考えもなしに保守的な訳ではない


 私は保守的な人間である。
 「現代人」にとかく批判されるようなもの、例えば権威・権力・序列・学歴といったものを一応は重んじ、戦争・暴力・偏差値教育・非合法組織といったものも手放しには批判しない。


 「悪」「改善すべきもの」とされることを批判しない私は、「進歩的」な人間の目には「近代人の権化」と写るらしい。よく議論をふっかけられ、ときには「説得」を試みられる。


 私の立場は、「権威化された反権威思考」に対する批判に立った上での保守である。「進歩的」な理想が批判するような「悪」「改善すべきもの」が何故必要なのか、何故改革できないのかまでも考えた上で、私はそれらを肯定している。肯定しなくとも、無条件に完全否定はしない。


 アンチテーゼは所詮テーゼにはなりえない。
 例えば、官僚制にはいつでも腐敗・不合理・非効率を伴う問題があると叫ばれる。おそらくそうした問題はあるのだろう。だが、人が官僚制を語るに当たっては、大抵、官僚制そのものを否定するがごとき色彩を帯びる。あたかも「官僚」というコトバを出すときは、否定的な響き・マイナスイメージを持たせなければならない、あるいは否定とマイナス・イメージを込められているという前提があるがごとき空気がある。


 問題があるのならば批判して然るべきであるが、官僚制そのものを否定するのは極めて困難である。問題があろうとなかろうと、官僚制なくして現代社会は成立せず、またそれに代わる実際的なオルタナティブ(代替案)が存在しないからだ。
 官僚制の問題を語るのならば、官僚制がいかような機能・役割を果たしているのか把握し、官僚制が未発達な社会は如何なる社会であったかまでかまでをも踏まえた上で、官僚制のテーゼを構築することからはじまる。


 官僚制に問題がある→では官僚制をなくそう。こんなに簡単に物事の解決策が見つかるのならば、誰も苦労はしない。「実際」を無視した、批判でしかない理想に、現状を改善する力も方策もない。物事を判断し、解決に近づける実際的な方法としては、既存のものに対する批判からスタートするのではなく、既存のもののテーゼから始めるのが適切である。
 「実際」の思考の上に立った、テーゼとしての革新的意見を持つ者と出会ってみたい、今日この頃である。


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