大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
連載第十二回・盗作者
(
樫の宮の姫君
さわさわと云ふ音がする。
樫の木の葉を風が擽つている音だ。
梅雨明けの心地良ひ風は、
清嗣は、額にこぼれ出た汗を袖元で拭うと、ふう、と軽く息をつひた。太陽を見上げ、目を細めた清嗣は、そのまま視線を左手の池の方へと落とした。
水面はきらきらと光を受けて輝き、吹き抜ける風の生み出した波紋の所為で、浮かんだ蓮の葉が微かに揺れているのが見える。
ぐええ、と小さく蛙が啼いた。
清嗣は歩を速めた。
小高き丘の上に、一際高い樫の木が離宮を見下ろすやうにして繁つて居る。清嗣は其処に向かつて居た。
樫の木の根本で、一人の少女がすやすやと寝息を立てて居る。
「
清嗣は少女に向かつて、さう呼びかけた。
少女はゆつくりと目を開いた。まだ幼ひらしく、少女の髪の毛は結はえられては居ない。ざんばらに広がつて、樫の根本を覆つていた。
「にいさま。」
日夜と呼ばれた少女の小さな赤ひ唇が、さう言葉を紡いだ。
「
清嗣はさう言つて、日夜の隣に腰を降ろす。
大丈夫です、と少女は微笑んだ。
さうか、と清嗣は微笑み返した。
日夜は、清嗣の妹である。しかし、直接血は繋がつて居ない。
清嗣は、此の
後妻は、京の都より来た。
日夜の顔立ちが武家の娘にそぐわない気品を備へているのは、恐らくその
「にいさま、最近とんと御無沙汰でしたのね。」
日夜は駄々つ子が良くさうするやうに、頬を膨らませ乍らさう言った。さうして、自分自身でその表情が
「さう拗ねてくれるな。」
清嗣は苦笑ひを浮かべて、足下の草を一掴み千切ると、風の中に舞わせた。
「私も色々と忙しかつたのだ。」
「ととさまの事?」
日夜は清嗣の方を向かないままさう云った。
「父上の事。」
清嗣も前をじつと見据えたままさう云つた。
「仕方が無ひ事なのだよ。」
云ひ
「仕方の無ひ事なのですね。」
云ひ乍ら、日夜は清嗣に覆い被さつた。
そしてそのまま、小さな赤ひ唇を、清嗣のそれにそつと重ねた。
一陣の風が吹き、樫の木の葉をざわざわと揺らす。
不安を掻き立てるやうなその音色に、日夜はいつさう清嗣の体を激しく求めた。
・
東都は
今年の東都の夏の暑さは、ある意味異様と言っても良い物だった。遅い梅雨が明けた後、七夕祭りの過ぎた辺りから、気温は急カアブを描いて上がり始め、新盆の頃には、連日三十度を超える猛暑となった。
人々は
「ああーっ、暑い、暑いの事ね!」
迷流藍花の助手を務めている
「暑い暑い言うと、よけい暑くなる物だよ、美鈴。」
涼しげな声が響いて、事務所のドアーが開き、丁度そこに迷流が帰ってきた。探偵は、流石に半袖のシャツこそ着ている物の、下は長ズボン姿だった。それでいて殆ど汗をかいていない。
「迷流様と一緒にしないね!暑い物は暑いの事ね!」
美鈴は髪の毛を振り乱しながら起きあがって、そう答えた。つい最近まで、腰の辺りまで長さのあった髪の毛は、この暑さでは邪魔以外の何者でもなかったらしく、この前知り合いの「タバコ屋のおばちゃん」の家に行ったときに散髪して貰い、今はショオトカットにしている。
美鈴が今着ている服も、その時におばちゃんから貰ったもので、ノースリーブの一見下着に見えるような服である。はっきり言って色気に乏しい美鈴が着ると、セクシィと言うよりは
「ま、確かにそれもそうだね、美鈴。」
迷流は優しく笑ってそう言うと、手に持っていた紙包みを、机の上に置いた。
「何ね?」
不思議そうに眺める美鈴の前で、迷流はゆっくりとその包みを開いた。あっ、と美鈴が小さく声を上げる。
それは氷の固まりだった。それがあるだけで、急にこの部屋の温度が一度は下がったような心持ちになるから不思議だ。
「かき氷でも作って食べようよ、少しは涼しくなるかもしれない。」
「迷流様大好き!」
美鈴はそう言うと、迷流の首にむしゃぶりついた。迷流は苦笑しながら美鈴の頭を撫でる。
美鈴は氷の固まりをまな板の上に乗せると、包丁で器用にそれを削り取っていく。迷流は、戸棚から硝子皿を出して、机の上に置いた。美鈴がその上に削った氷をまな板の上から流し込む。
迷流はその上に氷と一緒に買ってきたイチゴのシロップをかけた。
「さ、できた。」
「いただきますね!」
美鈴はにこにこしながらかき氷を頬張った。
「うーーっ!美味しいの事ね!」
言いながら美鈴は額の辺りを押さえている。キーンときたらしい。
「それは良かった。買ってきた甲斐があったよ。」
迷流も美鈴につられるようににこにこと微笑んだ。
かき氷のお陰で涼んだ二人を、午後の気怠い時間が包み込んでいく。開け放した窓の側の風鈴は、時折思い出したようにしか鳴らない。風が殆ど無いのだ。
「うーっ。」
