大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

連載第十一回・密航者(後編)

 空は高く晴れ渡っている。その青の中を自由気ままに、鳴き声をあげながらカモメが飛び交っている。


 気楽なものだ、そう考えて、青流はペッと唾を吐いた。
 あの、闇に紛れた謎の船による砲撃の夜から二日。青流達を乗せた船は、どうにか日本の地へと辿り着くことが出来た。天然の地形を利用した小さな港。地図の上では、長谷川と言うところに当たるらしい。他に止まる船も殆ど無いような、小さな港だ。
 青流は照りつける太陽を忌々しげに見つめた後で、もう一度唾を吐いた。


 船の方では水夫達が、懸命になって砲撃によって破損した部分の修理に当たっている。青流がそちらの方に戻ると、船室から船長と一緒に、少し疲れた表情の花燃が出てきた。


『どうでした?』
 青流が尋ねると、船長は渋い表情で首を横に振った。
『駄目だ、どう言うわけか本国へ俺の念信が繋がらない』
 船長の言葉に、合点が行かぬな、と花燃は合わせた。
『この前の砲撃にしてもそうだが、どうも合点が行かない。まるで日本の軍隊は、我々が来ることを見透かしていたかのようではないか?・・・尤もあの姿の見えぬ船が日本軍の物だと仮定したらの話だがな』


『だがお前ら、当面の問題はな・・・』
 船長は苦々しい表情を崩さないままで言った。
『・・・性交媒介者』
 青流は俯きながらそう言った。船長は目を瞑って頭をボリボリと掻きむしった。


『そうだ、一応取引先の相手との約束は、明後日と言うことになっているが、多分無理だろうな。そもそも生きているかどうかすら判らんのだ。・・・やれやれ、黄老師の怒る顔が目に浮かぶようだぜ』
 そして大仰に溜息をつく。と、その時、船長・・・と花燃が口を開いた。


『何だ、花燃』
『まだ媒介者が死んだとは決まっておりません。どうでしょう?私と青流で媒介者の行方を探してみたいのですが。・・・あの媒介者が海に落下した辺りからならば、海流に乗ってここら辺に辿り着くはずです。万が一、日本軍の手に落ちたなら大変でしょう』
 そうだ、それは良い、と青流も花燃に追随した。船長はふうむ、と唸った。


『あいつは性交媒介者だから、敵の手に渡ったとしてもそれほど恐ろしくはないが・・・生きているかも知れない奴を簡単に諦めるのも良くはないな、よし、お前ら二人、街に出て食料を買い込んでくるついでにでも探しに行ってこい。・・・あの媒介者は、日本の顧客にお気に召してもらえるように、片言の日本語は出来るからな、誰かに拾われている可能性もあるかもな』
『よし、行くぞ、青流』
『おう!』
 そして二人の中華人は、媒介者を探すべく、港を後にした。

 優しく、柔らかい良い匂いがする。
 迷流藍花は、夢現に懐かしい香りを嗅いでいた。・・・これは、母さんの香りだ。


 今でもありありと思い出すことが出来る、幼心に焼き付けられた、母さんの線の細い白い顔。母さんは何時も優しくて、藍花は弟の華隠が生まれた後でも、時々こっそりと母さんの布団に潜り込んで眠るのが好きだった。母さんは、何時もとても暖かかった。もしかすると、それは体の弱かった母さんが、発熱していた所為だったのかも知れない。


 父さんは何時も、母さんには優しかった。でも、父さんは、母さんだけに優しい訳ではなかった。時々、外出する父さんの背中を、母さんが悲しそうな目で見ていたような気がするのは、藍花自身の主観にすぎないのだろうか。


 藍花は再び、優しいまどろみの中にその身を委ねようとして、はたと気がついた。
 ・・・違う、母さんは、もう死んだ筈だ。では、一体このぬくもりは、誰の物だろう?藍花は重い瞼を無理して見開く。うすらぼんやりと、天井の板目模様が見えた。そのままゆっくりと、藍花は視点を布団の中に落とす。藍花の胸の辺りで、少女が寝息を立てているのが見えた。


 一瞬ぎょっとした後で、藍花は昨日の出来事を思い出して、一人納得した。美鈴は藍花の胸の辺りにしがみつくようにして、安心しきった表情で寝息を立てている。藍花は何となく、一人微笑んだ。と、その時、ゆっくりと階段を上がってくる足音が聞こえて、藍花は視線をそちらの方に向ける。


「おはよう、藍花」
 階段の下から上がってきたおばちゃんは、囁き声でそう言った。そして、藍花の胸の中に抱かれるようにして眠っている美鈴を見て、おやおや、と目を細める。
「よっぽど疲れていたんだね、この寝坊助よりもゆっくりとお眠りとは」
「寝坊助で悪かったですねえ」
 何時もおばちゃんに文字通り叩き起こされている男は、そう言って拗ねた。


「朝御飯は、美鈴ちゃんが起きてからにしようかね」
 おばちゃんはそう言って、階下に降りて行ってしまった。藍花はそのまま・・・二度寝した。
 結局、お昼近くになってから朝食なのか昼食なのかよく分からない食卓を三人は囲むことになった。


