大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第六回・完全な私の為に

 羽馬谷氏の葬式が終わってから一週間が過ぎた。
 この間、警察では、羽馬谷氏の女性関係についての捜査が行われていたが、さしたる成果は上げることが出来ずにいた。羽馬谷氏に関する風聞は、おおよそ正しかったようで、妻を失ってからの数年の間に、羽馬谷氏と浅からぬ関係になった女性は、一人も捜査線上には浮かんでこなかった。


 もしこのまま、容疑者不在の状況が続いたなら、羽馬谷グループからの圧力によって、羽馬谷氏の死は、病死として片づけられるかもしれない、と、探偵事務所を訪れた中山警部は疲れた表情で言っていた。
 このような警察の捜査の行き詰まりも手伝って、迷流達は遂に、羽馬谷家を再び直接訪問することにした。両親を失って間もない、仁美のことを気遣って、葬式の慌ただしさの余韻の消えた頃を狙い、かつ、事件の捜査をカモフラージュするため、弔問を目的として、訪問の許可を取り付けることに迷流達は成功していた。


 緑果の高級住宅街を抜けて、迷流達は再び、羽馬谷氏の屋敷の前に立った。この前とは違って、今日は美鈴も一緒に来ている。
 屋敷は、葬式の日とはまるで趣を異にするように、静まり返っていた。呼び鈴を鳴らすと、どうやら執事らしい、タキシードに身を包んだ老人が姿を現した。


「おお・・・丹沢様ですね。お話は伺っております、ささ、どうぞお入り下さい。」
 探偵が来ることを気取られぬように、訪問は静音の名前でもって告げられていた。妙に眉毛の長い老執事は、にこにこと笑いながら迷流達を家の中に迎え入れた。


「有り難いことです、仁美お嬢様を訪問していただけるとは、お嬢様もきっとお喜びになるでしょう。ここだけの話、柘希つき様は仁美お嬢様につらく当たりますので、見ていられないのです。」
「月?」
 静音が首を傾げると、執事は自分の額を軽く叩いた。
「ああ、失礼いたしました。死んだ良澄様の御母堂に当たる方でいらっしゃいます。柘植つげの柘に、希望の希を書いて、”柘希”でございます。」
「つらく当たるとは、どう言うことです?ええと・・・」
「あ、申し遅れました、私は井野崎いのさきと申します。」
「あ、迷流です。」
 わざわざ足を止めて深々とお辞儀をした執事に向かって、迷流もつられてお辞儀をした。


「じゃあ、井野崎さん。つらく当たる、と言うのは?」
 井野崎は、一寸ためらった後で話し始めた。
「・・・実は、良澄様と死んだ奥様の楓かえで様との結婚を、柘希様は快く思っていなかったようなのです。仁美様が生まれてから、さらに楓様がお亡くなりになってからは幾分風当たりも和らいだかに見えましたが、今回良澄様もお亡くなりになって、後に残された仁美様は、今や楓様に生き写しと言って良いほどに似ていらっしゃいます。柘希様は・・・それが面白くないのでしょう。」


「お言葉が過ぎますよ、井野崎。」
 突然張りがあって、厳しい女の声がした。通路の曲がり角から、老婦人が顔を出す。
「つ、柘希様・・・」
 井野崎が目に見えて慌てた。和服を着て、髪の毛を結った、さぞかし昔は美人であったろう老婆。羽馬谷柘希である。


「も、申し訳ありません。」
 井野崎は、そのまま恐縮してしまった。代わりに、静音が前に出た。
「どうしてお孫さんにまでその様な冷たい仕打ちをするのですか?ましてや仁美ちゃんには、最早貴方しか肉親は残されていないのでしょう?」
 ふん、と、老婦人は鼻を鳴らした。
「余計なお世話だよ、人の家庭の事に口を出すもんじゃないよ、お嬢さん。・・・あの女は疫病神だったんだ、あいつがあんな死に方をしたから、良澄まであんな変な死に方をしたんだよ。そうさ、これはあの女の呪いさ、あいつが仁美になり代わって良澄を呪い殺したんだよ。」


