腹の底から沸き上がる得体の知れない恐怖、あるいは潔癖性

伊佐坂 眠井


 大学の同級生に大層変わり者で知られる井奈波と言う男がいて、そいつが事ある毎に言っていたのだが、世の中に女と子供ほど恐ろしいものはないのだそうだ。おれは多少識者などを気取って、女は男とは全く異なったその思考形態が、子供はその幼いが故の残酷さが恐ろしいのだろう、等と井奈波に向けて言ってみたことがあるのだが、おれのその説は正しいようでいて、井奈波が感じていた本質的な恐怖とは大分かけ離れたところにあるものだった。
 奴の話によれば、女はその発する言葉の裏に常に自分が善く正しきものであるという絶対的信念がちらちらと見え隠れするのが我慢ならず、また、子供はその未熟さ故に理不尽な行為や彼の神経を逆なでするような行為を嬉嬉として行い、けしてやめようとしないことがどうにも腹に据えかねるのだという。
 それは腹が立つ事であって、別に怖いことではないだろう、とおれが訪ねてみたら、井奈波は大きく頷いて、
「そういった女子供を見ることによって沸き上がってくる、俺自身の中の破壊衝動や、暴力的な感情が恐ろしいのだ。」
 目に暗い光を湛えながらそう言った。成程、彼が本当に恐ろしかったのは自己の中にあるそういった負の感情であって否が応にもそれを喚起させるものとして女子供のことを病的なまでに嫌っていたという訳だったのだ。
 さて、おれがこれから語ろうと思っている話はこの井奈波とは全く関係のない話である。井奈波はというと大学を卒業した後、別に包丁で女子供を斬りつけたりする事もなく、同じ会社の女子社員と大恋愛の末結婚して、今では一人娘の一挙手一投足に目を細める毎日だと聞いている。人間なんてそんなもんである。
 何にせよ、井奈波の感じていた恐怖がある程度は論理的な思考による産物だとしたら、それとは対照的に、腹の底から沸き上がってくるような得体の知れない恐怖だって世の中にはある。そしておれは潔癖性という奴もその一形態ではないかと思うのだ。
 例えば不潔感などと言うよくよく考えてみれば生きている以上は必ず多少なりとも感じずにはいられないその感覚を絶対的なものとして捉え、何かをする度、あるいは十数分おきなどに必ず手を洗う。面白いことに、誰しも小さい頃にはやたらとそう言うことが気になった経験がひとかたならずあるらしく、変わったところでは、風呂から上がった後に自分の部屋のベッドまで裸のままで爪先立ちで走らないと不潔な気がしてしょうがなかったなどと真剣にのたまう奴もいた。
 また、これはむしろ潔癖性という言葉に当てはまらない、むしろ不潔とも取れる話なのだが、寝る前にトイレに言った後の残尿感がどうしても気になって、洗濯籠にパンツを脱いで投げ入れる前に、そのパンツをはいたまま残尿感を解消することを、つまりはパンツの中に放尿することを習慣にしていたという奴までいた。
 おれの思うところ、これらの習慣は潔癖であるにしろ無いにしろ、何かをしなければならない、何かをしてはいけない、と言う様な何らかの強迫観念がどうしたわけか爆発的に強くなることがあって、原因はおそらくそれに根ざしているのだ。
 さて、かくいうおれにも当然のようにそんな時期はあって、おれ自身の恐怖の対象は『虫』であった。
 何のことはない、外に出ればぶんぶん飛び回っているあの虫であり、地べたを這いずり回っているあの昆虫類である。
 おれにとっての恐怖は、恐らく大抵の人がそうであるように、ある日突然にやってきた。それまでは人並み以上に外に出ては日の暮れるまで遊び回っているような子供だったおれだが、目に見えて外出を控えるようになった。虫が怖いからだ。かつては植木鉢の受け皿一杯の毛虫を家の中に持ち込んで家族を大パニックに陥らせていたおれが、家の中で黙々と読書などをして、間違って読んだ科学雑誌に『僕達の靴の底の広さの地面の中だけでも、一万匹以上の虫が生息しているのです』等といった記述を見つけては震え上がっていたわけだ。
