大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

回・舞踏病

 そこは、霧の海だった。木々の隙間から、ぼんやりと差し込んでくる光が無ければ、今が昼なのか夜なのかさえも判断がつきそうにない。しかし、私の能力を使って辿り着いた以上、ここが、今一番「私の行きたい所」である事には間違いが無い。
 私は、小さく息をついた。そして首を小さく振った後で歩き出した。
 どこかの山の中なのだろうか。道らしい道があるわけではない。先程から私が歩き続けているこの道も、人が通った形跡はまるで感じられず、獣道であるかどうかすらも疑わしかった。
 歩き続けるに連れて、薄ぼんやりとしていた光は、ますますその強さを朧気にしていき、肌に粘り付くような深い霧は、確実に私の体から体温を奪っていった。ぐっしょりと濡れた髪の毛から水適がこぼれ落ちて、私の頬を濡らす。
 本当にここに私が求めているものがあるのだろうか?沸き上がってくる疑問を抑えるように、私は歩みの速度を早めようとする。しかし、今まで道だったはずの足下は、もはや生い茂った木々に覆われてしまっていて地面すら見ることが出来ない。
 どこからか、獣の遠吠えが聞こえてくる。日はもうとっぷりと暮れている。私の目の前にあるのは、もはや霧ではなく、紫色をしたミルクのような闇だ。
 私は闇の中を泳ぐようにして、掻き分け掻き分け、前を目指す。霧の中から、突然に現れる木々が私の行く手を阻もうと、まるで人の手のようなその枝葉を伸ばす。
 どれくらい時間が過ぎたのだろうか?私の目の前の闇が、唐突にその濃度を薄くした。どうやら開けた場所に出たらしい。私の前方にくろぐろとした固まりが見えた。
 一体何だろう?
 私はその固まりに向かって重い足を引きずり歩く。何時の間にか、あれほど濃かった霧は晴れ始めており、微かな星明かりに混じって、月の力強い光が辺りを照らし出そうとしていた。今夜は満月だ。
 満月の月明かりは、私の目指していた物の正体もまた、暴き立てた。
 それは、大きな屋敷だった。このような深い山の中にあるには、少々不釣合いな欧州風の建物だ。どうやら人は住んでいるようで、大きな窓のあちこちには、明かりが灯っているのが見て取れた。
 私はゆっくりと屋敷の正門をくぐり、大きな扉へと近づいた。唐突に私を襲う、既視感。・・・私は昔、このような屋敷を訪れたことがあったような気がする。
 私は、恐る恐る屋敷の大扉に備え付けられた呼び鈴に手を掛けた。澄んだ音が響いて暫くした後、どなた?と言う透明な声と共に、扉が開かれて、中から美しい女性が姿を現した。
「どなたですか?」
 女性はもう一度そう言った。しかし私はその問いに答えることが出来なかった。
 私は見とれていた。
 黒くつやつやと輝く長い髪、欧州人形のような白く透明な肌、そして、何よりも印象的なのは、その瞳だった。髪の色は、漆黒と言って良いほど黒いというのに、丸く大きいその瞳だけは、金色に輝いて濡れたような光を放っていた。
 美しい。私は改めてそう思った。それは、彼女の顔立ちが、昔私が愛した女に似ていたからだけでは無かった。彼女の美しさは、何か、この世のものとは思えないような、そんな種類の美しさだった。
「あの・・・すいませんが、どなたでしょう?」
 何も言わずにただじっと彼女の顔を眺めている私に不審感を抱いたのだろう、彼女は不安そうに眉を顰めながらそう言った。私は、漸く口を開く。
「すみません、思わず見とれてしまって・・・、実は僕、この山道で道に迷ってしまった様なんです。迷惑だとは承知の上ですが、どうか一夜の宿を貸しては貰えないでしょうか」
 彼女は、まあ、と言って口元に手を当てた。
「それは大変でしたね。この山の霧は本当にたちが悪いのです。お濡れになったのではありませんか?大した屋敷ではございませんが、どうぞお入りください」
 にこやかに笑いながら、彼女は、私を屋敷に招き入れる。失礼します、と言いながら、私は屋敷へと足を踏み入れた。
「今、何か暖かいものをお作りしますわ。それまで、こちらでお待ちになって」