「あんな死に方?」
 迷流は、如実に反応した。柘希は一瞬だけ怯んだ。
「ふん、他人の家庭の事を詮索するなと言ったろう、仁美に会うなら会うで、とっととお帰りよ。」
 そう捨て台詞を残すと、柘希は肩をいからせながら通路の向こう側に消えてしまった。申し訳なさそうな表情で井野崎が振り返る。
「申し訳ありません。」
「良いのよ、井野崎さんが謝る事じゃないわ。」
「その通りね!」
 静音と美鈴がそう口々に言った。老執事は、かすかに微笑んだ。
「お心遣い、有り難うございます。」


 やがて井野崎は、一つの扉の前で立ち止まると、ゆっくりとその扉をノックした。どなた?と言う澄んだ声が扉の中から聞こえてくる。
「私でございますお嬢様、丹沢様をお連れしました。」
「お入りになって。」
「失礼します、ささ。」
 扉を開けてくれた井野崎に促されるようにして、迷流達は、仁美の部屋へと足を踏み入れた。お茶をお持ちいたしますね、と言って老執事は一礼をして去る。


「お久しぶりね、仁美ちゃん。」
 静音の声に少女は振り返って軽い会釈を返した。今日は春らしい桜色のドレスを身に纏っている。緩いウェーブのかかった黒髪の上では、センスの良い髪飾りが揺れていた。
「お姉さん、それから探偵さん・・・えっと?」
「私は美鈴ね!」
「こんにちわ、美鈴さん。」
 仁美ははにかみながらそう言った。
「どうぞ、お座りになって。」
 迷流達は言われるままに、部屋に設えられたソファーに腰を降ろした。少女趣味を絵に描いたような部屋だった。棚の上では、ぬいぐるみ達がつぶらな瞳で迷流達を見下ろしている。


 今度来日するシャンソン歌手の話、今度出来るという大規模な遊戯施設の話、静音達は、暫くの間、当たり障りのない世間話に終始した。そうこうしている間に、井野崎がお茶を運んでくる。
「・・・どう、少しは落ち着いた?」
 紅茶で喉を湿らせながら、静音は漸く本題を切り出した。
「ええ、漸く親戚の出入りも少なくなりましたわ。・・・まだ学校には行けそうにないですけど。」
「そう・・・」


「さてと・・・」
 予定通り迷流が立ち上がった。
「一寸私はトイレに行って来るよ。」
「あ、トイレはそこの廊下を右に曲がった先です。」
 仁美がすかさずそう言った。
「有り難う、えーと、お父さんの部屋の前だったかな?」
 え?と迷流の言葉に仁美は首を傾げる。
「お父様の部屋は、廊下を左に行った方ですけど・・・」
「あ、ああ勘違いしていたよ、ゴメン。」
 迷流は頭を掻きながらそう言って、廊下に消えた。


 全ては計画通りである。静音と美鈴が仁美の相手をしている間に、迷流が良澄氏の部屋を”ノベリング”する手筈になっているのだ。
「ねえ、お姉さん。」
 唐突に仁美は言った。
「ん?何?」
「お姉さんは、自分の中に何かが欠けていると思ったことがある?」
「え・・・?」
「私ね、何時もそう思っていたんだ。」
 仁美は訥々と話す。しゃべり方が所謂お嬢様言葉ではなくなっていた。それ故に、より仁美の本心に近しい言葉なのだろう。思いもよらぬ告白に、静音は少し困惑する。


「私は、四つの時にお母様を亡くしてから、お父様に愛情を注がれて、何不自由のない生活を・・・いいえ、お母様が居ないと言う不自由を隠してしまうような生活をしてきたの。」
「・・・。」
「私はお父様が大好きだったし、お父様も私を愛してくれた。でも、ずっと私は言いしれぬ欠落感を覚えていたの、分かるかしら、こんな気持ち。」