『美鈴ちゃんのお口に合うかどうかは分からないけど、今日は中華料理なんぞ作ってみたよ』
 ちゃぶ台に料理を並べながら、おばちゃんはそう言った。美鈴は、嬉しそうな叫び声をあげた。中華語が分からない藍花も、机の上に並んでいる料理と、美鈴の反応から、おばちゃんの言った言葉は大体察しがついた。そして、藍花は言う。


「それは良いけど、どうして、中華料理と一緒にトーストが出ているんですか?」
「西欧料理作れと行ったのはあんただろう?藍花」
「だからといって、何で、中華料理の中にトーストだけがぽつん、とあるんですか?」
「まあ、良いじゃないか」
 なおもぶつぶつ言っている藍花をおいて、いただきますの合図と共に朝御飯が始まる。美鈴はにこにこしながら、トーストの上に酢豚を乗せて食べていた。


「・・・・・・」
 ニヤニヤしているおばちゃんの方を、なるべく見ないようにして藍花は食事を終えた。
 おばちゃんと美鈴が洗い物をしに消えてしまったので、藍花は、ぼんやりと茶の間で横になって新聞を読む。一応、美鈴のことが関係していそうな記事が載っていないかと探してはみたものの、特にそれらしい記事は見当たらなかった。
 その後、懐から煙草を取り出して吸おうとしたものの、戻ってきた美鈴にあまり良くない顔をされたので、散歩がてら外に出て吸うことにした。


 今日は昨日とは違って、空は青く晴れ渡っている。一応午前中だというのに、もう随分と熱い。藍花でさえも珍しく、半袖のシャツを着て外出しているほどだ。
 紫煙をくゆらせながら、藍花はぼんやりと美鈴のことを考えた。彼女はもう大分落ち着いたようだ。今日は随分と笑顔を見ることが出来た。
 しかし、彼女の正体は果たしてなんなのだろう。分かっている事はただ一つ、中華人である、と言うことだけだ。肝心の本人に記憶がないのだからしょうがないが、後は憶測してみるより他にない。


 ・・・美鈴は、長谷川町の港にほど近い、石垣の所にいた。その時彼女は裸で、髪の毛は多分海の水によって少しぱさぱさしていた。だとすると、彼女はやはり、海を渡って、中華からこの日本へとやってきたのだろうか。
 でも、何のために?


 そこで藍花の思考は行き詰まる。どうしてだろうか?悪い方に悪い方に考えてしまうからだろうか?世の中には、知らない方が良いことだって沢山あるのだ。それに、たとえどんなに相手のことを知ろうとしたって、それが相手の記憶で、感情である以上、その人自身の物語は、その人個人の物でしかないのだ。
 もし、相手の記憶を垣間見る能力があれば話は別かも知れないが。


 結局、藍花は一つ溜息をつくと、考えることを諦める。どんなに本当のことを知ろうとした所で、人間には限界があるのだ。
 母さん、そして父さん、貴方は一体何を考えていたの?


 藍花がタバコ屋に戻ると、おばちゃんは出かける準備をしていた。おばちゃんは、藍花を見つけると、おお、と小さく声をあげた。
「藍花、丁度良かったよ。おばちゃん、一寸情報収集に行って来るわ」
「その格好のままですか?」
 藍花が言うと、おばちゃんはしょうがないだろう、と口を尖らせた。
「美鈴ちゃんがいるから、元の格好に戻るに戻れないんだよ」
 藍花はそれを聞いて苦笑する。おばちゃんは、頭を掻いた、と言うか掻く仕草をした。


「それより藍花、店番頼むよ。居候なんだから少しは働きな」
 はいはい、と藍花は言った。
「美鈴は?」
 二階だよ、と言うおばちゃんの声を背中に受けて、藍花は階段を登る。
「・・・・・・!」
 見慣れた散らかった部屋が出現するはずだったそこに、きちんと整理された見慣れぬ部屋を見いだして、藍花は思わず絶句する。


「ア、メイルサマ」
 部屋の隅の方で、藍花が脱ぎ散らかしていた衣服を畳んでいた美鈴は、藍花に気づくとそう言った。
「これ・・・美鈴がやったの?」
 美鈴は、うん、と頷いた。そして不安そうな上目遣いで藍花を見る。
「イケナ・・・カッタ?」
 そんな事無いよ、と言いながら、藍花は少女の頭を撫でてやった。美鈴は擽ったそうな表情になって、目を閉じる。藍花は言った。


「美鈴、おばちゃんが出かけるそうだから、一緒に店番しよう」
「店番?」
 そ、店番、と言いながら藍花は少女を連れて階段を下りる。出かける準備を終えて、腰掛けて待っていたおばちゃんは、二人を見ると、白い歯を見せて微笑んだ。
「じゃ、行って来るよ。店番宜しく」


 おばちゃんに手を振って見送った後で、二人はタバコ屋のブースの中に入った。店番と言っても、もとよりこのタバコ屋は、おばちゃんの副業に過ぎないため、定休日も不定期で、お客自体大した人数がいるわけではない。従って、基本的に店番は暇なのだが、美鈴にとっては、なかなか刺激的な体験の様だった。
「イラッシャイマセネ!」
 普段は枯れたようなおばちゃんが座っているところに、小さな女の子が座っているので、客の方も、最初は驚き、後に微笑んで買い物をしていく。


