To Heart short story vol.3: |
いささか ねむい
私がメンテナンスと充電を終えて目を覚ましたとき、最初に見たのは、少し疲れた様子の長瀬さんの顔でした。
「あ・・・おはようございまふ。」
私は慌てて挨拶をしましたが、寝起きのためか、上手く口が回りませんでした。
長瀬さんは、私のその挨拶を聞いて、目を細めると、
「おはよう、マルチ。」
挨拶を返してくれました。
何時も通りの優しい笑顔ですが、よくよく見てみると長瀬さんの目が真っ赤に充血しているのが解ります。
「はわわっ!長瀬さん、徹夜なさったんですか?」
私がそう言って慌てると、長瀬さんは、
「長瀬さんじゃなくて、パパと呼びなさい、マルチ。」
真顔のままそうおっしゃいました。
「えっ・・・!?ええーーーっ!?」
私がおたおたと慌てると、長瀬さんは、
「ハハハ、冗談です。」
やはり真顔のまま、そうおっしゃいました。
長瀬さんは、とっても奥が深いです。
「まあ、それはともかく、マルチのためにとっておきの最終兵器を用意しておきました。これで少しは勝てる見込みもでてくるでしょう。」
「は、はわっ!長瀬さん、ひょっとしてそのせいで眠ってないんですか?すっ、すみませえーん!」
私がそう言うと、長瀬さんはぽんぽんと私の頭に手を置きました。
「ハハハ、気にすることはないですよ、マルチ。マルチは私にとって本当の娘のようなもの、娘のために一生懸命努力することは、父親として当然のつとめです。」
「あうっ・・・」
私の目から勝手に涙が溢れてくるのが分かりました。
「あ、あうっ、な、長瀬さあーーん!」
私は叫びながら長瀬さんにしがみつきました。長瀬さんは驚いた顔をしながらも、優しく私の頭をなでてくれました。
「あうっ、ながせさーん、私、わたし・・・」
「マルチ。」
長瀬さんは私のからだをぎゅっ、と抱きしめてくれました。
そして、私の耳元で優しく囁きます。
「マルチ、お前がドジばかりしても、例の浩之という少年はマルチに優しくしてくれるからうれしい、と言ってましたね。それは、どうしてだと思いますか?」
「・・・?」
長瀬さんは、白衣のポケットからよれよれになったハンカチを出して私の涙を拭きながら、話を続けます。
「マルチ、それはマルチが何時も一生懸命だからです。何事も一生懸命やる姿というのは、見ていて気持ちの良い物なんですよ。」
「一生・・・懸命。」
そう、一生懸命です、と言って長瀬さんは微笑みました。
「格闘だって、それは同じなんですよ。相手に遠慮して、一生懸命やらないことは、かえって相手に対して失礼に当たるんです。だから、マルチ、精一杯やってきなさい。浩之という少年と、葵という女の子から学んだことの全てをぶつけてきなさい!」
「全てを・・・ぶつける。」
私はゆっくりと頭の中で長瀬さんの言葉を反芻しました。
そして、
「はい!わかりましたっ!マルチは精一杯やってきます、お父さん!」
私は決意を込めてそう宣言しました。
お父さん、と呼ばれたことにびっくりしたのでしょうか、長瀬さんが珍しく戸惑ったような表情を浮かべました。
でも、すぐに微笑みを浮かべると、
「頑張ってこい、我が娘よ!」
そう言って、私の髪の毛をくしゃっ、とかき回しました。
そして、
「おーい、皆さんも入ってきて下さい。」
研究室のドアを開けて、廊下に向けてそう叫びました。
途端にどやどやと、開発課の皆さんが部屋の中に雪崩れ込んできます。
「マルチ、頑張ってこいよ。」
「マルチちゃん、私は最初はマルチちゃんが戦うことに反対だったんだけど、こうなったら仕方ないわ、どうせやるなら勝ってきてね!」
