大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第四回・伝えて、マイハー

 それから四年の年月が流れた。ミズホは、女学校でも抜群の成績を収めており、高等女学校へ進むことがもう既に内定していた。冷夢は、ミズホに何になるつもりなのか尋ねてみたことがある。ミズホは元気良く、
「そりゃあ、お医者さんになって冷夢のお手伝いをするのよ!」
 そう言った。看護婦ならともかく、女性の医者は無理だろうと思ったが、冷夢は黙っていた。


 二人の共同生活は順調だった。しかし冷夢の胸中は複雑だった。ミズホは、あからさまと言っていいほどに、冷夢に対する恋愛感情を露わにしてくるのだが、冷夢自身はそれにどう答えて良いか分からずにいた。


 何より、自分はミズホについてどう考えているのか?確かに、自分は宇都宮瑞穂を愛していたし、日毎にどんどん美しくなっていく、清洲川水穂にも、好意を抱いていることは、否定できなかった。しかし、一体それはどういう感情なのだろう。この場合、一体自分は誰を愛しているというのだろう。


 もう一つ、年齢差の問題がある、幾ら宇都宮瑞穂の心を受け継いでいるとはいえ、ミズホは、まだ十五歳だ、それに引き替え、冷夢は今年で三十二になった。この十七年の溝は、冷夢にとって非常に深いものだった。


 ミズホが十三の時に、冷夢は夜伽を彼女に迫られたことがあった。冷夢は、前述したような理由から断り、結果として、今日まで二人の間に性交渉はもたれてはいない。それは、この奇妙な関係を続けていくか、それとも終わらせてしまうのかを決める上で、避けて通れない問題だと言えた。


 そして、今日。冷夢の元に一人の来客があった。


「貴方が槍下君ですか。お噂は聞いています。確か・・・碑嘉神 ひかがみ君の教え子ですよね」
 上品な格好をした老紳士は、冷夢に会うと、そう言って微笑んだ。そして差し出された名刺には、東都病院院長・篁初臣 たかむらはつおみ、とあった。


「確かに・・・そうですが?」
 老紳士は少し悲しそうに俯いた。
「私は、碑嘉神君の同級生でした・・・彼は、彼は残念なことでしたね」


「冷夢、どーしたの?」
 物音を聞きつけて、ミズホが奥から出てくる。その姿を見て、篁は目を細めて笑った。
「ああ、君が水穂ちゃんか」
「なに?」
 ミズホは目をぱちぱちと瞬いた。


 取り敢えず、冷夢は、応接室に篁を案内する。ミズホは、お茶を入れるために、台所へと消えた。
「さて・・・東都病院の院長先生が、ここに何の用なのですか?」
 冷夢の質問に、老紳士は、照れたように俯くと口ごもった。
「うむ・・・お宅の・・・水穂ちゃんのことなんじゃよ」


「ミズホの?」
 冷夢は困惑して聞き返す。篁は、うむ、と照れたように白髪頭を掻いた。
「儂は、この通りの爺さんなんじゃがこの年になっても身寄りが無くてな、そこで、水穂ちゃんの噂を聞いたんじゃ」
 はあ?と、冷夢はますます混乱した。
「何でも、水穂ちゃんは、医療を志そうと思っているそうじゃないか。そこで・・・な?」


 成程。冷夢にも大体の話が見えてきた。
「で、ミズホを、養子にしたいと?」
 そう言うことじゃ、と老紳士は頷いた。
 冷夢は悩んだ。それは二人の関係を終わらせてしまう一つの方法だったからだ。悩んだ末、冷夢は、
「そう言うことは本人の意向もありますし・・・」
 そうお茶を濁した。と、その時、


「私は、良いよ」
 お茶を運んできたミズホが、そう言った。
「おじいちゃんの所にいれば、私、お医者さんになれるかな?」
「ああ、医者になるのに男も女もない、学費の面倒は儂が見てやる、あとは、お嬢ちゃんの努力次第じゃ」