 虫の中では、甲虫系よりも、軟体系の虫の方がよりおれの恐怖心を刺激した。特に怖かったのは白い虫の類で、カブトムシの幼虫等はまだ良いとしても、泡立ったカマキリの卵や、ざわざわと蠢くウジ虫などは目にしただけで全身に鳥肌が立ったものだった。俺は虫に恐怖を覚えるようになるまで、頻繁に神社の裏の笹藪の中に遊びに行っていたものだったが、俺の足はめっきりとそちらの方向に向けられることはなくなっていた。笹藪の中には、白く蠢くぬめぬめとした虫が住んでいるのだ。それは、人に飛びついて、白い膚の上でぬらぬらと光るのだ。
 尤も、そう言った恐怖の感情も時の流れとともに薄れていき、半年もしないうちに再びおれは外で遊び回る子供に戻っていった。一体全体どうして虫などがあれほどまでに恐ろしかったのか、おれはその理由については結局あの後考えることすらなく、幼少期の一過性の恐怖症として虫嫌いの記憶は脳の普段使われていない、そして恐らくもう二度と使われることのない様な引き出しの中にずっとしまい込まれていた。あんな事があるまでは。
 さて、大学二年の夏休み、おれはだらだらと休日を過ごす目的で、実家に帰省していた。ただ、一人ではなかった。おれの所属しているサークルの後輩が、道内周遊旅行のついでと言う名目でおれにくっついてきていた。後輩は女で、名前を久能郁美と言った。目のくりくりとした、必要以上に元気のいい女で、どちらかと言えばあまりおれのタイプとは言い難い女だったのだが、おれは見事に彼女の理想のタイプだったらしく、おれも好意を寄せられて悪い気がするはずもなかったから、何となく付き合っていた。また、郁美は色白の童顔の割には妙に肉付きが良く、そこがおれのスケベ心を擽った事も否定は出来ない。
 曲がりなりにも自分の恋人に旅先の宿を提供してやらないほどおれも冷淡な男ではなかったから、おれは郁美を連れて半年ぶりに実家の門をくぐった。うちの両親は久しぶりに帰ってきた息子よりも、郁美の方をより手厚く歓待しては、大学でのおれの所業はどうだとか、出来の悪い息子だが宜しく頼むだとかそんな事ばかり言っているのでおれは、ハードボイルドよろしく必要最低限のことを語る他はビールの摂取と煙草の煙の吸引にのみ自分の口を使用することにした。
「それじゃ、先輩、お休みなさい。」
 そう言いながら郁美は結婚して出ていったおれの姉の部屋の中に消えた。さすがに同じ部屋に泊めるというわけにはいかなかったらしい。・・・しかし、姉の部屋はほぼ当時のままで保存してあるのに対して、おれの部屋が半分物置の体裁を様し始めているのはいったいどういう事だろう。姉がいつでも出戻ってこれるようにするためだとしたら、それはそれで旦那に失礼な話だ。何はともあれ、久しぶりに帰ってきた自分の部屋なので色々と懐かしいものを発掘しては感慨に耽っていたお陰で、おれが寝たのは大分遅くなってからのことだった。

 翌朝は、誰が何時の間に開けたのか、細く開かれた窓からゆるゆると入ってくる生ぬるい風と、それに混じって聞こえてくる祭囃子によっておれの目は覚まされた。それとほぼ時を同じくするように、「先輩、起きて下さい、朝ですよう。」
 少し鼻にかかった声でそう言いながら郁美がおれの部屋の中に入ってきた。
「朝御飯、冷めちゃいますよ!」
 そう言って布団をひっぺがした郁美は、どこかで見たことがあると思ったらおれの姉の洋服の上におふくろのエプロンをしめていた。髪の毛はポニーテールに結んでいる。半開きの目を擦りながらダイニングキッチンに行くと、おふくろがテーブルの上に料理を並べている最中だった。おふくろは、よろよろと歩いてくるおれに気が付くとこっちを向いて一言、「おはよう。」
 おれはそれにうめき声で答えながら椅子を引いて座った。そこにどうやらおれのベッドをなおしていたらしい郁美が戻ってくる。
「じゃあ、食べましょー!」
 そしてそう言った。朝から元気な奴だ。おれは朝は弱い。そもそも朝に起きること自体が滅多にないのだ。
「先輩、その目玉焼き私が作ったんですよう。」
 郁美は食べながらもこれは誰が作った、といちいち説明した。おれは目玉焼きなんて誰が作っても所詮は同じだろうと思ったが口には出さずに鷹揚に頷きだけを返した。何のことはない、喋るのがおっくうだったからだ。
 食後のコーヒーを啜っていたら、おふくろが誰にともなく、