「マルチ、これ激励の寄せ書きね。」
皆さんは口々にそう言って私を励ましてくれました。
あうう、私はまた涙が溢れてくるのを感じました。
と、その時、喧噪を避けるようにして、ドアの方から遅れてもう一人、部屋の中に入ってくる人影がありました。
「あ・・・」
西園寺女学院の制服を着た、私と同じメイドロボ。セリオさんです。
セリオさんはゆっくりと私に近付いてきました。落ち着いた、優雅な歩き方です。
「マルチさん。」
「は、はい何でしょう?」
私が尋ね返すと、セリオさんは無表情ながら少し照れたように、
「これを・・・」
そう言いながら懐から何かを取り出しました。
「神社で買ってきたお守りです。少しはマルチさんの役にたつかと思って持ってきました。」
そう言って、セリオさんはお守りを私の手に握らせます。
「セリオさん・・・」
私は感動のあまり、セリオさんに抱きつきました。
あっ、とセリオさんが驚いたような声を出して軽く頬を染めました。
セリオさんは躊躇いがちに私の頭をなでると、
「頑張ってきて下さい、マルチさん。」
そうおっしゃいました。
「はい!」
私は元気良く返事をします。
「マルチ、がんばりますっ!」
・
時刻は午前九時五十四分。
坂下との約束の十時までは後六分弱だ。
俺達、つまり、俺と葵ちゃんとマルチの三人は、既に戦いの舞台である学校裏の神社に集結していた。
マルチは例の薬で髪の毛を青く染めて、耳の飾りを取って体操服を着込み、すっかり葵ちゃんになりきっている。そして当然のように葵ちゃんのほうはマルチに化けている。
・・・実は今朝になって葵ちゃんが、昨日のマルチの様子を見て心配になり、やっぱり私がやります、と言いだして一悶着あったわけだが、神社に現れたマルチの気合いを見て、葵ちゃんは自分の意見を引っ込めて大人しくマルチナイズされたいきさつがある。
そう、どう言うわけか、今日のマルチは昨日とは打って変わって気合いが入っていた。
葵ちゃんのお株を奪うように瞳には熱い炎がともり、背筋がピーンと伸びて、心なしか柔らかな胸の膨らみも強調されて見えるような・・・いや、何か本当に普段より胸があるんじゃないか?
大体マルチを見て胸が意識できるなんて・・・
「おはよう、葵。」
おおっと、俺が妙な感慨に浸っている間に今日の対戦相手、坂下が登場だ。
「あうっ。」
反射的に、あ、好恵さんと言おうとしたらしい葵ちゃんの口を俺は、無理矢理手で塞いだ。
「おはようございます、好恵さん。」
変わりにマルチがそう言いながら、ぺこり、とお辞儀をした。
よしよし、ここら辺のリハーサルは既に行ってある。完璧だぜ、マルチ。
「それにしても・・・いい天気になったものね。屋外でやることにして正解だったわ。」 坂下は、マルチと葵ちゃんが入れ替わっていることにまるで気づかないままのんきにそう言って軽く体を動かしている。
そして、尤もらしく腕を組むと、
「本当はもっと早く来るつもりだったけど、あいつのうちによってから来たから、遅くなってしまったわ。」
そう言った。
その途端、
「やっほ〜、久しぶり〜、葵!元気してた?」
ノー天気な声とともに、坂下を押しのけて髪の毛の長い女がニコニコ笑いながら、葵ちゃんに化けたマルチに挨拶をした。
「あ、綾香・・・さん?」
マルチは驚いたように女の顔を見つめる。
ん、待てよ?何でマルチがこの女の事を知っているんだ?
俺はしげしげと、綾香と呼ばれた女の顔を覗き込んだ。
黒くてサラサラとした長い髪、かなりの美人顔だ。しかも、どこかで見覚えがあるような・・・
「あれ?」
俺がそう考えているうちに、綾香は不思議そうな顔をしながら、こっちの方に歩いてきた。
な、何だ?
