大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

終幕〜『裸の王様』エピローグ〜

「そこにある黒い蝙蝠傘を使って下さい・・・あ、美鈴さんの分は、そうですね・・・」
「いえ、良いですよ、一緒に入りますから。」
 私の言葉を遮って、東都の有名な探偵だという男、迷流藍花とその助手の少女、美鈴は黒い蝙蝠傘一つだけを持って玄関を出た。
「じゃあ、行って来ます。」
 そう言い置いた探偵の背に向けて、私は行ってらっしゃい、と言葉を投げかけた。外はしとしと降りの雨。探偵達はその中を散歩に行くのだという。酔狂なものだ、だが、悪い印象は受けなかった。むしろ微笑ましい。
 探偵はこの家の大多数の人々が持っている、ぎすぎすとした雰囲気とは縁遠い、飄々とした様子が好感を抱かせるし、助手の少女は無邪気で溌剌としていて可愛らしい。
 背中を見送っていたら今日は黒で統一した服装の美鈴が、探偵にそっとその体を寄せた。
 成程、確かに傘は一つの方が都合がいいらしい。私は、一人微笑みを浮かべた。
 と、その時。
「唐花さん。」
 不意に後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、そこには黒いフレアのワンピース。それを確認するまでもなく声で誰なのかは解っていた。
「お嬢様。」
「探偵さん達、お出かけしたんですか?」
 お嬢様――咲耶様は柔らかな調子で私にそう尋ねた。
「はい、物好きなことにこの雨の中をお散歩だそうです。」
「まあ。」
 私が答えると、咲耶様はころころと笑った。そして、唐花さん、少しお時間良いかしら、と言った。
 私が頷くと、咲耶様は、
「じゃあ、あそこへ。」
 そう言い置いて自ら先に立って歩き出した。恐らく私を気遣っているのだろう、一人で歩いているときよりもずっとゆっくりのペエス。咲耶様は、皆に優しい。
 やがて、私とお嬢様は目的の場所に辿り着く。中庭に向かって張り出したテラス。咲耶様の母親の美咲様が好きだったという場所。そして、今では咲耶様のお気に入りの場所だ。
 あの日、咲耶様が初めて鳥目男と出会った次の日も、咲耶様はここに一人でいた。泣いていた。偶々通りかかった私がお嬢様を慰めて差し上げて以来、時折私もこの場所を共有させていただいている。
「はい、唐花さん。気を付けて。」
 咲耶様は白いテーブルにセットになった、やはり白い椅子を引いて私を座らせてくれた。それぐらいのことは私は平気で出来るのだが、ここは、お嬢様の優しい気持ちに応えることにする。お嬢様は、私の向かい側に腰を下ろした。
「ここも久しぶりだわ・・・」
 言いながら、咲耶様は体を中庭の方に向けた。
「雨に濡れた緑がとても綺麗・・・」
 言った後で、お嬢様はハッとしたように口元に手を当てたらしい。服の袖が胸の辺りまで持ち上げられている。
「御免なさい、唐花さんは・・・見えないのよね。」
「いいえ。」
 私は言った。
「多分、見えていますよ。お嬢様と同じように、緑。」
「ありがとう。」
 咲耶様は、私の言葉を自分に対する気遣いだと思ったらしく、優しく礼を言って私の手を取った。暖かいぬくもりが伝わってくる。細い指が絡みついてくる感触がする。
「ねえ、唐花さん。」
 私の手を取ったまま、咲耶様は言った。声が真面目なものに変わっている。恐らく、お嬢様は今、『真剣な表情』をしているのだろう。
「正直に答えて。お爺様は、お父様によって幽閉されているの?」
 私は息を飲んだ。聡明な咲耶様にとっては、それは肯定のサインと一緒だった。
「やっぱり・・・それで、お爺様は、生きていらっしゃるの?」
 私は無言のまま、暫く考え込んだ。そして、言葉を選んで漸く一言、
「声は・・・聞こえてきます。」
「そう・・・」
 咲耶様は、少しは安心したようだった。そして、ゆっくりと立ち上がって、天井まで続く大きなガラス窓まで歩み寄ると、暫く黙って外を見ていた。その間、私も何を話して良いか解らず無言のままでいた。やがて、
「大人の人って、どうしてみんなそうなのかな。」
 ぽつり、と咲耶様はそう言った。
「そうって言いますと・・・?」
 お嬢様はゆっくりと私の方に向き直った。スカートの裾が微かに揺れる。
「自分や組織の体裁とか面子ばかりを気にして、余計なものは目を瞑って切り捨てて・・・私の行っている学校を、この前一人の女の子が辞めたの。」
 私は無言で先を促した。
「その子は、最近お父さんが死んじゃって何かいろいろ大変だったみたいなんだけど、みんなが噂するところによると、その子が辞めた理由はほんとはそんなんじゃなくて・・・その子に赤ちゃんが出来たかららしいの。自主退学らしいんだけど、学校の方が面子を気にしてそう仕向けたんじゃないか、って、その子と仲の良かった隣のクラスの子が言ってた。ふふ、どうしてだろうね。愛する人との間に出来た子供だったら別に良いと思うのにね。」
「お嬢様・・・」
 私が呼びかけると、咲耶様は私の方にゆっくりと歩み寄ってきて、そして言った。
「ねえ、唐花さん、唐花さんのその黒い布取って。私、また唐花さんの瞳が見たい。」
 言葉が終わらないうちに、お嬢様によって私の目の上を覆う黒い布は取り外されていた。咲耶様の吐息を感じる。凄く、距離が近い。
「わあ・・・」
 お嬢様はうっとりとしたような声を漏らした。
「いつ見ても、凄く綺麗な瞳。色が水色で、透き通っていて、とても綺麗。・・・こんなに綺麗な瞳なのに、唐花さん、世界が見えないんだね・・・」
「ええ。」
 私は小さく呟いた。
「残念ながら、私にはお嬢様の顔を見ることは出来ません。」
 そう、どんなに見たいと思っても、私には咲耶様の顔を見ることはかなわない。誰よりも、その笑顔が見たいと思っているのに。
 勿論、私とて咲耶様と鶉森隆文の仲を知らないわけではない。だから、私の想いは恋ではないのだ。隆文と付き合うことによって咲耶様により多くの笑顔がもたらされるなら、それで良いと思っている。少なくとも自分にそう言い聞かせている。
 その時、不意に手の中に暖かくて柔らかな感触が生まれた。一拍遅れて、私はそれが咲耶様が私の手を彼女の頬に押し当てた所為だと気がついた。
「これが、私の顔。」
 お嬢様はそう言った。そしてもう一度、不思議だね、と言った。
「唐花さんは、こんなに綺麗な瞳なのに目が見えない。お父様を含めた大人達は、権力や名誉、当主の地位みたいな見えない物を守るために必死になっている。目に見える物を排除してさえね。まるで・・・」

