流行過多

伊佐坂 眠井


 妙に自分の人生に因縁のある人間というのはいるもので、その様な人間は何年かの周期で必ずと言っていいほど再び目の前に現れるものだ。例えば、何時の間にか居なくなってしまった可愛らしいコンビニのバイトの女の子と、偶然にも次に引っ越した先の別のコンビニで再会したなら、何やら因縁めいたものを感じて色っぽい気分になっても責められはしないだろう。少なくともおれはなる。そしておれと書記長の関係も、色っぽさとは縁遠いものではあるにせよ、因縁めいた関係であると言っても良いだろう。
 勿論、書記長と言ってもソ連邦の崩壊とは関係なく本当にその役職に就いているわけでは当然ない。おれと色っぽい関係にはない以上女性ではない。尤も、おれと別に色っぽい関係にあるわけではない女性の知り合いも沢山居るわけだが。
 書記長はおれとは高校時代の同級生で、当時おれ達の間にはクラスメイト以上の関係は築かれては居なかったわけだが、書記長の友達連中が彼のことを書記長書記長と盛んに呼ぶものだから、おれを初めとしたクラスの他の連中もつられるようにして書記長と呼んでいた。呼ばれた書記長の方も大して嫌がる素振りを見せはしなかったのでいつの間にかその呼び方はクラスの中でも定着した。だからおれは、彼が何故書記長と呼ばれているのかの根本的な理由については知らない。それは、頻繁と言っていいほど交流を持つようになった今になっても変わっては居ない。大方、中学の時にでも生徒会の書記長か何かをやっていたその名残であろうとおれは勝手に結論づけている。
 その書記長とおれが高校時代以来の再会を果たしたのは、ほんの二年ほど前で、当時のおれは大学を卒業した後に就職もしないままただ引っ越しだけはしてみました、と言ったていたらくであった。それは今も変わってはいない。思い出したように月に数回日雇いで仕事をしてそれで生活をしている。趣味らしい趣味があるわけではないのでさして金がかかるわけではない。女は嫌いではないが、過去の様々な教訓から金のかかる継続したつきあいは避けるようにしているので、懐は痛まない。金をもらえる継続したつきあいは大事にしていきたいと思うが。
 話が脱線した。今は書記長の話である。とにかく、日々そうしてぐうたらに過ごしていたおれはある日、夕飯を食うために懐と相談しながら椛梳辺りの繁華街をうろうろしていた。夕飯を食うには十分余り、一杯引っかけるには少し心許ないような懐具合だった。早足で流れゆく人の流れを何とはなしに目で追っていたら、どうにも見覚えのある顔に気がついて、おれは思わずそいつの顔をしげしげと眺めた。そいつもどうやらおれの顔を見て首を傾げている。「書記長」
 すれ違いざまにそう呼びかけてみたら、向こうも足を止めて振り返った。「やあ、やはり神楽坂氏でしたか」
 書記長は白い息を吐きながらおれに向かって記憶の中の高校時代のものと寸分違わない微笑みを向けた。名字の後ろに『氏』をつけて人を呼ぶ癖も昔のままだ。ちなみに、女性を呼ぶときは、後ろにつける呼称が『女史』に変わる。
「今どうして居るんです」
「まあ、ぶらぶらと」
 書記長は高校時代に比べると、大分髪が伸びていて、当時はかけていなかった赤い縁の眼鏡が鼻の上に乗っかっていた。書記長は昔から女顔だったがそれにさらに拍車がかかっているとおれは感じた。暗い照明のバーか何かで隣に腰掛けられたら口説いてしまいそうだと思って複雑な気分になった。おれにその気はない。