「分かるね。」
 不意に、美鈴が言った。
「実は私、迷流様と出会う前の記憶があんまりないね。私昔どうしていたか、気にならないこともないね。でも、私今のままで十分ね。下手に昔のこと思い出して、迷流様と離ればなれになんかなったりしたら、その方がずっと大きい結膜ね。」


「”欠落”よ、美鈴ちゃん。」
 静音は少し複雑な気持ちのまま突っ込んだ。
 両親ともに健在な静音には、いまいちその欠落感が分からない。そう言えば、迷流は幼いときに母親を亡くしていると聞いているが、彼もこのような欠落感を覚えたのだろうか?・・・ただ一つ、静音にも分かる欠落感があるとすれば、それは、”自由”という物の欠落感だろう。


 仁美は、美鈴の話に興味深く頷いていた。
「そうよね。私もその欠落が見せかけに過ぎない、それよりももっと大切な物があるって言う事に気がついたの。・・・お母様は死んではいなかったの、お父様の中で生き続けていたんだわ。そして、お父様も・・・今度は私の中で生き続けるの。」


 なんて言う強い子だろう。静音は、内心驚嘆し、この少女に尊敬の念を抱きさえした。何かいたたまれない気持ちになって、静音は質問を変えた。
「あのね、仁美ちゃん、そう言えばお父さんが亡くなった日に、お父さんの部屋に誰か女の人が来たりしなかった?」
 どうして?と仁美は大きな目を瞬く。
「それ、警察の人にも同じ事聞かれたけど・・・誰も入ってこなかったよ。」


「ううん、一寸気になっただけ。ゴメンね。」
 静音がそう言ったとき、げっそりと青い顔をした迷流が、漸く戻ってきた。
「迷流様遅いね、顔色悪いし、さては大きい方か?」
 美鈴がすかさず突っ込みを入れた。
 「場所」の”ノベリング”には、確かにかなりの精神力を消耗する。しかし迷流の疲れ方は尋常なものではないように見えた。迷流は、うつろな目で、ぼんやり室内を見渡した後で、ゆっくりと腰を降ろした。迷流はその後も始終そんな調子で、結局羽馬谷邸を出るまで、上の空でぼそぼそと独り言のようなものを呟いてばかりいた。


「一寸、探偵さん、どうしたんです?」
 羽馬谷邸が植え込みの陰に隠れてしまった頃に、静音がしびれを切らしてそう言うと、迷流は漸く生気を取り戻したように言った。
「うん・・・事件の謎は・・・解けましたよ。」
「え?」
 静音は思わず目を丸くする。
「本当に・・・解けたんですか?」
 うん、と、何故か力無く迷流は頷いた。
「まずは事務所に帰って、ノベリングの結果を聞いてみて下さい。・・・どうするかは、その後で決めましょう。」 

 私は、世間一般では、お嬢様と呼ばれているようです。私自身では、あまりそう言ったことを自覚してはいません。ただ、人に言わせると、私の行動は、それ以外に形容する言葉がないのだそうです。


 私には、よく分からないことがあります。「愛情」、とは何なのでしょう。「人を好きになる」と、言うのはどう言うことでしょう。友達に言わせれば、それは、とてもドキドキして、自分で自分の気持ちを押さえ込めなくなることなのだそうです。
 私がお父様を好きな気持ちと一緒かしら、と言うと、友達は、ころころと笑って言いました。


「ほんとに、仁美はお嬢様ね。」
 私には何のことだかさっぱり分かりませんでした。
 お嬢様という言葉が、もし、何不自由なく暮らしている、と言うことを表すのだとしたら、それは私には当てはまらない言葉です。私には、何時も、何かが足りない、と言う感情がつきまとっています。
 それが何かは、本当は私にも分かっているはずです。でも、私は何時もその事と向き合おうとしていないだけなのです。
 私には、お母様がいません。