 どうやら老人は、誠実な人柄のようだった。ミズホの質問の回答を聞いて、冷夢はそう感じた、しかし・・・一瞬胸をよぎった虚無感はなんだろう、僕は、本当は、ミズホを。


「そっかあ、じゃあ良いよ、なっても、そのかわり、一つだけ条件」
「なんじゃ?」
「将来、冷夢と結婚して良いって約束してくれる?」


 冷夢は驚いて顔を上げた。篁は、ほう、と言ったあと穏やかに微笑んだ。
「儂はもちろん大歓迎じゃわい、あとは、ほれ、槍下さんの気持ち次第じゃ」
「どうなの?冷夢?」
 ミズホが、普段あまり見せない子供のような、すがりつくような表情で、冷夢を見ていた。冷夢は、ぐっと拳に力を込める。


「分かった。結婚しよう、ミズホ」
 ミズホの顔がぱっ、と輝く。篁も満面の微笑みを浮かべた。
「おやおや、娘だけじゃなく、優秀な跡取りまで、出来てしまったわい」
 その後の話し合いによって、看護婦と患者の受け入れを条件に、冷夢が東都病院に仕事場を移すことも決定した。


 かくして、無事に、槍下冷夢は生涯二度目のプロポーズを終えた。


 その夜・・・。
 風呂から上がって、ナイトガウンに着替えていた冷夢は、ブランデーのグラスを傾けていた。篁は明日にでも、水穂を迎えに来ることになっていた。こうして考えてみると、ミズホと過ごした日々がかけがえのない物だったことが分かる。それはそうだ、形はどうあれ、愛する者と同棲生活を送っていたのだから。


 冷夢がグラスを置いたとき、小さなノックの音がした。ドアーの方に目を向けると、小さく開かれた隙間から、ミズホが覗いていた。
「どうしたんだい、ミズホ?入っておいでよ」
 冷夢が微笑みながら言うと、ミズホはこっくりと頷いてドアーを開いた。下着姿の彼女が、ゆっくりと部屋の中に入ってくる。その姿を見て、冷夢は思わずバランスを崩した。その拍子にテーブルにぶつかって、ブランデーがこぼれる。


「冷夢・・・」
 切なげな表情のミズホは、冷夢ににじり寄ってきた。頭の芯が痺れたようになって冷夢は身動きが出来ない。ミズホがゆっくりと抱きついてくる。短い茶色い髪の毛の柔らかい感触。柔らかな体からは、何とも言えない芳香が馥郁と香った。


「冷夢・・・」
 もう一度彼の名を呼びながら、潤んだ瞳で彼を見上げた。
「何も言わずに、私を抱いて」
「ちょ、一寸待て、ミズホ」
 冷夢は何とかそれだけ言った。ミズホは、冷夢の頬に自分のそれを擦りつけながら首を横に振った。


「ダメ、だって、明日からそうそう会えなくなっちゃうんだよ」
「ミズホ・・・」
「だから、今の私を、しっかり覚えていて」
 ミズホの柔らかい唇が、そっと重ねられる。冷夢の視界が真っ白になった。ぎゅっと彼女を強く抱きしめる。


「冷夢・・・」
「ミズホ!」
 そのまま冷夢は彼女を抱え上げてベッドに運んだ。若くて瑞々しい彼女の肌に、指を、唇を這わせる。ミズホは目を閉じて感情のうねりに身を任せている。


「冷夢・・・冷夢先生、愛してる」
 一瞬宇都宮瑞穂と清洲川水穂の声がユニゾンで聞こえたような気がした。しかしそれもめくるめく快楽の渦の中に消えてゆく。今やベッドの上は一つの海だった、二人は波にもまれるようにお互いの体を、心を混じり合わせる。それは冷夢にとって、あるいは宇都宮瑞穂にとって、久しく忘れていた感覚だった。


