大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
第八回・鈴の音は魔の調べ
3
楽屋はざわざわと落ち着かない空気が充満していた。シャルル・モッテンバーニは、ソファーの上に横になって、目の上に濡れタオルを乗せている。その横では、心配そうな顔をした、背の高い男性が、興奮気味の彼女をなだめていた。
先程出会った支配人の神崎も、この部屋の中にいて、椅子に腰を降ろしている。その他には、先程ステエジに上がって演奏していたバックバンドや、銀縁の眼鏡を掛けた通訳らしい女性の姿等が見える。
シャルルの看病をしていた、長身の男は、迷流達が部屋に入ってきたのに気づいてゆっくりと歩み寄ってきた。
『こんにちわ』
『こんにちわ。この度は大変でしたね』
フロラン語で投げかけられた挨拶に、迷流が答える。男性や、慌てて駆けつけようとした通訳のみならず、美鈴を除くその場にいた全員が驚いて目を剥いた。
「た、探偵さん、フロラン語なんて話せたんですか?」
「うん、まあね、私もだてに欧州かぶれをしているわけじゃないもので」
静音の言葉に、迷流は涼しい顔をして答えた。
男性は、シャルル・モッテンバーニのプロデューサーをしているフィリップです、と自分のことを紹介した。彼の頭髪を見て、美鈴が思わず声を上げる。
「綺麗な白髪の事ね!」
「美鈴ちゃん、この場合は銀髪って言うんじゃないかな?」
静音がそう訂正する。実際フィリップはサラサラとした美しい銀髪をしていた。いや、髪の毛だけではなく、その顔立ちも目元涼しく、美しい。
「ええ、失礼、一応不在証明などの調査をしようと思うのだが、よろしいかな?」
中山警部が一歩乗り出して、通訳の女性に向かって確認を取る。女性は、フロラン語でフィリップに確認を取り、フィリップは大きく頷いた。
「よろしいそうです、ただ・・・シャルル様が大分ナーバスになっておられるため、あまり刺激しないようになさって下さい、とのことです」
「了解したぜ」
言いながら、中山警部は先頭に立って部屋の中へと歩を進める。
「さてと、取り敢えず自己紹介から始めようかな、私は東都大警察の殺人課の警部の、中山義之輔、そちらにいるウエイターみたいな格好をしたのが、東都に名だたる名探偵の迷流藍花君だ」
迷流は気取った仕草でお辞儀をした。
「私は美鈴ね!」
「あ、丹沢静音と申します」
迷流につられるように美鈴と静音もお辞儀をする。
「で、あの二人が私の部下の里中と佐藤」
巡査二人はあっさりと紹介された。里中はハンチングを手に持ってお辞儀を、佐藤は黙って小さく会釈した。眼鏡を掛けた通訳はゆっくりと頷くと、フロラン語で、フィリップ達に同じ事を告げた。そしてさらに言う。
「ええと、ではこちらの番ですね。私は通訳を務めさせていただく、三上と申します。こちらが先程紹介なされたフィリップさん。シャルル・モッテンバーニさんのプロデューサにして、言ってよろしいんですよね?婚約者でいらっしゃいます」
「ほう!」
迷流達は目を剥いて驚いた。何とも美男美女のカップルである。フィリップは少し照れたように頭を掻いた。三上は、その後も、シャルルのバックバンドや、大道具や照明係について、一人一人紹介していった。
その後、アリバイについて聞き込みを行ったのだが、シャルルのバックバンドやシャルル本人は、犯行時間にはステエジの上にいた訳だし、フィリップや三上は、舞台袖でシャルルのステエジを見守っていた。神崎は支配人席で部下と共にステエジを鑑賞していたし、大道具係や照明係も、相互にアリバイを証明しあっていた。
中山警部は首を捻ると言った。
「じゃあ、やっぱり自殺か・・・」
「ところがそうも行かないんです」
三上はそう言いながら、フィリップから手渡された紙切れを中山警部に見せた。
「何だね、それは」
「脅迫状です。今日の公演の前に届いた物です」
三上は、銀縁の眼鏡を持ち上げながら、真剣な表情でそう言った。
「なっ!」
驚きの声を上げて、中山警部が三上の手からそれをひったくる。しかしそれはフロラン語で書かれていた。どれどれ、と言いながら、迷流が警部の後ろから脅迫状を覗き込む。
「えーと、何々『お前は人殺しだ。ドナのことを忘れたわけではないな?俺は絶対にこの恨みを忘れない、スチュアート』・・・だそうです」