「メイルサマ、コレオモシロイネ」
 美鈴は目をきらきらさせながらそう言う。そうかい、と藍花が目を細めると、美鈴は、
「ワタシコンナフウニ、メイルサマノオテツダイシタイネ!」
 と言った。そうか、と藍花は微笑む。
 お手伝い・・・か。果たして自分に手伝ってもらえるような、「何か」を見つけだすことが出来るのだろうか。御曹子をしているだけで自動的に手に入るものではない、「何か」を。


 その日は平和に日が暮れた、おばちゃんは夕方には帰ってきて、昨日と同じ様な日常が過ぎた。美鈴が寝る前に歯を磨いている間に、おばちゃんは、藍花を呼び寄せると言った。
「・・・一昨日の夜、何処からともしれないタレコミによって、軍の最新型の戦艦が出撃して、中華船籍と思われる不審な船を迎撃したんだそうだ」


「おばちゃん、それって・・・」
 おばちゃんは真剣な表情でああ、と頷いた。
「はっきりとは言いきれない。それに、どうも妙だ。何で、そんな不明瞭なタレコミに最新型の戦艦を導入するかねえ?」
 確かに・・・と藍花は考え込む。それでね、とおばちゃんは言った。
「どうやらその迎撃された船が、長谷川町の悲恋海岸の辺りに逃げ込んだ、と言う話を聞いたんだよ。どうだい?どう思う?」


「さあ・・・」
 藍花は悩んだ。
「怪しいと言えば怪しいですけど。私達がどうこういう話じゃないかも知れませんね」
「て、言うと?」
 うん、と藍花は首の辺りを揉んだ。
「結局、決めるのは美鈴本人じゃないですか。失っている記憶にしたって、果たしてそれが思い出した方が良いものなのかどうかは分かりません。私が後で、美鈴本人に聞いてみますよ」
 そうかい、と言って、おばちゃんは迷流の肩を叩いた。
「あんたに任せたよ、藍花」


 丁度その時、美鈴が歯磨きを終えて戻ってきた。
「メイルサマ、ネルネ!」
 美鈴は元気に言った。藍花はその頭を撫でてやりながら二階への階段を登った。
 今日は美鈴も泣きながら藍花の布団に潜り込んでくるようなことをしなかった。
 幸せそうな、少女の寝顔。
 藍花は結局、その日は美鈴に怪しい船のことは言い出せなかった。

 次の日も、おばちゃんは、朝御飯の後には情報収集に出かけて行ってしまって、藍花と美鈴は、今日も二人仲良く店番をする。
「ねえ、美鈴」
「ナニカ?」
 藍花はぼおっと遠くを見たまま尋ねた。美鈴は不思議そうに、藍花の顔を見上げる。
「美鈴、記憶、取り戻したいかな」


「キオク・・・」
 美鈴はそう呟いて下を向いた。
「ワカンナイ」
 そして首を横に振りながらそう言った。そっか・・・、と言って、藍花は再び遠くに視線を戻す。その途端、お客の姿が藍花の瞳に映る。
 あ、と美鈴が小さく声をあげた。客は二人連れだった。背の高い、まだ若い父親と、その父親に手を引かれている、まだ十歳ぐらいに見える少女だ。


 煙草を買う父親を急かすようにして、少女は甘えている。美鈴はそっと目を伏せている。煙草を父親に渡しながら、藍花は複雑な表情をした。
 父親の手を握ったまま、小走りに少女は去っていく。美鈴はその背中をゆっくりと目で追っている。


「美鈴」
 藍花は呼びかけてみた。
「エ、ナニ?」
 少し慌てた様子で美鈴は藍花の方を振り向いた。藍花は、その頭にそっと手を置く。
「記憶、取り戻しに行ってみようか?」
 え、と少女は不安そうな瞳で藍花を見上げる。
「この前君と出会った辺りに、中華の船らしいのが、やってきたらしいんだ。・・・大丈夫、危なくなったり、もし、君の記憶が思い出したくない物だった場合でも、私が守ってあげるから」


 美鈴は、暫く悩んだ末に言った。
「メイルサマ・・・ズット、ソバニイテクレル?」
 ああ、と藍花は即答した。
「ジャア、イッテミル」
 答えた美鈴をぎゅっと抱きしめた後で、藍花は店を閉めて、おばちゃんに書き置きを残すと、ジャケットをはおり、美鈴をつれて長谷川町へと藍花は向かった。


 いつの間にか、もう随分と日は傾いている。夕焼けで西の空は真っ赤に染まり、吹き渡る海風は大分涼しい。
 二人は、漸く出会った場所である、悲恋海岸の石垣の道へと辿り着いた。
 今日は、途中で引き返さずに、奥の方にあるという小さな港を目指した。歩みに従って、太陽もゆっくりと水平線の向こうへと消えていく。
 藍色の空に、星が幾つか輝き始めた頃、漸く石垣の小道は終わりを迎えた。


「星・・・」
 空を見上げながら、美鈴がふと呟く。どうしたの、と尋ねる藍花に、少女は、
「ドコカデ、ミタ、ホシ。タクサン」
 切れ切れにそう答えた。記憶の片鱗だろうか、藍花は複雑な思いで星空を見上げる。
 その時だった。


『いたぞ、漸く見つかった!』
 突然鋭い中華語の声が聞こえて、藍花達の眼前に、二人の中華服を着込んだ男達が姿を現した。

 おばちゃんは、何となく胸騒ぎがしていた。そしてその胸騒ぎは、タバコ屋のシャッターが閉まっているのを視界に捉えたとき、たちまち何倍にも膨れ上がった。
 慌てて家の中に上がり込み、藍花と美鈴の名前を呼ぶ。返事はなかった。おばちゃんは、そこでちゃぶ台の上に置かれた藍花の書き置きに漸く気がついた。