お客は誰も来ない。この暑さをしのぐだけで人々は精一杯で、面倒事に気を回す気力はもう持ち合わせていないのだろう。美鈴はソファーに寝っ転がったまま、暇そうにうめいた。そして、不意に何か思いついた顔になると、ソファーの上から飛び起きた。そのまま、自分のデスクで書き物をしていた迷流に近づいていく。
「ねえ、迷流様。」
「ん、何?」
「
美鈴は迷流の机の上に置いてあった、「歎異抄」を持ち上げて、口元の辺りに当てた。「歎異抄」と言うのは、貴知久出版が発行している、一種の総合雑誌である。時事ネタや、最新の科学技術の紹介、人気作家の小説など、バラエティー豊かな紙面が楽しい。
「そうだね、どうせお客も来そうにないし。」
迷流はそう言って苦笑すると、美鈴の手から歎異抄を受け取って、美鈴と一緒にソファーに腰掛けた。
最初のうちは美鈴に
今号は人気作家の書き下ろし短編の特集号であって、
美鈴は、きちんと内容を理解しているのかどうかは不明だが、このような若い作家達の作品の方をより好んでいるようだった。
「・・・
「面白かったね。」
迷流が読み終えると、美鈴は満足そうに微笑んだ。
「そ・・・そう?それは良かった。」
迷流にはさっぱり分からなかった。
「あー、なんか喉乾いちゃったよ。」
迷流がそう言うと、美鈴は冷蔵庫に飲み物を取りに行こうとした。その刹那、事務所のドアーがノックされた。振り向いた美鈴を手で押さえて、迷流はドアーを自分で開けた。
「はい、こちら迷流探偵社、殺人誘拐身の上相談何でも承っております。」
「あ、どうも。」
訪れたのは、まだ若い書生風の男だった。迷流はその顔に何故か既視感を覚えて、あれ、と首を傾げる。
「失礼ですが、何処かでお会いしたことが・・・」
「あーっ!!」
言いかけた迷流の言葉を、後ろから美鈴の叫び声が遮った。美鈴はオレンジジュースの瓶を机の上に置くと、慌てて戸口まで走ってくる。
そして男の前に立つと、食いつきそうな勢いで尋ねた。
「あの、貴方、花田土門先生違うか?」
ええっ!と迷流も思わず男の顔を見直す。確かについ先程「歎異抄」でこの顔を見たような気がする。男は、いやあ知って貰っていたとは光栄だなあ、と言いながら頭を掻いた。
「初めまして、物書きをしている花田土門と申します。」
花田はそう言って笑った。笑うと細い目が殆ど一筋の線のようになる。
「私、貴方の小説のファンね!」
美鈴はそう言ってはしゃぐ。花田は照れたようにはにかんだ。
「ま、とにかく中へ。」
迷流は花田を部屋の中に招き入れた。失礼します、と言いながら花田はソファーに腰を降ろした。美鈴がぴょんぴょん跳ねながらまとわりつく。
「さっきも四十五回天の主演、読んで貰ったばっかりね!面白かったの事ね。」
「四十五回転の終焉、です。」
花田はそう言って苦笑した。
「美鈴、さっきの氷がまだ溶けてなかったら、かき氷出して上げて。」
迷流も苦笑しながらそう言って、美鈴は台所へと消えた。その背中を見送った後で、花田に向かって迷流は言う。
「すいませんね、騒々しくて。あの子は私の助手をしている中華人で美鈴と言います。」
可愛い子じゃないですか、と花田は言った。再び両目が一本ずつの直線に変わる。
花田は、薄青い半袖のワイシャツに、半ズボンにサンダルと言ったラフな格好をしていた。黒くて癖のない髪の毛は、肩の辺りで切り揃えられており、若く見える顔と相まって、いかにも青書生と言った雰囲気を醸し出している。
やがて美鈴がかき氷を硝子皿に盛って現れた。おお、と作家は大袈裟に驚きの声を上げる。
「いやあ、これは有り難い、まっこと生き返ります。」
花田はいそいそとかき氷を頬張ると、やはりキーンときたらしくイタタ、と額を押さえた。
「それで・・・」
迷流は花田の硝子皿が空になったのを確認すると、そう口火を切った。
「新進気鋭の若手作家さんが、一体どのようなご用件で参られたのですか?」
うん、と花田は意味ありげに腕を組んで唸った。そして、
「ここではどのような依頼でも引き受けてくれる、そう聞いてきたのですが。」
そう言った。まあ、盗みや殺しをやってくれ、と言うこと意外なら、と迷流は答える。花田は少し笑った。
「そう言うことではないのです。ただ、一寸ばかし信じがたいような奇妙な出来事でも、信じていただけますかねえ?」
それはもちろん、と迷流は言った。
「慣れてますから。」
花田はそうですか、と言った後も暫くの間逡巡していたが、やがて話す決心がついたようで、ぽつり、と切り出した。
「葉・ロイフォードと言う作家をご存じですか。」
「花田先生と同じ様な、若手の作家ね、違うか?」
美鈴の言葉に、そうです、と花田は頷いた。
「その、葉さんがどうかしたんですか?」
「迷流さん・・・貴方は自分が考えていることを、先に人に言われたりした体験はありますかね?」
「えっ?まあ、有ると思います。」
迷流は突然の質問に戸惑いながらそう答えた。
「あ。」
そこで花田は、机の上に置いてあった歎異抄に気がついて、それを手に取った。そして、迷流にそれを渡す。