 つきあい始めて解ったのだが、書記長はその容姿だけではなく、声まで女性そっくりのものを出すことが出来た。自分の女顔を生かすために練習した成果だという。また、ある時は自分には死んだ双子の妹が居て、そいつが時たま書記長の体に乗り移るのだと冗談めかして語ったことがある。その話が本当かどうかは解らないが、おれは町中で女装をした書記長に女の声で声をかけられたことが何度かある。女装しているときは口調まで変わっていた。そのうちの一度はおれは友人数人と一緒にいたわけだが、書記長の正体を看破し得た奴は一人としていなかった。そればかりかおれと書記長の関係をさんざん尋ねられ羨ましがられさえした。どうやら、友人達の目にも、書記長が女性に―それもかなりの美人に―見えるらしい。くれぐれも言っておくが、おれにその気はない。
 何はともあれ、久しぶりの再会を祝して、その日おれ達は居酒屋で祝杯を挙げた。代金は割り勘にした。その後に行ったバーやクラブでは書記長が金を払ってくれたようで、次に気がついたときは書記長の家だった。朝だった。書記長の家はおれの安アパートからもほど近い距離にあると言う事に帰るときになって気がついた。
 そんな事があって以来、おれは何となく書記長の家を訪れることが多くなり、散歩のついでにひょいと顔覗きに立ち寄ったりする。実は今日もそのつもりだ。
 ねぐらの安アパートを出て、近くの商店街で書記長へのお土産をかねて総菜を適当に見繕った。書記長の部屋の冷蔵庫には必ずビールだけは十数本の在庫が確保されていて、一度などは「お金が無くてここ二、三日何も食べていません」、と言いながらもがらんとした冷蔵庫の一角にそこだけ何時もと全く変わりなくビールの500o缶が大量に鎮座していて、おれは驚く以前にまず呆れた。勿論、書記長へのお土産はその冷蔵庫の中の主に捧げるものであって、おれもそのご相伴に預かろうという想いが多分に込められている。おれは、書記長のこよなく愛する手羽先を大量に包んで貰い、足取りも軽く商店街を抜けた。
 商店街を歩いていて気がついたのだが、俗に言われる所の山姥ギャルとか言う連中がこの町にも結構増えてきたようだ。ビニール袋を下げながら鼻歌混じりに歩いていたら理不尽にも睨まれた。良い気分に水を差されたようで、おれは睨み返した後で、商店街を抜けた先の公園を通りながら大声で歌を歌って鬱憤を晴らした。
 平日の午前中。さすがに人通りは少なく公園は静まり返っている。その静まり返った公園におれの歌声だけが朗々と響くという趣向だ。それでも時折、乳母車のようなものを押した婆さんとすれ違って、その時だけはつい声を低めてしまうのだが、すれ違った直後から元の音量に戻すのだからよく考えてみるとまるで意味がない。しかし、思わずこう言った行動をとってしまうのはおれだけではないと信じたい。
 そうこうしているうちに書記長の家に辿り着いた。彼の家は公園を抜けてすぐの所にあるのだ。築十数年を経た一軒家。「家賃は結構するでしょう」
 以前おれはそう尋ねたことがあるが、書記長は笑って、
「安いです。事故物件ですから」
 そう答えた。それまでも書記長の家では時折様々な人の気配を感じてはいたのだが、その話を聞いて以来、努めて気のせいだと思うようにしている。
 玄関に備え付けられた呼び鈴を押すと、程なくしてパジャマ姿の書記長が姿を現した。
「やあ、神楽坂氏」
「寝てました?」
「いや、ついさっき起きた所です」
 書記長は寝癖のついた頭をボリボリと掻きながらおれを中に入るよう促すと、自分は部屋の奥に引っ込んだ。勝手知ったる何とやら、靴を脱いでおれもその後に続く。考えてみれば妙な話なのだが、書記長は何時尋ねてみてもかなりの確立で在宅している。そのお陰で初めのうちこそ電話で確認を取ってから訪問していたものの、最近ではアポ無しの訪問が主流になりつつある。それにしてもぐうたらなおれが平日の昼間にぶらぶらしているのは良いとして、書記長は一体普段何をしているのだろうか、定期的に収入はあるようなのだが、何をしているのか具体的なことをおれは尋ねたことはない。
「今日はどのような御用件ですか?お風呂?それともどこかに出かけますか?」