 そこに書かれている内容を読んで、おばちゃんは青ざめた。何と言う事だ、藍花の奴、先走りやがって。ちゃぶ台の周りを腕を組みながら、特に意味もなくおばちゃんはぐるぐると回る。その時、こんにちわあ、と言う少々のんびりとした声が聞こえた。


 店なら閉まってるよ、と、玄関先でおばちゃんは言いかけて、訪問者の正体に気づき、丁度良かった!と叫ぶや否やその男を家の中に引きずり込んだ。
「ど、どうしたんですか?」
 訪問者、藍花の弟の迷流華隠は、目を白黒させながらそう言った。
 まあ、とにかくお聞きよ、と言いながらおばちゃんは華隠に座布団を勧めて強引に座らせる。


「いやあ、誰かに話さないとおかしくなりそうなところだったよ」
「どうしたんですか、僕は兄さんを連れ戻しにきたんですけど・・・」
 華隠は困った表情で小首を傾げた。その兄さんが大変なんだよ、と言いながら、おばちゃんは、藍花が美鈴を拾ってきた事に始まる一連の出来事をかいつまんで華隠に説明した。
「兄さん、面倒見だけは良いですからね」
 華隠はのんびりした感想を漏らす。兄弟だねえ、とおばちゃんは嘆息した。


「私の調査で今日になって漸く判明したところによると、中華の道士共がどうも今回の件には関わっていそうなんだよ」
 道士?と華隠は首を傾げる。一種の妖術使いさ、とおばちゃんは言った。
「道士共はね、媒介者と言う女性達を使って、人の中に眠る「想」を目覚めさせることが出来るんだよ」


 超能力みたいな物ですか、と華隠は言った。
「あんた、飲み込みは良いねえ。で、道士共はどう言うわけか、この日本の人間の持つ「想」の能力に目を付けたんだ。それで、何かとんでもないことを行おうとしている。生憎、それが何かまでは分からなかったがね。ただ、それが媒介者を用いた物よりもより大がかりな物であることは確かなんだ。なぜなら、藍花の拾ってきた少女、彼女はどうも媒介者らしいんだけど、その、まあ、媒介者の中でも使い勝手の悪い方なんだよ。そう、どうも彼女を運んできた船は囮らしいんだ」


「おとり・・・」
 そう、おとりさ、とおばちゃんは言った。
「事情通の話では、その囮の船の情報をわざと軍に知らせて、本当の目的の船の方を軍の目から逸らさせたのだろう、と言うことだったよ」
 成程、と華隠は頷いた。
「で、それが兄さんの事とどう関わって来るんですか?」


 うん、とおばちゃんは腕を組んだ。
「多分あの子、美鈴は逃げ出すか何かしてきたのだろう・・・本人が記憶を失っている以上推測するより他にないんだがね。例え使い勝手が悪くても媒介者は媒介者、奴らにとって貴重な存在であることには間違いがない。その逃げ出した媒介者がのこのこ戻っていってみな、どうなる?」
「って、兄さんも危ないじゃないですか!」
 ああ、命の危険があるな、とおばちゃんはあっさりと言った。


「ちょ、一寸待って下さい、じゃあ、どうしたら良いんですか?」
 だからお前さんが来てくれて助かったんだよ、とおばちゃんは言った。
「なあ、迷流財閥ってどれくらい軍に圧力を掛けられる?」
「うーん、うちはあんまり軍との繋がりはないですからねえ」
 華隠は腕組みをした。ま、良いさ、とおばちゃんは言った。
「要は発言者がどれだけ偉いかにかかっているんだ。お国の危機だ、と言ってやれば軍だってすぐに動くさ。親父さんに、長谷川町に密航者達がいることを軍に告げさせるんだよ、すぐにだ」

『まったく、さんざん探し回って、いざ見つけてみればわざわざ向こうからやってきてくれているとはな』
 青い中華服を着込んだ男ー青流ーは、そう言いながら口をゆがめた。その言葉を聞くと、美鈴は怯えたように藍花の服の裾をつかみながら、彼の後ろに隠れた。藍花は中華語がちんぷんかんぷんだが、美鈴の様子から彼女が怯えていることは理解できた。


 そんな美鈴の様子に違和感を感じたのか、赤い中華服を着込んだ男ー花燃ーが前に出てくると、流暢な日本語で藍花に尋ねた。
「失礼、わざわざ我々の元に彼女を帰しに来てくれたのですよね?」
 藍花はどうにか、震える足を押さえ込みながら、いや、と言った。
「この子は記憶を失っているんだ。こちらに来ればその手がかりがつかめるかとも思ったけど、どうやらお門違いだったらしい。・・・美鈴、帰ろう」


 花燃は、記憶を・・・、と驚いたように呟いて目を細めたが、すぐに元の冷静な表情になると言った。
「お門違いではありませんよ。彼女は私達の船に乗っていました、それは確かです」
「それが確かだとしても、貴方達が美鈴にとって安心できる存在であるとは思えない、その証拠に彼女は怯えているじゃないか」


