大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

連載第十五回・裸の王様

 滅多刺しにされた咲間と乃舞華の死体を最初に発見したのは、還山為助だった。
 朝食の時間になっても二人が起きてこないことを訝った尚芳に、二人を呼んでくるように言われた上での発見劇である。
 驚いた為助は、慌てて食堂へととって返し、やがて縁澤家の人々及び数人の警官、そして美鈴が惨劇の現場へと到着した。
 死体は少々奇妙な状態の下にあった。
 咲間と乃舞華は、それぞれ毛布にくるまれて、その上から何回もナイフのような刃物で突き刺されているようだった。
 しかしその割には、毛布からはみ出している死に顔は妙に穏やかで、血塗れの毛布が無ければ、まるで眠っているようにすら見える。
 美鈴は死体に群がっている警官達を避けるようにして、窓の方へと歩み寄った。そして、窓の掛け金を確認する。
 掛け金はしっかりと閉まっていた。勿論、窓硝子が割られた様子はない。美鈴は一回深く頷いて、そこでベッドサイドのテーブルの上に、飲みかけのワイングラスが置いてあるのに目を留めた。
 グラスに残ったワインの匂いを嗅いで、美鈴はもう一度頷くと、渋い顔で短い頭髪をかきむしっていた荒木の側に歩み寄った。荒木は、彼女が近付いてくるのに気がつくと、渋い顔のまま笑って、おお、嬢ちゃん、と声を掛けてきた。
「多分、薬で眠らされている間に殺されたね、ほら、あのワイン。」
 美鈴は、声を潜めると荒木にそう伝える。荒木は、尻上がりにあん?と言いながら太い眉をぴくり、と動かした。
 そして、ワインと二人の死に顔を交互に眺めやった後でふむ、と納得したように頷いた。
「全くこの木偶の坊共が!またしても鳥目男にしてやられよって!」
 丁度その時、漸く息子の死による放心状態から立ち直ったらしい尚芳が、警官達に当たり散らし始めた。
 咲間の死によって、尚芳は全ての子供の命を奪われてしまったことになる。それも、ほんの数日の間にだ。確かに同情の余地はあると思う。しかし、
「おい、尚芳さんよ。」
 いい加減腹に据えかねたらしく、荒木が尚芳の前に出た。
「その辺にしておけよ、今回の事件はあんたにも責任の一旦がないとは言い切れないんだぜ。」
 何を言うかっ、と尚芳は目を剥いた。対照的に荒木は冷静だ。
「最初っから今回の事件の犯人は鳥目男なんかじゃなかったんだよ。その証拠に、あんたの言う様に屋敷の外をあれだけ厳重に警備していたって言うのに、こうして二人が殺されてしまっているじゃないか。」
「そ、それは、警備が甘かった所為だろう。」
「それはないね。」
 美鈴が口を挟んだ。
「この部屋のドアと窓には鍵が掛かっていたし、窓硝子が割られた形跡もないね。」
「それに、どうやら二人は薬を飲まされて眠らされていたらしい、鳥目男とやらはそんな器用なことをするような奴なのかい?」
 続けて言った荒木の言葉に、尚芳は絶句した。
「く・・・薬だと・・・?」
 必要以上に動揺している。荒木の目が、すっと細まった。
「ええ、ですから何か犯人について心当たりがあれば、包み隠さずお話しして貰いたいところですな。」
「わ、私は気分が悪くなった、し、失礼する。」
 尚芳は本当に気分が悪くなったかのような真っ青な顔で退出した。

「そうか、遂に咲間さんまで・・・」
 ベッドに横になったままの迷流は、呟きながら憂愁に満ちた表情を浮かべた。
 迷流が咲間や隆文と一緒にビリヤードをしてから、まだ数日しか経っていないと言うのに、まるでもう何年もの時が過ぎ去ってしまったように感じる。
 元々、影葵は時間の流れの中に取り残されているような、そんな村だった。だが、ここで時間が流れ出したところで、その行く先は迷流達が普段暮らしている時間軸とは、全く異なったところに続いているのではないか。そんな気がして、迷流はうそ寒い思いにとらわれ、無意識に布団を引き寄せた。
 暫く、黙祷するかのように目を閉じた後、迷流はベッドサイドの椅子に腰掛けた美鈴におおよその現場の様子を尋ねた。美鈴は既に頭の中で今朝の状況を整理していたようで、簡潔かつ的確に要点を述べた。
「成程ね・・・」
 迷流は顎の辺りに手を当てながら天井を睨んだ。その木目を何とは無しに目で追いかけながら、考えを纏めてゆく。
「幾つか、引っかかることがあるね。」
 やがて、迷流はぽつりとそう言った。
 何ね、と座りながら足をぶらぶらさせていた美鈴は、その体勢のまま身を乗り出す。