「葉・ロイフォードはそれに「首刈り峠の怪僧」と言う小説を載せていますよね。」
「ええ、確かに。」
迷流はページを繰りながらそう答えた。美鈴が後ろから覗き込んで、神妙な顔で頷いている。
「それ、私が考えた話なんです。」
花田は唐突にそう言った。へっ?と迷流は間抜けな声を上げた。美鈴は、盗撮ね!と大きな声を上げた。
「・・・盗作だよ、美鈴。ええと、花田さん、一体それはどう言うことなんです?偶々考えていたネタがかぶる事なら、作家さんなら良くあるとまでは言わないものの、あり得ることなのでは?」
ええ、と作家は少し疲れたような顔で頷いた。
「確かに迷流さんの言うとおり、一度や二度ならそう言うことはあり得るでしょう。しかし、一度や二度ではないのです、もう何回になるか、数えるのも馬鹿らしくなってしまいました。」
「ふうむ、創作に使うメモとかを盗まれた、とかその様なことはないのですか?」
「それはありません。」
きっぱりと花田は言った。
「私は一般に一つアイディアを思いついたら、行き当たりばったりで物語を書いていくたちなのです。ワンアイディアさえ覚えていれば良いわけですから、メモを取るようなことはしません。もし取ったとしてもせいぜいお話のタイトルしか書いていないので、それを見たところで全く同じ様な話が書けるとは思えません。ですから、葉・ロイフォードがもし私から盗作しているとしたら・・・」
作家はそこで大きく息を吸うと、言った。
「彼は、私の頭の中から盗作していることになります。」
そんな・・・と美鈴が絶句する。迷流はふうむ、と言って腕を組んだ。花田はそんな迷流の様子を見ながら、恐る恐る尋ねた。
「どうでしょう、信じてもらえるでしょうか?」
迷流は花田の方を見て、すっと一瞬目を細めた。そして、ゆっくりと頷いて見せた。
「分かりました、その猟奇、読み解きましょう。」
・
「清嗣様。」
落ち着ひた低い声が響いた。
「
読んで居た書から視線を動かすこと無ひまま清嗣は答えた。
清嗣は長い黒髪を頭の後ろで一つに結はえて居る。畳敷きの部屋の中央、ゆらゆらと揺らめく燭台の明かりの中で、清嗣は書を読んで居る。
「入つてもよろしいですか。」
「ああ、構わぬ。」
障子が静かに開いて、声の主が姿を現した。苦み走つた表情をした、壮年の男だ。白髪が混じつて灰色になつた髪の毛を荒く結んで居る。
「
「相変はらず、酷い物です。食糧不足で、人が人を喰らふ有様。清嗣様の命通り、常備していた食料の一部をこつそりと配給致しましたが、焼け石に水。更には
清嗣はふう、と溜息をつひた。兼元は悔しさうな顔で唇を咬んだ。
燭台の蝋燭の明かりに照らされて、二人の影が大きく揺れる。暫しの沈黙の後、兼元は
「清秀様は・・・」
一瞬の沈黙があった。清嗣が書の頁を繰る音が僅かに乱れた。
「相変わらず・・・酷い物だ。」
さうですか、と小さく兼元は云つた。
「連日連夜、女をはべらしての宴だ。食ひ物も有るところには余分に有る。しかし一言文句を云へば・・・」
清嗣はゆつくりと書を閉じて、兼元の方に向き直つた。
「首が飛ぶ。」
そして自嘲するかのやうに笑つた。
飛びますか、と兼元は云つた。
飛ぶな、と清嗣は表情を変へずに答える。
「
では、私が、と兼元は云つた。いや、と清嗣は彼を手でいなす。
「私がやろう。私がやるべきなのだ。」
静かな中に決意を秘めた言葉だつた。
「次の評定の時に動こう。」
兼元は言葉もなく頷いた。
障子の向かうの闇の中で、何者かがかさり、と動いたのを、二人は気づかなかつた。
・
「ううーっ、暑い暑い、暑いの事ね!」
美鈴は額からとめどなく溢れ出る汗を、半ばやけくそになりながら手の甲で拭くとそう言った。
「暑い暑い言うと、よけい暑くなるって言ったろ、美鈴。」
そう言いながらも迷流は息を切らしている。
二人は長い石段を登っていた。
花田土門が依頼に訪れた翌日、迷流と美鈴は早速、花田が出版社に聞いて調べてきた葉・ロイフォードの住所を訪れてみることにした。
夏の空は今日も果て知れず青く、太陽は容赦なくその光を地上に注いでいた。葉の住む
折角遠いところをわざわざ訪れたわけだから、引き下がれない迷流達は、近所で聞き込みをして、葉が普段は神社の上にある大きな樫の木の根本で作品の構想を練っているらしいことを聞き出した。
迷流達は喜び勇んで神社に向かったのだが、問題の樫の木は神社の奥殿の側にあり、そこに行くには、迷流達が今登っている、だらだらと終わり無く続いているようなこの石段を登る必要があったのだった。
「本当に、花田さんの言ってることは、本当なのかね?」
美鈴は事件の話をすることでこの苦行を紛らわせようと思い立ったようで、荒い息の間からそう迷流に尋ねた。
「うんそうだね・・・」
体力には全く自身がない迷流は、荒い息の間から言葉を発することも厳しいらしく、そう相槌を打ったまま暫く黙った。
