大正時事異聞録 |
伊佐坂 眠井
第二回・追跡者
3
迷流は、警察署に戻ると、中山警部たちに薄野深舞香の自宅を捜索するように言い置いて、自分は、彼女と話し合いを始めた。
薄野深舞香は、その日のうちに、連続通り魔事件の犯人として、逮捕された。彼女の自宅からは、血の付いた衣装が発見され、その血液は、佐藤巡査の物と一致した。また、彼女の供述通り、彼女が持ち歩いていた鞄からは、サラシに巻かれた出刃包丁が出てきた。
薄野深舞香は、迷流と話した後に、連続通り魔事件の犯人は自分であるとの自供を行い、逮捕されるときも大人しくしていた。
「迷流君、いったいどういう事だったのか説明してくれたまえ」
漸くすべてが終わったところで、中山警部は、探偵事務所のソファーにもたれかかると、疲れた口振りでそう言った。
「そうね、私も何がなんだか分からなかったね」
先程置いてきぼりにされた不満をぶつけるように、美鈴も頬を膨らませながらそう言った。迷流は、そうだね・・・、と言いながらコーヒーを啜った。
「はじめに、私がおかしいと思ったのは、薄野さんの尾行をしていた、佐藤巡査が通り魔に襲われた、と、聞いたときだね。だとすると、その時に、通り魔事件と蘇る追跡者事件が同時に起こっていたことになる。このディレンマを解決するにはどうしたらいいか?・・・答は簡単だよ、追跡者が佐藤巡査で、通り魔が薄野さんだったんだ」
「おいおい、佐藤の奴が薄野さんを尾行していたのは、その時が初めてだぞ、迷流君。それともなんだ、佐藤がずっと薄野深舞香を尾行していたとでも言いたいのかい?」
もちろんそんなことはありませんよ、と迷流は笑った。
「私だって、最初からこの図式に気づいたわけではないですからね。この事に気づいたのは、薄野さんを、”ノベリング”した後、美鈴の見ていた地図を見たときです」
私のお手柄か?と、美鈴は言った。迷流は苦笑する。
「通り魔の起こった場所と日付、さらには殺し方までも、薄野さんが、”蘇る追跡者”を殺したときと一緒だということに、私は気づいたんです」
「そうか、そう言えば確かに、二件目の被害者だけは滅多刺しにされていたもんなあ。あの死体があったのは、確かに、松尾神宮の側だった」
迷流は、ええ、と頷いた。
「それに、あれだけ強いという佐藤さんが刺された、という謎も、薄野さんを犯人と考えれば、あっさりと解けます。尾行対象に、いきなり逃げられ、追いついたと思ったらいきなり振り向きざまに包丁で刺されるんです。これでは、幾ら佐藤さんが強いからと言って、どうにも出来ないでしょう」
中山警部は、そうかあ、と感慨深げに呟いた。
「それであのとき、病院に行って、佐藤を”ノベリング”してきたのか。・・・すると、この事件が解決したのは、まさに、佐藤様々って言うわけだ」
そうですね、と、迷流は微笑た。
「しかしなあ、迷流君。薄野深舞香は何故、誰かが尾いてくると言う妄想にとりつかれたんだ?それに被害者たちは、どうやって選ばれたんだ?」
中山警部の質問に、迷流は顎に手を当てると、私にもはっきりした事は言えません、と言った。
「ただ、推測することは出来ます。薄野深舞香の「物語」には、何度か、”魔法”と言う言葉が出てきます。”その言葉は魔法でした””彼と過ごす刻はまるで魔法でした””でも、魔法はやがて解けてしまうと言うことを私は思い知らされることになったのです。”
・・・その言葉、と言うのは、待っているだけじゃ何も始まらない、と言ったような物でした。と、すると、その反対は・・・」
「待っているだけでも、何かが起こる?」
そうです、と迷流は頷いた。
「そして、彼と過ごしていた時間も、彼女にとって、非常に有意味な物だった・・・確か、物語の中に、彼が後ろから抱きしめにやってくるのを黙って待つ、と言う描写がありましたね。これらを繋ぎ合わせると・・・」
中山警部の顔色が、サッと青ざめた。
「待っているだけでも、彼が後ろからやってくる・・・?」
そうです、と、迷流はもう一度頷いた。
「後の方の文章になると、”彼”に対するイメージは変化して、むしろ、触れて欲しくない物に変わっている。・・・最早彼は、優しく抱き留めてくれる存在ではなくなっていたのです」
「それで、後ろから尾けて来る者が・・・」
ええ、と迷流は言った。