「死体がくるまれていたという毛布、犯人はどうしてわざわざ被害者が目を覚ますかもしれない、と言う危険を冒してまで、その様なことをしなければいけなかったんだろう?」
 迷流の言葉に、美鈴は、うーん、と考え込む。顎の辺りに手を当て、足を組んでいるその様は流石師弟と言うべきか、普段の迷流の格好によく似ている。
「多分、返り血を浴びないため・・・だと思うね。」
 やがて、美鈴はそう言いながら顔を上げて迷流を見た。探偵が微笑みながら頷くのが見えた。
「そうだね、普通に考えるとそう言うことになる。ところが、ここで沸き上がる第二の疑問。ならば、何故被害者を滅多刺しにする必要があったのか?返り血を浴びないためだとすると、これは矛盾していると思わないかい?」
「あ、確かにそうね!」
「ね、変だろう?犯人が薬を使ったらしいことも、恐らくはこの一連の行為を出来るだけ安全に終えるためとしか思えないし・・・」
 そもそもその薬はどこからきたものなのかも解らないし、と迷流は呟く。美鈴は怖ず怖ずと上目遣いで迷流の顔を覗き込む。そして、訊いた。
「迷流様は、どう考えているね?」
「うん、私はね。」
 迷流は腕を頭の後ろで組んだ。
「得意の“ノベリング”を行ったわけではないから、はっきりした事は言えないんだけど。」
 少しだけ自嘲気味に言う。
「犯人は、被害者を確実に殺したかったんじゃないかな。」
 それってどういう事ね?と美鈴は小首を傾げる。
「うん、尚樹君の時の首をもぎ取るという行為と、今回の二人の滅多刺しに共通していることは、どちらも被害者が確実に死に至らしめられている事。・・・それがどう言った意味を持っているのかは解らないけどね。」
 微苦笑を浮かべながら、迷流がそう結んだとき、部屋のドアが躊躇いがちにノックされた。迷流がどうぞ、と声を投げかけると、失礼します、と言いながら白衣の霧華がトレイを手にして入ってきた。
「すみません、迷流さん。朝の一件のお陰で、朝食をお持ちするのがすっかり遅くなってしまって。」
「構いませんよ。」
 迷流が答えている間にも、ショオトカットの看護婦は手際よく運んできた料理をサイドテーブルの上に並べていく。病床の迷流を気遣ってか、お粥を主体とした簡素な朝食だった。
「しっかり食べて元気をつけて下さい。・・・生憎、他の皆さん方は今朝は全く食欲がわかなかった様ですから。」
 私も例外ではないですけど、と言いながら霧華はペロリと舌を出した。茶目っ気のある仕草だが、美鈴あたりがやるのとは違って色香に溢れ、妙に艶っぽく見える。
「有り難くいただきます。」
 そう言いながらベッドに半身を起こそうとした迷流に、すかさず霧華は駆け寄ってその手助けをした。一拍遅れた美鈴は、伸ばしかけた手をぎこちなく膝の上に戻して、少しだけ複雑な表情で霧華に起こされる迷流を見つめた。
 迷流は、そんな彼女の視線を知ってか知らでか、大仰な仕草で霧華に礼を言った。
「いいえ、看護婦のお仕事ですから。」
 口ではそう答えながらも、霧華は軽く迷流にウィンクを投げかける。
「いやー、美味しそうですね。」
 しかし迷流は、ウィンクには気づかなかったようで、お粥の入った土鍋の蓋を取って湯気を浴びながらそう言った。霧華は一瞬だけ残念そうな顔をする。美鈴はそれに気がついた。
「ところで、霧華さん。」
 お粥を頬張りながら、迷流は不意に尋ねた。
「何です?」
「迷流様行儀悪いね。」
 迷流は、あ、御免とレンゲを顔の前で振って美鈴に謝ると、真剣な表情で霧華の方に向き直った。
「ええと・・・この屋敷に薬を保管しておくようなところはありませんか?」
「例えば、咲間さんと乃舞華さんを眠らせたりしたような物ですか?」
 霧華の目が、油断無く光った。迷流は黙って頷く。
「私の勤務している保健室にも、軽い睡眠薬ぐらいならあります。でも・・・」
「でも?」
「清輝先生の実験室になら・・・」
 清輝先生?と、迷流は鸚鵡返しに聞き返す。ええ、と霧華は頷いた。
「この家の主治医をしていらした方です。鶉森清輝、唐花さんのお父さんです。」
「唐花さんの?ああ・・・そう言えば。」
 迷流は初めて縁澤家を訪れて、唐花を見たときのことを思い出した。確かに、今は亡き咲耶がその時、唐花の父親がこの家の主治医だったと言っていたような気がする。
 しかし――
「あのう・・・鶉森って言う事は・・・?」
 迷流の心中を代弁するかのように美鈴が尋ねる。霧華は、深く頷いた。
「ええ、隆文さん達の分家に当たると聞いています。」