花田の話では、葉・ロイフォードという人物はどちらかというと出不精な部類らしく、出版社によるパーティーなどにも滅多に出席することが無く、花田とは面識がないと言うことだった。
その作風は、躍動的な描写に定評があり、見る者をぐいぐいと引き込んでいくような作品が多い。ちなみに花田はそれとは対照的に、幻想的で見る者を不安にさせるかのような、胡乱な作品が多かった。
花田が「盗作」されたとされる作品は、彼が構想した中でも、比較的動きのある作品が多く、花田は、
「何が悔しいって、自分よりも上手く作品を仕上げていることが悔しいです。私本人が書いたら、きっとあれほど血沸き肉踊る出来映えにはなってない筈です。」
その様に言っていた。
「ま、多分葉さんに会ってみればはっきりするだろう。」
結局迷流は当たり障りのない言葉を返した。
「そうね。」
美鈴も考えるだけの気力がなかったらしく、簡単な相槌だけを返した。そうして言葉少なに登っていった二人は、漸く石段の頂上にでた。
「うわー。」
美鈴が疲れを忘れたかのような歓声を上げる。石段の上には草原が広がっていた。その草原の草をなびかせる様に、下界より少し涼しげな風が吹き抜けていく。
草原は緩やかな傾斜になって更に高いところへと続いており、その向こうには小さな森が広がっていた。朽ちかけた小さな社が、その森の入り口の辺りにひっそりと建っている。
森から少し離れた辺りには、一本だけ大きな樫の木がそびえ立っており、その根本の辺りに、昼寝をしているらしい人影が見えた。近所の人による情報を信じるなら、それが、葉・ロイフォードだろう。
迷流達はゆっくりとその人影に向かって近寄っていった。近寄って行くに連れ、その人物の外見がはっきりとしてくる。男性だ、少し気が強そうで、比較的端整な顔立ちをしている。目を閉じているから、はっきりそうとは言いきれないが、まだ若いようだ。
そして何よりの目立つ特徴は、頭を覆った茶色味がかった金髪だった。
男は、迷流達が近づいてきた気配を察知したらしく、うっすらと目を開けた。瞳の色はブラウンだ。
「葉・ロイフォードさんですね。」
迷流はそう話しかけてみた。貴方は?と男は逆に尋ね返してきた。
「私は・・・探偵です。」
迷流の言葉と共に、一陣の風が吹いた。美鈴が小さく悲鳴を上げて、スカートの裾を押さえた。男は小さく微笑んだ。
「確かに俺は、葉・ロイフォードだが、探偵さんが俺に一体何の用なんだ?」
「花田土門という作家について心当たりはありませんか?」
迷流の言葉を聞いて、葉は小さく眉を顰めた。知っているのですね、と迷流は言った。作家は小さく頷く。
「盗作・・・」
迷流は誰にともなく、風の中に向けて言葉を発した。
ああそうだ、忌々しげに葉は呟いた。
「では、やはり貴方が?」
迷流がそう言うと、葉は身を起こして、何のことだ?と怪訝顔で迷流に向かって言った。
「あの花田の野郎が俺の頭の中から作品のアイディアをかっさらっていく話じゃないのか?」
「えっ?そ、それはどう言うことです?」
「何だ、分かってて来たんじゃないのか?」
葉はそう言うと、迷流に向かって説明を始めた。自分が思いついた筈の作品のネタを、何故か花田に先んじて書かれてしまうこと。葉もやはり思いつきは紙の上にメモをしたりするタイプではない為、花田が葉の頭の中から盗作しているとしか思えないと言うこと。
それは、被害者と加害者が入れ替わっていることを除けば、花田が迷流達に語った話と、細部にわたるまで一緒だった。
「一体どう言うことでしょう・・・我々は花田さんに全く同じ事を言われて、ここに来たのですが・・・」
知らねえよ、と言いながら葉は再び木の根本にごろりと横になった。
「しかし全く腹が立つぜ、折角幻想的な話を思いついても、俺よりずっと上手く花田の奴が料理しちまうんだからな。」
「花田さんも同じ様なことを言ってましたよ。」
迷流はそう言いながら、葉の隣に横になった。美鈴もいそいそとそれに倣った。
「それにしても大きな樫の木ですね・・・」
ああそうだな、と葉は言った。
「こいつの過ごしてきた年月に比べたら、俺達の生きてきた年月なんてほんの一瞬に過ぎないのかも知れねえな。」
短い分波乱に富んでいるかも知れませんよ、と迷流は言った。そうかもな、と言いながら葉は半分体を起こして、樫の幹を撫でた。
「ここは妙に落ち着くんだ。故郷の森を思い出させるからかどうかは知らないがな。ここにいると作品のアイディアが次々と生まれてくるような気がする。」
「故郷って何処ね?」
「イギリンの湖水地方さ。父親が中華から来た外交官で、そこで家の母親と出会って、俺が生まれた。」
それで何故日本にいるのか迷流は気になったが、何やら事情がありそうだったので何も言わなかった。空をゆっくりと進んでいく小さな雲を見ていたら、葉が不意に探偵さんよ、と呼びかけてきた。
「俺からも頼むわ、このままじゃどうも首の座りが悪いったらない。花田の言う事を信じた訳じゃないが、俺達の頭の中がどうして覗かれているのか、その謎を解いてくれないか?」