「裸の王様だね。」

 言いながら、咲耶様は寂しそうな声で笑った。
 そう、尚芳は裸の王様。当主の地位やら因習やら、見えない物を必死に着込んだ孤独な王様。

 私は結局、咲耶様の笑顔を見ることが最後までかなわなかった。
 初めて見た咲耶様の顔は、いや、首は目を大きく見開いて口元の辺りをひきつらせていた。
 恐らく、恐怖と驚きが綯い交ぜになった表情がこれなのだろう。少なくとも、私が見たかった彼女の顔はこんな物ではない。
 私は無言のまま、その首と胴体を背負って山を下り、お嬢様のための墓穴を掘った。
 お嬢様を殺したのは鳥目男。しかし、その鳥目男を生み出したのは、尚芳が新しく着込んでいた因習だったのだ。探偵はそれを伝えるとバタリと倒れた。助手の少女が心配そうに駆け寄っていた。
「よりによって、あの純真な娘が真っ先に天に召されてしまうとはな・・・」
 私の話を聞いて、御館様はそう言い、そして始まった。

 しかし、それももう終わりにしなければならない。
 仕掛けは既に終えてある。
「もう・・・事件は終わりにするね!」
 そう、美鈴という少女は言った。
 私は腕の中でぐったりと眠る彼女の重さを確かめながら、ゆっくりと階段を下りていった。