 美鈴は驚く。それでは、つまり、今回の事件の容疑者達は――
「みんな、血の繋がりがあったと言うことか・・・」
 今度は、彼女の心中を代弁するかのように迷流がぽつり、と呟いた。そして、ゆっくりと霧華を見る。
「それで、その清輝というお医者さんは?」
「もう、亡くなりました。」
「どのようにして?」
 霧華は小さく息を飲んだ。慌てたように立ち上がり、食べ終わった迷流の膳を片づけ始める。
「それ以上は、私の口からは。」
 言いながら、彼女は部屋から出ていこうとした。その背中に、迷流は声を投げかける。
「ところで、唐花さんのあの目。生まれたときから見えなかったんでしょうか?」
 霧華は不思議そうな顔になって、ゆっくりと振り返った。そして、躊躇いがちに口を開く。
「・・・ええ、そう聞いていますが、それが何か?」
「いえ、それなら良いんです。」
 はあ、と納得のいかない声を漏らしながら、霧華は退出した。
「迷流様。」
 それを確認した後で、美鈴は迷流に疑問をぶつける。
「どうしてあんな事聞いたね?ひょっとして唐花さんを疑ってるか?」
「ううん・・・いや。」
 迷流は言葉を濁しながら再びベッドに横になった。
「清輝と言う医者のことについて、唐花さんを“ノベリング”してみようと思ったんだけど、唐花さんが生まれた時から盲目なら、それは無理だな、と思って。」
「どうしてね?」
 迷流は、うん、と言いながら瞳を閉じた。
「鳥目男の時に得た教訓なんだけど、私のノベリングは使う相手をしっかり選ばないと私自身がダメエジを受けてしまうんだ。鳥目男の場合は神の思考体系に私があてられてしまったんだけど、鳥巣さんのように生まれたときから闇の世界に生きてきた人は、やはり私達とは思考やイメエジの捉え方が違うはずだからね。また同じように寝込んでしまう危険性がある。」
「もう、迷流様、何だかよく分からないけど、体調が回復するまではどのみちノベリングは禁止ね!」
 美鈴はそう言いながら、迷流の布団をかけ直した。
「前にも言ったけど、この事件、きっと私が解決してみせるね!」
 迷流は布団の中で笑った。
「ああ、でも気を付けるんだよ、美鈴。」

「今にして思えば、あの時、僕が見た明かりは犯人が点けた物だったんですね・・・」
 隆文はしみじみとした調子でそう言った。度重なる事件に、すっかり気力も萎えてしまったようで、今日も髪の毛は下ろしたままだ。その長い前髪が揺れるたび、目の下のうっすらとした隈が見え隠れする。
 美鈴と荒木は、一緒に縁澤家の人々に対しての聞き込みを行っていた。咲間と乃舞華の殺害事件から、内部犯による犯行との見方が強まり、荒木は漸く公式に聞き込みを行うことが出来るようになった。
 しかし、相変わらず人員は鳥目男の捜索に大部分を割かれていたし、尚芳は、早く事件を解決しろとわめき散らすばかりで、なんら有用な情報を与えてはくれない。また、『御館さま』、縁澤蒼紫との面会も、病気を理由に尚芳によって拒否された。喜美子は心労が祟って寝込んでいる。結果として、美鈴達は一番捜査に協力的だと思われる隆文のもとを訪れていた。
 結果、収穫はあった。
 咲間と乃舞華が殺された夜、何となく眠れなかった隆文は、キッチンに何か夜食になりそうな物を取りに行く道すがら、渡り廊下で、それまで真っ暗だった咲間達の部屋の窓に明かりが点るのを目撃したのだという。
 その時間は、二人が殺されたとおぼしき時間に一致していた。
「まあ、どうやら犯行時間が解ったのは良いんだけどな・・・」
 しかし、荒木は渋い顔で頭を掻いた。
「そんな夜中のことじゃ、アリバイを調べたところでどうにもならないような気もするな・・・」
 それもそうですね、と言いながら隆文も俯く。だが、その時、そうでもないね、と美鈴が口を挟んだ。
「何だい、嬢ちゃん。」
「今の隆文さんの話で、アリバイを確保できる人が、一人だけいるね。」
 美鈴は妙に自信ありげだ。荒木は厳つい顔の割に大きな目をギョロリと剥いた。
「そいつは、どう言うことだい?」
 美鈴は、迷流が良くそうするように、顔の前で人差し指を立てた。
「明かりを点ける必要のない人が、一人だけいるね。」
「何?何だ、そりゃ・・・」
 聞き返そうとした荒木は、そこで何かに気づいたようにあッ、と大きく声を上げた。
「唐花か・・・」
 荒木の言葉を聞いて、満足そうに美鈴は頷いた。
「そうね、唐花さんだったら、明かりを点ける必要はないね。だって、唐花さんは目が見えないんだから。」
