会者定離

伊佐坂 眠井

「三十三万円だそうです」
 書記長が事も無げに言うものだから、おれは暫しの間その言葉の持つ意味には気づかないで、
「へえ〜、三十三万円ねえ・・・」
 間の抜けた口調でいいながらそれのあちこちをベタベタと触っていた。「三十三万!」
 かなりのタイムラグの後におれはその事実に気がついて、慌ててポケットからハンカチを取り出して手などを拭ってみたものの、ハンカチは皺が寄ってよれよれで、一体何時このポケットに入れたものなのか、入れた本人である筈のおれでさえ覚えていなかったのだから、果たしてその行為に意味があったのかどうかはいまいち判然としない。
「別にいいですよ、そんなに扱いに気を使わなくても」
 書記長は笑いながらそう言った。書記長と言っても別にソ連邦の出身でもゴルバチョフという名前でもない。綽名だ。おれと書記長は高校時代の同級生で、その頃は大して交流を持ってはいなかったのだが、数年前に偶然再会して以来頻繁に交流を持つようになった。書記長という綽名は高校時代から既に皆に親しまれていたので、生憎とおれはその由来を知らない。ただ、書記長に書記長以外の綽名を付けろと言われてもおれは多分困ってしまうので、誰がつけたかは知らないにせよ書記長という綽名は、まさに書記長のためにあるものなのだろう。
 その書記長だが、本人もその綽名に負けず劣らずミステリアスな人物で、一体普段何をしているのかかなり深い付き合いになったと勝手に思っているおれでさえ知らない。取り敢えずおれが不意に昼間に訪問してみても大抵は在宅しているのだ。単刀直入に本人に尋ねてみればいいのかも知れないが、おれにはそれが出来ない。もしかしたらおれ自身が書記長をミステリアスな存在だと思い続けたいからなのかも知れないが。ちなみに、俺が平日の昼間からぶらぶらしているのは単におれ自身がぐうたらな性格だからである。威張って言うことではないのだが。
 しかし、そんな事より書記長を語る上で最もミステリアスなことは、書記長の外見である。高校の時から女顔で、実をいうとその当時はナヨナヨした奴だというどちらかというと悪い印象をおれ自身持っていたのだが、再会した書記長は髪の毛を肩の辺りまで伸ばして、お洒落な赤い縁の眼鏡をかけてますます性別不明の存在になっていた、と言うよりかなり綺麗な女になっていた。そればかりか、書記長は女性の声を出せるという特技を持っているから、彼のことを女性だと勘違いしている人は実際多く、おれの知り合いの中にはおれと書記長の関係を真剣に妬む奴までいるのだから困ったものだ。生憎、と言うとまた誤解を受けるのだが、おれと書記長はそんな関係ではない。今のところは。
 何はともあれ、おれは今日の午前中から書記長の家にお邪魔して、酒盛りをした挙げ句に風呂まで入って更には仮眠を取って現在に至るわけである。目を覚ましたときは午後の四時過ぎで、夕飯を食べに行くにはまだ幾分早い時間だったので、おれは書記長と一緒に彼の部屋で時間つぶしをしていたのだ。
 書記長の家はとにかく広い。その上事故物件だと言うことで家賃も安いのだという。従って、時折現れるこの世に在らざる者達さえ気にしなければ快適に暮らせるという寸法だ。一階は先住者の置いていった家具類を殆ど残して、昭和のリビング空間の趣があるが、二階の書記長の部屋はそれとはうって変わって、彼の趣味の空間と化している。
 立派なオーディオ設備が整っているが、本棚に並んだ本やCDに目をやると、そのあまりの無軌道ぶりに目を疑いたくなる人は多いだろう。クラシックやジャズのCDが並んでいたと思ったら、流行のアーティストのCD、その隣にはおれが聞いたことがないようなマイナーなアーティストのCDが並び、その下の列はアニメやゲームのサントラだったりする。本も漫画から専門書まで幅広く並び、壁にはアニメのポスターとアーティストのポスターが互い違いに貼られていたりする。パソコンやらゲーム機やらも取りそろえられているが、置いてあるゲームのジャンルがまた無軌道である。その中にはいわゆるエロゲーと呼ばれる物も混じっているのだが、おれにはどうしてもそれをやっている書記長の姿が想像できない。