そうですね・・・と迷流は雲を眺めたまま言った。
「どうにかして、この猟奇、読み解いてみましょうか。」
葉は短く、頼むぜ、と言った。
「良し、じゃあ美鈴、行こうか。」
そう言って起きあがった迷流は、横の美鈴を見てぎょっとした。
「おやおや、気持ち良さそうにおやすみじゃねえか。」
葉はそう言って笑った。美鈴は幸せそうな顔で小さく寝息を立てている。
「どうするんだい、探偵さん。」
「私も寝ます。」
迷流は即答した。葉はもう一度笑った。
「そうだな、樫の木のようにゆっくりと時を過ごすのも悪くはないか。」
・
評定は既に始まりの時を迎えて居た。
家臣達の集まつた其の場には、此の城の城主である筈の清秀の姿が無い。
いや、其れだけでは無かつた。
山谷と阪上、互ひに意見を対立させる、二人の重臣の姿が見えない。
清嗣は緊張を押し殺すやうに小さく溜息をつひた。下座の方では、不安さうな表情で兼元が時折清嗣の表情を垣間見る。
清嗣は、無理して微笑んで見せた。
其の刹那、漸く城主の清秀が此の場に姿を見せた。
白粉の匂ひ。
公式の場だといふのに、清秀は女二人を伴つて居た。女達は居並ぶ家臣達を、一種哀れむやうな、蔑むやうな視線で眺め回した後に、にい、と笑つた。
清嗣は覚悟を決めた。
「なんじゃ、者共、辛気くさい顔を並べくさつて。どうせ決めることも無いのだらう、儂ゃあ戻るぞ。」
清秀はさう云って立ち去らうと女の肩を抱いた。父上、と清嗣は其の背中を呼び止めた。
「お耳に入れたいことが。」
何じゃ、と清秀は清嗣に顔を寄せる。酒臭ひ息が清嗣の顔にかかつた。清嗣は素早く腰に差した刀を引き抜いた。
一閃。
清秀の首は、怪訝さうな表情を浮かべたままゆつくりと床に落ちた。
主を失つた胴体が、首のあつた筈の場所から激しく血潮を吹き出し乍らゆつくりと倒れる。
一拍遅れて家臣達がざわざわと慌てふためく。
清秀に
「汝ら、慌てるな!」
清嗣は一喝した。
「逆賊、松嵜清秀は此の清嗣が討ち取つた。今こそ天下に正しき道を示す時だ!民に救いを!」
「
突然、清嗣の後ろで声が響いて、阪上が姿を現した。其の手には・・・山谷の首が握られて居る。
「!!!」
色を失つた清嗣を差し置いて、阪上は叫んだ。
「此の松嵜清嗣は、悪臣の山谷と組んで此の城の乗つ取りを計画した。各々方、外を見よ!怒れし民草が此の城を取り囲んで居る。今こそ彼らに清嗣の首を差し出し、真に平等な国を目指そうぞ!」
窓が開く。
其れを合図にしたかのやうに城を取り囲んだ民草は一斉に鬨の声を上げた。
「おお!」
恐らく阪上に依って仕込まれて居たと思われる者共が、清嗣に向かって抜刀した。他の家臣も、城を取り囲むやうにして鬨の声を上げている民草に恐れを成したか、清嗣を守ろうとはせずに静観を決め込む。
当の清嗣も呆然として居た。
刺客の一人が、清嗣に向かつて走り込んで来る。
清嗣はかわさうともしない。
刺客の刀が清嗣に届きさうになつた刹那、兼元が飛び出し、刺客を切り伏せた。さうしてそのまま清嗣の手を取つて走り出す。
「兼元、離せ!」
漸く我に返った清嗣がそう叫ぶ。
「いいえ、離しませぬ。」
兼元はきつぱりとさう云つて、地下の秘密の通路に向けて駆けた。
「山谷様が死なれた以上、これ以上阪上に対する術はありませぬ。・・・迂闊でした、相手は恐らく今日の計画の事を察知して居たやうです。」
清嗣は強く唇を咬んだ。
追つ手は阪上の手に依る者の他には、かかつてはいないやうだつた。
・
葉の元を訪れた翌日、迷流達は今度は花田の家を訪問するべく、眠り谷を訪れていた。
今日も天気は晴れ。渇水状態がシャレにならなくなってきたらしく、水道は断水して、街の中を給水車が走り回っている。迷流達は途中の露店で買ったラムネをちびりちびりと飲みながら花田の家を目指した。
花田は留守だった。
何となく昨日と同じ様な状況になってきたな、と思いながら近所の人に訊いてみると、花田は普段近所にある公園で創作のアイディアを練っている、という答えが帰ってきた。ますます昨日と同じ様な状況である。
「ねえ、迷流様。」
公園への道すがら、美鈴が不意にそう尋ねてきた。
「ん?何。」
うんとねえ、と美鈴は言った。美鈴は今日は白い袖無しのワンピースを着て、やはり白い麦わら帽子を被っている。これで髪の毛が長いままだったら、いいとこのお嬢さんのようだ。
「やっぱり、今回の事件少し変ね。」
どうして?と言う迷流の問いに、少女は一生懸命考え込む。上手く説明するための日本語を考えているのであろう。
「ええと、花田さんと葉さんが、お互いにお互いのアイディアを盗作された、と言ってるでしょ。だとしたら、二人とも相手の考えた物を自分が考えたものだと思いこんでることになるね、間違ってるか?」
「そうだね、美鈴。その通りだよ。」
言いながら迷流は、美鈴の頭を麦わら帽子越しにぽんぽんと叩いた。美鈴は、更にえーと、と言ってから言葉を継いだ。