 私のお母様は、私がまだ四つの時に亡くなってしまいました。お母様・・・その事を考えると、私は何時も、あの夜の光景を思い出してしまいます。


 満月の夜でした。妙な寝苦しさを覚えた私は、ベッドから抜け出してトイレへと向かいました。その帰り道のことです。
 聞き慣れない声が聞こえました。まるで獣か何かが唸るような声です。幼な心にも、私は恐怖を覚えましたが、好奇心は、恐怖をいともたやすく克服してしまったのでした。


 声はお父様とお母様の寝室から漏れているようでした。
 私は、足音を忍ばせながら、声の聞こえた方に歩いていきます。両親の部屋のドアは細く開いて、ベッドランプの物らしい中の光が、薄ぼんやりと漏れだしていました。私は、そおっと中を覗き込みます。


 私の目は異様な光景をとらえました。
 お父様とお母様が居ます。二人は裸で、ベッドの上で絡み合っていました。お父様はお母様の上に馬乗りになって、前後左右にしきりに体を動かしていました。お父様の体が動く度に、お母様の口からは、苦しそうな喘ぎ声が漏れだしています。お父様は、時折、力強い気合いと共にお腹から声を出していました。


 二人の動きはそのままどんどん激しさを増していき、やがて、お父様の鋭い、しかし、くぐもった呻き声を最後に、お母様は金切り声をあげた後で、ぐったりとしてしまいました。怖くなった私は、慌てて自分の部屋へと逃げ帰りました。急いで布団を頭から被ります。歯の根がカチカチとなって、震えが止まりませんでした。とても眠れそうにないと思いましたが、私はいつの間にか眠ってしまっていたようでした。


 次に私が意識を取り戻したのは、廊下をばたばたと走る、忙しない足音の所為でした。私は、眠い目を擦りながら廊下に出ました。廊下の向こうに慌てた様子の井野崎が見えました。
「ああ、お嬢様お嬢様。」
 井野崎は本当に動転していたようで、そのまま何回か「お嬢様」を繰り返しました。


「どうちたの?爺や?」
 私がそう尋ねると、爺やは、ああ、と嘆息して天を仰ぎました。
「実は、楓様が、楓様が・・」
「死んだのさ。」
 不意に鋭い声が私の後ろから聞こえました。両親の部屋から、いつの間にかおばあさまが出てきていました。
「えっ・・・」
「柘希様!」
 私の目の前に、昨日見た光景がありありと思い出されます。お母様が・・・死んだ?恐らく私は固まっていたのだと思います。爺やの声が少し遠くで聞こえました。


「柘希様、何もその様な言い方をすることもないでしょう。・・・お嬢様、今、お母様は病院に運ばれております、少し心臓の調子がおかしいのだそうです、いやしかし、大丈夫ですとも・・・」
 しかしそれが気休めに過ぎないと言う事は、多分私には分かっていました。
 その日の午後、私のお母様は永久の眠りにつきました。
 お父様は今まで以上に私を愛してくれるようになりました。

(中略)

 私は怖くなかったと言えば嘘になります。直接的な事か、間接的な事かはともかくとして、お父様が、お母様の死に関係があるはずだと言う事は、当然私にも分かっていました。


 でも、私はお父様が好きでした。少なくともお父様は、お母様にしていたようなことを私にすることはありませんでしたし、それに、お母様が死んでからと言うもの、お父様は私を見るときに、一瞬だけ、常に申し訳なさそうな顔をするんです。
 私は、お父様をその呪縛から解き放ってあげたいと常々思っていました。


 謎は、いつか解ける物です。耳年増な私の友達は、ある日、登校してくるなり友達を集めてこう言いました。
「ねえねえ、せっくすって知ってる?」
「え、なになに?」
 途端に少女達の華やかな歓声が教室に響きます。
「あのね、月組の桐ヶ谷きりがやさんが、従兄弟のお兄さまとせっくすなさったってもっぱらの噂ですわ!」
「だからせっくすってなんですの?」
 少しのんびりとしている華はなちゃんが可愛らしく小首を傾げました。