 くろい・・・黒い蝙蝠傘・・・。
「そうか!!!!」
 迷流は叫びながら勢い良く身を起こした。
「おいおい、何がそうかなんだよ、探偵さんよ。」
 ベッドサイドの椅子に腰掛けていた荒木がそう言って、苦笑する。
 その時になって、迷流は自分が与えられていた客室ではなくて、どうやら縁澤家の保健室のベッドに寝かされていたらしいことに気がついた。
「あれ・・・?荒木さん?私は、何でここに・・・?」
 言いながら迷流は頭を押さえた。少し頭痛がする。しかし、鳥目男に思念を送りつけられて以来感じていた体の不調は大分回復していることに気がついた。起き上がっても目眩には襲われない。
「何でって、のんきだな、探偵さんは?覚えてないのかい?」
「ええと・・・」
 荒木の言葉に促されるようにして、迷流は自分の頭を押さえたまま考え込んだ。その甲斐あってか、徐々に朧気ながらも夢とも現実ともつかないような記憶が浮かんでくる。
「あれ・・・確か寝ていたら霧華さんが来て・・・水を飲まされて、それで・・・あっ!」
「漸く思い出したか。」
 荒木は苦笑した。
「そうだ!霧華さんは?どうして私はここに?」
 続けて迷流が尋ねると、荒木はそれがよお、と言いながらボリボリと頭をかきむしった。
「還山霧華は探偵さん、あんたの上に乗っかったまま後ろからナイフで刺されて死んでいたんだよ。」
「なんですって!」
「まあ、落ち着け。」
 興奮してベッドから立ち上がろうとした迷流を荒木は押しとどめて、もう一度ベッドに横にならせる。
「還山霧華は、探偵さん、あんたにどうやら軽い睡眠薬のような物を飲ました上で関係を迫ろうとしたようだ。本人も、媚薬のような物を服用していたらしい。」
「びやく・・・」
 迷流は、霧華の息の馥郁とした香りを思い出した。どうやらあの香りは媚薬による物だったらしい。
「それがどうして彼女が殺されることと結びつくんですか・・・あっ!美鈴!そう言えば美鈴が部屋に来たような気がするんですけど?まさか?」
 荒木は唸った。
「いや、多分お嬢ちゃんは犯人じゃあない。俺は直前までお嬢ちゃんと一緒にいたんだが、お嬢ちゃんナイフなんて持っていなかったしな。それに、今回霧華の背中に凶器のナイフが突き刺さったままになっていて、どうやら、それが咲間や乃舞華を殺したやつと一致するようなんだ。お嬢ちゃんは、多分、霧華があんたに乗っかっているのを見てショックを受けて部屋から飛び出したんだろう。その後、俺が駆けつけるまでの間に犯人が霧華を殺した。霧華だけをな。」
 迷流はほっとしたように胸をなで下ろした。そして言う。
「不謹慎かも知れませんが、少しだけほっとしました。しかし、何故犯人は霧華さんだけを・・・?しかも、今回だけは計画的な犯行とはいえないような気がしますね・・・」
 すまねえな、と荒木は言った。
「俺は鶉森芳香の車椅子を押していたから到着が遅れちまってな。」
「芳香さんの?」
 ああ、と荒木は言って、美鈴との捜査のあらましについて迷流に語った。迷流は深く頷き、そして改まった口調で言った。
「荒木さん、ところで美鈴は?」
 途端、荒木は渋い顔になる。
「それが・・・どうも姿が見えねえんだ。警官達に探させてはいるんだけど例によって屋敷内の人員は限られているし・・・」
「そうですか・・・」
 言いながら、迷流は顎の辺りに手を当てる。
「私が無事だった以上、恐らく、犯人は美鈴にも手を出さないとは思うのですが・・・標的はどうやら縁澤家の人達だけのようだし、それに、私が考えている人が犯人ならなおさら・・・」
 何ィ、と荒木は目を剥いた。
「探偵さん、さっきのそうか!はそれかい?」
 ええ、と迷流は大きく頷いた。その言葉や表情は一見平静を装っているようだが、内なる焦りを必死で押さえているように荒木には見えた。
「鶉森清輝の実験室に案内して下さい。その猟奇、読み解きましょう。」