 彼女は,玄関から入ってすぐの応接ホールに私を導くと,そこのソファーに私を座らせた。そしてそのまま奥に消える。私は,その後姿を見送った後で,ソファーに沈み込みながらゆっくりと屋敷を観察する。
 外で見たよりも,中に入ってみると,より屋敷の荘厳さが伺えた。豪華なシャンデリアが頭の上でゆっくりと揺れている。・・・しかしこのような山奥にある屋敷を,一体彼女はどうやって管理しているのだろう?そんな疑問が私の頭をよぎった。
・・・彼女。そこで私は彼女からまだ名前を聞いていなかったことを思い出した。ふう,と小さく息をついて,私は,更に深くソファーに沈みこんだ。
 人影が見えた。赤い絨毯が敷かれた階段の上だ。それは小さな子供のようだった。坊ちゃん刈りにした少年。少年は,私の姿を目に留めると,逃げるように階段を駆け上がっていった。
 少年は,彼女と同じ金色の目をしていた。
 一体どう言う事だろう。彼女の兄弟か、もしかして子供か。しかし何故か私は、そんな事はどうでも良いと思った。ひどく胡乱な気持ちだった。私はソファーに体重を預けきったまま目を暝った。
 あの時からずっとそうだった。私が力を得たのと同時に、私の周りの世界は、ひどくよそよそしい物になってしまった。いや、もっと前からかも知れない。彼女を失ったことで私の世界は終わりを迎えたのかも知れない。
 しかも、私が彼女をこの世界から、最終的には消し去ることになったのだ。だが,何と言うことだろう。私はもはや,彼女の名前を思い出すことすら出来ないのだ。
 あれから・・・一体幾人の女たちを,私は自分のものにして,そして同時に失ってきたのだろう。
 私の問いに答えるものは居ない。世界は何時もよそよそしく,私の周りにただ存在しているだけなのだ。
 突然,私の肌に柔らかな感触が生まれた。ゆっくりと目を開けてみると,目の前には白く明るい闇が広がっていた。
「あ,起こしてしまいましたか?」
 彼女の声が聞こえた。手を顔の前に持っていくと,柔らかく,それでいて吸い付くような,タオルのものらしい感触がした。・・・どうやら濡れている私のために彼女が持ってきてくれたらしい。不思議な感触のタオルだ。柔らかく,それでいて強い。
「いいえ,ただ目を暝っていただけです」
 私はそう言って微笑んでみせた。
「お夕食の用意が出来ましたよ」
 彼女は私に微笑み返すと,ついてくるように言って,先頭に立って歩き始めた。柔らかい絨毯の感触を靴越しに感じながら,私は彼女の後ろにつき従う。一歩ごとに彼女の美しい黒髪が揺れる。その度に,形容し難い程良い匂いが,私の鼻孔を擽り去っていく。私の胸に,ぞろり,と音を立てて,黒い欲望が蠢くのが分かった。
 ・・・ああ,食べてしまいたい。
 私は,大きな長い机のある食堂へと案内された。見るからに美味しそうな料理が,皿の上で湯気を立てている。
 彼女は、私の隣の席に腰掛けると、テーブルの上に置いてあったワインの栓を抜いた。
「お飲みに・・・なりますよね?」
 私はゆっくりと頷いた。彼女は、艶やかに微笑みながらグラスにワインを注いだ。私は、小さく有難う、と礼を言った。
「どうぞお食べになって」
 彼女の声に後押しされながら、私は料理を口に運ぶ。野菜を煮込んだ欧州風のシチュー。野生のものらしい鳥肉を焙ったものと、フロランパン。
「これは美味しい・・・」
 私は思わず嘆息した。彼女は、良かった、と顔の前で手を合わせると微笑んだ。私も微笑み返しながら、グラスを傾けた。
「ほう・・・」
 ワインもとんでもないほど美味だった。私は良い気分になって、彼女に質問をする。
「あの・・・失礼ですがお名前は?」
「ああ、そう言えば自己紹介がまだでしたね」
 彼女は、そう言ってポン、と手を打った。丸い目が更に見開かれて、殆ど真円に近くなった。愛らしい。
「私は、鵜堂小町(うどうこまち)と申します」
「鵜堂・・・小町」
 変な名前でしょ?と言った彼女に、私は大袈裟な程首を振って、
「いいえ、素敵な名前だと思います」
 と言った。小町は嬉しそうに笑った。
「しかし・・・こんな山の中に何故、何人で生活しているのですか?」