「ふふふーん。」
 耳年増な昴すばるは、人差し指を立てて鼻の前で横に振りました。
「何でも、せっくすというのは、愛し合う二人がお互いの全てを求めあう愛の儀式のことですのよ!」
「だから、具体的にはどう言ったことをするんだよ。」
 男勝りの虎奈手こなたが興味あるのかないのか分からない微妙な口調でそう言いました。


「のってきましたわね、なんだかんだ言いつつ。」
 昴は虎奈手に向かってニヤリと微笑むと、机の上にヨイショとばかり腰掛けました。
「そもそもセックスというのは、元々は男女が子供を作る行為な訳ですのよ、でも動物と違って人間様の場合は少々その意味合いが変わってくるわけ。」
「そのいみあいってなんですの?」
 華ちゃんはそう言いながら人差し指を自分の口元に当てました。


「ふふーん。まあ聞いて、セックスをするためには、まずお互いに服を脱いで、相手の体をまさぐりあった後で、殿方の、まあ、その、アレを女の人の、その、あそこにいれる、と、まあ、そう言う事ですわ。」
「ふーん大体分かった。」
「よくわかりませんわ。」
 虎奈手と華ちゃんは全く正反対の感想を述べました。私は・・・私の頭の中で、お母様の死んだ夜のことが物凄いスピードで再生されていきます。
「あら、やっぱ華ちゃんや仁美には少々刺激が強すぎる話だったかしら?」
 私の沈黙を理解不能に依るものだと勘違いしたのでしょう、昴は、私の顔を覗き込んできます。私は言いました。


「ねえ・・・」
「ん、何?」
「その目的はなんですの?」
 おやあ、と、昴は目を剥きました。
「あらまあ、仁美が興味あるなんて、一寸驚きかも。・・・まあ良いですわ。せっくすとは即ち崇高な愛の行為。互いに愛し合っている者同士が、相手の心だけでは飽きたらず、相手の肉体までも欲することによって、まるで何かを補いあうかのように、相手の全てを手に入れようとする行為ですわ。」


「相手の・・・全てを・・?」
 ああ、なんという事でしょうか、私が長年抱いてきた疑問、その答えがこんな所に転がっていようとは。
「う・・うふふふ。」
「ど、どうしたの、仁美?」
 私は、友達が不思議がるのを気にもとめず、暫く笑い続けました。

(中略)

 そう、そうだったのです。お母様は死んではいなかったのです。お父様の中で生き続けていたのです。
 愛の行為の中で、お父様はお母様を愛するあまり、お母様の全てを求めて、手に入れてしまったのでしょう。
 では、私が今まで感じていた欠落、お母様がいないと言うことから感じていた欠落を埋めるのにはどうしたらいいのでしょう?答は簡単です、お父様と「せっくす」する事によって、お父様の中にあるお母様を手に入れればいいのです・・・そして、お父様も・・・。


 私はドキドキと胸をときめかせながらお父様の部屋の前に立ちました。
 欠落を埋めるために。
 完全な私の為に。

「ちょ、一寸待って下さい!」
 ソファーの中でぐったりとしている迷流に向かって静音は叫んだ。
「そ、それじゃあ、羽馬谷さんを殺した犯人は・・・」
 ええ、と迷流は半目のまま首を振った。
「仁美ちゃんです。」
「信じられないね!」
 美鈴も思わず椅子から立ち上がった。
「そんな、そんなのって・・・」
 言いながらも静音は思い出す。事件当夜、羽馬谷氏の部屋に誰か来たかどうかと言う質問に仁美は、
「それ、警察の人にも同じ事聞かれたけど・・・誰も入ってこなかったよ。」