 実験室での“ノベリング”を終えた迷流達が部屋から出ると、廊下の先にそれが終わるのを待ちかまえていたかのように、美鈴を抱えた唐花の姿があった。
「美鈴!」
 反射的に迷流はそう呼びかけるが、少女はぐったりとしたまま動かない。矢も楯もたまらず駆け寄ろうとした彼を、唐花はやんわりと押しとどめた。
「大丈夫、彼女は眠っているだけです。危害を加えられたくないのでしたら、どうかそのままで話しましょう。」
 荒木が腕を掴むまでもなく、迷流は足を止めた。
「唐花さん、やっぱり貴方が犯人だったのですね。」
「いつ頃気づきました?」
 迷流の問いに対して、唐花は動じる様子も見せず、逆に尋ね返した。
「霧華さんから清輝さんのことを聞いたとき、そして、恐らくマスターキーを持っていたであろう御館様に一番近い存在が貴方だったから。そして、貴方のその目は見えているはずだと気がついたから、ただし、中途半端に!」
 迷流の瞳が水色の光を放ち始める。それは、奇しくも今彼が相対している唐花の黒布の下に隠されている、彼の瞳と同じ色だった。
「やっぱり・・・」
 迷流は小さく呟く。
「・・・私達が傘を借りたとき、貴方は黒い蝙蝠傘と言った。霧華さんの話では、貴方は生まれたときから盲目の筈だったから、『色』の概念があったことに少し引っかかっていたんです。」
「成程。」
 唐花は落ち着いた口調で言うと、美鈴を床の上に下ろし、自ら目の上を覆う黒い布を外した。
「折角目線を隠すためにこれを巻いていたのですが、どうやら無駄だったようですね。」
 水色に輝く瞳が姿を現した。改めて見る唐花の顔は、その瞳の色と相まって日本人離れした、そしてその実年齢からは乖離した少年の面影を残す、端整な顔立ちだった。
「どうして咲間さん達を殺したんですか。」
 壁に寄り掛かるようにして置かれた美鈴に油断無く視線を飛ばしながら、迷流は核心に触れる。
「それは、貴方にも解っているんでしょう?例の人の記憶を読み解く“ノベリング”とやらで。・・・復讐ですよ、縁澤尚芳への。御館様を幽閉し、父の婚約者を横からかっさらって邪魔になった父を殺し、私の目をこんな風にして・・・更には咲耶お嬢様の命を奪うきっかけを作ったあの男へのね。」
「おい、だったら尚芳本人を殺せば済む話じゃないか!何だって尚樹や咲間が犠牲にならなきゃならねえんだ!」
 荒木が一歩前に出た。
「簡単なことです。ただ殺すよりも精神的にショックを与えてから殺そうと思っただけのこと、実際、尚芳はかなりこたえているようですしね。」
「なっ・・・」
 口ごもった荒木に代わって、今度は迷流が一歩前に出た。厳しい表情で目をすっと細める。
「しかし、唐花さん。霧華さんは尚芳さんへの復讐とは、別の理由で殺しましたね。」
 唐花の眉が小さくぴくりと動いた。
「霧華さんは、美鈴のために殺したのではないですか?」
「おいおい、何を言っているんだ?探偵さん?」
 荒木の問いを無視するように迷流は続ける。唐花は無言のままだ。
「霧華さんが私に迫っているのを見た美鈴が、ショックを受けて部屋から飛び出してくるのを見た貴方は、霧華さんを止めるために発作的に持っていたナイフで彼女を刺した。私を殺さずに彼女だけを殺した事から見ても、貴方は美鈴の為に霧華さんを殺したとしか思えない。」
「下らない、どうして私がこの娘の為なんかに・・・」
 壁に寄り掛かったまま眠る美鈴を見ながら、漸く唐花はそう言った。
「咲耶さんを思い出した。」
 迷流は短くそれに答える。唐花は黙り、美鈴から目を背けた。
「しかし唐花さん、貴方の中の『御館様』が何を言ったかは知りませんが、貴方の目をそんな風にしたのは、貴方の父親の清輝さんだし、清輝さんを殺したのも清輝さん自身です。・・・貴方だって、本当はその事に気がついていたのではないのですか?」
 唐花は、不意に寂しそうに笑った。少しだけ自嘲気味に言う。
「探偵さん、それこそ貴方のノベリングの領域でしょう。・・・解りました、言いましょう。私はただ、咲耶お嬢様の笑顔を奪った尚芳が許せなかっただけです。」
 唐花は迷流達の方を向いたまま、何歩か後ずさった。そして不意に足を止める。
「そう言えば、御館様の言っていた事の中に、一つだけ真実はあったような気がします。」
「何?」
 荒木が僅かににじり寄る。
「伝説を失ったとき、村は終焉を迎える、尚芳の手によって鳥目男が神の座から引きずり下ろされた今、」
 くるり、と唐花はきびすを返すと、