 藍花の台詞に、困りましたね、と花燃は眉をひそめた。
「ですがこちらには、是非とも彼女が必要なのですよ!」
 花燃がそう言って右手を振り上げた時、彼を押しのけるようにして、青流が前に出た。


『青流?』
 驚く花燃に向かって、笑いながら青流は言う。
『悪いが花燃、ここは俺に任せてくれ、手に入れたこの能力使いたくてうずうずしていたんだ!』
 そして高らかに右手を天に向ける。


『出でよ、水蛇!』
 途端、彼の手に巻き付くように、激しく流れる水が出現した。それは確かに、蛇のようでもある。藍花や美鈴だけではなく、花燃も驚いて青流を見つめた。
『どうだい、花燃。あんたの火龍と対になるような能力だろう?』
 青流は振り返ってそう花燃に言った後で、藍花達の方に向き直ると、下卑た笑いを浮かべた。


『どうした、媒介者のお嬢ちゃん、これはあんたに授けて貰った能力だぜ?それとも抱かれた男の事をもう忘れちまったって言うのかい?』
 青流の言葉を聞いて、少女の目が恐怖で大きく見開かれる。そして美鈴は絹を切り裂くような叫び声をあげた。いやっはー!と叫ぶと、青流は大きく右手を振りかざす。それに伴って、彼の手に巻き付いていた水の蛇は、物凄い勢いで藍花達の方に向かってくる。藍花は、泣きじゃくる美鈴の手を引っ張ると、一目散に逃げ出した。


『待て待て待てえーい!』
 青流は叫びながら追いかけてくる。彼の手の中の蛇がうなる度に、大量の水飛沫と共に、大きく地面がえぐり取られていく。
 藍花は、今まで歩いてきた石垣の道の方に向かって駆けた。ここなら、相手を上手く撒くことが出来るかも知れないと考えたのだ。石垣の道にはいる刹那、藍花は懐に手を入れて、こっそりおばちゃんの部屋から持ち出してきていた、何処の物とも知れぬ拳銃を取り出すと、振り向きざまに何発か発砲した。


 当てる気は毛頭ない、藍花は何度か道楽で射撃をしたことはあるものの、人を撃った経験などあるわけもなかった。弾丸は青流の足下の辺りの地面をえぐり、一瞬だけ青流の前進が止まった。それを確認もせずに、藍花は再び走り出す。


「殺!日本人!」
 青流は一瞬進むのを躊躇したものの、青筋を立てて激情すると、そう叫んで走り出した。花燃はゆっくりと三人の後を追っていく。


「おいおい!どうなってるんだよ!大道芸じゃああるまいし」
 混乱しながらも藍花は、どうにか覚えてきた道筋に従って逃げていく。美鈴も一生懸命に走っている。


 幾つもの分かれ道を駆け抜けた。後ろから聞こえてくる、忌々しげな青流の叫び声も徐々に小さくなっていく、これならいける、と藍花が思い始めたときだった、角を曲がった途端に藍花の前方及び左右に石垣が出現する。つまりは、行き止まりである。


「しまった!」
 藍花は叫んで、慌てて口を押さえる。戻ろうか、とも思ったが、今藍花がこの行き止まりに至る前に通った分岐点まではかなりの距離がある。戻ってみたところで、進んでくる追っ手に出くわしてしまう公算の方が高いと言えた。
 美鈴は苦しそうに息を吐きながら、不安げな表情で藍花を見上げている。藍花の息も、ほぼ限界近くまであがっている。藍花は座り込むと、美鈴の頭を掻き抱いた。


「ごめんよ、美鈴。私が守るって約束したのに・・・ごめんよ・・・」
 自然と、涙が溢れた。涙を流すのは、随分、久しぶりだ。
 美鈴は、藍花の胸に頬を擦りつけるようにして、目を閉じた。
 その瞬間だった。


 藍花の頭の中に、いや、目の前に、見たこともないような風景が広がった。交わされる聞き慣れない言葉。多分、中華語だろう。
 話が終わると、自分は、黒づくめの服装をした男に連れられていく。
 もう、ここには戻ってはこれない、そんな寂寥感が強く胸を焦がした。
 やがて、場面は暗転する。
 初めて見る、しかし妙に見慣れた感じのする部屋だ。少しだけ肌寒い、自分はどうやら衣服を纏っていないのだという事に気がつく。暫くしたら、部屋の扉が開き、微笑みを浮かべた老人と、一人の男が入ってきた。
 厭な微笑みだ。何故だろう、そう思った。
 老人は、やはり中華語と思われる言葉で何事か、自分に向かって話しかけてくる。
 厭なリズムだ。まるで自分が自分でなくなってしまうような気がする。やがて、男が自分の体の上にのしかかってくる。他人事のように自分はそれを眺めた。


 ・・・他人事?それはそうなのだろう。藍花には、もちろんこのような記憶はない。では、この出来事の「自分」、主人公は一体誰だ?