 そうだ、仁美は、誰も入ってこなかったと、確かにそう言った。それは・・・部屋の中にいた人間が使う表現に他ならない。
 くらくらする。静音は必死で地軸との間にバランスをとろうとする。頭を押さえながら、どうにか言葉を絞り出す。
「で、でも・・・仁美ちゃんの考え方は・・・」
 ええ、破綻しています、と、迷流は言った。
「でも、彼女にはそれで良かったんです。・・・仁美ちゃんのお母さん、楓さんは良澄さんとの性交渉の後に、心臓の不調を起こして死亡しました。吉崎医師が言っていましたよね、いわゆる腹上死です。」


「腹上・・・死。」
「ええ、それも普通の腹上死です、良澄さんの死に方とは違います。ただ、死んだ時期が悪かった。よりにもよって、仁美さんが二人の愛の営みを見た次の日に楓さんが死んでしまった・・・ただでさえトラウマになりやすい両親の性行為の目撃、それに母親の死までが重なってしまったんです。」
 静音も美鈴も言葉がない。


「ここからは、私の想像に過ぎません。仁美ちゃんが、お父さんを恐れることをしなかった理由の一つには、もしかすると、祖母である柘希さんの存在があったのかもしれません。肉親の中ではお父さんだけが、仁美さんの味方になってしまったのですから、仁美さんにはお父さんを嫌うことは出来なかったでしょう。同様にお父さんも、間接的にとはいえ、楓さんを殺してしまったという負い目があるために、仁美さんを溺愛していたのでしょう。」

「・・・・・・」

「仁美ちゃんにとって、お父さんは決してお母さんを悪意でもって殺した人であってはならなかった。そこに友達の話です。その話は仁美ちゃんにとって渡りに船だった。お父さんの行為の出所を、愛情に求めることが出来たのですから。そして、自分も、愛する人であるお父さんを、全て自分の物にしたいと思ってしまった。」


「どうしてですか?どうしてそんな事をする必要があったんですか?」
 迷流は少し悩んだ。
「それは・・・そこら辺の理由は、最早仁美ちゃん自身にしか分かりません、ただ、仁美ちゃんが良澄さんを衰弱死させた犯人であることは間違いないんです。・・・そうですね・・・例えば、こう言うのはどうでしょう、柘希さんは、良澄さんのことは溺愛していたが、楓さんや、仁美ちゃんは嫌われていた、だから、もし良澄さんを自分の中に取り込めば・・・」


 もう止めましょう、と、静音は言った。
「これ以上推測してもしょうがありませんわ。」
 そうですね、と迷流は言った。そして、それでどうします、と言った。


「え?」
「私は、警察には黙っていようと思うんですが、どうです、依頼人としては?」
 静音は、そうですね、と溜息をつくように言うと、少しだけ笑った。迷流も少しだけ笑い返しながらそっと目を閉じる。


 ・・・何処までも延々と続く鯨幕。まるで吹雪のように舞い散る桜の花びら。花の中では、迷流の母親が二度と目覚めることのない眠りについている。
 背中が見える。大きな背中だ。それは細かく震えている。ああ・・・泣いているのだ。 それはそうなのだろう。自分の愛する人を失ってしまったのだから。ただでさえ、誰かに愛されていないと不安な人なのだから。
 藍歳は、父さんはきっと泣いていたのだろう。


「探偵さん。」
 静音の声によって、迷流は思い出の淵から引き戻される。
「なんです。」
「依頼料・・・払わなければいけませんね。」
「いりませんよ。この事件は、無かったんです。」
 苦笑した迷流に向けて、静音はいいえ、と首を振った。
「こんな想いをさせた罪滅ぼしに、来週のシャルル・モッテンバーニのコンサートに招待しますわ。」  
「私はどうなるね?」
「もちろん、美鈴ちゃんもよ。」
 そこで漸く事務所に久しぶりの笑い声が響いた。

 羽馬谷仁美は、この十ヶ月後に、一人の男の子を出産した。
 限りなく羽馬谷良澄の血を色濃く引いたこの男の子を、羽馬谷柘希がどのような気持ちで見つめていたのか。
 それはこの物語とは、また別のお話である。


完全な私の為に・完


正録の間に戻る
伊佐坂部屋ラウンジに戻る