 居間の大きなソファーに腰を落ち着けながら書記長は目を擦り擦りそう言った。書記長の家の家具類の殆どは先住者の置き土産らしい。おれの子供の頃やっていたテレビドラマのような昭和のリビング空間がここにある。
「お風呂はいただきますけどね」
 おれの安アパートには風呂がない。トイレも今時共同である。おれは書記長の家に来る度彼の厚意に甘える形で風呂に入らせて貰っていた。実はおれ専用の風呂道具もこの家にはあったりする。が、それよりも今は手羽先だ。おれは少々誇らしげにビニール袋を長机の上に置いた。「手羽先ですね」
 書記長の目が光る。
「良いですね、早速ビールを用意しましょう」
 書記長が冷凍庫からジョッキを取り出している間に、おれは手羽先を皿に盛り、アナログ式の目盛りがついている電波の漏れだしてきそうな古い電子レンジでサッと暖めなおした。他の総菜も同様の処置をする。
 長机に戻ると、書記長がテーブルの上に缶を並べていた。促されるままにジョッキを手に取ると、プシュッと言う音と共に書記長の手で缶が開けられ、奇跡の液体がおれの手の中のジョッキにそそぎ込まれる。白い泡でやさしく封をされた黄金色の液体。おれの喉元が勝手に唾を飲み込むのが分かる。おれはお返しとばかりに書記長のジョッキを満たす。「それでは」
 乾杯、と言う小さな唱和の後、おれ達はただ黙々とその液体を喉の奥に流し込むことに没頭した。口元でシュワシュワと弾ける清浄な発泡、手羽先や他の総菜の油を流し去りながらも混ざり合い絶妙の旨みを舌と言うよりも喉の奥に伝えてゆく。天上の滋味。昼間から酒をかっ喰らうことは人生の中でも十本、いや五本の指に入る幸福だとおれは思う。後の四本は何かと訊かれたら即座には答えかねるのだが。
 気がつくと、机の上に置かれているビールの缶は粗方横倒しになっており、皿の上の総菜もその殆どが気づかぬうちにおれ達の胃袋の中へと消えていったようだった。この辺りまで来ると、喉ではなく舌に黄金色の滋味を供給してやることになる。「書記長」
 おれはふとここに来るまでのことを思い出して書記長に呼びかけた。
「何です?」言いながら書記長は手羽先から顔を上げた。「ビール無くなっちゃいました?」
「いや、そうじゃなくて」おれは小さく笑いながらジョッキを左右に振った。
「ほら、例の山姥ギャルとか言う連中」
「ああ、あの黒くて白いの」
「そうそう、それそれ」書記長の言い回しが可笑しくておれはひとしきり笑った。「今日来る途中で睨まれました。幾ら流行だとはいえ、あれは何とかならないもんですかね」
「流行だからああなんですよ」
 書記長は言いながらジョッキを一息に傾け、立ち上がって冷蔵庫にビールの缶を取りに向かった。「流行ものは最初は奇異に映るものです」ジョッキにビールを注ぎながら戻ってくる。
「まあ、確かに充分すぎるほど奇異ですけどね」
「しかし、最初は奇異に見えたものでも、使い勝手が良いと分かるや一挙に市民権を得てしまう。二十年前、誰が今のCDの隆盛を予想し得たでしょうね」
「レコードにはロマンがありますけどね」
「まあ、それはたしかに。ああ、そうだ」
 書記長は急に思い出したようにはたと手を打った。「同じクラスに谷村氏と言うのがいたでしょう」
「ああ」細い目の笑顔を思い出す。「女の子から変態って呼ばれていた」
「そうそう、その谷村氏、眼鏡をかけた女の子がとにかく好きなんです。何か変なトラウマでもあるんじゃないかって思うぐらい。眼鏡をかけているだけでプラス80点って良く繰り返していました」
「成程」おれは相槌を打つ。女の子達が谷村を変態と呼んでいた理由の一端を見た思いだった。その一方でおれはエッチとかスケベとか言われていたのだが。
「最近のコンタクトレンズの普及を彼は嘆いていましたよ。それこそ昔は良かった、と言う奴です」
「しかし、幾らなんでも山姥はコンタクトみたいにスタンダードにはなり得ないでしょう」おれは少し不安を感じながらそう言った。あんなのばかりが町を闊歩している近未来図はどう考えてみてもぞっとしない。しかし、