 場面は再び暗転した。
 自分は暗い船室の中に横たわっている。船室だと気がついたのは、外から聞こえてくる波の音の所為だ。
 自分は、薄い肌かけを取り去ってゆっくりと起きあがる。波音に誘われるようにそのまま船室の外へと出た。
 外は満天の星空だ。涼しい海風が、裸の自分を優しく擽り去っていく。そのまま自分はふらふらと甲板の方へと出た。


 沢山の星。そうか、藍花は確信した。これは、美鈴の記憶だ。何の疑問も抱くことなく、それが当たり前のことであるかのように、藍花は今の状況を受け止めることが出来た。


 今私は、美鈴の記憶を、美鈴の物語を体験している。
 やがて、船が大きく揺れて、自分は、美鈴は暗い海へと放り出された。


 不意に、場面が切り替わる。
 今度は、自分がいなかった。いや、自分という存在は確かにあるのだが、その存在が人としての視点ではない。自分の視点は、活動写真を撮影するカメラのよう、まるで夢の中にいるみたいだ。


 周り三方を囲む石垣、ここは、長谷川町の悲恋海岸に間違いはないようだ。しかし、ここにいるのは、藍花と美鈴ではない。
 和服姿の男と女だ。
 男は町人髷を結っている、服も大して仕立ての良い物を来ているわけではない。一方の女は、きらびやかな着物を着ている。


 男は、石垣を登ろうとしている。一方の女は、行き止まりの石垣のところでしゃがみ込んで、何か盛んに弄っている。
 近づいてみる。よく見てみると、石垣の下の方にある石の一つに、何か取っ手の様な物がついている。女はそれを捻った。
 途端、足下の石畳の石がゆっくりと動き始めて、やがてぽっかりと地下へと続く穴が姿を現した。


「さ、亀吉、早く!」
「姫さん、しばしお待ちを!」
 女の鋭い声に男はそう答えると、石垣の一番上にあった石を、思い切り向こう側へと突き落とした。
 数拍の後、盛大な音が海の方から聞こえてくる。


「海だ!」
「身をなげたっ!」
 ざわざわという沢山の驚いた声が少し遠くの方から聞こえてくる。
「これで良し、と」
 男はそう呟くと、穴の中に身を踊らせた。女が穴の入り口近くのまた同じ様な取っ手を弄ると、開いたときと同じようにゆっくりと穴は閉じた。


 藍花はそこで漸く我に返った。
 随分と長い時間が過ぎたように感じたが、実際は殆ど時間が過ぎてはいないようだった。美鈴が不安げに藍花を見上げている。藍花は慌てて、行き止まりの石垣の下の石を調べた。


 有った。
 先程の白昼夢で見たものと同じ取っ手がそこには微かに苔むしながらも存在していた。藍花はそれを恐る恐る捻ってみた。
 ゆっくりと軋みながら、地面の石畳が動き、穴が姿を現す。美鈴が小さくあっ、と声をあげた。


「ドウシテ・・・?」
 不思議がる彼女を穴の中に押し込めると、藍花は石垣を急いで登り、最上段の石を押してみる。石は思っていた以上にあっさりと向こう側に落ちて行き、盛大な水音を立てた。それを確認するまもなく、藍花も穴の中に飛び込むと、取っ手を弄って穴の蓋を閉めた。

 青流は突然起こった水音を聞いて、ちいっ、と舌を鳴らした。
『飛び込みやがった、か?』
 そして、それを確かめるために、手に巻き付けた水蛇を海の方に向かって放そうとしたとき、花燃の声が彼を呼び止めた。


『止せ、青流、帰るぞ』
『どうして、ここまで追いつめておいて!』
 状況が変わった、と花燃は言った。
『たった今船長から念信が入った。船の事が日本軍にばれたらしい、早々にずらからないと不味い』
『しかし・・・』


青流はまだ未練が残っている素振りを見せた。花燃は肩で息をつく。
『それに、我々は囮だったようだ。船長が本国に確認をとったところによると、我々とは別の船がもう既に日本で目的を達しているらしい。我々はその船をカモフラージュするために送り込まれたのだ。だから、日本軍の砲撃を受けたり、もう片方の船の仕事が済むまで船長の念信が本国に繋がらなかったりしたのだ。それに、あの媒介者も捨て駒に過ぎないものなのだそうだ、気にすることはない』


 花燃は、行くぞ、と言って背を向けた。青流は、なおも恨めしそうに、媒介者が落ちたと思われる海のある方向を眺めていたが、やがて花燃の後について歩き始めた。
 腕に巻き付いた水蛇は、少し悲しそうな鳴き声をあげた後で消えた。

 藍花と美鈴は、藍花の持っていた舶来品のライターの明かりを頼りに、地下の通路を進んでいた。
 藍花達の周りは土で出来た壁に覆われていて、足下では微かに水が流れている。藍花達はその水が流れていく方向に向かって進んでいた。


「ネエ・・・」
 藍花に手を引かれている美鈴は、そう言いながら藍花の顔を見上げた。
「ドウシテ、ココガワカッタノ?」
 うん、と藍花は曖昧に頷いた。
「ここ、悲恋海岸はね、昔身分違いの恋をした二人がその身を投げたことからその名前が付いた、と言われていたんだ」


 藍花達が歩を進める度に、その足音が洞窟の遙か向こうまで反響していく。
「でも、真実は違った。二人はこの秘密の地下道のことを知っていた、それでさっき私がやったように、石を海に落として自分たちが身を投げたと追っ手に思いこませたんだ」


「デモ、ドウシテ、メイルサマ、ソノコトガワカッタノ?」
 さあ、と藍花は洞窟の天井を見上げた。
「見えたんだ。この場所に残されていた場所の記憶が、まるで活動写真のように、物語のように」
 君を守りたい、と強く思ったときにね、と藍花は口の中で小さく呟いた。


