大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

連載第十回・密航者(前編)

 開け放したままになっている窓からは、網戸越しにぬるい風がゆるゆると入ってくる。外は厚く雲がたれ込めているが、いかんせん黒どころか灰色にもほど遠い色をしているため、奇妙な明るさの下で、躊躇いがちに蝉が鳴いているのが聞こえる。
 青年は、畳の上で目を覚まして、口の横を伝う涎を拭いた後で寝返りを打った。


 八畳ほどの畳敷きの部屋である。しかし床の殆どは、脱ぎ捨てられた衣服やら何やらで、足の踏み場もないほどに散らかっている。
 青年は、よれよれになったワイシャツを着て、少し色のくすみ始めたスラックスを履いている。髪の毛は無造作に伸ばしてあり、比較的整っている顔にも、無精髭が目立ち始めている。


 青年は一回大きな欠伸をすると、再びむにゃむにゃと気怠い眠りにその身を委ねようとする。が、その行為はすんでの所で遮られた。階段を登ってくる足音に、青年は大儀そうに体を起こした。
「よう、起きとったか?」


 そう言いながら現れたのは、腰の曲がった老婆だった。青年は、頭を掻きながら微笑んでみせる。
「カジさん。今起きたんですよ、貴方の足音で。それより煙草無いですか?」
 老婆は顔を顰めた。
「・・・藍花、お前なあ、この格好している時はおばちゃんと呼べと言ってるだろうに」
「ああ、ごめんゴメンおばちゃん」
「ほれ、「アルカディア」だったな」
 藍花と呼ばれた青年は、ありがとう、と言って”自称”おばちゃんの懐から出された煙草を受け取った。早速それに火を点けると、窓辺に腰掛けて、ゆっくりと外に向けて紫煙を吐き出す。


「全く不健康も甚だしいねえ」
 おばちゃんは、そんな藍花を見ながら嘆息した。そして、どっこらしょ、と腰を降ろした。
「なんですか、タバコ屋がそう言う事言いますかね」
「別に煙草については何も文句はないよ。いい若いもんが昼間っからゴロゴロしている現状を嘆いて見せたまでさ」
 しょうがないでしょ、行く所無いんですから、藍花はそう言ってむくれた。


「それとも親父みたいに遊郭通いでもしたら良いんですか?」
「悪かったよ、むくれるな」
 言いながら、おばちゃんは持っていた袋の中身を取り出してちゃぶ台の上に置いた。
「良い瓜が入ったんだ、これでも食べて機嫌直してくれよ」
 おお、良いですね、と言いながら、藍花は窓辺からちゃぶ台の方ににじり寄ってきた。


「ただ喰うのもなんだろう、喰いながら、おばちゃんがこの辺りに伝わる怪談話でもしてやろうかねえ」
 ほお、と藍花は興味深そうに目を輝かせた。
「この綴喜橋から一寸行った所に、長谷川町という港町があるだろう?」
 藍花は、皿に盛られた瓜にかぶりつきながら、うんうんと頷いて見せた。
「これは、あそこに伝わるお話なんだ。・・・


 今を遡ること、百年の昔、当時はまだ江渡と呼ばれていたこの街で、一組の男女が恋に落ちた。夏祭りの日だったそうだ。ところが、一寸ばかりこのカップルには事情があって、なかなか会うのも大変だったんだ。
 それというのも、女の方が、実は去るお偉い大名筋の血統の子でな、それに対して、男の方はごく普通の町人だったから、この二人の恋は、いわゆる身分違いの恋、って言う奴だったんだ。


 と、言うわけで一夏の恋として終わってしまえば良かったのかも知れないが、このお嬢さん、夏祭りにもお忍びで城を抜け出してやって来ていた位のじゃじゃ馬で、引き下がることなく、その後も何度も城を抜け出しては逢い引きを繰り返したんだそうだ。