美人に迫られてドキドキしている俺。
しかし、綾香が話しかけたのは、俺の後ろで目を丸くしていたマルチに扮した葵ちゃん(ややっこしいな)だった。
「あらら、貴方、マルチじゃないの。何でこんな所にいるわけ?」
「あ、綾香さん・・・!」
葵ちゃんはそう言ったきり絶句して、練習通りにはわわわっと言っている。
坂下もその時になって漸く本物の葵ちゃんの存在に気がついたようで、怪訝そうな顔で誰だ、この子は、と綾香に向かって尋ねている。
ふとある予感を覚えた俺は、その葵ちゃんに向かってそっと耳打ちした。
「なあ、この人ってひょっとして・・・」
「はい、来栖川綾香さんです。」
やっぱり。
どこかで見たことがあると思ったんだよ、この美人顔。先輩にそっくりだ。
って、そんな感慨に浸っている場合じゃない。まずいぞ、これは。
綾香という予想外の伏兵の登場によって、騙す相手が二人に増えちまった。
しかも、葵ちゃんのことしか知らない坂下と違って、どうやら綾香はそれぞれ二人のことを知っているらしいから、余計にたちが悪い。
「あ、ああ、マルチは葵ちゃんのクラブの一員なんだよ。ほら、うちの学校は五人以上のメンバーがいないと、同好会として認められないんだよ。だから俺が誘ったわけ。」
「そ、そうなんですぅ〜。」
取り敢えず、俺と葵ちゃんはそう説明して、綾香をごまかした。
「あのお、ところで、どうして綾香さんが?」
そこで上手い具合にマルチが話を振る。
「今日の試合、悪影響の張本人さんにも是非立ち会って貰いたかったのよ。」
それに坂下が噛みついてきて、綾香坂下間で格闘技の姿勢に関する口論が巻き起こった。
俺達三人は、その間にこっそりと綾香対策の打ち合わせをする。
綾香坂下会談は、やがて物別れに終わったらしく、坂下は着替えるためにお堂の裏へと消えた。
決着は己の拳でつけることになったようだ。
「頼むわよ、葵。」
坂下を見送った後で、綾香は俺達の方に近づいてくると、マルチに向かってそう言った。
マルチは、えっ?と聞き返す。
「いっちょ、がつーんとやっつけて、好恵の空手崇拝を崩してやってよね!」
「あっ・・・」
「いい?これはもう空手対エクストリームの戦いよ!絶対負けちゃダメよ!」
「は、はいっ!」
マルチの返事はとても良い。
やがて綾香は、坂下に呼ばれて着替えの手伝いに行ってしまい。後には、俺達三人が残された。
「どうやら、ばれてないようだな。」
俺は少し安心して息をついた。
「そう・・・みたいですね。」
答えた葵ちゃんは、少し元気がない。
「葵ちゃん?」
俺が尋ねると、葵ちゃんは、そっと目を伏せて、呟いた。
「大丈夫・・・でしょうか?」
「どうしたんですか?葵さん。」
マルチも心配そうに葵ちゃんの顔を覗き込む。いや、それは今マルチそっくりな訳なんだが。
葵ちゃんは俯いたまま呟く。
「だって、なんだか話がどんどん大きくなってしまっているような・・・もし、負けてしまったら、綾香さんの立場まで・・・でも、私にはどうにも出来なくて・・・」
「葵ちゃん。」
俺は、葵ちゃんを少し叱ってやろうと思った。もう少しマルチのことも考えてやれ、と。
しかし、俺を差し置いて、マルチが葵ちゃんの肩をぽん、と叩いた。
驚いたように葵ちゃんは顔を上げる。
そしてマルチは言った。
「大丈夫ですよ、葵さん。私、負けません。一生懸命私を指導して下さった葵さんや浩之さん、そして私のことを応援してくれた研究所の皆さんやセリオさんの気持ちに応えるためにも、私、負けません!」
「ま、マルチちゃん・・・」
葵ちゃんは目を見開いてそう言ったあとで、
「御免なさい、自分勝手なことばかり言って。」
涙を浮かべながらマルチに謝った。
・・・妙にりりしいな、今日のマルチは。
そして、そうこうしているうちに、着替えをすませて坂下達が戻ってきた。
「用意は良いわ。じゃ、始めましょうか。」
「はいっ!」
坂下の言葉に、マルチが元気良く返事をする。
いよいよ、決戦だ!
待て、次回!