 先程見かけた少年については、私は、敢えて伏せておいた。彼女は、悪戯っぽく笑うと、
「それは、きっと明日になれば分かりますわ」
 そう、お茶を濁した。
「それより、貴方のことも教えてくださるかしら」
 小町のその言葉で、彼女のことを知りたいばかりに、肝心な事を失念していた事に気がついた。私は、これは失礼しました、と言いながらテーブルの上に立っていたグラスを一つ掴むと、彼女の前に置いた。
 その中にワインを注ぎ込みながら、私は言った。
「僕は、鏑木史彦(かぶらぎふみひこ)と言います」

 次の日、私はひとりでに目が覚めた。見知らぬ天井が、私の目に映った。徐々に昨日の記憶が甦ってくる。決して豪華と迄は言えぬまでも、心のこもった、暖かな晩餐。小町の美しい笑顔。私はあの後、小町に案内されて、この寝室を提供されたのだった。
 柔らかな布団だ。昨日のタオルと同じような、肌に吸い付くような、柔らかで、それでいて強い繊維だ。昨日歩きどおしだった足がまだ少し熱く火照っている様な感触がする。
 私は、もう一度、何とはなしに天井を見上げた。白い天井の隅に何かが蠢いているのが見えた。じっと目を懲らしてみる。天井と同じ色をした網目模様が見えた。
 その上を一心不乱に移動しているのは、一匹の蜘蛛だった。赤い体に、黄色い縞が見て取れる。蜘蛛は、どうやら巣造りの真っ最中のようだった。
(朝蜘蛛は殺すのだったか、生かすのだったか。)
 私はぼんやりとそんなことを考えた。答えが判明したところで、特にどうこうしようと言うわけではないのだが。
 私が答えを出しかねているうちに、蜘蛛は天井の隙間に潜り込んで、姿を消してしまった。何もする事の無くなった私は、再び眠るべく、目を閉じた。が、丁度その時、ドアーを叩く音がした。私は寝呆け声をつくって返事をする。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
 小町の優しい声がした。そのままドアーを開けて、部屋の中に入ってくる。
「おはようございます、鏑木さん」
 にっこりと小町は微笑んだ。落ち着いた色調のロングスカアトを履いて、白いブラウスを身にまとっている。長い黒髪は、今日は後ろで一つに束ねられている。質素だが、気品のある服装だ。
「昨日は、良く眠れましたか?」
 カーテンを開け放ちながら、小町は言う。
「ええ、お陰様で、良く眠れました。・・・寝心地の良いお布団ですね」
 うふふ、と小町は口元に手をやった。
「お褒めにあずかり、光栄ですわ」
 私も何となくつられるようにして、笑った。
「朝ご飯の用意が出来ましたわ。もうみんな食堂に集まる頃ですよ」
「みんな?」
 ええ、と小町は何も答えずに笑った。そして手に抱えていた荷物を、私に手渡した。
「昨日のお洋服は、濡れていらしたので、誠に勝手ですが、洗濯させていただきました。・・・代わりと言っては何ですが、お洋服を用意させていただきました」
 気に行って頂けるとよろしいんですが、と言って小町は、はにかんだ笑顔をみせた。美しい。それも純真無垢な美しさだ。
 私は、ひどく恐縮した。
「泊めていただいた上に、わざわざ洗濯までしていただくなんて、どう感謝して良いのでしょう」
 小町はお気になさらないで、と言った。
 私は早速、与えられた衣服に袖を通した。予想していた通り、タオルやベッドと同じような肌触りが私を包み込んだ。
 クリーム色をしたワイシャツと、白いスラックス。私の為に仕立てられたかのように、ぴったりだ。
「とてもいいです、気に入りました」
 私がそう言って振り返ると、ベッドメイクをしていた小町は、その手を休めて、
「良かった・・・」
 手を胸の前で組んで、心底嬉しそうにそう言った。その仕草に私の胸は高鳴る。
 ・・・何だろう?久しく忘れていたようなこの感覚は。私は、さ、行きましょう、と言った彼女につき従って、食堂へと向かう廊下に出た。
 前を行く小町の、今日は一つに結ばれた黒髪が揺れている。ああ・・・私は多分今、優しい気持ちになっている。
 食堂に近づくに連れて、ざわざわと言う声が聞こえてきた。