 そしてとうとう、二人は駆け落ちすることを決心した。ある夏の夜、女は何時もの様に城を抜け出して、男の待つ海岸へと急いだ。
 ところが、何処から情報が漏れたのか、二人には追っ手が掛かっていた。そこで二人は、どうせ捕まるならば、どうせこの世で成就できない恋ならば、と、仲良く海へとその身を投げてしまった。


 それ以来、あそこの海岸は、「悲恋海岸」の名前で呼ばれるようになったんだそうだ」


 ふうん、と藍花は唸った。
「なんだ、結構ありがちな話じゃない」
 いやいや、とおばちゃんは言った。
「話はこれだけでは終わらないんだよ。最近になってからも、何組かのカップルが悲恋海岸に向かったまま行方不明になっているんだそうだ」
「何か・・・ますますありがちな話の様な気もしますが・・・」


 そして藍花はごちそうさま、美味しかったですよ、と言いながら立ち上がった。
「おばちゃん、ジャケットあります?」
「・・・多分そこに転がってると思うけど、何で?」
「散歩に行ってきます、不健康も甚だしい生活をどうにかするためにも、せっかくだから、その海岸とやらに行ってみますよ」
 藍花は、服の山の中から、ジャケットを引っぱり出しながらそう言った。いや、そうじゃなくて、とおばちゃんは顔の前で手を振った。


「何で、夏なのにジャケットなの?」
 そんなの決まってるじゃないですか、と藍花は不思議そうな顔で言った。
「寒いからですよ」

 藍花は空の色に呼応するように、どんよりと垂れ込めた熱気の中を海に向かって歩いていた。海の方に向かえば、少しはすがすがしい風が吹いているかと思ったが、その様なことはなく、逆にじっとりと重い霧が、辺りには立ちこめ始めていた。


 ふう、と溜息をついた後で、何本目か分からなくなった煙草に火を点ける。そしてぼんやりと思いを巡らせた。
 藍花は、迷流財閥と言う大財閥の御曹司であり、しかも長男である。従って、ゆくゆくは財閥の総裁の跡を継ぐはずの立場なのだが、訳あってこうしてブラブラとしている。


 藍花はこの前、父親であり、現総裁である迷流藍歳と喧嘩して家を飛び出した。最初はほんの些細なことだったように思うが、売り言葉に買い言葉、終いには何時も抱えていた不満が爆発して、このような事態になってしまったのだ。


 藍花は元々、親に束縛された御曹司という立場が好きではなかったし、帝王学などを学ぶよりも好きな本でも読んでいる方がずっと好きな子供だった。また、藍花の父親の藍歳は、各界でも知らぬ者がいないほど、性豪として有名だった。正妻妾問わずに、多くの子供をこしらえただけでは飽きたらず、毎日のように、色町を徘徊している。その様な態度が、実母を幼いうちになくしている藍花にとっては、どうしても受け入れがたい物に映るのだった。


 かくして藍花は、街をうろついた挙げ句に、元々知り合いだった「タバコ屋のおばちゃん」の元を訪れて、店の二階に居候させて貰うことになったのだった。
 いつの間にか、ザザーン、と言う波の音が大分近くで聞こえるようになっていた。藍花は足を止めて辺りを見回す。


 何時の時代に作られた物なのだろう、海岸線に沿ってずうっと、まるで迷路のように入り組みながら石垣が続いている。石垣を抜けた先には、天然の地形を利用した小さな港のような物があるはずだった。藍花は、懐から懐中時計を出して時間を確かめると、港の方まで歩いて行ってみることにした。


 狭い石垣の間を通り抜けながらでも、音だけで海を近くに感じることが出来る。それはなかなか風流でよいのだけれど、石垣は時折分かれ道になっては、行き止まりがあったり、と、藍花は思うように先に進めずにいた。
 不思議な感覚だ。もしかすると自分は、このまま出口のない石垣の迷路の中で彷徨い続けるのかも知れない。それも良いか、と藍花は考えて、一人微笑んだ。


