大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第九回・吸血石

 翌日、【空を飛ぶ怪盗ー魔韻羅銘まんまと吸血石をその手にす!ー】と言う野次の書いた見出しが、【鈴の音は魔の調べ・・・度目樹コンサアトホールで殺人劇!】と言う見出しの横で、共に一面を飾り、「幻夢庵」には、再び訪れた春日辺稚芙美の姿があった。


 今日も老人の姿で店番をしていた魔韻は、この前と同じようにして稚芙美を地下へと案内した。すかさず愛鈴がお茶を入れて彼女をもてなす。人心地ついた所で、魔韻が奥の部屋から「吸血石」を持って戻ってくる。


「お約束の品です。」
 言いながら魔韻は、にっこりと微笑んでみせる。
「ありがとう!嬉しいわ、お母様の形見が戻ってくるなんて、本当にありがとう、魔韻さん。」
 魔韻は微笑みながら、はめてみたらどうです?と言った。稚芙美は小さく頷くと、その石を指にはめる。魔韻はいっそう微笑んだ。
「とてもお似合いですよ、お嬢ちゃん。とてもよく似合うから、一つ面白い話をしてあげましょう。・・・その吸血石の正体をね。」


「正体?」
 訝しんで、稚芙美は首を傾げる。そう、正体です、と言って魔韻は笑った。
「吸血鬼、吸血コウモリ、吸血と言う言葉は、文字通り、血を吸う、と言うことです。従ってこの吸血石も例外とは言えない。いや、こいつは、石ですらないんです。」


「えっ?」
 稚芙美の顔に怯えたような表情が走った。魔韻は逆に、更に楽しそうな表情になって言う。愛鈴は目を背けるように下を向いた。
「アフォーリア大陸に生息する数少ない虫、吸血虫、それがこの石の正体です。今朝になって漸くこいつのことが載った本を見つけだしましてね。・・・こいつは、まるで宝石の指輪のような形に擬態していて、何年かに一度目を覚まして、それをはめている人間の血液を吸い取ってしまうんです。そして自分は、より大きな結晶へと成長する、それが、何人もの命を奪ってきた呪われた宝石、「吸血石」の正体です。」


「そ、そんな・・・」
 言いながら稚芙美は、慌てて指輪を外した。そして言う。
「本当なんですか、魔韻さん、じゃあ、お母様は本当にこの石の所為で・・・」
 本当です、と魔韻は言った。
「どうです、お嬢ちゃん、それでもその石が欲しいですか?いらないと言うなら感情を貰うのを止めてあげても良いんですよ?」


 しかし、少女は首を横に振った。
「いいえ、例えこの石の正体が何であろうと、これがお母様の思い出の品であることに変わりありません。私は、貴方に思い出を盗み出して頂いたのです。」
「思い出・・・ねえ。」
 魔韻はそう言いながら、ソファーに沈み込んだ。その顔からは、いつの間にか微笑みが消えている。
「まあ良い、では、取引と行きましょうか。貴方は、どの感情を譲ってくれるんですか?」


「悲しみを。」
 稚芙美は即答した。
「これ以上、私に悲しみはいりません。」
 魔韻は興味無さ気に、そうですか、と言った。
「愛鈴。」
 はい、と言って愛鈴は稚芙美の正面に座った。
「稚芙美さん、目を閉じて下さい。」
 愛鈴の言葉に、稚芙美は言われるままに目を閉じた。
「呼吸を楽にして下さい、これから貴方の「悲しみ」を貰い受けます。」
 愛鈴は、稚芙美の額に手をかざすと、何やら中華語の呪文らしいものを呟き始めた。やがて、愛鈴の額に汗の玉が浮かび始める。それに伴って愛鈴の呪文は、激しい抑揚の波に揺れ始める。


 半ばトランス状態になった彼女が、甲高い悲鳴のような気合いを入れたとき、稚芙美の額が青く輝き、中から蒼い宝石が出てきた。
「悲しみは、やっぱりブルーか。」
 抑揚のない声で魔韻が言う。
「貴方の「悲しみ」確かに頂きました。」
 荒い息の中、ゆっくりと目を開けた稚芙美に愛鈴は言った。
「これでもう、どんな悲しみも、貴方に涙を流させることはないでしょう。」
 そう言った魔韻に何度もお礼を言いながら、吸血石を大事に抱えて稚芙美は家路についた。その後ろ姿を見送って、魔韻と愛鈴は、再び地下室へと戻る。


 机の上では、稚芙美の「悲しみ」が蒼い光を放っていた。魔韻はそっとそれを持ち上げる。
「思い出を、盗んで貰っただと?」
 愛鈴に背を向けたまま、魔韻はそう言った。心なしか、彼の肩が震えているのが愛鈴にも分かった。
「とんだお笑い種だとは思わないかい、愛鈴。この先どんなことがあっても彼女は、悲しいとさえ思えないんだ。やがてそれがどう言うことかも忘れてしまうんだ。思い出は楽しいことばかりではない、悲しみや憎しみからなる思い出だって有るんだ、ふん、どうせ死んだ母親のことだってじきに忘れてしまうんだよ。流した筈の涙の意味さえ忘れてね!」

「魔韻様・・・」

「悲しめないって言うのは、どんなにか辛い事だろう?僕は絶対に、この憎しみや悲しみを忘れたくはないね・・・僕にとっては、これが生きていくための総てなんだから。」
 そう言いながら、魔韻は、蒼い宝石を机の上に置くと、奥にある大きな鉄扉の中に消えた。後には、愛鈴がひとり残される。愛鈴は、稚芙美の「悲しみ」を手に取ると、魔韻の消えた扉の方を見て呟いた。


「魔韻様・・・でも、私には分かってしまうんです。貴方の愛が、優しさが悲鳴を上げ、涙を流しているのを・・・なのに、なのに私は・・・」
 愛鈴は、蒼い宝石をそっと自分の頬に押し当てた。蒼い色の所為か、そんな筈はないのに、肌に涼感が広がる。愛鈴は、もう一度扉の方に目を向けた。


「・・・果梨菜さん。貴方は分かっているの?魔韻様のお気持ちが、私が一体どうしたらいいのか。」
 それは、絶対に答えの返ってくることのない筈の質問だった。


吸血石・完


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