「でも、もし、花田さんか葉さん、どっちかが嘘をついていたら別に矛盾無くなるね、違うか?」
「賢いね、美鈴は、偉い偉い。」
迷流は言いながら、美鈴の頭を帽子越しに撫でてやる。少女は
「でもね、美鈴。」
そして迷流は言った。
「一応花田さんも葉さんも嘘はついてないみたいなんだよ。二人ともちらっと『ノベリング』してみた限りではね。」
ふうん、そうか、と言って、美鈴は考え込んだ。
「難しい話ね。」
そうだね、と迷流は言った。
「ま、もう一度花田さんに会ってから考えてみようよ。」
二人はいつの間にか公園の中に入っていた。かなり広い公園だ。この暑さだというのに、子供達は元気に遊具施設に群がっている。こういった騒がしい場所にはいないだろうと判断して、二人は案内板に従って池の方へと向かった。
池はそれほど大きな物ではない。しかし、水面ではのんびりと鴨が泳いでおり、生い茂った周辺の草木の色を映して緑色に見える水の下には、時折鯉の姿を見ることができる。なかなかのどかな雰囲気だ。
こちらの方まで来ると、人の声はまばらになり、代わりに蝉が短い命を完全燃焼させるかのようにひっきりなしに鳴き声を上げている。
散策コオスと書かれた道を暫く行ったところで、道から少しはずれた小高い丘の上の、大きな樫の木の根本で、花田は横になっていた。
「なんか、昨日と同じね。」
迷流の心中を代弁するかのように美鈴がぽつりとそう言った。
二人が近づいていくと、花田はやあ、探偵さん、と言いながら体を起こした。目が細い所為で眠っているとばかり思っていたが、どうやら起きていたらしい。
「どうでした?」
早速そう尋ねてきた。迷流は花田の隣に腰を降ろすと、言った。
「それがですねえ、どうも妙なことになってきたんですよ。葉さんも貴方と同じように、自分の考えたネタを、書く前に貴方に盗作されていると言うんですよ。」
何ですって、と花田は言った。
「私だけじゃない・・・」
「そうです、少なくとも葉さんは嘘は言っていません。」
迷流の言葉を聞いて、花田は再びごろり、と横になった。
「そうですか・・・」
そして花田は、多分細い目を閉じた。そして、それならそれで良いのかも知れませんね、と言った。
「幸いにして同じ作品を書いてしまったことはないようですし。」
良いんですか、それで、と迷流は言った。
「良くはないですよ、決して。でも、ここでこうしていると、なんかそんなことは些細なことにすぎないと思えてくるんです。・・・見て下さい、この樫の木を。長い年月をその幹に刻みながら、悠然とそそり立っている。私はここにいると、ひどく落ち着いて、優しい気持ちになれるんです。」
「成程・・・分かるような気がします。」
言いながら迷流も横になった。その途端、迷流は急に驚いたように、瞳をカッと見開いた。その瞳がやがて、薄い水色に輝き出す。
「迷流様?」
美鈴が呼びかける。花田も驚いたように、身を起こした。
迷流はやがてゆっくりと目を閉じると、そっとその身を起こした。
「迷流様、ひょっとして・・・」
美鈴の言葉に迷流はああ、と力強く頷いて見せた。
「事件の謎は解けましたよ、花田さん。」
「本当ですか!?」
花田は思わず身を乗り出した。
「しかし何故また、急に?」
「迷流様の能力ね、迷流様物語、見つけだしたね!」
ああ、噂のノベリングですか、と花田は言った。
迷流は言った。
「花田さん、お手数ですが、明日、事務所の方へいらして下さい。謎の答えは、その後でお教えします。」
・
小高ひ丘の上を涼しい風が吹き渡つて行く。
丘の
清嗣と兼元は、ゆつくりと其の木の側にあつた隠し通路の出口から姿を現した。
何時の間にか、太陽は地平線の彼方に消えてしまつて居る。
丘の上からは、燃え盛る火の手が見えた。人々のせめぎ合う声が、此処まで聞こえて来るかのやうだ。
「日夜を・・・日夜を救いに行かなければ。」
清嗣はよろよろと歩き始め乍らさう云つた。其の腕を、兼元が掴む。
「いけませぬ。」
兼元は云つた。
離せ、と清嗣は兼元の腕を振り払おうとする。しかし、兼元はしつかと掴んだ腕を放さうとはしない。
「ご覧下さい。」
兼元はそう云つて、自由な方の手で町を指し示した。
「離宮へと続く道は、民草に依つて封鎖されております。日夜姫様も、御自分で地下の通路から脱出なさる筈、御自重下さい。」
清嗣の体から、力が抜けた。よろよろと後ずさり樫の木に顔を埋める。
「日夜、日夜、すまぬ。不甲斐なひ兄を許せ。もし、もしお互ひに生き延ぶる事が出来たなら、何時か行つた
清嗣は、其のまま号泣した。
・
翌日、花田土門が迷流の探偵事務所を訪れたとき、そこに迷流の姿はなかった。花田は、迷流の代わりにそこにいた、助手の美鈴につれられて車上の人となった。
「一体何処に向かっているんですか?それに迷流さんは?」