「あの・・・」
 小町は、何も答えようとしなかった。
 食堂の大きな扉が開かれる。昨日見たのと同じ、長い机が見える。しかし、ただ一つ昨日と違っていることがあった。
 机の座席は、全て埋め尽くされていた。私が入ってくると同時に、こちらに向けられた、沢山の金色の眼。それらは、一様に、好寄の光を湛えている様に私には見えた。
 子供たちだ。大体みんな同じような年頃だろうか。男の子もいれば、女の子もいる。良く見てみると、昨日の夜に見た、坊ちゃん刈りの少年もいた。少年は、私のほうをちらちら見ながら、隣に座っているお下げの女の子と、何事かひそひそ話していた。
「みんな、静かにして」
 小町がそう言うと、子供たちのざわめきは、まるで波がひいていく様に消えていった。小町は満足そうに一回頷くと、私のほうを手で示した。
「みんな、この人は鏑木史彦さん。山で道に迷って、昨日、こちらにいらっしゃったのよ。・・・鏑木さん、一言挨拶してくださる?」
 急に振られて、私は慌てた。うつむきながら言葉にならない声を、ぼそぼそと一言二言私は漏らした。
 と、その時、私の左手に柔らかい感触が生まれた。小町が私を見て微笑む。私は、顔を上げて、前を向いた。
「鏑木史彦です、こちらの小町さんに助けられて、昨日一晩お世話になりました。どうぞ宜しく」
 小町はもう一度にっこりと笑って、私の手を離した。子供たちからは、まばらな拍手が起こる。私は、そのまま小町に案内されて、席に着いた。小町は、私の隣に腰掛ける。
「さあ、いただきましょう」
 小町の声と共に、子供たちは見事に揃った声で「いただきます」を言って食べ始めた。小町が魔法瓶から、熱いコーヒーを注いでくれた。机の上では、炒り卵と、焼いたベーコン、柔らかそうな丸パンが、私の食欲を刺激している。
 小町は、小さな口で、丸パンを噛っている。私は、炒り卵に箸をつけながら、小町に尋ねてみる。
「小町さん。そろそろ教えてくれても良いですよね。この子供たちは、一体貴方達は何故こんな山奥に住んでいるのですか?」
 小町は眼を閉じながらコーヒーに口をつけた。
「この子達は・・・私の子供です」
「え?」
 小町は少し遠くを見るような目をした。
「私達が、こんな山奥に住んでいるのは、それは・・・」
 小町は、急に私の方に顔を向けた。丸い金色の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。
「それは、私達が普通の人間ではないからです」
「ああ・・・」
 私は急速に理解した。小町達の持つ金色の瞳、それは十分に差別の対象となり得た。
 ・・・恐らく、小町は自分と同じような境遇にある子供たちを引き取って、この山の中で養っているのだ。
 だから、だから彼女は、この子達の「お母さん」なのであろう。
「こ、小町さんは・・・」
 ああ、私はこういう時、一体何を言ったら良いのであろう。
「・・・小町さんは、綺麗です」
 私は、一体何を言っているのであろう。小町は面食らったように、丸い瞳を更に見開くと、ぱちぱちと瞬きをした。そして、突然、ぷっと吹き出した。
「うふふ、有難う、鏑木さん」
 私は多分、耳まで真っ赤になりながら、コーヒーに口をつけた。・・・何だろう、小町と一緒に居ることで私は、忘れかけていた筈の元の私になってしまうような錯覚に陥る。
「今日も外はひどい霧です」
 唐突に、小町は言った。
「今日みたいな天気では、外に出ても、また道に迷うのが、関の山ですわ」
「・・・」
 小町は、例の胸の前で手を組む動作をしながら、私に向き直る。
「ですから、鏑木さん、暫くここに逗留なさって。・・・この季節は、こんな日ばかりなんです」
 それは、願ってもない申し出だった。私は、一応遠慮してみる。
「しかし・・・よろしいのですか?」
 小町は、ええ、と言いながら、目を細めて笑った。
「子供たちも、外から来た人が居ると、喜びますから」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 私がそう言うと、小町は、大袈裟なくらい喜んだ。そして小町は、食べ終えた皿を重ねると、多分洗い物をするために、席を立った。そして、私の後ろを通り抜けざまに、小さく呟いた。