「この、影葵も終わりだと言うことです!」

 そのまま一目散に廊下の向こう側に向かって駆けた。
 荒木がその後を追おうとする。迷流は美鈴の元に走り寄ろうとして、ぐらり、と倒れかかる。病み上がりの体で再三のノベリングはやはり堪えたらしい。荒木が慌てて倒れ込む探偵に手を差し出したその刹那――
 どおん、と爆発音が響いた。
 頬を染める赤い光の射す方に目を向けると、唐花の消えた方向の部屋から火が噴いていた。火は木造建築の縁澤家に瞬く間に牙を剥こうとしている。遠くの方で再びどおん、と言う音が聞こえた。どうやら爆発したのはここだけではないらしい。
「ちいっ、最初からこのつもりだったのか?」
 荒木は小さく舌打ちをすると、歩けるか?と迷流に手を差し出した。唐花を追いかけるのは諦めたらしい。
「私は大丈夫です、それより美鈴を。」
 迷流は荒い息の中、気丈にそう答えた。
「よし、行くぞ!」
 美鈴を抱き上げると、荒木は力強く叫んだ。 



 縁澤家から上がった炎はあっと言う間に屋敷をその赤い舌で絡め取っていた。
 若い村人達と、鳥目男の捜索に駆り出されていた警官達によって必死の消火活動が行われていたが、屋敷を覆う炎の勢いは凄まじく、延焼を防ぐだけで手一杯と言った状況であった。
 屋敷内にいた人々はその殆どが火の回る前に逃げ出していたが、車椅子の芳香だけは逃げ遅れたらしく、その生存が絶望視されている。また、当然のように唐花と、幽閉されていたという御館様の姿もここにはない。荒木は複雑な思いで盛んに炎を吹き上げ続ける屋敷を見上げた。
 地上に目を戻すと、威厳のかけらさえ失ってしまったような惚けた表情で、地面に膝をついたまま、半開きの口で縁澤尚芳が燃え盛る屋敷を凝視している。唐花が最も憎んでいた筈の男は、こうして生き延びている。しかし、彼の権威の象徴であった筈の屋敷を失った今、その生には殆ど意味がないのかも知れないが。
 尚芳の後ろには喜美子が立っている。その顔にはこの場には不釣り合いな微笑みが浮かんでいた。その心は、もうこの世界にはないのかも知れない。
 二人の後ろの方には皺深い顔に憂愁を刻んで還山為助が黙って炎を見上げていた。
 鶉森隆文は、村人達を指揮して消火活動に飛び回っている。荒木の傍らに立つ探偵は、先程まではしきりに荒い呼吸を繰り返していたが、漸く落ち着いてきたようだ。今は深呼吸をしては、時折誤って流れてきた薄煙を吸い込んでむせかえっている。美鈴は荒木の腕の中で小さな寝息を立てている。
「唐花さんは・・・中途半端な透視者だったんです。」
 咳き込む音が聞こえなくなったと思ったら、迷流はしみじみとした口調で誰にともなく呟き始めた。
「唐花さんはその気になれば、どんなものでも透視することが出来た。だからあの黒い布も、彼にとっては無いに等しいものであると同時に、他の人からは自分の目線を隠し、盲目ではないと気取られることを防いでいたんです。」
「中途半端って言うのは?」
 荒木が言うと、迷流は屋敷の方に目を向けた。
「ええ、唐花さんは何でも透視することが出来ました。しかし、その力の中途半端な部分とは、透視せずに見ることが出来ない物があったことです。」
「どういうことだ?」
「唐花さんは、生きている物が見えなかったんです。生きている物だけは、どんなに見ようと思っても、見えるのは着ている服と、その向こうにある景色だけなんです。」
 何だそりゃあ、と荒木は頭を抱えた。迷流は荒木の方に向き直った。
「そう考えるとしっくりくるとは思いませんか?咲間さんと乃舞華さんが殺されたときの事も。まず、唐花さんはワインの中にあらかじめ眠り薬を入れておいて、二人を眠らせました。ちょっとやそっとじゃ目が覚めないように。そして、二人が寝静まったのを部屋の中を透視しながら確認した後で、『御館様の鍵』を使って部屋の中に入ります。唐花さんは盲目ではないのですから、当然のように電気をつけて。」
「ああ。」
 荒木は手を打った。
「その明かりを隆文が目撃したわけか。」
