政府の市場への介入を最低限に抑え、許認可などの規制を緩和し、市場原理に経済を任せる。よく聞く話であり、そして「自由経済こそが最適であり、国家の介入は悪である」という意味を伴って、理想として語られる。いわゆる新古典派経済学の考え方だ。
しかし、私はこのような経済の在り方をあまりよく考えていない。
「自由」ほど恐ろしい状態はない。
「自由」とは、私のようなアホを抜かせば、大抵の人間にとって耳に聞こえがよい言葉であり、なんとも理想的な状態に思える。政府による経済への介入は、利権を巡る腐敗そのものでしかないとの考えさえもめずらしくはない。
しかし、秩序なき「自由」は、優勝劣敗ではなく、弱肉強食の原理である。最大限放任された「自由経済」は、大衆の主体性なき暴走であり、企業がその大衆に迎合する破滅的な状態である。
アダム・スミスが「神の見えざる手」と市場原理を称して、それに全てまかせることを理想とした。その楽観的な理論にマーシャルやワルラスが均衡分析を取り込み発展させ、サミュエルソンやヒックスが更に洗練して、現在もなお支配力を持つ経済理論「新古典派」が確立した。
個人の合理的行動と均衡論的市場観を特徴とするこの理論は、問題が多い。個々人が数理的意味に於いて合理的行動をとる保証などどこにもない。また、市場が均衡する保証もどこにもない。
金融をはじめとして経済の「グローバル化」が進展していると言われている今日、経済は地球レベルでの巨大な生き物となった。しかし、すべての人間が欧米人のようなライフスタイルを採用し、欧米人のように考えるわけではない。
各国には各国の制度があり、エスニック・グループによってモノの価値観・経済観はまったく異なる。その「実際」を無視して、数理的分析のみに走った新古典派は、すでに現実に則さなくなっている。
新古典派の大家、フリードマンの理論はすでに多くの学者によって、そのほとんどを否定されている。
しかし、ここ30年間の新古典派による経済学支配は、実際の経済政策に於いても支配力を持ち続けている。新古典派の連なる人間が、今も数多くが各国の経済省庁に在任し、IMFやOECDなどの国際経済機関もフリードマン派の人間が動かしていると言っても過言ではない。
さて、私の立場は新古典派が叫ぶ自由を規制し、経済に「秩序」を施行するということである。そういう意味に於いては、ケインズ主義に近いのかも知れない。
政府介入・「大きな政府」は効率に欠け、腐敗しやすい。しかし、それでも「秩序」を規定できる面に於いては、私は自由放任よりはマシだと考えている。
まあ、1950〜60年代に於けるケインズ主義的な政策を、現在に導入すべしと言っているわけではない。
ケインズを見なおし、実際の制度や文化的側面を考慮に入れた、新しい経済理論を打ち立てるときだ。私はそう考えている。
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