 暫く歩き続けると、ほんの少しだが、波の音が遠ざかった気がする。さすがに少し不安になった藍花は、海側の石垣によじ登ってみた。そこから見えた光景に、藍花はあっ、と声をあげる。
 海は随分と下にあった。石垣のあるところは少し高い断崖の上にあって、その下の方には、砂浜に波が寄せているのが見える。どうやら石垣の中の小道は、気がつかないほど緩い勾配になって、崖の上へと向かっていたらしい。今、藍花がいるのが、丁度この断崖の頂点の部分らしく、石垣は先の方にぼんやりと見える港の方まで、今度は緩い下り坂になって繋がっているようだった。


 藍花は石垣から降りると、再び港に向かって歩き始める。雲の厚い天気の所為で、今まで気がつかなかったが、太陽はもうだいぶ西へと傾いているらしい、藍花は、自然と足を早めた。
 その時であった。


 何処からか女のすすり泣く声がしてきた。藍花はびくっ、としてその歩みを止めて耳を澄ました。頭の中を猛スピードで先程おばちゃんに聞いた怪談がよぎる。・・・だが待てよ、あれは確かカップルが居なくなるのであって、別に女の幽霊が出るような話じゃあなかったよなあ・・・。
 藍花は恐る恐る歩を進めることを再開した。女のすすり泣く声は、徐々に大きくなってくる。
 幾つめかの角を曲がった後。そして、二人は出会った。


 三方を石垣に囲まれた行き止まり。そこに、すすり泣きを発していた張本人が座り込んでいた。幽霊ではない、れっきとした人間だ。
 それは少女だった。年齢は、十二、三と言ったところだろうか。体には、何一つ衣服を纏っていない。両腕で、まだ膨らみかけて間もない胸を隠すようにしている。顔は少々汚れているが、可愛らしい顔立ちをしていることが、そのままでも見て取れる。長い黒髪を、後ろで二つに分けて結んでいて、丸い大きな目は、赤く腫れて、まだうっすらと涙が浮かんでいた。


「き、君は・・・誰?」
 藍花は、漸くそう声を発した。少女は怯えた表情を崩すことなく、
「・・・誰人シュイレン?」
 ぽつりとそう言った。


 ・・・中華語だ。と、言う事までは藍花は分かったのだが、あいにく、何を言っているのかまでは分からない。フロラン語なら何とかなるのになあ、と小さく呟いた後で、藍花は多分自分と同じ事を相手も訊いてきたのだろうと想定して、自分自身を指さしながら、
「迷流、迷流藍花」
 そう言って、今度は、指を少女の方に向けた。
「君は?」


「・・・美鈴めいりん
 少女は、怖ず怖ずとそう言った。
「美鈴か、可愛い名前だね」
 そう言って藍花は微笑むと、身振り手振りを交えて、必死にコミュニケーションをとろうとする。
「ええと、君は、何処からきて、一体ここで何してるの?」
 裸だし・・・、と藍花は小さく呟いた。


 美鈴と名乗った少女は、頭を両手で抱えると、ぶんぶんと左右に振った。
「・・・ワカラナイ、キオクナイ」
 いきなり美鈴は、たどたどしいながらも日本語を発した。突然のことに、藍花はぎょっとした。そして尋ねてみる。
「日本語、出来るの?」
 美鈴は、スコシダケ、と呟いた。藍花はどうしたものかと、少しだけ考え込んだ。一体この女の子をどうしたものか。空はいつの間にか、ダークブルーに染まり始めている。記憶がないのが本当だとするなら、この子をここに置き去りにしていくことは出来ない。・・・裸だし。


「何処か、帰る場所は、あるの?」
 少女は、ワカラナイ、と目を伏せ、首を横に振った。藍花は、漸く決心を固めた。美鈴の側まで歩いていって、着ていた季節外れのジャケットを脱ぐと、少女にそれを着せてやる。肩に掛けてやる瞬間、美鈴は、目を閉じて、怯える小動物のように身震いをした。
 藍花がそれ以上何もしてこない事に気がつくと、美鈴は、不思議そうな顔で藍花を見上げた。丸く見開かれた瞳が愛らしい。藍花は言った。