「そう言えば、今丁度唐津島神社のお祭りなんだよねえ。」
「そうなんですか!?」
 俺が黙っているので郁美が相槌を打った。おふくろは、「あんた達、暇なら行って来ればいいじゃない。」
 つまりはそれが言いたかったようだ。「お祭りかあ〜、いいですねえ、先輩、行きましょうよ。」
 郁美は乗り気だった。
「あのお祭りは、カップルで行くと別れるんだぞ。」おれはそれに水を差してみる、とは言ってもこれは出鱈目ではなくて本当の話だ。高校の頃まことしやかに囁かれていた噂で、その所為かどうかは解らないが、おれの友人の宗像と言う奴は本当にこのお祭りに彼女と行った後に破局を迎えた。
「大丈夫ですよう。」しかし、郁美は参らなかった。「私と先輩の仲はその程度のジンクスで破れるようなヤワなもんじゃないはずでしょう。」
 そして、勝手にそう決めつける。おれははいはい、と軽く受け流した。実際のところ、神楽坂という妙な名字のお陰なのかそうでないのかは定かではないがおれは子供の頃から祭りの類が決して嫌いではない。
「お祭りと言えば、ほら。」おふくろが不意に思いだしたように言った。「ほら、杉本さんちの暦さん、あんたがちっちゃい頃よく遊んで貰っていた。」
「ああ、暦姉ちゃん。」
「そうそう。」おふくろは意味ありげに微笑んだ。「こないだ結婚したのよ。残念ねえ、章宏大きくなったら暦姉ちゃんと結婚するんだってよく言っていたのに。」
 飲んでいるコーヒーよりもほろ苦い記憶がおれを襲った。暦姉ちゃんというのは近所に住んでいた杉本さんの娘で、確かおれより五つ六つ年上だったはずだ。
 元々世話好きな性格だったのだろう。うちの親と杉本家の親の仲が良かったことを差し置いても、小学校の教室の後ろの水飲み場で干しっぱなしになっている雑巾のようなガキだったおれに大層良くしてくれていた。
 たしか剣道部に所属していたはずで、白い顔に凛とした表情を浮かべポニーテールがよく似合っていた。そんな彼女におれが憧憬めいた思慕の情を抱いていたことは否定できないし、否定するような理由もない。
 おれが小学校の高学年に上がるまではクラスメイト達の嫉妬とやっかみの視線にも構うことなく、おれは暦姉ちゃんと一緒に遊んでいたものだったが何故だろう、いつからかぱったりとおれは彼女の家に足を向けることが無くなり二人の昵懇な間柄は消滅してしまったのだった。
 モノトーンの記憶を懐かしむようにおれはもう一度コーヒーを啜った。苦くないと思ったら、郁美の奴が砂糖を入れていたらしい。溶けきらなかった結晶がカップの底の方に茶色く染まってへばりついていた。おれはブラックが好きなのだ。
 何はともあれ、そのまま家にいても特にすることはないので、郁美と二人で祭りの見物に出かけた。今日は走り御輿の日だった。走り御輿というのは、御輿を担いだ男達が、全力疾走で町中を走り回るという一風変わった御輿で、さすがに走り通しでは屈強なヤン衆も堪えるので、市内のあちこちに交代要員がスタンバイしていて、さながら御輿を使った駅伝のような趣がある。見た目通りに荒っぽく、毎年一人や二人の怪我人は当たり前のように発生する。
「すごいすごい。」郁美はまるで自分が御輿を担いでいるかのように興奮してそれを眺めていた。こいつはこういった男らしいことがたまらなく好きなのだ。「久能、大興奮です!」
 時々郁美は一人称が自分の名字になる。おれは生返事でそれに答えた。家に帰ると、ぷん、と樟脳の匂いが鼻を突いた。おふくろが姉の浴衣を出していた。
「夕飯食べ終わったら、夜店に行って来ると良いじゃない。」
 おれはその言葉に従うことにした。郁美は姉の浴衣を着せてもらいながら、「久能、大感激です!」と盛んにはしゃいでいた。
 夜店は走り御輿が行われる大通り沿いではなく、唐津島神社の境内を中心として行われている。郁美はスキップを踏みながら軽やかに神社の階段を駆け登る。ポニーテールがひらひらと揺れる。
「先輩、はやくはやく。」運動不足気味のおれは郁美の言葉を意に介さずにせいぜい風流を気取ってのんびりと口笛を吹きながら石段を登った。石段を登りきると、焼き烏賊のものらしい香ばしい香りがおれの鼻を擽った。夜店の匂いだ。実に良い。焼きそば、お好み、フランクフルト。どう言うわけか、夜店の食べ物は幾らでも食えるような気がしてくるから不思議だ。