 おれの偏見かも知れないが、そう言った代物は、小太り、あるいはもしそんな言葉があるのなら大太りで眼鏡をかけた連中が一人でホヒホヒ言いながらやっている物だとばかり思っていた。おれがそう言うと、書記長は、
「まあ、中にはそう言う人もいますが、一部ですよ」
 と言って笑った。成程、偏見なのであろう。確かに書記長の姿からはこういった趣味は想像しにくい。そしておれはそんな偏見を持つ人間でありながら、いざそう言った代物を目の前に突きつけられると好奇心からやってみずにはいられない人間であり、実際寝食を忘れて色々とやってみた。誰にでもあるはずだ、自分で買ったりするのは気乗りがしないが只で出来たり、もらえたりするなら是非お願いしたいという物が。
 例えば、少女漫画。おれはあの売場に近付くことさえ恥ずかしいし、ましてやレジに持っていくなど言語道断だ。おれが高校生の頃、女子が偶々持ってきていた少女漫画が男どもの間で空前のブームを巻き起こして、みんなで回し読みをしたものだが、きっとそれもこういった現象の一つだったに違いない。
 で、結局おれはちゃっかり粗方ゲームはやってみたし、漫画やアニメも鑑賞してみたのだが、面白い物は面白いのだという至極常識的な結論に到達した。食わず嫌いは良くない。その結果として副次的におれの頭の中にそう言った分野のかなりの知識が詰め込まれることになったわけである。
 さて、延々とここまで語って漸く話は本編に入っていくのだが、今日おれが書記長の部屋に入るとすぐにそこに見慣れない物体があることに気がついた。「書記長」
 驚きながらおれは尋ねる。「これは?」
「メモハのエリスです」書記長は事も無げに言った。「磯村氏が一昨日置いていったんです」書記長は人の名前の後ろに『氏』をつけて呼ぶ。
「いや、そう言う事じゃなくて」
 おれは言った。メモハ、と言うのは「Memorial―Heart」というギャルゲー、つまりは女の子といい仲になるのを楽しむ恋愛シミュレーションゲームのことで、エリスというのはそれに登場するキャラクターだ。ドジな宇宙人という設定で、何故か猫の耳を生やしている。書記長によればこのゲームの一番人気のキャラクターなのだそうだ。そして、磯村というのはおれも何度か会ったことがあるのだが、書記長の知り合いの一人で彼の大学の同級生だったという男だ。線が細くて気弱そうな奴だったような印象がある。
「ああ」ともあれ書記長は言葉が足りないおれの質問の意味を理解したようだった。「等身大のフィギュアですよ」
「ああ、成程」
 言いながらおれはそれに恐る恐る手を伸ばした。噂には聞いていたがいざ実物を見るとさすがに衝撃は大きかった。書記長の影響でアニメやゲームには大いに理解を示すようになったと自負するおれだが、どうしてもフィギュアだのガレキだのという分野にはまだまだその理解が及んではいない。二次元では違和感無く思えたキャラクターでも、こうして三次元の物になると、どうしてもその存在意義がよく分からない物に思えてしまうのだ。 おれは、ゲームをやるときに虚構は虚構だと割り切った上でその世界観を楽しむ。しかし、その虚構の存在であるはずのキャラクターをこうして三次元上に構築してしまうことに果たして何の意味があるのか疑問に感じてしまうのだ。つまり、おれにはフィギュアという奴は中途半端な存在に思えて仕方がないのだ。
 などと考えながらも、其の実興味深げにおれがその等身大のフィギュアを弄っていると、書記長がぽつりと言ったのだ。
