1999年度 部員要件論争
部員たる要件:稽古をやっていこうという意志のある者
@基本的に自分の出来る範囲でよい。他にもやりたいことがあったり、バイトする必要があったり等、正当な理由があれば週1回だろうが月1回だろうが構わない。しかし他の部員との進行状況の違いから、演武会に於いてやむを得ず同学年の他の部員と異なる演目を行うことになってしまう可能性はある。
Aこれと形式面(出席率)では似ていて非なる者が、「うまくやる気のなさそうな部員」。前者と区別する方法は、稽古にあまり出席しない(orできない)ことについて問うたとき、「正当な理由」があるかどうかだろう。単に何も理由がなかったり、遊ぶから、といった理由があまりにも多い者は後者のカテゴリーに入る。誰しもやる気がなかったり、ついサボってしまう日もあるだろう。だが、このタイプはそういう次元を超えている。
B正当な理由のある者をAタイプ。ない者をBタイプとすると、Bにはどのような問題点があるのか。実は「問題」というほどのことはあまりない。ただその人に対し、周囲の対応が悪くなるだけである。稽古をやる意思が(ほとんど)ないのにも関わらず、稽古をするサークルである棒術部に於いて平然と「純部員」としての待遇を求めるからである。
Cこの点に於いて、何らかの理由で稽古にでなくなり、また、それに正当な理由がなくとも、当部に於ける「稽古に出ること」の重要性を認識し、稽古に出ないことに引け目を感じてそれなりに「わきまえた」行動をとる者は非難の視線を浴びることはない、ということになる。いわば純部員とは呼べない存在になっているが、その分、純部員としての待遇は求めない(≒準部員)ということで、権利と義務に於いて釣り合いがとれているのである。(ちなみに私は、**や**をすでに「部員」とは見なしてはいないが、「友人」としての付き合いは依然として続けている。それに対し、現1年生の中に見られる「わきまえていない」タイプの人間に対しては、少なくとも「部員」の立場からは「棒術部の部員」として認めているような振る舞いは行い得ない。つまり冷たくせざるを得なかったのである)
D要するに、棒術部に入ったからには稽古に出られる範囲で出ろ、出ないならその分、分をわきまえろ(具体的には難しいが、自分が100%「純部員」ではないと考え、イベントや飲み会ばかり顔を出して堂々と我が物顔してバカ騒ぎするようなことだとかはするな、ってことです)
Eしかはまだ他にもタイプはあるのです。「(恐らく)正当な理由もなしに極めて少ない稽古出席率でありながら、それでいて棒術部員としての活動を充分行っていると思っている者」。要するに、普段出られる状態でありながらも、たま〜にしか稽古に出なくて、それでいいと思っている人がいます。このような人や前述した「わきまえていない困ったさん」はどうして生じてしまったのでしょう。
F答えは、「去年の新勧活動に於ける方針と、その後の対応」にあると考えます。昨年の新勧活動は、とにかく人数重視で、部の人員を増やすということに唯一かつ最大の重点が置かれていたと言っても過言ではなかったように思います。その前年にそれまでにない人数が入部し、部員が増えたことを「中大棒術部が発展している!!」と捉えていたような雰囲気が我が部を支配していたように感じます(全く個人的な感想ですが、ある種宗教的な、信者が増えることはよいことだー!!という思想が監督や幹部を介在して、中大棒術部に入り込んでいたという部分も少なからずあるような・・・)。
そして新勧はほとんど「何でもいいから入れろー!!」という状態で進行し、雰囲気のみで遊びの場としてしか棒術部を考えられないような人たちに対しても門戸を開放したのです。
G新勧期は他のサークルとの新入生の取り合いであり、またその前年に入ってきた2年生に関しても部の活動への取り組みや認識に於いて大きな問題は見られなかったことから、去年も同様に考えた、という点でそうなったのも仕方がなかったのかもしれない。最初は、とにかく遊びでも何でもいいからきっかけを作って、部に定着させれば(新入生を確保すれば、とも言う)あとはうまくいくだろうと・・・・・・。
Hしかし現実は違った。我々が1年生のとくに当たり前と感じていたことをそう感じなかった人が少なからずいたのだ。遊びできっかけで入って、そのまま遊びを重視して、稽古を軽視したり、「週1回でもいい」というコトバを「週1回でりゃそれでいい」と解釈し、週1回やあるいはもっと低い頻度でしか稽古に出なかったり・・・。