 それでもさすがに満腹感を覚えて、おれはそろそろアトラクションに目を向け始める。郁美は、デザートがてらの綿飴を頬張ってご機嫌なこと極まりない。金魚すくいの屋台で金魚を数匹すくって、郁美に手渡したときおれはパーンと響く小気味の良い銃声を耳にした。突如乱入した狂人による無差別発砲・・・ではなくて屋台の射的である。おれはおもむろに立ち上がって、黙って小銭を親父の前に置いた。皿に盛られたコルクの弾丸が差し出される。
「先輩、頑張って下さい!久能はあれが欲しいです!」
 言って郁美が指さしたのは、かなり大きな熊のぬいぐるみだった。おいおいちょっとそれは無理じゃないか、と思いながらも、おれは銃を構えた片手を伸ばす。しかし、熊は強靱でおれの放つ弾丸はことごとくはじき飛ばされた。おれの闘争本能に火がつく。黙って小銭を差し出すと、親父は口元に笑みを浮かべながら弾の載った皿を差し出した。
 そして、ストイックな戦いは始まった。最早おれは郁美のためではなく、純粋に戦うこと自体を楽しんでいた。おれと熊との根比べだ。しかしやがておれの軍資金は底をつき、いつの間にかおれを取り囲んでいた観衆の間から、大きな溜息が漏れた。パンパン、親父が手を叩いた。「良い戦いだった、敢闘賞だ。」
 熊がおれに差し出される。観衆の間から拍手が巻き起こった。郁美に渡そうと思って振り返ったら、そこに彼女の姿はなかった。そう言えば、途中で私ちょっとぐるっと回ってきます、と言う彼女の言葉を聞いたような気もする。またやってしまった、おれは思いながら郁美を捜して夜店を徘徊した。
 何かに夢中になると他のことが見えなくなる、おれの悪い癖だ。前の時はスマートボールだった。急に思い出した。スマートボールという奴は、ピンボールとパチンコが一緒になったような奴で、打ちだした玉を上手く台に開いている穴の中に落とし、その穴を結んでいる図形が完成したらもう一回そのゲームを楽しめる札がもらえる単純なゲームだ。しかし、その単純さが当時小学生だったおれを虜にした。あの時もそうだった。夢中になってしまったおれに暦姉ちゃんは少し困ったような顔で、「じゃあ、お姉ちゃんは少しお店を回ってくるね。」そう言い置いて去ったのだった。
 郁美を捜す俺の足は、知らず知らずのうちに、神社の裏手に向かっていた。街灯の光も夜店の明かりもここからは遠く、辺りは薄暗い宵闇の中にある。あの時もそうだった。漸く札を全て失ったおれは、暦姉ちゃんが戻ってくるのがあまりにも遅いのでその場を離れて探しに出たのだった。
 何かに憑かれたように歩くおれの眼前に、笹藪が姿を現した。あの、白く蠢くぬめぬめとした虫が生息しているあの笹藪だ。しかし、今のおれは虫など怖くはない。おれは一歩、また一歩藪の中に足を踏み入れる。あの時もそうだった。そしておれの耳はくぐもった呻き声と押し殺した喘ぎ声を捉えるのだ。
 木の陰に人影が見えた。音を立てないようにして慎重に近付くと、白い背中と、それに後ろから襲いかかる屈強な肉体が目に入った。男は法被を着ている。恐らく昼に御輿を担いで走り回っていた連中の一人だろう。そして、女は誰あろう、久能郁美に間違いなかった。男は、郁美の腰を後ろから掴んで盛んに自分の腰を振っていた。それに合わせて郁美のポニーテールが揺れる。あの時もそうだった。恐らく、暦姉ちゃんの恋人かなにかだったのだろう。法被姿の高校生ぐらいの男の子に後ろから暦姉ちゃんは犯されていた。それを見て以来だったのだ、おれが暦姉ちゃんから距離を置くようになったのは。
 男がうっ、とくぐもった声を上げると同時に、郁美から自分の分身を抜きはなった。精液が勢い良く発射されて郁美の背中に飛びついてぬらぬらと光った。あの時もそうだった。暦姉ちゃんの背中に弾けた白い精子。それは、おれが最も恐れていた笹藪に潜む白い虫に他ならなかった。

腹の底から沸き上がる得体の知れない恐怖、あるいは潔癖性・完


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