「偽善」という概念ないしコトバは、どうも抵抗がある。と言ったら、かなりの確率で誤解を受けることであろう。つまり、私が「偽善的行為」や「偽善者」を嫌いだ、と言っているようにとられることであろう。違う。私は「偽善」というコトバと概念が嫌いなだけであって、「偽善」と世間で言われる「行為」にはしばしば好感さえも覚える人間である。
例えば、戦間期に禁酒法を利用して財を成したアル・カポネは、ホームレス救済に多額の寄付をした。人々は見え透いた「偽善」と笑った。実際アル・カポネは、ホームレスに対する情からではなく、「ギャングの親分」から「実業家」としてイメージの脱皮を図るために、社会貢献を行って名を売るために高額な寄付をしたと言われている。これの何を笑う必要がある?
アル・カポネの寄付によって、助けられた人間が何百人といることは厳然とした事実。カネの出所はこの際問題ではないし、動機なんかどうでもいいではないか。アル・カポネの行動を「偽善」と非難し、自分ではカネの1¢も払わなかった人々よりも、実際にカネを払ったアル・カポネの方が、よほどホームレスの救済に役に立っている。その見返りとして、名を売ることが出来たからと言って、それが何だというのか。正当な報酬ではないか。アル・カポネの行動を「偽善」だと非難しても、食にさえ事欠く人々の腹は満たされない。私はこうした単純な因果関係を重視する。
もう一つ別の事例を挙げよう。私の高校時代、遠く離れた関西で阪神・淡路大震災が起きた。このとき担任は、被災者の方々にクラスで何かを送ろう、と提案した。いざというときの相互扶助。いい心がけである。クラスの生徒も賛同し、早速カネを送ろうとの話になった。
だが、この担任は言った。「カネなんて、君達の親が稼いで小遣いでもらっているものだろう。そんなもの君達が援助することにはならない。気持ちを伝えるためには、モノを送った方がいい」と。
何を言っているのだ。モノを送ったところで、親のカネで買ったものには違いない。もちろん私を含めた生徒はそう主張したが、先生は「違う」の一点張りであった。
誰のカネであろうと、被災地には援助が必要であり、カネを送れば誰かが少しは助かるんだ。ここで「誰の懐から出たカネか」ということに、どんな意味がある。ここでくだらん意味に固執するなど、自慰行為だ。
この当時、新聞やテレビでは被災者の援助を求める報道が相次いで為されていたが、どこの寄付も「モノではなくカネの形で」としていた。モノは輸送に時間がかかる上に混乱している現場では配布が難しく、奥尻の地震の際はほとんどが廃棄されてしまった経験を踏まえてのことだ。実際、阪神のときも、もっとも欠乏し必要だった医薬品でさえ、把握・輸送が混乱し、倉庫で有効期限が切れてしまった。テレビを見ればすぐにわかったことだし、寄付をするというのならばそれぐらい調べてしかるべきだというのに・・・。
私は先生を満足させつつ、実際に役に立つ案として「献血」を提案した。これならカネもくそもない(厳密には親のカネで買った食物からなる血液なのだが)。だが、担任の返答はこうであった。
「今釧路で献血して、みんなの血液が阪神に行くか?」
このとき、輸血用血液が全国レベルで不足していたことは事実である。我々の血液が阪神に行こうが行くまいが、輸血用血液の量が増えれば、全国から被災地へ送られる血液輸送に余裕が出る。意義あることではないか。
と主張したのだが、担任は「それでは意味がない」として献血案は却下。そのまま、被災地にクラスで援助する話は消滅した。くだらんことにこだわらず、カネを少しでも送っていれば、役に立ったであろうに・・・。
この担任には、「偽善者」との名さえ惜しい。ただ意味という病に冒された、病人である。その病ゆえに何も他者のために為せない病人である。こういう人間こそが、誰かが行う援助や救済を、「偽善」と称する。動機や目的などどうでもいいし、見返りや報酬を求めたから何だと言うのだ。ボランティアと呼ばれる活動とて、別に「無償」という意味ではない。
まったくの無償で、「心からの気持ち」のみによって行う行動こそ尊く、それ以外の行動を「偽善」と非難する精神は、必要な援助救済を阻害し、日本に於いてはボランティアの規模拡大を阻害さえもしていると言える。ボランティアの定義については、また別の機会に。
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