「怖かったんです」
「悲しい、話ね」
美鈴はそう言って顔を伏せた。
「被害者の選ばれた理由については、その彼を思い起こさせる部品を、持っていたかどうかでしょう。すべてが彼にそっくりじゃなくて良いんです。分厚いレンズの眼鏡や、ずんぐりとした腹、足を引きずる歩き方、彼のことを思い起こさせる特徴の、どれか一つでも持ち合わせていれば、後ろを歩いているその人物は、彼女にとって恐ろしい存在となったのです」
「そう言えば佐藤は、眉毛は太いし、あれはどう見ても筋肉質だ・・・」
納得したように、中山警部は呟いた。迷流は弱々しく、首を振ると、すべては私の推測にすぎないと言うことを、忘れないで下さいよ、と言った。
「物語は、薄野さんの物なんですから」
中山警部は、深く頷くと、やるせねえなあ、と言って、紙巻きに火をつけた。
この事務所は禁煙ね、と言いかけた美鈴に、迷流は優しく笑って、
「今は吸わせてあげなよ、美鈴」
と、言った。
・
薄野深舞香は、その日のうちに、拘置所へと送られた。その間も彼女は大人しく、警察関係者も、安心しきっていた。
しかし、次の日、彼女は、看守を刺し殺し、自らの胸にも包丁を突き立てて死んでいるところを発見された。
不思議なことに、警察が押収した筈の出刃が紛失しており、彼女の胸に突き立っていた包丁は、それと全く同じ型の物だったという。
・
楽しい時の終わりは、突然にやってきました。やはり、それは魔法だったのでしょう。寒い冬の季節、新しい年が始まって、幾らもしないうちに、私は、彼の唇が別れの言葉を告げるのを見ました。
あまりの事に、何も言えず、私が黙っていると、彼は、聞いてもいないのに他に好きな人が出来た、と言う事を滔々と語り始めました。彼の一目惚れだそうです。
大変美しい、と言うその女性は、自分から何もすることなく、彼を手に入れることに成功したのです。
魔法の時間は終わりました。私が何も言わなかったからなのか、彼は、まるで自分に言い訳でもするかのように、私の欠点を言い始めました。魔法が解けた私には、もう、殆ど彼の言葉が聞こえては来ませんでした。
後ろから視線を感じるようになったのは、その次の日からだったでしょうか。
・
拘置所の冷たい石の床の上で、私は自分が犯してしまった罪について考えていました。
探偵さんは、仕方がなかった、と言っていましたが、私はそうは思ってはいません。私はもしかすると、ずっと別の魔法にかかっていたのかもしれません。哀れな被害者に刃を突き立てている時、そこには確かに、別の私がいたような気がするのです。私の中に、追われることを望んでいる、別の私がいたのです。追いつめられた振りをして、獲物を狩る、別の私が。そう、もしかすると、追跡者は、私自身だったかもしれないのです。
だとすると、私は、今の境遇に感謝しないといけないのかもしれません。ここにいることによって、良い魔法も、悪い魔法も効果を失うのです。やっと静かな日々が過ごせるのでしょう。
・・・、その時、私の耳が、足音をとらえました。足を引きずった、独特の歩き方です。私の背中を、一瞬、冷たい物が走りました。私は、自分に言い聞かせます。何を考えているの?探偵さんが勘違いだって言ってたじゃない、あれは、交代した看守さんが、独房を見回っているだけよ・・・。
しかし、その足音は、ゆっくりと私の独房に近づいてくると、あろう事か、私の名前を呼んだのです。私は、恐る恐る鉄格子の方に近づきました。
懐中電灯に照らし出された太い眉、分厚いレンズの眼鏡の下の細い目、間違いなく、彼でした。彼は、久しぶり、と挨拶をすると、やはり私と別れて良かったというようなことを言いました。私の頭の中に、彼が夜勤をする公務員であったことが思い出されました。
まさか・・・そんな。こんな所で再会するなんて。私は、心の底から、あの出刃が欲しい、と思いました。私を守ってくれる、あの出刃を。
するとその時、私の手の中に、急に重たい物の感触が生まれました。私は、・・・多分笑って、それを油断しきった彼の下腹部に突き刺しました。やはり、それは私の出刃でした。蹲った彼の死体を見下ろしながら、私は小さく溜息をついて、最後の魔法を使うことにしました。
私は出刃の切っ先を自分の胸に向けると、多分笑って・・・両手に力を込めました。
追跡者・完