「・・・私、鏑木さんのこと好きです」
 驚いた私が振り返ったときには、既にそこには小町の姿はない。
 私は・・・ひどく困惑した。

 歳若い子供と一緒になって遊ぶことは、思っていた以上に体に堪えた。十数年ぶりに鬼ごっこなどをやった私は、さすがに足腰にきて、子供達に断った後で部屋の隅の方にへたり込む。
 子供達は元気なもので、私が抜けた後でも、飽きる事無くかけずり回っている。漸く私の息が整った頃、不意に、小さな影が私にさしかかった。上を見上げると、坊ちゃん刈りの少年と、お下げの少女が、私のことを見下ろしている。
 確か少年のほうは、多楽(たらく)、少女のほうは、由良(ゆら)と言う名前だった筈だ。
「どうしたんだい?」
「隣に・・・座っても良い?」
 多楽は、私の問いには答えずに、そう言った。ああいいよ、と言って私は,座ったまま少し横にずれてやる。多楽は勢い良く,由良はお淑やかに腰を降ろした。
 そのまま,なんとなく沈黙が訪れる。
「あのさ・・・」
 暫くした後で,漸く多楽が口を開いた。私は,顔の動きだけで先を促した。
「母さんのこと・・・どう思う?」
「えっ・・・?」
「母さん・・・鵜堂小町の事をどう思うかって聞いてるの!」
 戸惑う私に向かって、こまっしゃくれた口調で由良が言う。
「好きなの?嫌いなの?」
 少女は、多分耳まで赤くなっているであろう私に向かって、尚も詰問する様に顔を突き出した。
「そ、それを知ってどうしようって言ってるんだい」
 私は、吃りながらもどうにかそう切り返した。いや、そう言われても別に・・・、と言いかけた多楽を押しのけて、由良が、なおもずいっ、と顔を突き出す。
「決まってるじゃない。私が伝えてあげるよ、母さんに」
 大きな丸い金色の瞳、黒くつやつやと輝く髪・・・その所為だろうか?由良は、随分と小町に似ている。
 私は、ひどく不安定な気分のまま口ごもった。その事は私自身にも分からないのだ。私は、確かに小町の事が好きなのかも知れない。しかし、私にとっての「好き」と言う感情は、既に壊れてしまっている。
 私は、愛した相手を食べてしまうことでしか、その愛を感じることが出来ないのだ。
 いや、それは只の独りよがりなのかも知れない。何故なら、私は、愛を手に入れると同時に、愛するべき筈の相手を失ってしまうのだから。
 しかし、私が小町に抱いている感情は、今まで幾人もの女達に抱いてきた感情とは、別物のようだった。
 何時からだろう。あれは、誰だったのだろう。
 狂おしい程、人に愛情を注ぐこと。
 そして見返りに何も得られないこと。
 一方通行の愛情、それに疲れたとき、私は今のような「愛し方」を見つけたのだったか。
 名前も思い出せない、”彼女”に。
「・・・好きか嫌いかは、分からない」
 私は、漸くそう言った。由良と多楽は、金色の瞳を、どう言う事?とばかりに大きく見開いた。
「ただ、僕にとって、特別な人である事は間違いが無い」
「鏑木さんって、変わっているね」
 続けて言った私の言葉を聞いて、多楽が不思議そうに、しかし、なぜか納得した様に言った。
「でも、思っていたより良い人だね」
「・・・それは、どうも」
 あはは、と、由良が笑った。
「鏑木さん。・・・母さんは、求めているんだ。誰かを。必要としているんだ。愛する人を」
「あの人を失ってからね」
 多楽の言葉の後に由良が続けた。あの人?と、鏑木は訪ねる。
「そう、私達の父さんになる筈だった人」
 何故か微笑みながら、由良は言った。
 ああ・・・と、私は溜め息を漏らす。何故彼女がこの屋敷を維持していられるのかが漸く分かった気がした。きっと、もともとはその男と一緒に、子供たちの世話をしていく予定だったのだろう。・・・しかし、何らかの理由で、それが不可能になった。恐らく、死んでしまったのだろう。そして、小町には、財産と子供たちだけが残されたのだ。
 私は、一応訪ねてみた。
「その死んだ父さんって言うのは、君達のような瞳の色をしていたの?」