「このスチュアートって言うのは?」
中山警部がそう言った時だった。奥のソファーに寝ていたシャルル・モッテンバーニがふらふらと起きあがって、譫言のように呟く。
『私が彼を殺したのよ。私は、人殺しなの』
「おい、迷流君、一体彼女はなんて言っているんだ?」
しかし迷流は中山警部の問いに答えずに、驚愕の表情でシャルルの方を向いたまま、
「・・・ちりんこさん」
振り絞るようにそう呟いた。
・
私の名前はシャルロット。私を「私」であると証明できるのはその名前だけ。私が何処で生まれたのか、父さんや母さんは誰なのか、その記憶は失われてしまっている。
私にある一番幼い記憶、それは、深い森。どう言うわけか、私は一人でその森に迷い込んでいる。私は、多分泣きそうになっている、声を枯らして、父さんや母さんの名前を呼んでいる。今はもう思い出すことの出来ないその名前を。
森には何時しか夜の帳が降りて、剥き出しになっている私の腕や足が寒さを訴える。誰が刈ったとも知れない切り株に腰を降ろして、私は泣いた。
その時、がさがさという音がした。そして、こんな森には場違いな、涼しげな鈴の音。私は、泣くのを止めて、息を潜めたまま、音のした方を食い入るように見つめる。
真っ黒な男の人が現れた。袖の長い黒い服で全身を覆い隠している。大きな黒い鳥撃ち帽を被って、背中には黒い大きな袋を背負っている。顔は、逆光の所為か、それともモジャモジャと伸びた黒い髭の所為か、よく分からない。しかし男は私の姿を見て笑ったようだった。真っ黒な体の中で、白い歯だけが鮮烈に輝く。
男は、素早く私に飛びかかると、私を後ろから羽交い締めにして、何か苦い液体を、私に無理矢理飲ませた。私は抵抗しようとしたが、体が言う事を聞かなかった。やがて、私の体はゆっくりと痺れ始めた。
男はもう一度白い歯を見せると、私を抱え上げて、手にしていた黒い袋の中に、私を放り込んだ。薄れゆく意識の中、チリン、と言う鈴の音が聞こえた。
(中略)
轟々と言う吹雪の音が聞こえる。そしてガタゴトという電車の音。私は、ぼんやりとした意識の中、その音だけをはっきりと聞いていた。
私の目の前には男の人が座っている。例の黒い男の人ではない、別の男の人だ。男は、所謂「人買い」だった。しかし私は、多分飲まされ続けた薬の所為で、特に逃げようとかそんな考えを抱くこともなく、大人しく席に座っていた。
目の前に座っている男の人は終始上機嫌で、しきりに私に向かって何事か話しかけていた。私ではない私が、彼に向かって言葉を返している。男の人は、それで余計に機嫌を良くしたらしく、声を上げて笑った。
列車は何日も走り続けた。日が経つに連れ、吹雪はどんどん激しくなっていた。ここは何処なのだろう、そんな当たり前の疑問すら、私の意識のステエジに登ることはなかった。
そんなある日のことだった、突然、物凄い音と共に、世界が横倒しになった。いや、横倒しになったのは列車だった。私は多分、そのまま気を失った。
次に意識を取り戻したとき、私の耳は、やはり轟々と言う風の音をとらえた。先程まで私を連れていた男の人が、座席の下敷きになっているのを、私はぼんやりと眺めた。焦点の定まらない目で良く周りを見てみると、あちこちで人が倒れているのが分かる。風の音の所為で今まで気がつかなかったが、苦しそうなうめき声も、其処此処からあがっている。
痛む体を漸く起こすと、私はもぞもぞと、列車の外に這い出た。冷たい風と雪の粒が、激しく私の体にぶつかってくる。列車の中にいた方が助かる確率は高かったのだろう、しかし私は、どう言うわけかそうして外に出ていた。もしかすると、私は死にたかったのかも知れない。
轟々と吹きすさぶ風。それは少しずつ私の意識をはっきりとさせていく。男達の手によって弄ばれる人形のような私。懐かしい故郷の記憶は頭に蘇らずに、忌まわしい記憶だけが次々と思い出される。
何時しか、私は雪原にどさり、と音を立てて倒れた。ちっぽけな私は、そのまま雪の中に消えていってしまうはずだった。現実感のないまま、夢の中の出来事のように。
・
次に私が目覚めたとき、目の前には、優しい顔で微笑む男の人がいた。
「あ・・・?」
私が声を上げると、男の人は、おお、と喜びの声を上げた。
「こ・・・こは?」
私がそう言うと、男の人は、