 官能の嵐が過ぎ去ったあとで、まだ汗ばんでいる冷夢の胸に顔を埋めながら、ミズホは呟いた。
「ずっと・・・不安だったんだよ。冷夢が、こんな小娘に過ぎない私を愛してくれるのかどうか。冷夢は冷夢で私との年齢差を気にしていたかもしれないけど、私だって、悩んでいたんだよ、これでも」


 冷夢は、ゴメンね、と、言いながらミズホの髪を撫でた。
「私ね、ずっと一緒にいることで、冷夢の気持ちが冷めてしまうのが、実を言うと不安だったんだ。・・・だから篁さんの申し出を受けてみようと思ったの」
「そうか・・・」
 ミズホは半身を起こして、冷夢の顔をじっと見つめた。
「だからね、さっきも言ったように今の私をしっかり覚えていて。きっと私、もっと素敵な女になるよ」
 そしてゆっくりと二人の唇が合わせられた。

 槍下冷夢は、少し疲れていた。昨日運び込まれてきた、通り魔に刺されたという佐藤という刑事の手術が尾を引いているのかもしれない。少し年を取ったのかもしれない、と、冷夢は一人苦笑した。


 この通り魔事件は、先月から連続して発生していた物で、被害者となって一命を取り留めたのはこの刑事が初めてだった。


 通り魔、と聞くと冷夢は複雑な気分になる。清洲川水穂の両親が、もしも通り魔に殺されることがなかったら、冷夢とミズホが、今のような関係になることはなかっただろう。通り魔が取り持つ恋愛、と、言った所なのだろうか。


 冷夢が妙な感慨に浸っていると、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。その方向を見ると、先程訪れた、迷流藍花という探偵が息を切らしていた。


「おや、迷流さん、今度はどうしたんですか」
「佐藤巡査に会わせて下さい!」


 冷夢の問いに、探偵は息せき切ってそう叫んだ。
「しかし、佐藤巡査は、とても話せるような状態じゃ・・・」
「話せなくても良いんです!ただ一緒の部屋に入れてくれれば、私の能力が使えますから!」


 能力?ああ、そういえば。冷夢は迷流の持つ能力について耳にしたことがあった。それは、やはり本当だったらしい。
「・・・・・・」
「槍下先生のように、医療に携わるような人には、信じられない話かもしれないですけど・・・」
 迷流は、一生懸命に自分の力について説明している。冷夢は言った。


「信じますよ」
 それは意外な言葉だったらしく、驚いたように迷流は、はっと顔を上げた。
「案内しますよ、ついてきて下さい」
 冷夢はそう言って歩き出す。
「うわさには聞いていたんですけど、迷流さんの能力は、一種のサイコメトリングの様な物なんですね」


「槍下さん、貴方は・・・」
 冷夢は迷流の言葉を遮った。
「この世には、科学で解明できないような不思議なことが、たくさんあるんです。そう、私は信じています。・・・さあ、ここが佐藤さんの病室です、くれぐれも、お静かに」


 そう、不思議なことは沢山あるのだ。冷夢は、それを自分で体験したのだから。
「有り難うございます」
 礼を言って中に入ろうとした迷流を、冷夢は、不意に呼び止めた。


「なんです?」
 呼び止めたあとで、冷夢は、少し逡巡してから尋ねた。
「迷流さんは、人の心は何処にあると思いますか?」


「えっ・・・?ここ・・・じゃないんですか?」
 面食らった様子で、頭を指さした迷流を見て、しかし冷夢は首を横に振った。そして自分の心臓のあたりを押さえると、


「心は・・・ここにあるんです」
と、言った。
 迷流は不思議そうな顔をして、結局頷きだけを返して病室に入った。
 その背中を見送ったあとで、冷夢は思わず苦笑する。全く、こっちの方がよっぽど信じがたい話だ。


 冷夢はそのまま、診察室へと戻る。そこには、高等女学校の制服に身を包んだミズホが待っていた。冷夢を見つけると、彼女はとびっきりの笑顔で笑って、
「お疲れさま、冷夢」
 と、言った。


伝えて、マイハート・完


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