「もし、何処にも帰る所がないなら、私の所に来るかい?」
真的チェンダ?」
 美鈴はただでさえ大きな目を更に見開くとそう言った。ああ、と藍花は優しく微笑みながら頷いて見せた。
「謝謝!メイルサマ!」
 少女はそう言って、始めて微笑むと、藍花にしがみついてきた。
「おいおい・・・」


 言いながら、藍花は苦笑する。・・・よく考えてみれば、藍花も宿借りの身なのである。まあ良いか、と藍花は一人呟くと、美鈴をつれて綴喜橋のおばちゃんの元に帰った。夕暮れ時の綴喜橋は、様々な人々で混雑しており、ジャケットを羽織っただけの少女を連れて歩いていても、取り分けては奇異な視線を向けられることもなかった。


「おやおや、まあまあ」
 おばちゃんのタバコ屋に戻ると、店番をしていたおばちゃんは、少女を連れて帰ってきた藍花を見て、そう言って目を丸くした。迷流はどう話したらいいものか、考えあぐねて頭をぼりぼりと掻いた。美鈴は、迷流にしがみついて、ちらちらとおばちゃんに視線を送っている。おばちゃんは、素早く店のシャッターを閉めると、
「まあ、とにかく中にお入りよ」
 と言った。藍花と美鈴は、そのまま茶の間に通された。おばちゃんは黙って、お茶をたてている。


「あ、あのね、おばちゃん」
 取り敢えず何か言わなければ、と思って、藍花が口を開くと、おばちゃんは、突然美鈴に向かって話しかけた。
『あんた、中華の人かい』
 藍花の服の裾をつかんで、怯えた目をしていた美鈴は、突然母国語で話しかけられて、大きな目を見開いた。
「おばちゃん、中華語話せたんだ」
 藍花は驚いていった。当たり前じゃないかい、とおばちゃんは呆れた顔をする。


「情報屋が中華語の一つも話せなくてどうするんだい」
 おばちゃんは、そのまま美鈴と中華語で何事か会話をした。故郷の言葉を聞いて安心したのか、美鈴も怖ず怖ずとおばちゃんに言葉を返している。
「成程ね、記憶がないってわけかい」
 会話が一段落した所で、おばちゃんはそう言って腕を組んだ。
「おばちゃん、この子もここに居させてあげて欲しいんです、良いでしょう?」
 藍花がそう言うと、おばちゃんは、にっこりと笑った。


「ああ、もちろんだとも。どっかの放蕩息子だって預かってあげていることだしね。それに比べたらこんな可愛い女の子は大歓迎さ」『美鈴ちゃん、とか言ったね、安心してここでお過ごし。この藍花って奴は、多少だらしがないし頼りがいもないけど、心根だけは優しいから』
 おばちゃんは、藍花に答えた後で、美鈴に中華語でそう告げた。美鈴は、藍花を見て、くすり、と笑った。ん?と藍花は首を傾げる。さてさて、と、おばちゃんは立ち上がった。


「取り敢えず美鈴ちゃんを、お風呂に入れてあげないとねえ、その間にちゃんとした服を用意しておこう」
 美鈴にも中華語で同じ様なことを言って、おばちゃんは、美鈴を風呂場へと案内した。藍花も何となくついていく。
『お風呂、一人で大丈夫かい?』
 美鈴におばちゃんがそう尋ねると、美鈴は無言のまま、藍花の方をじいっと見つめた。おばちゃんは、手を腰に当てると、軽く溜息をついた。
「藍花、ご指名だよ、一緒に入ってやりな」


「な、何で私が?」
 おばちゃんは、藍花の耳に顔を近づけると囁いた。
「いろいろ怖い目にあったんだろう、一人じゃ心細いんだよ。それとも何か、私が一緒に入ってあの子を更なる混乱の淵に叩きこめって言うのか?」
 藍花は、確かに・・・と呟く。美鈴はきょとん、とした表情で二人を見ていた。