「おいおい、だからそう思わせるためにわざと明かりを点けたのかも・・・あ、駄目か。」
 荒木は反論しようとして口ごもる。
 そう、何故なら隆文が明かりを見たのは偶然に過ぎないと言うのに、その為にわざわざ盲目の彼が部屋に明かりを点ける道理はない。もし、唐花が犯人だとするなら、明かりを点けるなどと言った危険を冒すよりも、日頃から鍛えられた視覚以外の感覚の鋭さを利用して、暗闇の中で犯行に及ぶ方がよっぽどリスクが少ないといえるだろう。
 荒木がそう考えて納得している間に、美鈴は話題を変えた。
「ところで隆文さん、唐花さんの名前が出たところで、そのお父さんの清輝さんのことについて教えて欲しいね。」
 その言葉を聞いた途端、隆文の顔が曇る。
「清輝さんは、どうして死んだね?」
 それは・・・と言いかけたまま口ごもった彼に荒木が詰め寄る。
「悪いようにはしねえ、頼むよ、事件解決のための何らかの手がかりになるかも知れねえんだ。」
「・・・仕方ないですね。」
 暫しの逡巡の後、今回の事件に果たして関係があるかどうかは解りませんが、と前置きして隆文は語り始めた。
「今から五年ほど前、清輝さんは彼の実験室で変死体となって発見されました。」
 変死体ィ?と、荒木は語尾を上げた。隆文はゆっくりと頷く。
「清輝さんは、自分で自分の体を滅多刺しにして死んでいたんです。」
 隆文は、清輝がその様な奇怪な状況で亡くなるまでの間、縁澤家に中華人と思われる人間がしばしば訪れていたことを覚えていた。どうやら、清輝の研究は彼らのために行われていたらしい。その証拠に、清輝の死後、中華人の来訪はふっつりと途絶えたのだそうだ。
「しっかし奇妙な状況だよなあ・・・自分で自分の体を滅多刺しなんて・・・。隆文さん、本当にそれは自殺だったのかい?」
 荒木は渋い顔でしきりに首を捻りながら隆文に尋ねる。
「ええ、事件当時現場の実験室には中から鍵がかけられていて、御館様の鍵を使って中に入ったのを覚えています。窓の鍵もしっかり掛かっていたし、清輝さんは自分の体を刺したナイフをしっかりと握りしめていました。」
 ただ、妙なことに、血塗れの清輝は苦痛とは縁遠い、悦楽の表情を浮かべながら死んでいたらしい。事件は、事が大きくなるのを恐れた尚芳の手によって単なる自殺として片づけられたのだそうだ。
「成程な・・・」
 腕組みをしながら、荒木は唸った。一方の美鈴は、隆文の言葉の中に、気になる箇所を発見し、それを訊いてみる。
「あの、隆文さん。御館様の鍵って・・・?」
 隆文は一瞬言いにくそうな表情を浮かべた。
「ああ、御館様の鍵って言うのは、一種のマスターキーで、この屋敷のどこの扉でも開けることが出来る代物だよ。ただ・・・御館様があんな事になってしまってからは行方知れずになってしまったんだけどね。」
 鍵。
 迷流の言ったようにどうやら本当にマスターキーはもう一つ存在していたらしい。美鈴は納得したように何度か頷く。その鍵を持っている者こそが、今回の事件の犯人に相違ない。
「出来れば、その実験室とやらに案内してほしいんだが。」
 荒木の言葉に、隆文は今日何度目か解らなくなった苦渋の表情を見せる。まるでそうすれば何かが解決してくれるかのように、曲がってもいないネクタイを何度か直す仕草をした。
「よろしいですけど、清輝さんの事件以来あの部屋は御館様が封印なされて、今では扉を開く鍵がないのですが・・・」
「為助さんの鍵束にもかい?」
 荒木の言葉に隆文はゆっくりと頷いた。
 やはりだ。
 もし咲間と乃舞華を眠らせた薬品が清輝の実験室から持ち出されたものだとすれば、やはり犯人は『御館様の鍵』を持っている人物と言う事になる。
「なあに、鍵がなけりゃあ、扉を叩き壊すまでさ。」
 荒木はそう言って腕捲りをした。隆文はそれを見て、何か吹っ切れたような表情になると、
「そうですね、尚芳さんにいちいち許可を取っていたら見つかる物も見つからなくなるかも知れませんね。」
 そう言いながら溜息をついて、美鈴達を清輝の実験室の扉まで誘った。そして、私はここで、と言いながら姿を消す。
 いっちょやるか、と言うや否や荒木は扉に体当たりを始める。思っていたより簡単に蝶番が外れて、扉は中に開いた。
 部屋の中はどう言うわけか、廊下に比べると随分とヒンヤリとしていた。長い間動くことなくたゆたっていたであろう空気は少しだけ黴臭く、久方ぶりに開いた筈の出口へ向けて、ゆっくりと動き出そうとしていた。それに伴って天井の辺りからはまるで雪のようにゆっくりと埃が降ってくる。