「解りませんよ」書記長は脅かすような口調でそう言った。「あの山姥メイクとやらがもたらすのは顔の均一化です。あのメイクをしてしまってはもう美人もブスも無い。それに加えて女なら抱ければ何でも良いという男達がいるお陰であのメイクが根強く支持されると言う可能性があります」
「おれはいやだけどなあ」
 書記長は薄く笑って、
「美の基準なんて人それぞれですから。しかし、女性は何に変えてもそれを手に入れようとする。中世のフランス女性のコルセットや中国の纏足の風習を見て下さい、美は自分の体を犠牲にしても女性にとっては大事なものなんです。・・・そう理論立てて考えている時点で、僕はまだまだ女性には化けきれないんですけどね」
「成程」
 最後の一節が一寸気になったがおれは神妙な顔で頷いて見せた。覗き込んだ書記長の顔は少なくとも山姥達よりはずっと魅力的に思えた。くどいようだが、おれにその気はない。
「流行という奴は時として気がつくとスタンダードになっているものです」
 書記長の話を聞きながら、おれはふと別のことを思い出して、思いついた先から書記長に尋ねてみることにする。「書記長」
「なんです?」
「ほら、よく婆さん連中が押している乳母車みたいな奴。あれ、なんて言うんですかね?買い物袋なんかも積めるから、杖に取って代わったんでしょうかね」
「ああ、あれ」と書記長は小首を傾げた。「そう言えば正式な名称を知りませんね、あれ。何とかカートとか言うのかな、やっぱり」
 そして、不意に神妙な表情でおれを見る。
「ところで、どうやら神楽坂氏はあのカートの本当の使い道を知らないようですね」
「本当の使い道?」
 書記長は立ち上がってパジャマの上にジャージを着込み始めた。そして言う、「知りたいですか?」
 おれは当然知りたかったから、書記長の促すままに立ち上がって外に出て、来る途中で通った公園まで連れ立って歩いた。先程例のカートを押していた婆さんがベンチでひなたぼっこをしているのが見えた。
「杖は男女ともについて歩くけど、あのカートは殆ど女性が押して歩くものです」書記長は何故か囁くような口調で言った。「なぜだか解りますか?」
 おれが首を横に振ると、書記長は、
「それは、女性の方が男性よりも長生きだからです」
 そう言った。何のことだかさっぱり訳が分からず混乱しているおれをおいて書記長はベンチに座っている老婆に近付き、「こんにちは、お梅さん」
 女の声でそう言った。そしておれの耳元で素早く囁いて言うには、「このお婆さん、僕のことを女性だと勘違いしているんですよ」
 おれは曖昧に頷いた。おれの目はベンチに立てかけられているカートに向いている。
「今日もお元気そうで何よりです」
 ベンチにさりげなく腰を落ち着けながら書記長は女の声のままにっこりと笑った。婆さんも顔をくしゃくしゃにして微笑む。「ええ、ええ、ほんにおかげさまで」
「こんなに良いお天気なら、豊蔵さんもさぞかしご機嫌でしょうねえ」書記長は優しい笑顔のままそう続ける。「出来ればお会いしたいな」
「おやすい御用ですよう」
 書記長の言葉にいちいち顔をくしゃくしゃにして老婆は、言いながら緩慢な仕草でカートのバッグ部分のファスナーを震える指先でゆっくりと開いた。
「神楽坂氏」立ちんぼになっていたおれの袖を書記長が引っ張る。おれの体が前屈みになったとき、丁度婆さんが水密の皮を剥くように左右に大きくバッグの口を開く。おれは目を大きく開いたまま固まった。
 幸せそうに笑っていた。太陽の光に目を細めながら、皺だらけの小さな小さな爺さんの首が、首だけが、カートのバッグの中で。

流行過多・完


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