「ここは山の中の小さな修道院です、私はここの神父です。雪の中に倒れていた貴方を発見して、ここに連れてきたんですよ」
「そう・・・」
私は、少しがっかりとした口調で言った。
「どうしました?」
神父様は、心配そうな表情で、私の顔を覗き込んだ。私は小さく呟く。
「・・・私、死んでも良かったのに」
「その様なことを言うものではありません」
神父様は、強い口調になってそう言った。
「この世に生まれてきたからには、必ず生きている意味があるはずです。そう簡単に死ぬなどと口にする物ではありません」
私の目から、私も知らないうちに、涙が流れ落ちた。涙を流すのは、随分久しぶりな様な気がした。神父様は驚いた顔をして、どうしたのですか?と言った。私は声を上げて泣きながら、神父様の胸にしがみついた。
私はその日から、小さな修道院で、薬の禁断症状と闘いながら、少しづつ人間らしい生活を取り戻していった。
修道院は本当に小さく、以前雪崩の被害にあったときに、住居部分の大部分を押し流されてしまったと言うことで、子供達の大部分は、礼拝堂で寝起きをしていた。私は数少ない部屋をあてがってもらい、治療に専念した。
神父様はとても優しく、私は、彼に歌を教えてもらうことがとても楽しみだった。歌っていると、気分が晴れやかになるような気がした。私の精神は少しずつ回復し、やがて他の子供達と同じ様な生活を送ることが出来るようになった。
しかし、そんな矢先に事件は起こった。
やはりある吹雪の日だった。発生した雪崩によって、残された住居部分も、押し流されてしまい、私達は聖堂にみんなで避難していた。
寒さに震える私達を見回して、神父様は、一言こういった。
「皆さん、歌いましょう」
そしてパイプオルガンを弾き始めた。
「主は必ず私達を救ってくれます、さあ、歌いましょう!」
それから私達は、何曲もの聖歌を歌った。歌うにつれて、体が温まっていくのが分かった。自然と体も動いてくる。神父様は、微笑んで、即興でパイプオルガンを弾くと、少しポップなアレンジで次の曲に続けた。
私達が歌うのに併せて、神父様が掛け合いを入れる。曲も佳境にさしかかって、私が思わずソロでハイトーンのアレンジを決めたとき、唐突にそれは起こった。
ガシャーン、と言う大きな音。降り注いでくるステンドグラスの欠片。硝子の割れた窓からは、容赦なく冷たい風が雪と共に吹き込んでくる。
あちこちから悲鳴が上がった。
(中略)
轟々と風の音が聞こえる。いや、音だけではなく、風そのものが、壊れた修道院の窓から雪と共に激しく吹き込んでは、私達の体から体温を奪い去っていく。
神父様は、私を抱きしめる手にさらに力を込めた。
「お前の所為だぞ」
私の隣で寒さに体を震わせながら少年が言った。少年は美しい金色の髪の毛をしている。その腕には妹だというやはり金髪の美しい少女を抱きかかえていた。しかし、少女は青白い唇を微かに震わせるだけで、殆ど生気が感じられなかった。
「お前が、お前さえ来なければ」
少年はもう一度そう言った。恨みのこもった、地を這うような低い声は、しかし、やはり寒さの所為で小さく震えている。周りの沢山の子供達の視線も私に集中する。何も言わないが、彼らも少年と同じ意見であると言うことが、こちらに向けられた敵意ある視線から容易に伺い知れる。
「お止めなさい、スチュアート」
私をかき抱きながら神父様は言った。
「これは神が我々に与えたもうた試練なのです。それにシャルロットを責めるのはお止しなさい、彼女は今まで辛い試練に耐えてきたのです、どうしてその彼女に優しい言葉をかけてやることが出来ないのですか?」
スチュアートと呼ばれた少年は、黙りこくると下を向いた。神父様は、そんな彼に、今度は優しい口調で話しかける。
「ドナなら大丈夫です。彼女のような優しい子を、こんなに早く天に召すようなことは、我らが主は、決してなさらないでしょう」
「そうだよ、スチュアート」
澄んだ声が響いた。声の主は黒髪の少年。この孤児院の子供達のリーダーを勤めているらしい、この少年は、確かヨハネスと言った。
「分かったよ・・・」
スチュアートは渋々とそう言いながらドナを抱きしめる手に力を込める。神父様は、二人の少年を交互に見た後で、深く頷いた。
「さあ、皆さん。もう一度歌いましょう、歌うことによって、我らの願いは主に届くでしょうし、何より歌うことで体が温まります」