Iこういう現象が起こったのは新勧活動期に於いて、新入生に「甘い顔」をしすぎたためである。ある意味「てきとうな」部への関わり方を提示しても、それに対して上級生が咎めるようなことをしなかったため、新入生はそのような「てきとうな」関わり方でも良いと考えたのだ。新入生が「僕はこういう感じで部に関わりたいです」と示し、それに対して「いいですよ」と認めたので、新入生は入部という「契約」を結んだ、というわけである。そして上級生がそのような態度をとった背景には、新勧期であるということ以外に、「とにかく30人入れよう」という「人数至上主義」があったように思う。
Jさらに問題なのは、新勧が一段落した後に我々上級生がそれらに対して注意を行わずに放置していたことだ。新勧期に甘い顔したのならば、その後なるべく早い時期に部の、そして部員としてのあるべき姿(部員資格・条件)というのを示してやらねばならない。それで部を去る期になるのならば、他のサークルへ行くことも考えて、なるべく早く示す必要がある。しかし結局そのような注意の類はほとんど行われずに、月日は流れた。
Kモラルの低下(部への関わりのてきとうさ)は稽古以外の球技大会等のイベントでも露出した。そしてやはりもっとも顕著な例は演武会である。忙しかったりする人が稽古不足ながら一生懸命やるというのであれば、何の問題もない。そういう意味で我が部は「甘い」のではなく「寛容」である。しかし部への関わりをてきとうに考えているが故にろくに稽古にも出ずに、演武会に出るというのは大いに問題である。「人員増加・棒術部発展」の名の下に、モラルの低下を招いてでも人を多く受け入れるというのであれば、部は発展どころか衰退し、崩壊・滅亡すらしかねない(演武会も極度に低レベル化した末に、合宿とともに消滅したりして・・・)。
どんな人間も無条件に受け入れるとすれば、部のモラルや技術など、あらゆる面での低レベル化は避けられない。だからこそ、新勧の時期にこちらからどのような条件を提示するかが重要なのだ。
L具体的には最初に戻るが、「稽古をやっていこうという意思のある者」となるであろう。もちろん最初からメチャクチャやる気に満ちている人間などほとんどいない。時間をかけてやっていく中でおもしろさがわかったりしてくるものだ。だから最初は、「ちょっと面白そうだな」とか「やってみてもいいかなー」といった程度で十分だ。要するに、少しでも興味があればいい。逆に遊びたいだけで稽古や各種行事に出る気はない、あるいは軽視するというようなニュアンスの発言をした場合はそれではだめだとしっかりと注意し、それでもだめならお引き取り願うしかない。こうなっては、いくら趣味などで気があって話が盛り上がっていても駄目である。後になって、手の平返したように「実は棒術部はこういう部なんだ」と示した際に、「最初言っていた条件と違う!今更どこの部に行けってんだ!」といって泣きを見るのはその1年生である。契約違反はするべきではない。
M稽古の出席回数については特に規定はしない。事情がある人もいるので、形式的に「何回出るか」を問題にして、「週1回は必ず出ろ」とするのは問題解決の手段として適切でない。また、週一回だろうが月一回だろうが、「必ず出ろ」という規定を設けた時点で稽古参加に於ける「自主性を重んじる」という精神は死んでしまい、守れる、守れないということではなく「義務感」を伴って稽古に出ることになってしまう。
義務で開脚小などやるのではたまらない(開脚前進の意味がわかっていても、である)。部の雰囲気も稽古のそれとともにきゅうきゅうとしたものになってしまうであろう。
Nやはり出席回数については規定を設けず、あまり出ない人なは事情を聞き、正当な理由がなければ出るように促す(誘う)べきだろう。新勧の時期にやるべきことをやっておけば、スランプ気味とかでもない限り促してもまったくやる気がないということはないだろう(やめる気ならば別だが)。もしどうしてもやる気がない、しかし部はやめない、という場合であれば、演武会の種目が易しめのものになったり、あるいは出させてもらえなかったりすることや、部員としての扱いに於いて多少軽んじられることがあっても文句は言わない、その他立場をわきまえた言動をとるという条件で部への残留を認めてもいいだろう(妥協案)。
これは1999年度末の状況を見事に表した名文である。新入生の問題と、上級生自身の「原罪」についてよく表している。実際にはこのような、稽古の軽重で部員を計るような方策はとられなかったが、稽古や部に対して何の情熱も責任感もないような人々には、1999年度のうちにお引き取り願ったのは事実である。これは上記文章でも述べているように、1年生にとっても悲劇であり、上級生としても1年生の根性や気概のなさばかりのせいにするわけにもいかぬ、後味の悪い出来事であった。それでもやはり、勘違いしたまま部員として居続けさせるよりはマシであったのは間違いはない。