「荒木さん、見るね。」
 美鈴は足下を指さす。
 荒木が目をやると、そこにはうっすらと積もった埃の中にくっきりと浮かび上がる足跡があった。それは、まるで新雪に踏み記された物のように点々と部屋の奥へ向かって伸びている。
「誰か・・・恐らく犯人が入ったって事か。」
 足跡の行く先を目で追いながら荒木はそう言った。その先には机と薬品棚がある。薬品棚近くの床がうっすらと変色しているのは、この部屋で自らの命を絶ったという鶉森清輝の血痕によるものだろうか。
 二人は、薬品棚の所まで歩み寄った。
 すっかり中身が揮発してしまったアルコオルランプや、ヨオドチンキと書かれた茶色の瓶に混じって、怪しげな薬が整然と並べられている。清輝という男は、かなり几帳面な性格だったのだろうか、薬の瓶には製造年を記したラベルが貼られており、瓶はラベルの年代に従って並べられていた。
「明治参拾七年参月廿伍日、透視薬・・・大正四年八月拾参日、不死身薬・・・って、何だこりゃあ?」
 怪しげな薬瓶のうちの幾つかを手にとって、荒木が驚きの声を上げる。眉に唾を付けたくなるようないかがわしい名称だ。
「・・・妊婦に毎食後数滴服用さする事に依つて其の子に物を見通す力を授く・・・おいおい、何だよ、こりゃあ。」
 説明書きを読んだ荒木は、眉を顰めながら頬の辺りを人差し指で掻いた。
「荒木さん、上。」
 美鈴が指を指す。つられて見ると、比較的一般的な薬の並んだ上の段に、一カ所だけ空きがあった。周りが整然と並んでいるだけに、その空白は妙に目立つ。背伸びをしてみると、そこだけ瓶の底の形に沿うようにまあるく埃が積もっていない。両隣の瓶は麻酔薬だった。
 ふん、荒木は顔の下半分を手で覆いながら鼻を鳴らす。
「どうやら薬の出元はここのようだな。」
 美鈴もそれに答えるように深く頷く。
 その時だった。
 突然廊下の方からキイキイという何かが擦れるような音が聞こえてきた。美鈴と荒木はぎょっとして開け放たれたままの扉の方を見る。
 音はゆっくりと近付いてきて、やがて戸口から何時も通り不機嫌そうな鶉森芳香の顔が覗いた。キイキイという音は、彼女の車椅子のタイヤの軋む音だったらしい。
「おや、派手に壊したもんだね。尚芳が知ったら喚き散らしそうだ・・・いや、今はそんな気力もないかね。」
 芳香は誰にともなくそう呟きながら部屋の中にゆっくりと入ってきた。自分の娘を殺されたばかりだが、不機嫌な顔が既に基本の表情になってしまっているかのような芳香の顔からは、特にこれと言った変化は読みとれない。
「漸く刑事さんもここまで辿り着いたというわけかい。」
「なっ、それはどういうことだい?」
 芳香はふふっ、と表情を変えずに笑った。
「今回の事件は、清輝の呪いさ。」
「どういう事ね?」
 知らないのかい、言いながら芳香は戸棚の方に近寄ってきて、例の変色した床に目を落とし、
「ああ、そこに清輝は倒れていたんだっけねえ・・・」
 まるで懐かしい故郷を語るような口調でそう言った。丁度その辺りに立っていた荒木は、むう、と妙な呻き声を上げてその場を離れる。
 芳香は荒木の退いたその場所までわざわざ車椅子を進め、そして振り返った。
「今回の事件の犯人は、清輝さ。」
 もう一度そう言う。車椅子の婦人は驚く美鈴と荒木の顔を見て満足そうに目を細めた。
「そこの棚にある薬瓶を見たろう?清輝はその晩年、死なない研究をしていたのさ。何やら中華の研究機関と色々とやりとりをするぐらいの実力を持っていたらしいからね、清輝は。」
「ちょ、一寸待て。」
 話の雲行きが怪しくなってきた。そう感じた荒木は、慌てて芳香の話を遮る。
「するってえと何だあ?あんた、まさか死んだ清輝がその薬の所為で蘇ったなんて言い出すつもりじゃねえだろうな?」
「言うともさ。」
 あっさりと、しかも自信たっぷりに芳香は言い放った。その迫力に思わず荒木は口をつぐむ。
「元々、御館様の一人娘の美咲さんは、清輝の許嫁だったんだよ。それを、あの尚芳が横からかっさらっていったのさ。当主の座におさまってしまえば、後は尚芳の思うがまま、邪魔になった御館様を病気を理由に隠棲させて、そのついでに清輝を殺したに決まっているよ。そりゃあ清輝も恨んで蘇りたくもなるさ。」
「おいおい。」
 さすがにこの言葉には荒木も口を挟んだ。
「横取りとはいえ、婿入りという形で跡取りになったのならわざわざそんな危険を冒すこともないだろう。」
 どうだかね、と芳香は嘯いた。そして水気の殆ど感じられない、かさついた手を摺り合わせる。