「ヨクワカラナイケド、メイルサマスゴイネ!」
 美鈴は無邪気にそうはしゃいだ。
「美鈴・・・」
「ン、ナニ?」
「記憶、戻った?」
 ううん、と少女は首を振った。そっか、と言いながら、藍花は微笑た。
「それならそれで良いのかも知れないね」
 ずっと側に居れるし、と前を向いたまま藍花は言う。だから美鈴がその頬を赤らめていたことを藍花は知らない。


「どうやらこの洞窟は、昔東都が江渡と呼ばれていた時代の名残だね、きっと将軍の脱出用だったんだ、よく見てみると、壁には所々燭台の跡らしい穴があいている。と、言う事は今はやんごとなきお方のいらっしゃるところに続いている訳かな?」
 藍花はそう言いながら、やがて現れた分かれ道を、何時の間にか小さな川になった流れの川下に向かって歩いた。
 更に幾度かの分かれ道を過ぎると、急に比較的整備された場所にでた。しかしその整備された外見とは裏腹に、強烈な匂いが鼻につく。どうやら下水道にでたようだ。藍花はマンホールの蓋を探して、そこから外に出た。


 満天の星空が見えた。それは何処から眺めても変わる事なく輝いている。どうやら、出た場所は綴喜橋のどこかの路地のようだった。
 暫く歩くと、見慣れた町並みが見えたので、二人は程なくして、おばちゃんのタバコ屋に辿り着くことが出来た。
 おばちゃんは店の前で、両手を腰に当ててふんぞり返りながら待っていた。


「ただいま、おばちゃん」
 藍花はどう言ったら良いものか考えた末に、結局そう言った。おばちゃんは小さく溜息をついた。そして言う。
「お帰り、藍花、美鈴ちゃん。お風呂沸いてるよ、入りな」
 藍花と美鈴は促されるままにお風呂に入ると、貪るようにおばちゃんの料理を食べ、そして泥のように眠った。
 翌日は朝一番に華隠が尋ねてきた。華隠は藍花の無事な姿を見て、ほっと息をついた。そしてやれやれ、と肩をぽんぽんと叩く。


「まったく兄さんは、どうして何時も信じられないような事をするんですかね。帰りを待つ身にもなって下さいよ」
「すまなかったな、華隠」
 礼なら父さんに言って下さい、と華隠は言った。
 父さんは待っていたのか、と藍花は尋ねた。
「当たり前じゃないですか、待ってますよ父さん、帰らないんですか?」
 気が向いたらな、と言って藍花は立ち上がった。
「二階で煙草吸ってくるわ」


 そう言って藍花は階段に消えた。小さく溜息をついた華隠は、目をきらきらと輝かせた美鈴の質問責めにあうことになった。
 藍花は二階の窓辺に腰を降ろして、ゆっくりと煙草をふかした。そこにゆっくりとした足取りでおばちゃんが上がってくる。おばちゃんはゆっくりと部屋の座布団に腰を降ろした。


「で、放蕩息子はこれからどうするつもりなんだい」
 藍花はおばちゃんの問いに答えずに、ぼんやりと煙をくゆらした後で、
「おばちゃん、悲恋海岸には悲恋なんてなかったんですよ」
 と、だけ言った。そうかい、とおばちゃんは頷いた。
「藍花、美鈴ちゃんの正体は・・・」
 知ってますよ、と藍花は遠くを見たままで言った。
「多分、誰よりも」


 そうかい、と言いながらおばちゃんはエプロンの埃を払うと立ち上がった。その背中に向けて、藍花はぽつり、と言った。
「おばちゃん、私に探偵って似合いますかね」
 財閥の総裁よりはね、とおばちゃんは後ろ手に手を振りながら言った。

 事件から一週間が過ぎた。
 藍花は暫くぶりで、迷流財閥の本社ビルヂングの前に立った。
 今日の藍花の服装は、少々変わっている。
 夏だというのに、クリーム色のワイシャツの上に、茶色のベストを羽織り、蝶ネクタイを結んでいる。下はやはり茶色っぽいスラックス。極めつけに、藍花は鼻眼鏡状のサングラスを掛けている。


 この服装は、おばちゃんと美鈴の手によって面白半分にコーディネイトされたものであるが、世間的な評価はどうあれ、当の藍花自身はかなり気に入っていた。


 ビルヂングの中に入ると、スーツ姿の華隠が出迎えた。華隠は藍花の姿を見て、小さく溜息をついた。並んで歩きながら、華隠は眉根を軽く顰めながら藍花に語りかける。
「兄さん、本気なの?考え直すなら今のうちだよ?」
 藍花は、微笑んだ。
「本気さ、華隠。私に何が出来るのか、一度も試さずにただ人生を終えるのも面白くないしね」


 相変わらずだね、と華隠は言った。
「その面白いかそうじゃないかで物事を考える癖」
「他にどんな基準がある?」
「ま、そこが兄さんの良いところでもあるわけだけど」
 兄弟二人は、やがて総裁室と書かれた大きな木の扉の前に立って、その戸をノックした。


「入れ」
 良く通るバスが中から聞こえてきた。二人は失礼します、と言いながら部屋の中に入った。
 欧州趣味の豪奢な部屋である。部屋の奥では、大きな文机を前にして、立派な口髭と顎髭を生やした、眼光鋭い老人が座っている。
 藍花と華隠の父親にして、迷流財閥の会長である、迷流藍歳である。
 藍歳の横には、黒服を着て、サングラスを掛けた側近二人が控えている。


