手の届かないモノを手に入れんとする渇望は、対象をより尊い存在へと昇華する。
病的だとの誹りに対し、あえて反論する気はない。
この時期の私のアニメに対する熱狂ぶりは度を超えていた。ギルガメッシュ伝説に焦がれるあまり、楔形文字を彫りつけた粘土板を水に溶かして飲んだというバビロニアの学者にも近いモノがあったかもしれない。
私は、ひとつの作品を観終わると、必ず関連グッツや関連書籍を買い漁った。そうすることによって、少しでも焦がれるモノに近づけるかのように。実銃を見ることもままならない日本のガンマニアが、少しでも銃器の資料を手に入れることや、神学者が「自らと神との関係」への思索によって神に近づけると考えることと同じように、これも一種の代償行為と考えられる。
当時の私の部屋は、ポスターが壁となり、使いもしないグッツが引き出しにあふれ、設定資料集や画集が本棚に並んでいた。まさにアニメ教信者の時代であった。
念のために言っておくが、私は四六時中アニメのことばかり考え、アニメの世界を想起してはため息をつくような狂人だったわけではない。普段は、友人と酒喰らってバカをやり、自転車で何qも走り回るような健全な高校生活を過ごしていた。
文章化するとキ@ガイのように思えることだが、これは芸能人に夢中になっている人や、欲しくても手に入らないモノ(例えばいい女とか高価なスポーツカーとか)のことを考えてため息をつく人、または、それこそ文学に焦がれ、読み終わったときに情緒のやり場がわからなくなった人と同様のことである。
これが私の高校時代の後半である。
大学に落ちて当然である。
もっとも、受かろうなどという気もなかったが。
作成日1999/11/17
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