「あの尚芳ならやりかねないよ。何しろ、御館様を幽閉してしまうような男だからねえ。」
 幽閉?美鈴と荒木は同時に声を上げた。芳香は憮然とした表情のまま笑う。
「何だ、知らなかったのかい。まあ、屋敷の者の間では公然の秘密なんだが、御館様が最近姿を見せないのは、屋根裏部屋に尚芳が幽閉しているからなのさ。」
「そんな・・・まさか。」
 言った美鈴に向けて、芳香は加虐的な目線を向けた。
「ふふ、還山の一族にはそう言った血が流れているのさ。あの霧華だってそうだ、あの淫蕩看護婦は、うちの隆文や死んだ咲間なんかに取り入ろうと必死だったからねえ。今日はさっきから姿を見ないんだが、ひょっとして東都から来たより美味しい獲物を狙っているのかねえ・・・」
 美鈴の頭の中に一抹の不安がよぎる。それは見る見る拡大し、やがて一つの像を結んだ。
「おいっ!嬢ちゃん!」
 荒木の声が後ろから聞こえる。そう思ったときには、美鈴はもう走り出していた。

 夢を見ていた。
 それはついこの前の記憶だ。
 美鈴と一緒に雨の中、散歩に出かけてゆく。
「そこにある黒い蝙蝠傘を使って下さい・・・あ、美鈴さんの分は、そうですね・・・」
 唐花の言葉を遮って美鈴と一つの傘に一緒に入って歩く畦道。
 そんな平和な光景が、つい数日前のこととは信じられない。事件を依頼してきた凛とした少女は既にこの世にはなく、まるで少女の死を境にするように、縁澤家は崩壊を始めた。
 鳥目男。
 零落した神。
 恐怖と驚きが綯い交ぜになったまま表情を凍り付かせた咲耶の首を、縁澤家の人は見ようとせず、見ようとしても見ることのかなわない唐花に背負われて、咲耶の首は山を下りた。
 皆、信じたくなかったのだろう。
 家族を繋ぎ止めていた、少女の死を。
 まるで活動写真のフィルムのように、淡々と流れていく過去の映像を見るうち、迷流は、ふと、得体の知れない違和感に襲われた。
 何だろう、一体なんだというのだろう。
 しかし、答えはすぐそこにぶら下がっているようでいて、手を伸ばすと、するりと手から抜け落ちて行ってしまう。
 やがて迷流は、扉の開かれる気配によって、夢の世界から引き戻された。
「美鈴・・・?」
 しかし、迷流の足下に立っていたのは白衣に身を包んだ還山霧華だった。
「霧華・・・さん。」
 まだ朦朧とした意識のまま、迷流はそう呼びかける。
「喉が渇いたでしょう?冷たいお水はいかがですか?」
 差し出されるままに、迷流はそれを飲み干した。言葉通り、水はよく冷えていて、そしてほのかに甘かった。
「美味しい?」
 霧華はベッドの縁に腰掛けると、迷流の顔を覗き込んだ。ええ、と答えようと思ったが、舌の根の辺りが痺れるような感じがして、迷流は言葉を紡ぎ出すことが出来なかった。
 スッキリとしたショオトカット。ぱっちりとした大きな目。妙に赤く見える唇の間からこぼれる吐息は、馥郁とした香りを含んでいた。
 お酒でも飲んだのかな、頭の片隅で思う。
「次は私。」
 その、赤い唇は続いてそう動いた。
 言葉の意味を、迷流はすぐには理解することが出来なかった。自分でも驚くほど緩慢な仕草で、迷流は霧華の体の方に目を向けた。
 丁度彼女が、白衣のボタンに手をかけた所だった。
 すぐにはらりと白衣は左右に分かれ、その間から驚くほど白くて丸い乳房がぽろりとこぼれた。
 着衣によって不当に押さえつけられていた鬱憤を晴らすかのように、ゆっくりとその先端が身を起こす。
 皮をつるりと剥いた水蜜桃に似ていた。
 迷流は何かを言おうとした。しかし、やはり言葉にならない。
「言ったでしょう?軽い睡眠薬くらいなら保健室にもあるって。」
 霧華が微笑みながら顔を近づけてきた。酷く美しく見えた。香気が迷流を包み込む。意識が遠くなる。
 微かにドアの開く音がした。

 美鈴は音高くドアを開けた。
 ベッドの上には相変わらず探偵が横になっている。しかし、その上に。
 霧華はドアの開く音に気がつくと、ゆっくりと振り返って美鈴の顔を見て――
 笑った。
 次の瞬間、美鈴は弾かれたように部屋の外へ駆け出していた。
 廊下で誰かにぶつかりそうになったが、相手の顔を見る余裕もないまま、美鈴はひたすらに駆けた。
 がむしゃらに階段を登り、膝がガクガクと震え始めた頃、美鈴は廊下に蹲り、壁に背を預けた。
 漸く冷静になってきた頭で考える。
 何故、自分は部屋から逃げ出してきてしまったのか。
 怖かったから?迷流の気持ちを知るのが怖かったから?
