大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第五回・群衆

 子供の頃から、自分のことを特別な人間である、と思っていた。それは当然のことだと思っていた。私は、他の誰よりも勉強もできたし、周りの人々がするような低俗な会話に興ずることもない。私は特別だ、そこらの群衆どもとは違う。


 そんなある日のことだった、街を歩いていた私は、ぶつかってきた頭の悪そうなチンピラに、因縁を付けられた。
 馬鹿が何をほざいているか、私は答える必要も感じずに、無視して通り過ぎることにした。


 突然、後ろから殴られた。引きずり倒された私は、リンチを受けて、さんざんに殴られ、蹴られた。何時の間にやら出来る人だかり。それは夏の海にわき起こる雲のように、膨れ上がっていく。


 それでいて、誰も助けようとはしない。私は、いつの間にか、チンピラどもより、何もせずに見ている無能な群衆の方に、沸々と怒りが沸き起こっているのを感じていた。その怒りを眼球に込めて、奴らの方を見る。


 その時、私は、妙なことに気がついた。群衆ども、一人一人の上に吹き出しのような物が見える。さらに目を凝らすと、そこには何やら文字が書いているようだった。可哀想に、酷いことをする、いい気味だ、もっとやれ、助けるべきか。同じ言葉は、群衆達の頭上で結合し合って、より大きな吹き出しへと成長した。


 私は、助けるべきだ、と言う吹き出しをにらみ、それが、誰かの元に落ちてくればいい、と、唐突に思った。たとえばそこの厳つい顔をした大男に・・・。


 そう考えた瞬間だった、大きな「助けるべきだ」、と言う吹き出しは、大男の頭にぶつかって、吸い込まれるように消えた。とたん、大男は、私を蹴り飛ばしているチンピラに後ろから殴りかかり、チンピラを引きずり倒した。一人が行動に出ると後は早かった、次々と群衆の中から、チンピラどもに殴りかかっていく者が出てきた。


 あっと言う間にチンピラはのされ、私は救助された。助け起こされながら私は、沸き上がってくる笑いを抑えきれずにいた。 
 やはり私は特別だった。群衆の中にあって個を保つ私は、群衆を操ることが出来る私は、やはり特別な存在だったのだ。


 私は、周りの群衆どもから投げかけられる奇異の視線にお構いもせずに笑い続けた。
 私は、特別だ。

(中略)

 私は、美しいものが好きだ。それもただ美しいものではない。
 美しさというのは、儚く、切ないもののことだ。人の夢のように捕らえ所が無く、刹那の時しかその形をとどめていることが出来ない。


 日本の四季は、移ろいやすいからこそ価値がある。女性の美しさもまた然りだ。子供のあどけなさと大人の色香、それらが綯い交ぜになった危ういバランスの上に立っているとき、少女は一番輝いている。
 従って、儚ければ儚いほど、切なければ切ないほど、そのものは美しいと言える。


 街に出てみるが良い。
 そこにいるのは群衆達だ。個としての性格づけをされないまま、ただ固まり、頭の悪い台詞を何度も繰り返しているだけの、愚かな存在。しかしそれらの想いが寄り集まったとき、それは思いもよらないほど、強い力となる。さながら、醜い青虫が彩り鮮やかな美しい蝶へと変化するような、胸のすく変容。


 しかしそれは普段、野放図に飛び交ったあとで、何処へともしれず消えてしまう。所詮奴らが群衆に過ぎない所以である。だから後を押してやる必要がある。勝手気ままに飛び交う意志を纏めてやる必要がある。それが出来るのは、祝福された存在である私だけだ。群衆の中にあって、その中でも個を保っていられる私だけなのだ。私は奴らの中にいて、そっとその背中を押してやるだけで良いのだ。
 美しいものを演出するためには。


 さてと、漸く目的地に着いたようだ。軍の払い下げの灯油タンクを、地面に置いて私は、そっと息をついた。休息もそこそこに、私は、ゆっくりとその中身を撒き始める。焦ってはいけない。私は、これから始まる宴のことを思って、自然と頬がゆるむのが分かった。マッチ箱を懐から取り出すと、一本に火を点けてそれを箱の中に入れて、素早く投げる。どうせもう私は使うことがない。炎が赤々と燃え上がる。私は、人が集まるまでの暫くの間、身を隠すためにそこをいそいそと立ち去った。


 暫くして戻ると、廃屋は赤々と燃えていた。今にも潰れそうだった物が、こうも美しく変化したのだ。私は、悦楽に浸った。
 炎は美しい。ほんの一瞬しかその姿を留めていられない。今見た炎の形は、この先二度と見ることが出来ないものだ。


 なんと刹那く、美しいのだろう。
 そう思っているのは私だけではないようだった。群衆の人々の頭の上には、例の吹き出しが見えている。


 その中の、美しい、と言うやつを少し手を加えた上で、一人の頭の上に落としてやる。これで良し。落とされた人間は、何としても、この炎をもう一度見たくなる。恐らく三日と我慢できずに、次の家に火を点けることになるだろう。


 私は、ほくそ笑んだ。私は特別な存在だ、群衆の背中をそっと押してやるだけで良いのだ。


 さて、名残惜しいが帰ることにしよう。なあに、またすぐに美しい炎を見ることが出来るのだから。
 もしかすると人の命すら奪う、刹那の業火を。

(中略)

 私はその日も、火事場にいた。心の底から美しいと思いながら、炎を眺める。


 昨日、私の元を、探偵が訪れた。特殊な能力を使って事件を解決すると評判の、例の探偵だ。探偵は、事もあろうにこの私に自首することを進めてきた。
 とんだお笑い種だ。私は、何もしていない、最初に廃屋を燃やしたことだって、私が自供しない限り立証はされないし、された所で、私は取り壊す予定だった廃屋を燃やしたに過ぎない。


 探偵は、自分の持つ能力から、自分のことを特別な存在だとでも思っていたのだろうか。偽善者ぶって自首を勧めた所で、私が従うはずもないだろうに、なぜなら、特別な存在は、私だけで十分だからだ。


 私は、考えるのを止めて、上を見上げた。さて、今日は誰の元に「落とす」とするか。
 その時、突然声がした。群衆の上に出ていた吹き出しの内容の、その殆どが、「何だろう」、と、言う物になった。作業を妨害された私も、怒りを込めて、声がした方を向いた。


 男が喋っていた。どこかで見覚えのある男だ。男は、あろう事か私を指さして、そいつが犯人だ!と叫んだ。そして滔々と、昨日探偵が私に喋ったのと同じ内容のことを、群衆に向かって喋りだした。


「その男が、私を操って、家に火を点けさせた!」
 思い出した、こいつは、私が以前「落とした」群衆だ。
 群衆どもは、ざわざわとざわめいた。ほんとかな、嘘だろ、こいつが犯人じゃねえのか?群衆の上の吹き出しの文字が変わる。


「その通りじゃ!」
 新しい声がした。男の隣から、今度は、婆さんが出てくる。
「儂の、儂の娘夫婦と儂の孫は、その男に焼き殺されたんじゃ!」
 群衆の上の吹き出しに、私への敵意が多く占め始める、このままでは、不味い、誰かに反対意見を落とさねば。


「孫を返せえっ!」
 私が行動を起こすより先に、婆さんは叫んだ、不味い、このままでは、


「やっちまえっ!」
 誰かの叫ぶ声がした。私の周りに、群衆達が蟻のようにたかる。引きずり倒された私は、空の上に、大きな吹き出しが、一つだけ浮かんでいるのを見た。


 そこには、こう書かれていた。
「そいつを、やっちまえ。」


群衆・完


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