「次に、唐花さんは二人を殺すわけですが、命ある物を見ることが出来ない唐花さんは、裸で眠っていた二人を見ることが出来なかった。そこで、二人をそれぞれ毛布にくるんで、その形を浮かび上がらせてから滅多刺しにしたんです。生きている物が見えない唐花さんは、確実に相手を殺せるかどうか不安だった。だからかつて見た事のある死体、清輝さんの死体に倣って滅多刺しにしたんです。」
「あの死体には・・・そんな意味が。」
 荒木は愕然とする。迷流は寂しそうに呟いた。
「だから、唐花さんは好きだった咲耶さんの顔を見ることは適わなかったんです。彼女が生きているうちには。皮肉なことに、鳥目男の手によって彼女が殺されて初めて、唐花さんは彼女を見ることが出来たんです。首だけの彼女を。・・・尚樹君の首がもぎ取られていたのはやはり確実に殺すために、それに倣ったのかもしれません。」
「しかし、唐花には何だってそんな中途半端な力が?」
 恐らくは清輝さんの実験の所為です、と迷流は言った。
「清輝さんは透視が出来る人間を作ろうとして、それを自分の子供で実験していたんです。唐花さんがお母さんのお腹の中にいるときに、母親に薬を服用させて。・・・あの実験室に恐らくその薬がまだ残っていたはずです・・・今はもう炎の中ですが。」
 そして不意に、放心したままの尚芳に向かって呼びかけた。尚芳は木偶人形のようにゆっくりと首を迷流の方に向けた。
「尚芳さん。貴方が御館様を幽閉したのは、本当に御館様が惚けてしまって、あること無いこと騒ぎ立てながら暴れていたからですね。」
 尚芳はぐう、と呻いた。その目に微かに理性の光が戻る。
「ああ、初めは保健室で養生させていたのだが、芳香や食事を運んできた唐花に向かってあること無いこと盛んに吹き込むようなので別室に移したんだ。」
 屋根裏ですね、と迷流は言った。
「そして御館様が死んだ後は、その死を隠すために屋根裏を封印して、窓も塞いだ。そうですね?」
 再び尚芳はぐう、と呻いた。
「ああ、その通りだ。」
「おい、どういう事だい?御館様は死んでいたのか?まさか尚芳さんが御館様を・・・?」
 いいえ、違います、と迷流は荒木の言葉を遮った。
「御館様は自然死です。尚芳さんが御館様の死を隠したのは自分が殺した証拠隠しの為などではありません。尚芳さんは、御館様の影響力を失うことを恐れたんです。そうですね?」
 ああ、と尚芳は頷いた。最早隠し立てをする気力もないようだ。
「私は・・・怖かった。私は所詮入り婿でしかない。探偵さん、貴方の言うところの『ヨソモノ』だよ。村の連中、特に年寄り連中は私にへいこらしているようでも、其の実、御館様、私の後ろの縁澤蒼紫に忠誠を誓っていたに過ぎないのだ。私はちやほやされながらも、ひしひしとその空気は感じていた。だから、御館様の死を隠そうとしたんだ。もう少し、私自身に彼らが従うようになるまで。」
「縁澤家の他の人達も、その事は知っていたんですね。」
「ああ、病気でこもりがちな乃舞華以外は。後、咲耶が帰ってきてからは、気づかれないようにわざと唐花に居る筈のない御館様の食事を運ばせていた。」
 言い終えて、尚芳はふふっ、と自嘲するように笑った。
「今にして思えばなんて莫迦莫迦しい事なんだろうな。そこまでしても守りたかった私の地位も名声も、全てはあの炎の中だ・・・もう、私はおしまいだよ。」
 そしてそのまま地面に崩れ落ちた。額を地面につけ、地面を拳で叩きながら声にならない嗚咽を漏らす。ついこの前まで威厳に満ち満ちた縁澤家の当主だったとは思えない姿だった。
 と、その尚芳の肩を皺だらけの、しかしがっしりとした手が掴んだ。
「尚芳。」
 名前を呼ばれて彼はゆっくりと振り返る。還山為助が厳しくも優しい笑みを湛えていた。
「一度ぐらいの挫折でクヨクヨするもんじゃない。」
 老人は諭すような口調で言う。
「お前は、事業に失敗して隠棲していた儂を、ここの使用人として雇い入れてくれたな。お前がどういう心づもりだったかは儂は知らん、が、儂は嬉しかったよ。働けることが、それも立派になった息子のためにな。・・・お前は儂なんかよりもずっと若い、才覚もある、やり直しがきかないなどと言うことはないさ。」
「父さん!」