「三十三万円だそうです」
 こうして、話は漸く冒頭の記述に繋がる。
「あれ、書記長。ここに汚れがついていますよ」
 おれは、エリスの右腕の下の方にあった赤茶けた染みを目敏く発見して、未だに手に持ったままだったハンカチを伸ばしかけたがそのハンカチの来歴が多分に不透明であったことを思い出して思いとどまった。
「ああ本当だ」書記長は覗き込んだ。「全部拭いたと思ったんですけど」
 拭いた、と言うことはもっと広範囲にわたってこの汚れがついいていたのだろうか。三十三万円と言っても、書記長の言うようにそんなに丁寧に扱われてはいなかったのだろうか、とおれは考えてそれ以前に大切に扱っていたら人に渡す筈はないだろうと言うことに気がついた。
「ああ、実は磯村氏、彼女が出来たんですよ」
 おれの問いに対して、書記長はやはり事も無げにそう答えた。
「それとこれとがどう関係あるんですか?」
「例えば、神楽坂氏、貴方の部屋に彼女が尋ねて来たとします。そこで、部屋にこれが置いてあったら・・・」
「成程」おれは言った。「ひきますね」
「ひくでしょう」
 と書記長は微笑んだ。
「彼女の方もそっち系の趣味に理解がある人だったらいいのですが、磯村氏の彼女、ごくごく一般的な人らしいですから」そして部屋の片隅に置いてあった段ボール箱を指し示しながら、「エリスだけじゃなくて、他にも磯村氏が危ないと判断した物は、あの中に入っています」
 おれは苦笑した。覗いてもいいかどうか尋ねたら書記長が笑って頷いたので、おれは段ボール箱の中を漁る。磯村がどういう基準で危ないとの判断を下したのか興味があったし、何より、文字通り人の秘密を漁る背徳感におれは快感を覚えていた。
「おお・・・これは・・・確かに」
 箱の中には大量の同人誌やゲームなどが入っていた。それも、中にはどう見ても小学生としか思えないようなキャラクターを扱った物があり、生憎とその手の趣味のないおれとしては眉を顰めざるを得なかった。しかし、それにともなっておれはあることを思いだした。そう言えば、昔、磯村と同じ様なことをしていた奴がいた。
 そいつは、確かおれが中学校の三年の時の同級生で、知る人ぞ知るAVコレクターとして知られていた。AVと言っても勿論オーディオ・ビジュアルの略ではない。確か、名前は金森と言ったか。
 そいつは、自分の部屋には嗜み程度にごくごく普通の、いわゆる女優物という類のAVを数本こっそりとさも隠して在りますよ、と言ったような場所にそろえておいていた。男たるもの、AVの一本も持っていないようでは却って気持ちが悪い、と言うのが本人の弁である。しかし彼にとってそれはダミーに過ぎないのだ。金森の凄いところは、それ以外のコレクションの隠し場所である。奴にAVを借りようとした奴の話では、まず、金森は普通の物が良いか、それともそうじゃない物が良いのか尋ねてくるのだという。
 普通と答えると金森の部屋にある物から適当に供給されるのだが、そうじゃないものと答えると、金森はおもむろにシャベルを持ち出して、奴の家の裏庭に依頼人を連れてこっそりと赴くのだそうだ。そして、依頼人にも手伝わせながら、庭の隅をひたすらに掘る。やがて、黒いビニール袋に何重にも包まれたAVの山が発掘されるのだという。奴がどこでどう手に入れたのかは解らないが、その中には裏ビデオからロリータ物、SM物に果ては獣姦に至るまでありとあらゆる類のAVがあったのだそうだ。
 ちなみに、金森はその後、何時もの様に真夜中に発掘作業を行っていたところを、近所の人が誰かが死体を埋めている、と言うとんちんかんな通報をしたお陰で、半信半疑のうちに駆けつけた警察官に捕まって、大量のコレクションを前にこってりと油を搾られたらしい。
 おれがその話をすると、書記長は声を上げて笑った。おれもつられて笑う。笑いが一段落したところで、おれは尋ねた。
