せかいのおわりがくるまえに(仮題)
伊佐坂 眠井
7月2日(水) |
風が吹き抜けて行く。
どこかに優しい匂いを含んだ涼やかな風だ。これが土や草の匂いという物なのだろうか。
私は、風に髪を遊ばせながら眼下に広がる町を見下ろした。
漸く突き止めた、トモキの住んでいる町。どことなく暖かみのある、有機的な町だ。私が住んでいた、計算し尽くされたような無機質なあの町とはだいぶ違う。・・・これが、トモキの望んでいた住処なのだろうか?
そして私は、トモキ本人の姿も既に確認している。トモキは一人で暮らしていた。私の記憶にあるのとは大分違う、どことなく頼りがいのありそうな、そして小さな事ではクヨクヨしそうにない逞しい外見。私の知っているトモキとはまるで違う、しかし、彼は確かにトモキだった。
その証拠に、私は驚くべき人間をトモキの側に見たのだ。
ミドリだった。
さすがの私も、頭に血が上るのが解った。
ミドリ、トモキの心の中に常に居て、結果として私から彼を奪っていった女。いや・・・もとはと言えば、全て私の所為なのかもしれない、思い直して、私はその時その場を離れた。
私は、風の中で目を閉じた。
吹き抜けていくその音だけが、優しく私を包み込んでいく。・・・素敵な世界、だと思う。しかしこの世界は、一週間後には終末を迎えるのだ。
その噂が何処から沸いた物なのかは、私にも解らない。もしかしたら私がここに来たことによってこの世界の運命が形を変えたのかもしれない。・・・だとしたら、それは歓迎すべき事だろう。私の目的にも、それは叶っていると言える。
私が今立っているのは、トモキの通っている学校だ。どうやら高等学校に当たる学校らしい。私は、ここの生徒となる手続きをつい先程済ませたばかりだ。戸籍やその他はどうにでもなると思っていたが、驚いたことにここに来た時点で、私にもこの世界の住人としての属性が存在することになっていたのだ。世界とは、そんな物なのかもしれない。矛盾を内包したとき、どうにかしてそれを正すような機能があるのかもしれない。
少しだけ、不思議な気分だった。
あまり意味がないとは思うのだが、自己紹介を少しだけしておこうか。
私の、ここでの名前は早瀬美咲という。親元を離れて、叔父夫婦の世話になって暮らしている・・・と言う設定だ。先程から名前のあがっている、トモキ、水瀬智樹とはかつてはお互いに愛し合った仲だった。少なくとも私はそう思っている。
・・・止めた。今はあまり語りたくない。
私は、ゆっくりと閉じていた目を開いた。
そして驚いた。
私一人だとばかり思っていたこの屋上に、人の姿があった。私の右の方で手すりにもたれかかるようにして、ぼんやりと風に吹かれていたその人は、私の視線に気がつくと、にっこりと笑いかけてきた。
その人は、この高校の制服を着ていた。一見女性と間違ってしまうような柔和な顔、癖のないサラサラとした少し長めの髪の毛が風に揺れている。私は思わず息を飲んだ。
「トモキ・・・」
そう、それはトモキだった。私の知っている、私の記憶の中のトモキそのままだった。私の口を思わずついて出た名前に、そのトモキにそっくりな男の人は、不思議そうな顔をした。
「誰です?トモキって・・・お知り合いの方に似ているんですか?僕」
・・・別人だ。しかし、その軽やかな声も、トモキにそっくりだった。私は、何とか平静を装って言葉を返す。
「え、ええ、昔の知り合いに少し・・・」
トモキにそっくりな男の人は、そうですか、と言って微笑んだ。
「失礼ですが、貴方、見かけない顔ですね?」
「ええ、今日転校してきたんです」
「道理で」
私達は、何となくお互いに笑いあった。
「知っていますか?」
ふいに、彼は言った。
「え、何をですか?」
「一週間後、正確には八日後にこの世界が終わるって言う事」
「ああ、もちろんです。本当なんでしょうかね?」
さあ、と言いながら、彼は少しだけ悲しそうに笑った。
「それよりも、僕にとっては重要な問題があるんですよ」
それは私に向けた言葉ではなかったのかもしれなかった。しかし私は、彼の物憂げな横顔に吸い寄せられるようにして、どんな問題です、と問いを発していた。
「僕は本当に、僕なんでしょうか?」
「えっ?」
私は一瞬我が耳を疑った。
「僕が僕であると認識できるのは、僕だけです。・・・それは間違いないことなのでしょう。そして僕は、自分自身が暮らす場所としての世界、自分自身もその一部である筈の世界の中にいる」
「・・・それは・・・そうでしょう」
胸の辺りに微かな焦燥感を覚えながら私は相槌を打つ。彼は、ええ、と言いながら手すりに寄り掛かるようにして風に吹かれた。
「そう、世界は僕を包むものであって、僕達に理を供給してくれるもの、その筈だった。でも・・・」
「でも・・・?」
恐る恐る、私は聞き返す。
彼は答えずに、私の方に寂しげな微笑みを向けた。そして空を見上げて、
「僕の手で揺らいでしまう世界なんて、本当の世界じゃない。そして世界無くしては・・・」
「僕もまたあり得ない」
一瞬のことだった。私の見ている横で、彼はまるでスローモーションのようにゆっくりと、手すりを乗り越えると、その身を虚空へと投げ出した。
一拍遅れて、私は慌てて今の今まで彼のいた筈の手すりに捕まって身を乗り出す。
学校の下の地面はコンクリート。落ちたらひとたまりもない・・・筈だった。
しかし、
見下ろした私の視界には、ひしゃげた彼の死体はおろか、猫の子一匹飛び込んでは来なかったのだ。
「どういう事・・・?」
呆然と立ち尽くした私の髪の毛を、ただ涼やかな風だけがいつまでもなぶり続けていた。
・・・To Be Continued To SCENE4