神父様はそう言うと、率先して歌い始めた。恐る恐る、私もそれに従った。やがて歌声が、そこここからあがり始め、そのハーモニーは、破れた修道院の窓から、灰色の空に向かって流れていった。
・
神父様のおっしゃっていることは、基本的には正しかったようで、翌朝には、吹雪は止み、私達は救助に来たという人々によって、助けられた。
しかし、ドナは朝を待たずに、スチュアートの腕の中で冷たくなってしまっていた。彼は、何も言わずに、ただはらはらと涙を流し続けていた。
私は、神父様の紹介で、フロランで音楽家をしているという一家にお世話になることになった。
そこから私の人生は始まった。自らの犯した罪に怯え、自らの過去に怯えながらも、贖罪のために歌い続けていく日々が。
・
長い長い”ノベリング”を終えて、迷流はぐったりとソファーに身を沈めた。
「それで・・・結局どう言う事なんだい?」
恐る恐る、と言った体で、中山警部が尋ねた。
「取り敢えず、死体が何故ガラスの板の上に乗っていたかが分かった、と言うことですね」
半目のまま、迷流はゆっくりと起きあがる。
「そして、何故シャルルさんが、自分が殺した、と言ったのかもね」
そこで迷流はフロラン語でシャルルに向かって話しかけた。慌てて三上が、他の人に通訳する。
『シャルルさん、貴方のハイトーンの声には、特定の組成の硝子、即ち色硝子を壊してしまう力がありますね?』
シャルルは、ゆっくりと頷くと言った。
『恐らく・・・そうなのでしょう』
迷流もゆっくりと頷くと、中山警部達の方に向き直った。
「警部、あの色硝子は、シャルルさんの「鈴の音は魔の調べ」のハイトーンのリフレインによって割れたのです。シャルルさんのハイトーンの声には、その共振によって、色硝子を壊してしまう力があったのです。私が最初に奇妙に感じたのは、私達の飲んでいたジュースの瓶の色硝子が割れていたからです」
「それで、あのとき持ってこなかったのか・・・」
中山警部は呆然と呟いた。そうです、と迷流は頷いてみせる。
「時限装置など無かった。シャルルさんの歌が時限装置の役割をしていたのですから。ですから皆さんのアリバイも、当然意味を持たなくなります。しかし、シャルルさんは犯人ではありません。”ノベリング”してみて僕は分かりましたし、それに事件の後のシャルルさんの驚き方も演技ではありませんでした。そして・・・脅迫状です」
そうか!と中山警部が叫んだ。
「脅迫状の送り主、と言うのは迷流君のノベリングにでてきた、妹を亡くしたスチュアート、と言う男だったね?死んだマネエジャーのリベイラこそが、そのスチュアートだったんじゃないのかね、迷流君!コンサアト中に自殺、それも、シャルルさんの能力を使って自殺することによって、彼女に精神的なダメージを与えるために。確かスチュアートという男も、リベイラと同じく金髪だったのだろう?」
「ところが、そうは問屋が降ろさないんだよね」
唐突に後ろから声がした。驚いて中山警部が振り返ると、吉崎医師がいつの間にか、戸口の辺りに立っているのが見えた。迷流は、さして驚いた風でもなく、医師に次の言葉を促した。医師は満足そうに頷く。
「さっき、探偵さんに聞かれて言いそびれていたんだけど、死んだリベイラには、もう一つ不審な点があったんだよね。・・・それは、髪の毛。彼はどうやら、黒い髪を金髪に染めていたみたいなんだよね」
何い、と中山警部は頭を抱える。迷流は、落ち着いた表情のまま、深く頷いた。ありがとう、医師せんせい、と言って、再びシャルルに向き直る。三上も素早く身構えた。
『さて、シャルルさん。今日のこのコンサアトにおける、楽曲の配置。私はとてもユニークだと思ったんですが、これが今の形に変更されたのは何時ですか?確か、日本公演の前、ユーロパニア各地の公演では、「鈴の音は魔の調べ」が一曲目だったと雑誌で読んだのですが』
『それは・・・今日になってから急に決まりました』
『誰がそう決めたんです?』
『フィリップが、その方が観客の興奮がより高まるからって・・・』
成程、と迷流は頷いた。
「さて、皆さん。もう一度考えてみましょう。犯人は、シャルルさんの能力のことを知っていた人物、そして、恐らく脅迫状を出したのが、スチュアートではない、と知ることが出来た人物です」
「それは・・・?」