花田は美鈴にそう尋ねてみるが、美鈴はにこにこと笑いながら、行ってみれば分かるね、としか言わない。そして手に持っていたバスケットを開けると、
「お腹空いてないか?サンドイッチ食べるね。」
そう言って花田にそれを勧めた。朝食を抜いていた花田は、ありがたく頂戴する。
中には、何故か酢豚が挟んであった。
妙な取り合わせだがなかなかいける。花田はおかわりを所望して、結局五切れ程サンドイッチを食べた。
そうこうしているうちに、汽車はブレーキの音高く杜谷駅へと到着した。
今日は久しぶりに、空を雲が流れている。心なしか吹き渡る風も涼を帯びているように感じられた。
再び、あの長い石段を登って、美鈴は神社の奥殿の森へと花田を導いた。この前ほど暑くはないので、美鈴はあっさりと石段を登りきったが、日頃から運動慣れしてない花田にとっては石段登りはかなりの苦行のようだった。
額に汗して、漸く花田が石段を登りきると、そこには一人の男の姿があった。
茶色味がかった金髪に、ブラウンの瞳。
「葉・ロイフォード・・・」
荒い息の下で、花田は驚いたようにそう呟く。
「花田土門か。」
葉・ロイフォードは、花田の方を見て、大して気乗りのしない様子でそう言った。そしてすぐに美鈴の方に向き直ると、言った。
「探偵さんはどうしたんだ、お嬢ちゃん。」
「今に分かるね。」
美鈴はそう言うと、樫の木に向かって歩き出した。
「ついてくるの事ね。」
花田と葉は、納得のいかない表情のまま、美鈴の後ろに付き従った。
美鈴は樫の木の根本まで来ると、そこにごろりと横になった。
「何・・・してるんだい、お嬢ちゃん。」
訝しんで花田は尋ねる。美鈴は良いから真似するね、と言った。花田は文句を言おうとしたが、葉が大人しく言葉に従ったので、花田も渋々と二人に倣った。
美鈴は、懐から懐中時計を取り出すと、
「後五分待つね、何ならお昼寝しても構わないの事よ。」
そう言って目を閉じた。
葉は黙っている。花田も取り敢えず目を閉じてみた。吹き抜ける風の音だけが聞こえた。本当に寝てしまいそうになった頃、美鈴の声が響いた。
「時間ね!目を閉じたまま心を研ぎ澄ましてみるね!」
花田は言われたとおりにしてみた。
『やあ、こんにちは、花田さんに葉さん。』
突然、迷流の声が聞こえて、花田は飛び起きた。慌てて目を開けて辺りを見回してみるが、探偵の姿は見えない。隣では、葉が同じようにして首を傾げていた。
『ははは、幾ら探してみても、ここに私はいませんよ。』
再び迷流の声が頭の中で響いて、花田は驚いた。
『ふふ、私は今、花田さんが何時も作品の構想を練っている公園の中の、樫の木の根本にいます。』
「そんな馬鹿な!隠れてないで、出て来て下さいよ、迷流さん。」
狐につままれたような気分で、花田は、姿の見えない探偵に向かってそう叫んだ。
『本当ですよ。』
再び、頭の中で声が響く。
『つまりは、これが今回の事件の真相です。』
「どう言う事だい、探偵さん。」
葉は、天を仰ぐようにしてそう言った。
『私は以前、雑誌で読んだことがあるのですが、植物達は、それぞれがたとえ離れた所にいたとしても、お互いにお互いの状態を感じることが出来る、と言う説があるのだそうです。』
「お互いの、意識を?」
『そうです。例えば、私がある鉢植えのヒヤシンスの葉っぱを千切ったとしましょう。そして、その後で私が別の鉢のヒヤシンスに近づくと、そのヒヤシンスは、私を知らない筈なのに、恐怖の感情を抱くのだそうです。』
「一寸待ってくれ、植物に感情なんて物があるのか?」
ありますよ、と迷流は言った。
『愛情を持って育てれば、植物はよりよく成長するそうです。音楽を聴かせてやるのも良いらしい。まあ、何にせよ、植物は個体という枠を越えた意識を持っている、と言う考えがあるのだそうです。確か、世界的意識、だとか世界的無意識だとか、その様な名前でその記事では呼んでいましたが。』
「で、それが一体何の関係があるんだい。」
葉の言葉に、一寸考えを纏めるような沈黙があった。
『私が思うに、この植物の持っている力は、人間が言うところの”テレパシー”というやつに近い代物なのではないでしょうか。・・・私は今、先程も言ったとおり、花田さんが何時も作品の構想を練っていた大きな樫の木の根本にいます。』
まさか、と花田は思った。隣の葉を見ると、どうやら同じ事に思い当たったらしく、唖然とした表情でぽかんと口を開いている。そんな二人の思いを見抜いたような口調で、迷流は言った。
『そう、そのとおりです。犯人は、この樫の木です。』
言葉もない作家二人に向けて、迷流は滔々と説明を始めた。
『この公園の樫の木と、そちらの神社の樫の木。この二本の木が、それぞれの根本で作品の構想を練っていた貴方達二人の考えていることを、相手の木に向けて、つまりはその根本で考えているもう一人に向けて送っていたんです。貴方達は、そうしてそれが自分の作品だと思いこんだ。』
「それが・・・盗作の正体・・・」