「さあ、入っておやり」
 おばちゃんは、藍花の背中をぽん、と押した。美鈴が藍花を見上げて、にこにこと微笑む。藍花は、上を見上げながら頭を掻いた。
 何となく照れたように風呂場へと入っていく藍花を、おばちゃんはニヤニヤしながら見送った。そして、風呂場の扉が閉められた後で、急に真面目な表情になると、一人呟いた。今までとは全然違う低い声だ。
「・・・媒介者メイジエツ、それも恐らく性交シンジャオ・・・。一体何が起こってるんだ?・・・調べる必要があるか」


 そして、美鈴に着せる服を探しに二階への階段を登る。おばちゃんは、軽く自分の頭を一回叩いた。
「だとすると、記憶がない方が幸せなのかも知れないねえ」
 さて、その頃藍花は、美鈴の頭を洗ってやっていた。石鹸が目に入らないように、美鈴は目をぎゅっと閉ざして、藍花に総てを委ねている。
 美鈴の髪の毛は、最初こそ恐らく海水に浸っていた所為で、ぱさぱさしていたものの、石鹸でその痛みを取ってやると、黒くてつやつやしていてなかなか触り心地がよい。思わず藍花は鼻歌を歌う。幼い頃、弟の華隠と一緒に風呂に入っていた頃のことを、藍花は何となく思い出していた。


「はい、お湯かけるよ」
 藍花はそう言って、風呂桶からお湯をすくい取ると、少し水を加えた後で、美鈴の頭からかけてやる。おばちゃんの家の湯船は、木で出来てはいるものの、どう言うわけか、意外と大きい。流石に藍花の実家の広い湯船にはかなうべくもないのだが。
 美鈴に体を洗わせている間に、藍花は自分の頭を洗った。そして美鈴から、ヘチマを乾燥させた垢すりを受け取ると、少女の小さな背中を擦ってやった。


「痛くないかい?」
「ウン、キモチイイ」
 美鈴はくすぐったそうに笑った。
「はい終わり」
「コンドハワタシノバンネ」
 美鈴は言って、藍花に背中を向けるよう促した。はっきり言って少女なので、そんなに力はない。しかし藍花は妙にほほえましい気分になった。と、その時、美鈴の手が、藍花の股間の方に伸びようとする。藍花は、慌てて立ち上がった。
「だーっ!そっちは良いよ、自分でやるから!」


 言った藍花を、美鈴はきょとん、とした表情で見上げる。藍花はその頭を、取り敢えず撫でてやる。
(・・・そういうこと・・・なのか?)
 失われている美鈴の記憶。そこには、果たして何があるというのだろう?藍花は、考えるのを止めて、体を洗い終えると、美鈴と一緒に湯船に浸かった。
 美鈴はお湯を掬ってはしゃいでいる。藍花は、何となく複雑な気持ちになった。


 お風呂からあがると、脱衣籠の中に、藍花と美鈴の着替えが用意されていた。藍花には縞の入った、欧州風の寝間着。美鈴には、ピンク色をしたやはり欧州風のネグリジェが用意されている。藍花はそれを見て、何でこんなものをおばちゃんは持っているのか盛んに首を捻った。
 美鈴にネグリジェを着せてやって、似合う似合う、と頭を撫でてやっているとおばちゃんがやってきた。


「お、さっぱりしたね」
 おばちゃんは二人の様子を見てそう言うと、手に持っていたコーヒー牛乳の瓶を二人に手渡した。美鈴は手の中のそれを不思議そうに見ている。迷流は笑って、ふたを開けてやると、腰に手を当てて一気に飲み干して見せた。


「この腰に手を当てるのがポイントなんだ」
 言った迷流におばちゃんが、お前時々庶民臭いところあるよな、と笑った。美鈴は怖ず怖ずと、迷流のまねをしてコーヒー牛乳に口を付けた。それを飲み干した後で、美鈴は笑うと、
好吃ハオチー!」
 嬉しそうに叫んだ。おばちゃんは満足そうに笑うと、
「さ、夕飯にしようかねえ」
 と言って先に立って歩き始めた。美鈴も小走りになって、その後に続く。だいぶ緊張も解けたみたいだ、迷流は軽く息をつくと、ゆっくりとその後に続いた。