 まさか、と、子供たちは笑った。
「そんな筈無いじゃない、だって、普通の人間だったんだもの」
 やはりそうか。
 私は、果たして小町に何をしてやれるのか、ただ、それだけを考えていた様に思う。

 その夜、私の部屋に小町がやってきた。彼女は、白い欧州風の寝間着を身につけていた。
「良かった・・・起きていらして」
 後ろ手に扉を閉めながら、小町はそう言ってはにかんだ。どうしたんです、一体、と私が言うと、小町は、
「そちらに・・・座って良いですか?」
 そう言った。ベッドに座っていた私は頷くと、小町のために、場所を開けた。小町は、ゆっくりと私の隣に腰を降ろした。洗い髪の柔らかな匂いが私を包み込む。
「多楽と由良が・・・失礼なことをおっしゃったみたいですね」
 唐突に、小町は言った。
「え・・・?」
「その、私の事を鏑木さんがどう考えているかとか・・・」
 ああ・・・。私は赤面する。どうやら多楽と由良は、本当に小町に伝えたらしい。
「その、あの・・・」
 私はしどろもどろになる。まともに小町の顔を見ることが出来ない。
「嬉しかったです」
 小町の声に驚いて私は、思わず顔を上げた。小町の頬が赤く染まっている。
 彼女は、不意に立ち上がった。くるり、と私の方に向き直る。
「ね、鏑木さん、踊りましょう」
「え・・・しかし私は踊りは・・・」
 いいからいいから、と言いながら、小町は部屋の隅に置いてあった、蓄音機のほうに歩み寄った。その下の戸棚から、レコードを取り出すと、それを蓄音機にセットする。
 〜〜〜いるあるでるおこーる、いるあるでぃあぶるおこーる〜〜〜
 聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきた。シャルル・モッテンバーニの、「鈴の音は魔の調べ」だ。
 戻ってきた小町は、私の手を取った。ぎこちない二人のダンスが始まる。小柄な小町は、私を見上げるようにして、私は、小町の金色の瞳に見入られたように、それぞれお互いの顔を見つめながらの、小さな舞踏会。
 やがて曲が終わると、息をきらしながら小町は言った。
「鏑木さん。私、貴方の子供を生んでも良いですか?」
 金色の瞳が、私を捕らえて離さない。
 何も考えられない。
 私は、多分頷いた。
「嬉しい!」
 小町の腕が、私の首に絡み付く。
 蓄音機にはオートチェンジャーがついていたらしく、次の曲が始まった。
 それと同時に、私の唇は、小町のそれでふさがれた。
 やがてゆっくりと、小町の舌が、私の口内に侵入してくる。私もそれに答えるかのように舌を絡める。シャンソンは、そのテンポを加速させた。
 やがてゆっくりと、小町の唇は、私の口から、首のほうへと這っていく。肩の近くまできた辺りで、小町は、私の肌に噛みついた。痛くはない、むしろ、甘く痺れるような感触だ。
 目の前で光が明滅する。
 見つめているはずの小町の顔に、私が今まで食べてきた、様々な女達の顔が重なり、すぐに消えた。
 シャンソンのテンポは、ますます加速してゆく。
 私の肌から口を離した小町は、今まで見せた事の無い、妖艶な微笑みを見せた。
 私の体は、一回びくっと痙攣した。
 そして勝手に踊り出す。小町はそんな私の腕の中に身を委ねた。
 私のステップに伴って、世界もぐるぐると回転する。私は、熱に浮かされたように踊り続ける。それはまるで何かの病のようだ。
 何時しか私と小町は互いに一糸纏わぬ状態になっていた。
「ああ、鏑木さん、鏑木さん」
 小町は私の肩に腕を回し、熱い頬を私のそれに擦り寄せながら譫言のように何度も私の名前を呼んだ。
「私、貴方が必要なんです」
 最早シャンソンの音は聞き取れず、私達の周りをぐるぐると回っているのは音の渦だった。肌と肌とを絡めあいながら、私達は永遠とも思われるような時間を踊り続けた。何時しか頭の中が真っ白になるまで。

 気がつくと次の朝だった。寝心地の良いベッドに一人で寝ている自分に、私は漸く気がついた。隣を見ても小町の姿はない。
 私はぼんやりと天井を見つめながら、昨日の出来事を反芻してみた。
 ・・・あれは本当にあったことなのだろうか?