 尚芳は言いながら為助にしがみついた。子供のように泣きじゃくる尚芳の背中を為助は慈しむように優しく撫で続けた。
 迷流はそれを黙って見つめていた。少しだけ複雑な表情のように荒木には思えた。
「ところで探偵さんよ。」
 呼びかけてみると迷流は、はい?と驚いたように振り返った。
「結局この事件、犯人は唐花と言うことで良いのか?御館様は事件にどのように関わっていたんだ?」
 迷流は、ああ、と言いながら前髪をかき上げた。
「御館様は、生前は先程尚芳さんが言ったように惚けてしまって、あること無いことを唐花さんや芳香さんに吹き込んでいました。尚芳さんが清輝さんから美咲さんを奪い、邪魔になった彼を殺した、唐花さんの目をあんな風にしたのも尚芳さんの仕業だ・・・と。そして、御館様は死んだ後も、唐花さんに対して影響を与え続けた。」
「死んだ後も?」
 ええ、と迷流は頷く。そして腕を腹の辺りで緩く組んだ。
「あくまでも、唐花さんを“ノベリング”して得た結果ですから、多分に彼の主観が入っているのですけど、どうやら、唐花さんは御館様が死んだ後も、彼から指令を受けていたらしい。御館様の幽霊に。」
「おいおい、そんな馬鹿な。」
 拍子抜けしたような荒木の顔を見て、迷流は苦笑した。
「ええ、ですから恐らくは彼の中に存在していたもう一つの自我が、御館様の幽霊と言う形を取って出現したと考えるのがまあ妥当なところだと思います。・・・もしかすると、本物の幽霊かも知れませんけどね。」
 言いながら、荒木の腕に抱かれている美鈴の顔を覗き込む。
「もしかすると、この子が見ているかも知れません。」
「ふうむ・・・」
 唸った荒木を見ながら、迷流は疲れた微笑みを見せた。
「背景にどんな事情があったにせよ、唐花さんをこの様な犯行に駆り立てた直接的な原因は咲耶さんの死でしょう。・・・唐花さんは、本当は優しい人だったはずです。何故なら、こうして私も美鈴も生きているのですから。」
 と、その時荒木の腕の中で美鈴がうんっ、と小さな声を漏らした。迷流は再びその顔を覗き込む。
「あ・・・あれ?」
 二人が覗き込む中、ゆっくりと少女は目を覚ました。不思議そうな表情でぎこちなく首を左右に振る。知らぬ間に、迷流と荒木は微笑んでいた。
「あれ・・・私、どうして・・・」
 そして、少女はあっ!と声を上げる。荒木は先程の迷流とのやり取りを思い出して、何だか無性におかしくなった。
「迷流様!荒木さん!事件は?唐花さんは?」
 迷流は、これ以上無いと言うほど優しい微笑みで少女を見つめ、そして言った。
「事件は・・・みんな終わったよ。」
 小さく、優しく美鈴のおでこを小突く。
「あれほど気を付けるようにって言っただろ、美鈴。」
「御免なさい・・・」
 美鈴は恥ずかしそうに呟いた。そして急にあっ、と驚いたように声を上げる。
「迷流様!あれ!」
 迷流と荒木は美鈴の指さした方向に目を向ける。村人達の中からも、おおっ、と言う歓声が漏れ聞こえてきた。
 燃え盛る縁澤家の炎が一際大きく盛り上がった。それが、丁度御館様の幽閉されていた屋根裏部屋の辺りからだったことに気づいたものがいたかどうかは定かではない。
 炎は、まるでそれ自体が生きているかのように蠢きながら、次第に形をなしていった。
「・・・とり・・・?」
 誰かの呟きが聞こえた、その刹那。

「くええええええええーーーーーっ!!!!」

 炎は、高らかに啼いた。
 いや、それはもう炎ではない。ゆっくりとそれは真紅に染まった翼を広げた。

「くええええええええーーーーーっ!!!!」

 炎の鳥は、朱雀はもう一声啼くと、大きく羽ばたき屋根を離れた。一際熱い風が迷流達のいるところまで届く。
 鳥は縁澤家の上空を名残惜しむかのようにゆっくりと何回か旋回すると、やがて、空の彼方へと消えていった。
 迷流達は、村人は、消火活動の手さえ休めて何時までもその姿を目で追い続けた。
 心の底で村の伝説の終わりを漠然と確信しながら。

終幕、及び正録『影葵編』・完


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