「何じゃその格好は」
 藍歳は、開口一番にそう言った。
「似合いませんかね」
 藍花はとぼけた口調でそう言った。藍歳は苦虫を噛み潰したような顔をして、
「似合う。だからますます問題じゃ」
 と言った。そして、机の上で両腕を組んだ。


「時に藍花、話というのは何だ」
 藍花は、一歩前に進み出た。そしてきっぱりと言った。
「父さん、私は迷流財閥の総裁の継承権を放棄して、華隠に譲ります」
 藍歳の目がぎょろり、と見開かれる。ほう、と言いながら総裁は自分の顎髭を撫でた。


「そう言うからには、何かちゃんとした別の理由が有るんじゃろうな?」
 はい、と藍花は頷いた。


「私は、探偵になります」


 探偵ぃ?と藍歳はいかにも胡散臭気に呟いた。
「探偵と言ったら、あの事件を解決してみせる探偵か?」
 そうです、と藍花は言った。藍歳は暫く唸って、やがて、
「面白いじゃないか」
 と言った。てっきり反対されるとばかり思っていた兄弟二人は拍子抜けする。しかし藍歳は、すぐに厳しい顔になって言った。


「しかし藍花、探偵になると言っても先立つものなしで何をしようとする気だ?」
 それは・・・、と藍花は言葉に詰まる。藍歳は、ふん、と鼻を鳴らした。
「藍花、お前のために事務所の一つぐらいは面倒を見てやろう、しかし、それだけだ。華隠に総裁の座を譲った時点で、お前は迷流財閥とは何の関係もない人間になったのだ、もし失敗しても帰るところはないと思えよ」


「父さん・・・」
 藍歳はもう一度、ふん、と鼻をならした。
「華隠、お前は良いのか、総裁の継承権を受けても」
 はい、と華隠は言った。
「しっかりと兄さんの代わりに総裁の座を守って見せます。兄さんが、再びそれを必要とする日まで」
 何か言いかけた藍歳を、華隠は遮った。


「・・・例え、迷流財閥と関係が無くなったって、兄さんは僕にとっては何時までも兄さんなのですから」
「ふん、まったく・・・馬鹿ばっかりしか居らんのか、ここには」
 藍歳はそう言って嘆息した。藍花は華隠・・・と驚いて弟の顔を見つめる。華隠は微笑い、そして言った。
「行ってらっしゃい、兄さん」
「ああ」
 藍花は短くそう言って、総裁室を出た。出た途端、藍花に声が掛けられる。


「兄さん、相変わらず理に適わない行動が好きだね」
 そして声の主は、ゆっくりと柱の影からその姿を現した。黒髪を背中の辺りまで伸ばした、眉目秀麗な若者だ。
葉月夜はづきよ・・・」
 藍花は驚いたようにそう言った。葉月夜と呼ばれた青年は、ふっ、と軽く息を吐く。
「僕には兄さんの行動が分からないよ。どうして、恵まれた地位をわざわざ捨てるようなことをするんだい?まあ、捨てたのを拾った相手があのお人好しの華隠兄さんだから良いのかも知れないけど」


 藍花は、肩の辺りで小さく手を振った。
「この世は謎だらけだって言う事に気がついたのさ、恵まれた地位からではけして見えてこないそんな事実にね」
 葉月夜は、ふん、と鼻を鳴らした後で笑った。
「じゃあ、のんびりとお手並み拝見させて貰うよ、兄さん」
 ああ、と言って、藍花は後ろ手に手を振ってそこを去った。


「相変わらずよく分からない人ね、葉月夜」
 藍花が去ったのを見計らったかのように、反対の柱から、美しい女性が姿を現した。美須瑠みする・・・と葉月夜は意表を突かれたように呟く。
「探偵、ですって、面白いことを思いつくわね」
 ああ、と葉月夜は言った。
「本当にあの人だけはよく分からないよ」
 だけ、かしら?そう言いながら美須瑠と呼ばれた女性は妖艶に微笑んだ。

 迷流藍花の探偵事務所は、草苅にある、「伊坂ビルヂング」、と言う雑居ビルの二階に置かれた。元は何かの会社が入っていたらしく、二階から三階へ廊下に出ることなく、部屋の中から直接登っていける便利な形状をしていた。


 三階には、藍花と、助手として住み込むことになった美鈴の寝室がそれぞれおかれた。最初の内こそ閑古鳥が鳴いていたものの、華隠の手によって、様々な雑誌や新聞に広告が載せられてからは大分知名度も上がり、それなりに依頼も舞い込むようになった。藍歳は華隠のその様な行動はどうやら黙認したらしい。


 どうせすぐに飽きる、まったく身内の恥だ。
 会合の度に会う人会う人にそう漏らすのは、果たして言葉通り愚痴なのか、それとも宣伝のためなのかどうかは、この偏屈な老人本人にも分かりかねているようだ。


 そして今日も、依頼人が事務所の分厚いドアを叩く。
 美鈴はすうっ、と息を吸うと、
「はーい、入るの事ね!」
 そう言いながらドアを開け、驚いている依頼人に向かって、
「こちらは迷流探偵社ね。殺人誘拐身の上相談何でもござれね」
 お決まりの台詞を口に出した。

密航者(後編)・完


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