 それとも霧華の勝ち誇ったような微笑みが怖かったから?
 考えてみると、美鈴は迷流の姿をしっかりと確認したわけではない。迷流が自ら望んで霧華と事に及ぼうとしていたのかを確かめたわけではない。そもそも、現在の迷流にはそんな体力は余ってはいない、そう考える方が自然であるはずだった。
 でも、美鈴は逃げてきてしまった。
 迷流は美鈴を抱こうとはしない。それは、美鈴も忘れている、彼女自身の過去に配慮しているのが理由の一つだと薄々美鈴は気づいていた。迷流はつまり、美鈴の保護者であって、自分のことを可愛い妹の様な存在だと思ってくれている。
 それで良かった。
 美鈴は迷流のことが大好きなのは事実だし、迷流のために役に立てることが嬉しかった。今回の事件を何が何でも自分で解決しようとしているのもその気持ちの表れだった。
 迷流にとって、必要な存在で有りたかった。
 なのに――
 美鈴は膝の間に顔を埋めた。
 泣きながら少し眠った。
 やがて、ゆっくりと近付いてくる足跡が彼女を現実に引き戻した。
「・・・美鈴さん?」
 躊躇いがちに投げかけられる声。そっと顔を上げると、目の上に黒い布を巻き付けた顔が見える。唐花だった。
「どうしたんですか?こんな所で。」
 唐花は屈んで、美鈴の顔を覗き込む、いや、覗き込むような素振りをした。
「何か、悲しいことでも?」
「何でもないね。」
 言いながら、美鈴は立ち上がった。パンパン、と服に付いた埃を払う。
「それよりも、」
 自然に声がでた。
「唐花さん、御館様に会わせて欲しいね。」
 言った後で、美鈴自身も驚く。が、言われた唐花はその比ではなかったらしい、ゆっくりと立ち上がりながら、口元に困惑の表情を浮かべる。
「しかし、御館様は・・・」
「知っているね。」
 美鈴はそう言って唐花の言葉を遮った。唐花の口元に、今度は驚きの表情が浮かんだ。
「もう・・・事件は終わりにするね。その為にも、御館様に会いたいね。」
 言いながら、美鈴は唐花の本来なら目がある場所の、黒い布をじっと見る。根負けしたのか、唐花は視線を逸らすように顔を小さく横に振った。
「解りました、貴方になら、会ってもらっても良いでしょう。」
 言うと同時に、唐花は美鈴を促して歩き始めた。
 廊下の奥まった所にひっそりと隠れるように屋根裏への階段があった。狭い上に急なその階段は、やがて小さな扉の前で途切れていた。
「御館様は、この奥の部屋にいらっしゃいます。」
 言いながら、唐花は懐から小さな鍵を取り出してノブの下の小さな鍵穴に差し込んだ。かちゃり、と言う小さな音がして扉が開く。中は真っ暗だった。
 少しだけ黴臭い冷たい風が、美鈴の頬を撫でるようにして吹き抜けていった。
 美鈴は恐る恐る部屋の中に歩を踏み入れる。そのまま二、三歩程進むと、音もなく後ろの扉が閉まった。辺りは本当の暗闇に包まれる。
「唐花さん?」
 恐る恐る美鈴は唐花の名前を呼んでみる。返事はなかった。唐花は扉の外で待っているのだろうか、それとも――
 閉じこめられた?
 そんな疑問を振り払うようにして、美鈴は闇の中、手探りで先に進んだ。窓の一つもありそうなものだが、生憎部屋の中には一条の光も射し込んでこない。恐らく六畳ほどの部屋を一つ通り過ぎて、美鈴は奥の部屋の中に入った。床は石で出来ている。足にヒンヤリと冷たい。
 やがて、闇の中に伸ばした指先が、金属の感触を捉えた。
 ざらざらと錆び付いた鉄の棒が、規則的に立ち並んでいる。床の石よりも、更にそれは冷たく感じた。これは――
 檻? 