白い天井では、赤い体に、黄色い縞のある例の蜘蛛が、夜のうちに巣にかかったらしい茶色い大きな蛾を、貪り食っているのが見えた。
 私は、ゆっくりと寝返りをうった。一体どう言うことだろう。あれ以来、そう、あれ以来私の愛という感情は壊れてしまったのではなかったろうか?私の快楽は、愛した相手を食べることによってのみ満たされるのではなかったのだろうか。
 ・・・しかし、確かに私は昨日、この腕で小町を抱いた。えもいわれぬ快感と共に。
 私はもう一度寝返りをうった。壁の隙間に戻ってしまったのだろうか、天井の蜘蛛はもういない。そのまま目を閉じて物思いに耽っていると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
「はい?どうぞ」
「・・・おはようございます」
 頬を少しだけ朱に染めながら、小町が部屋に入ってきた。
「おはようございます、小町さん」
 私がそう言うと、小町はもう一度挨拶を繰り返した。
「きょ、今日は良いお天気ですわ」
 小町は私に背を向けるようにしてカーテンを開きながらそう言った。何となく訪れる沈黙。
『あの。』
 二人の声がハモった。途端、緊張の糸はぷつりと切れて、私と小町は笑い出す。
「ご、御免なさい」
 両手でお腹を押さえながら、小町は笑っている。今日は髪の毛は縛らずに背中を覆っている。若草色の大人しいドレスを着ていた。
「鏑木さん、あの、私、昨日、その、はしたないことをしてしまったようで、その・・・」 小町は頬を真っ赤に染めてどもりながらそう言う。私は彼女の話を遮った。
「今日は、ほんとにいい天気ですね」
 はい?と小町は不思議そうな顔をした。
「こんないい天気ですが、僕はこのお屋敷にいても良いですかね?」
 小町の顔がぱっと輝いた。
「は、はい!もちろんです、だって私には、貴方が必要なんですもの・・・」
 その言葉はまるで魔法だった。小町と一緒にいることで、私は逃れられないかに思えていた、呪縛から解き放たれようとしているようだった。
 そう、やはり私の得た力は、私が一番行きたいところに、私が一番求めているものの所に誘ってくれるのだ。
「さ、朝御飯にしましょう」
 私はそう言いながら小町の肩を抱いた。

 私達はそれから毎晩のように、熱に浮かされたような踊りに身をまかせて、お互いの体を求めあった。
 当然のように、小町は妊娠した。そうなってからは、私は彼女の体に気遣いながら、子供達の世話も手伝うようになった。幸いにも、子供達も私に良くなついてくれた。
 ある日、多楽が私にこう言った。
「俺さ、鏑木さんのこと好きだよ」
 私は、照れたように笑う。
「おいおい、何を今更改まってるんだよ」
 多楽は、うん、と言ったまま下を向いた。代わりに由良が私に向かって、金色の瞳を向ける。
「多楽はさ、鏑木さんと別れたくないのよ」
 へ?と、私は首を傾げた。
「何言ってるんだい、僕は何処にも行かないよ」
 二人は、うん、と言ったまま黙ってしまった。私はその沈黙の意味が理解できずにただ笑っていたのだが、やがて、私自身もその意味に気づくときが来る。
 小町は臨月を迎えていた。
 身重の彼女のことを気遣って、屋敷内の管理は、殆ど私がやるようになっていた。幸いにも、多楽や由良や他の子供達が私を手伝ってくれたので、それほど苦にはならずに済んだ。
 そんなある日の夜遅く、小町は私の部屋を訪れた。
「御免なさい、史彦さん、こんな夜遅くに」
 彼女は、後れ毛を掻き上げながらそう言った。最近の小町は少し痩せたようで、心なしか元気がない。元々が色白なだけに、少し血色が悪いだけで顔色が青白く見えてくるので、私は気が気でない。
「どうしたんですか?小町さん」
 私は彼女を支えるようにして、ゆっくりとベッドまで誘う。
 彼女は暫くの間何も言わずに、膝の上で組んだ自分の手をじっと眺めていた。私も何も言わずに、じっと彼女の横顔を眺めていた。
「史彦さん、あの、御免なさい、私嘘をついていたんです」
 小町は漸く口を開くとそう言った。 
「嘘?」
「はい、嘘です」