『そうです。いや、もしかすると貴方達二人がそれぞれ自分の作品だと信じて、既に発表した物でさえも、相手のアイディアかも知れないのです。二人の意識は、ここで構想を練っている間繋がっていたわけですから。それでもお互いに同じ作品の執筆を始めてしまわなかったのは、きっと無意識的に、自分の得意分野の作品をお互いに選んでいたからでしょう。花田さんは幻想的な、そして葉さんは躍動感溢れる作品を。』
花田と葉は、それぞれに思いを巡らせた。しかしその事を確かめる術はない。
『しかし、元々花田さんと葉さん、お二人の書く作品は、その描写方法こそ違えど、作品の雰囲気は似通った物だったんだと思いますよ。だからこそ、相手の作品を自分の物だと勘違いしたんです。あまりにも自分の世界観と違う作品を思いついたら、さすがに変だと思うでしょうからね。』
花田と葉は、何となくお互いの顔を見つめ合った。そこに、迷流の明るい声が聞こえてくる。
『どうです、すっきりしましたか。』
花田と葉はお互いに笑いあうと、同時にはい、と言った。迷流も遠く眠り谷で笑ったようだ。
『それでは、美鈴と一緒に私の事務所に戻ってきて下さい。』
「それは無理です。」
「そいつは無理な相談だな。」
花田と葉は、ほぼ二人同時にそう言った。迷流の戸惑ったような思念が流れ込んでくる。花田はニヤニヤしながら言った。
「静かだと思ったら熟睡してますよ、美鈴ちゃん。」
・
結局あの馬鹿みたいな暑さは、あの日をもって終わりを迎えていた。迷流達が探偵事務所にたどり着いた後には、激しく音を立てて雨も降り出してきた。実に二十日ぶりの雨であった。
やがて、江渡川の花火大会と共に、少しだけもの悲しい八月が終わる。まだまだ暑いとは言え、暦の上では秋がやってきて、夕方になると寒さを感じるようになった。
そんなある日、迷流はいつものように歎異抄を買って帰ってくると、事務所で留守番をしていた美鈴を呼ぶと、その紙面を開いて彼女に見せた。
「見て御覧、美鈴。」
「ん、何ね?」
ソファーで寝っ転がっていた美鈴はそう言って藍花の手元を覗き込む。
「あっ!」
その頁に見覚えのある顔を発見して、美鈴は声を上げた。
「花田さんと葉さんね!」
そこには、あの夏の暑い日に、事件を解決してあげた二人の作家の写真が載っていた。そうなんだよ、と迷流は笑った。
「この二人、あれ以来意気投合しちゃったらしく、合作することになったんだって。あの樫の木を使えば、離れていても作品の構想を一緒に練れるわけだし。しかもね、そのペンネームが笑えて、『花葉田土呂井』だってさ。花田土門と葉・ロイフォードの名前の一部をくっつけたんだろうけど、それにしてもね・・・」
「迷流様、早く読んでね!」
美鈴は笑いながら迷流を急かした。迷流はよおし、と言って息を吸い込むと頁を繰った。
「『樫の宮の姫君』、花葉田土呂井。さわさわと云ふ音がする。樫の木の葉を風が擽つている音だ・・・」
盗作者・完
ざわざわと云ふ音がする。
窓の外の海の潮騒の音だ。
潮の匂ひを含んだ涼しげな海風は、清嗣の長く伸びた黒髪を櫛けづるやうにして吹き抜けていつた。
清嗣は窓辺にもたれかかり、海を眺めやると、ふう、と軽く息をつひた。
あれから二週間が経つていた。
清嗣と兼元は、無事に逃げ落ちて、此処、崎谷の旅館に長逗留を決め込んで居る。
兼元が風の噂で聞いてきた所に依ると、あの後、羽里那では結局民草の一団が城を占拠して、彼らを煽つて居た筈の阪上も、民草の手に依つて処刑されたと云ふ事だつた。
家臣達は同じやうに殺されたり、逃げ延びた者共も、其の行方は杳として知れない。
清嗣は何をするでも無く、畳の上にごろりと横になつた。
あれ以来清嗣は抜け殻のやうだ。
清嗣は寝返りを打つた。
不意に、背後に人の気配がした。おほかた、温泉に浸かりに行つていた兼元が戻つてきたのだらう。さう思つて、清嗣は何も云わずに横になつて居た。
「にいさま、寝てばかり居てはお体に宜しくありませぬよ。」
不意に背後より聞こえた鈴の鳴るやうな声。清嗣は驚いて振り返つた。
「御無沙汰でしたわね、にいさま。」
「日夜!」
清嗣は信じられずに叫んだ。
「本当にお前なのか。どうして此処に?」
清嗣は起きあがつて、確かめるやうに日夜の体を抱きしめてみる。
「痛いですわ、にいさま。」
日夜はさう云つて笑つた。
「樫の木が、教えてくれましたの。兄様が此処に居る事を。離宮のあの樫の木が。」
清嗣は、さうか、と云って再び日夜の体を掻き抱いた。そして激しく唇を重ねる。
不思議な事も有る物だ。
さては、あの丘の上の樫の木が、我が思ひを届けてくれたか。
清嗣は、怖かつた、と子供のやうな口調で云い乍ら泣きじゃくり始めた日夜を、それはそれは優しく抱き止めた。
時は天波弐年。後の関東管領松嵜清嗣拾九の時の物語である。
樫の宮の姫君・完
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