「ところで書記長」
「何です?」
「しかしまた何で磯村は捨てないで、書記長に渡したんでしょうね」
 ああ、と書記長は言った。
「何でも捨てるには惜しいほど希少価値がある物が多いらしいですから、もしかしたら彼女と別れたら取りに来るつもりだったのかも知れません。前にも、そう言う事した人いましたし」
「成程」おれは言った。「しかもエリスに至っては三十三万円ですしね」
「それもありますが、」書記長は真剣な表情になった。「フィギュアも人形の一種ですからね」
「どう言うことです?」
 書記長はうーん、と言いながら立ち上がり、急にハッと気づいたように「おっと、マッシブ・ミュージック始まってる」
 と、言いながらテレビをつけた。おれも名前を知っているなごみ系の男性グループが画面に現れた。六時のニュースの前の5分間のスポット番組だ。
「ええと、人形の話でしたね」
 甘ったるい歌声に満足そうに耳を傾けながら書記長はそう言って振り返った。おれは黙って頷き返す。
「陰陽雑記に云はく、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すといへり・・・確か『付喪神記』でしたか。人形に限らず、古来より百年立った古道具や玩具などはお化けになって人を誑かすと言います」
 番組が終わってCMが始まった。頭の悪そうなアイドル歌手が清涼飲料水を飲みながら画面の向こうから笑いかけてくる。
「さて、人形ですが、『ひとがた』とも読める通り、人の形になぞらえて、災厄や魔を払う神事に用いたのがその起源です。ほら、流し雛なんて言う風習もあるでしょう。・・・そう言った歴史をさておいても、よく人形には魂を込める、あるいは魂が籠もると言いますからね、だから人形は捨てるに忍びなくて人形供養を行ったりするんですね」
 今度は携帯電話のCM。どうでも良いが携帯のCMは何故ああも人の神経を逆なでするような物が多いのだろうか。
「ましてや、エリスのフィギュアは等身大ですからね。しかも、業界でも評判の出来の良さと来ています。さぞや魂も込められていることでしょう」
 成程、とおれは思った。「それなら、このエリスは、書記長に預けられたのではなく、磯村に捨てられた、と解釈する方が良いのかもしれませんね。ちゃんと人間として扱って」
「そうですね」
 軽口のつもりで言ったのだが、書記長はしみじみとした顔で頷いた。CG合成されたタイトルとともにニュースが始まった。二人並んだ男女のキャスターが挨拶とともにお辞儀をする。
「そう言えば、昨日の夜に妙なことがあったんですよ。ほら、この建物、さすがにいわく付きの物件だけあって、良く出るでしょう。昨日の夜も、ドアの開く音がして、僕はまたいつものことだと思って、気にしないで眠っていたんですけどね――」
「本日午後二時頃、茅幌市北区に住む会社員磯村和宏さん(二十六)が、自宅マンションで刺殺されているところを、磯村さんが会社に出てこないことを不審に思い訪ねてきた同僚によって発見されました――」
「それで僕、今朝もドアの開く気配に気が付いて、そっちの方に目を向けたんですよ。でも、当然のようにそこには誰も居なくて、エリスのフィギュアが立っているだけでした。ただ――」
「検屍の結果、磯村さんは昨夜から本日未明にかけての間に殺されたらしく、警察は怨恨による犯行と見て、磯村さんの身辺を調査しています――」
 おれはエリスのフィギュアの方に向き直った。あのフィギュアの右腕に付いていた赤茶けた染みは――
「書記長」おれの背中を冷たい物が伝った。「ただ、何です?」
 ええ、書記長は頷いた。
「右手にべっとりと血の付いたナイフを握っていました」

会者定離・完


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