 茶の間では、おばちゃんの手による料理が、湯気を立てて待ちかまえていた。見事なまでの和食づくしである。美鈴は不思議そうな顔で料理を眺めていた。
『さ、お腹減っているんだろ、お食べよ』
 おばちゃんの言葉が終わるやいなや、美鈴はまさに欠食児童という言葉がふさわしい食べっぷりで料理を平らげていく。


好吃ハオチー!」
 美鈴は再び叫ぶ。おばちゃんは満足そうに微笑んだ。
「良い食べっぷりだねえ、料理人冥利に尽きるよ。西欧料理作れとぼやくどこぞの御曹子とはえらい違いだね」
「別に和食が嫌いってわけじゃないですよ・・・ウナギ以外なら」
 藍花はむくれたようにぼやきながら肉じゃがを突っついた。


 食事が終わると、美鈴はおばちゃんにくっついて、洗い物を手伝い始めた。迷流は一人、茶の間に取り残される。煙草でも吸おうと思って、懐をまさぐっていると、
「藍花、暇しているなら、二階で美鈴ちゃんの分も布団を敷いておいで!」
 おばちゃんの鋭い声が飛んで、藍花は促されるままに二階に上り、床一面に散らばった服を部屋の隅の方に纏めると、押入から二人分の布団を取り出して床に敷いた。


 ふう、と肩を回しながら下に降りると、おばちゃんと美鈴はお茶を飲みながらくつろいでいた。藍花が腰を降ろすと、おばちゃんは、藍花の前にも湯飲みを置いた。
「やっぱり女の子がいるって良いねえ」


 おばちゃんはしみじみと呟いた。ふうふうと湯飲みに息を吹きかけてお茶を冷ましている美鈴を、優しい目で見つめながら、藍花もおばちゃんと感想を同じくする。・・・藍花には何人か妹がいるが、皆腹違いの妹であるため、どうも藍花や華隠との間には、見えない壁が存在しているような気がしていた。だから、美鈴のように無邪気に甘えてくる子は、はっきり言って可愛い、と思う。


 そう思いながら美鈴の方をもう一度見ると、少しとろとろと瞼が重くなってきているようだ。おばちゃんもその事に気づいたらしく、もうそろそろおやすみよ、と言ったようなことを中華語で言った。美鈴はこっくりと頷いた。
「藍花」
 おばちゃんに顎で促されて、藍花は美鈴の手を引いて階段を登った。
「おやすみ」
 おばちゃんの声が後ろから聞こえた。


「さ、ここだよ」
 先程敷いた布団が二つ並んでる部屋に美鈴を案内すると、藍花はそう言った。美鈴は二つ敷いてある布団を、少し不思議そうな顔で眺めた後、藍花の方を見て、大きな目を何度か瞬く。
「ああ、美鈴はこっち、私はこっち」
 藍花はそう言って布団をそれぞれ指さすと、自分の布団の中に潜り込んだ。夏だというのに、藍花の布団には肌掛けも掛けられている。
 美鈴も、怖ず怖ずと自分の布団に潜り込んだ。


「明かり消すよ」
 藍花はそう言って、洋燈ランプの明かりを消す。そしてすぐに寝息を立て始めた。しかし、藍花の眠りは、暫くしてからもぞもぞと動く何者かの気配によって打ち破られた。
 上手く開かない半目で、その正体を見極めてみると、藍花の布団に美鈴が侵入していた。まさか、と思い注意しようとして藍花は思いとどまる。
 少女は、小刻みに震えていた。藍花の胸の辺りに、熱い水滴が感じられる。少女は泣いているようだった。
 藍花は、何も言わずに、少女の頭を掻き抱いた。そして優しく背中をさすってやる。


 守ってやりたい。
 そこには何の利害も疑問もなく、藍花はただ純粋にそう思った。

密航者(前編)・完
後編に続く


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