静音が恐る恐る尋ねる。
「その人物は、「鈴の音は魔の調べ」の演奏順番を遅らせることによって、自らのアリバイを確保しました」『そうですね、本物のスチュアートである、フィリップさん!』
指名されたフィリップは、一瞬驚いた表情をした後で、ふう、と小さく溜息をついた。
『まいったな・・・』
そして一言そう呟く。
『貴方が・・・スチュアート?』
シャルルも驚いて、彼の顔を見つめる。皆の視線が集中する中で、フィリップは、
『言い逃れは出来ないんだね』
そう言って迷流に向かってウィンクした。迷流はゆっくりと頷く。フィリップ、いや、スチュアートは、諦めたような表情になって、ソファーに腰を降ろした。
『確かに、私はスチュアートです。この髪の毛は、ドナを失ったショックでいつの間にかこういう色になってしまった。そう、私はドナの復讐のために、見せしめとして、リベイラの奴を殺したんだ』
「そんな・・・!」
何事か言いかけた静音を、しかし、美鈴がそっと押さえた。
「美鈴ちゃん・・・?」
美鈴は、普段は見せない、少し悲しそうな、大人っぽい表情になると、黙って顔でシャルルの方を向くように示した。
シャルルが、そっとスチュアートの手を取っていた。彼女は、毅然とした口調で、彼に向かって話す。
『いいえ、フィリップ、いえ、スチュアート。私には分かっているわ。貴方、無理して私に忘れさせようとしなくたっていいのよ。貴方は、私の為にやってくれたのよね。私、忘れてなかったわよ、貴方のことも、ドナのことも。故郷のことは忘れちゃっているくせにね』
『シャルル!』
スチュアートは、叫びながら彼女を抱きしめた。神崎が、思わずもらい泣きしている。『リベイラは、ヨハネス、と言う人だったのですか。』
二人がだいぶ落ち着いた頃、迷流はそう尋ねた。スチュアートは、迷流の方に向き直ると、頷いた。
『・・・貴方には何でもお見通しなんですね。探偵さん。リベイラは、つい最近になって急に取り入ってマネージャーになった男です。私は脅迫状を見たときに、すぐに彼の仕業だと言う事を悟ると共に、彼の正体を知った。・・・向こうはこっちの正体に気がついてはいないようでしたが。』
『そして、貴方は例の物置に彼を呼びだして問いつめた。』
『ええ、奴はシャルルを脅して金をむしり取るつもりだった。私に問いつめられると、奴は、手を組まないか、と持ちかけてきました。私は、もちろん断った。そして、自分の正体を明かすと共に、奴に薬を飲ませた。何に使うつもりだったのか、あの色硝子の板は、奴が用意した物だった。』
『恐らく、貴方と同じ事をやろうとしていたんでしょう。・・・流石に死体はないにしろ。脅迫には、打ってつけです。』
でしょうね、と言って、スチュアートは溜息をついた。
『済まない、シャルル。』
迷流は、ゆっくりとサングラスを持ち上げる。
『大丈夫ですよ、スチュアートさん。シャルルさんは、そんなに弱い人じゃない、貴方が無理に悪ぶって忘れさせようとしなくたっていいんです。貴方が好きになった人でしょう?』
そうよ、と言いながら、シャルルはスチュアートに抱きついた。
『私だって貴方のことが本当に好きよ、たとえ貴方の正体がなんだろうとも。私・・・待ってる。』
『シャルル・・・』
スチュアートも力を込めて彼女を抱きしめる。
「・・・治外法権の風潮も完全に失われたわけじゃない、それに、私の報告書の書き方次第で意外とどうにかなるもんですよ。」
紙巻きに火を点けながら、中山警部は、ボソリ、とそう言った。それを訳し終えた後で、三上は、疲れた、しかし少しだけすがすがしいような表情で、ソファーに腰を降ろす。
迷流は、ふらふらとした足取りで、美鈴の方に近づくと、そっと優しく声を掛けた。
「大丈夫かい、美鈴。」
「うん、大丈夫ね。」
言いながらも、少しだけ切なげな表情で美鈴は、迷流の胸に顔を埋める。迷流は、そっと優しく美鈴の頭を撫でてやる。静音は、複雑な表情でそれを見ていた。彼女の知らない、二人の絆を。
・
シャルル・モッテンバーニの日本公演は、日を改めてもう一度執り行われた。この度の事件に居合わせた人々を無料で招待してのこの公演では、シャルルの新曲が披露された。
「貴方を待っている」
その一月後に発売されたこの曲は、世界的なヒットとなり、日本でも五十万枚を売り上げた。
鈴の音は魔の調べ・完