 小町はそう言いながら、組んだ両手にぎゅっと力を入れた。そして私の方に顔を向けると、思い切ったように言い放った。
「私・・・私、人間じゃないんです」
「人間じゃない?」
 虚を突かれた私は、鸚鵡返しにそう聞き返すのが精一杯だった。
「私は・・・私は、本当は蜘蛛の化身なんです」
「蜘蛛・・・?」
 小町は、再びゆっくりと下を向いた。
「御免なさい、ずっと黙っていて」
 私は、ゆっくりと小町の肩を抱いた。そして、そっと頬に口づけをする。そのまま彼女の耳に向かって囁いた。
「構いません。貴方が僕を必要としてくれている限り、僕は貴方のことが大好きです。・・・たとえ貴方が何であろうとも」
 小町の大きな金色の目が見開かれる。その目からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
 私はそのまま彼女の細い体をぎゅっと抱きしめる。
 私は、漸く思い出した。
 この屋敷によく似た屋敷での出来事を、そして一人の女の名前を。
 綾ちゃん・・・榊原綾女だ。
 私が一方的に愛情を注ぎ、そして、私が食べることによって自分の愛情を表現する契機となった女性の名前だ。
 そうだったのだ。私が求めていたものは、こちらからの一方通行の愛情、即ち私自身が相手を欲することではなかったのだ。私が求めていたのは、相手からの愛情、自分のことを必要だと感じてくれる相手だったのだ。
 それに気づかなかった私は、ゆがんだ愛の幻影に囚われていたのだろう。
 私は小町の美しい黒髪を撫でた。
「小町さん、貴方が必要としてくれるなら、僕はなんだってするつもりです。・・・その覚悟は出来ています」
 そして口づけを交わす。
「史彦さん・・・」
 小町はまだ濡れている瞳で私の方を見る。
「私、貴方を・・・」
 私は黙って小町の口を私の肩口の辺りに誘ってやる。少し躊躇した後で、小町は私の肩に噛みついた。そして小町は呟く。
「御免なさい、史彦さん」
 甘く痺れるようないつもの感触が私を襲う。しかしその後には、いつものような高揚感ではなく、けだるい眠気と体の痺れが私を優しく包み込もうとする。
 小町の声がすごく遠くに聞こえた。
「御免なさい、史彦さん。私達、蜘蛛の化身は、子供を産む前に自分の夫を食べて出産の体力をつけなければいけないんです」
 私は、不自由な顔の筋肉をどうにか動かして、微笑んでみせる。それがきちんと微笑みの形をなしたかどうかは、私には分からなかったが。
 私はゆっくりとベッドに倒れ込んだ。私の身に纏った洋服が、寝心地の良いベッドの布団が、まるで蜘蛛の糸のように、・・・いや、これは蜘蛛の糸なのだろう・・・私の体を絡め取っていく。 
 もう小町の声も聞こえない。しかし、私は彼女の唇が、確かに「愛してる」と言う言葉を紡ぎ出すのが見えた。小町の涙が、私の頬の上に落ちる、しかし私にはもうその感触を感じることが出来ない。
 全てこれで良かったのだ。私に訪れたのは贖罪と救済だ。愛してしまった相手を食べることでしか、自分の愛情を満たすことの出来なかった自分自身。相手から必要とされることをずっと求め続けていた、鏑木史彦という男は、今、こうして始めて、愛した人に必要とされ、その役目を果たそうとしているのだ。
 それも自分が今までやってきた行動と同じ事、自分の体を食べられると言う方法で。
 私はそっと感謝する。自分の「今一番行きたいところに連れていってくれる」この能力に。
 そして私はぼんやりとした頭で小町のことを考える。私はこうして救われていくが、小町は、一体誰が救ってやれるのだろう。彼女は、常に愛した人を失ってしまうと言うことが運命づけられているのだ。・・・相手を食べてしまうと言うことで。
 しかし、閉じゆく意識は、私にそれ以上の思考を行わせてはくれないようだった。サアアア、とラジオのノイズのような耳鳴りが聞こえる。
 私の瞼は酷く重たく、まるで鉛のようだ。それがゆっくりと閉じゆく中、私は最後に、天井に揺れる白い網目模様を見た。 


舞踏病・完


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