 美鈴がそう思ったその刹那、
「誰じゃな。」
 朗々とした声が部屋の中に響いた。部屋を覆う暗闇の所為で、美鈴にはその声が上から聞こえたようにも後ろから聞こえたようにも感じた。
「唐花ではないな。」
 美鈴の答えを待たぬまま、声はそう言葉を継いだ。
「え、縁澤蒼紫さん、御館様か?」
 漸く金縛りから解けたように声を上げた美鈴に、いかにも、と『御館様』は慇懃に答えた。
「そなたは?」
「私は・・・」
 美鈴は少しだけ言い淀んだ。
「私は美鈴。・・・探偵ね!」
 ふはははははは、悩んだ末の彼女の答えを聞いて、縁澤蒼紫は高らかに笑った。暗闇の中を声が反響する。
「それで、その探偵さんが、この囚われの老爺に何の御用という訳かな?」
「単刀直入に言うね。」
 美鈴は、唾を飲み込もうとした。しかし、口の中がカラカラに乾いていて、それは叶わなかった。
「御館様に、犯人を教えて貰いたいね。」
「ふははははは、何故儂が犯人を知っていると思う?」
「鍵・・・鍵を誰に渡したね。」
 闇の密度が変わった。暗闇の中で御館様が息を飲んだようだった。
 暫くの沈黙の後、ぽつりぽつりと御館様は語りだした。
「お嬢さんのように、都会から来た者には解らんかも知れないが、こういった村の中には、それぞれの神があり、また伝説がある。」
「でんせつ・・・」
 どうして自分が東都から来たことを知っているのだろう、一瞬だけ、美鈴の心をそんな疑問がよぎったが、御館様の滔々とした語りの中にやがてそれも埋もれていった。
「ここより川を上った所に、数年前までは、影白虎という名の村があった。かつては、七夕の雛流しもそこから始まっていた。
 名前の通り、その村では白虎、即ち白き虎が神として崇められておった。そして時として、白き虎は人々の中にもその姿を現したという。」
「山の中からでてきたか?」
 そうではない、と御館様は笑った。
「人の中に時として、白虎に祝福された者が生まれてきたのだ。髪も膚も真っ白な子供としてな。」
「まっしろな・・・こども。」
「しかし、時が移ろいゆくうちに、やがてその伝承も歪められ、形を変えていった。丁度鳥目男が守り神からヨソモノへと姿を変えていったようにな。・・・白い子供も、祝福された子供から、忌み子へ、災いをもたらす呪われた子へと変わっていったんじゃ。そして、二十年ほど前、影白虎の当主の家に白い子供が産まれた。」
「まさか・・・」
「数年前、偶々ここら辺一帯は酷い干ばつに見舞われた。その際に、遂に溜まりにたまった不満が爆発し、村人達は氏子の家を襲った。干ばつの原因が、その呪われた白い子供にあると言ってな。」
「それで・・・その子は?」
「さあ、知らん。ただな、丁度その時影白虎に使いに行っていた唐花の話では、屋敷に火がかけられて物凄い勢いで燃え盛っていたそうだ。」
「い、今・・・なんて?」
 しかし、もう美鈴の言葉は『御館様』の耳には入っていないようだった。
「そう、伝説を失ったとき、村は終わりを迎えるのだ。そしてこの村も。尚芳の奴が伝承をねじ曲げ自らの私利私欲のために動いたことで、朱雀の加護を失ったのだ。・・・この影葵も、もう長くない。」
「な、何を言っているね!」
 美鈴は『御館様』の徐々に高ぶっていく声に圧倒されながら、必死で暗闇の恐怖と戦っていた。
 その時、美鈴の手はポケットの中からマッチ箱を探り出した。
「ふふふ、儂は確かに犯人を知っている。何故なら、尚樹も咲間も乃舞華も霧華もみんな、儂が殺したのだからな!」
「そんなはずはないね!」
 言いながら、美鈴はマッチを擦った。
 独特の火薬の匂いとともに、一瞬の閃光が走る。それは、美鈴自身の暗闇に慣れきった目を鋭く焼いた。
 しかし、美鈴は白い閃光の中に確かに見た。
 鉄格子の向こう側、壁の辺りに足を投げ出すようにして座っていた木乃伊の姿を。茶色く変色し、小さく縮んでしまった、かつて縁澤蒼紫と呼ばれていたであろう人の姿を。
 あっ、と小さく悲鳴を上げようとしたその刹那、美鈴は背後から抱きすくめられ、口元に布のような物を当てられた。
 刺激臭。
 美鈴の手がだらり、と下がる。
 それに従って、彼女が手にしていたマッチ棒は床に落ち、やがてその短い命を燃やし尽くした。
 後にはただ――暗闇が残された。

裸の王様・完
終幕に続く


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