武器学校を見学す
2003年11月09日(日)夕方




 さて、自衛隊武器学校だ。いきなり入って不審がられたり、身体検査されたりせんだろうか。よく考えたら、カバンの中には旅行には必ず持っていくヴィクトリノックスのツール・ナイフが入っている。ポケットやホルスターなどではなくカバンの底に入っているとはいえ、携帯自体に違法性がある。第一どこから入ればいいんだ。車用の出入り口はあるが、歩行者用の出入り口には鍵が掛かっていた。やむなく車道から基地に入る。
 不審者と見なして歩哨が寄ってくるかと思ったが、彼は一瞥しただけで何をする様子もない。門の受付に顔を出して、見学したい旨述べたら用紙を差し出された。ボールペンで住所氏名を記入。受付の窓から中をのぞき込むと、マガジンを外した89式小銃が7〜8丁ほど並べられていた。
 受付で見学者用のバッチを1つ出されて、特殊警棒を腰に吊した若い自衛官が1人案内に出てきてくれた。彼は基地内地図のところまで我々を案内し、見学可能地域と撮影禁止場所について説明してくれた。驚くほど若い自衛官だった。高校出てすぐに入隊し、訓練を終えて配属されたばかりといったところか。説明する口調もたどたどしく、明らかに緊張していた。土浦駅で掛けた電話でも思ったが、彼らはサービス業でも営利企業でもなくでもない。愛想の善し悪しではなく、外部の人間への応対に慣れていない。所持品検査ぐらいされるのではと恐れていた我々としては、彼らが急に等身大に思えて、かなり気が楽になったものである。






 火砲館。土日は見られない。
 古い火砲や砲弾が展示されており、室内撮影もできるらしいのだが。
 さすがに平日は時間をとれなかったので、今回は外から見るだけに止める。




 太平洋戦争への造詣が深い美津濃氏は、三式中戦車を見ることがこの旅行の目的そのものであったと言っても過言ではない。これは本土決戦用に温存されたまま終戦を迎え、資料用として生きながらえた1両であろう。それにしても、この時代の戦車は背が高い。




 私はソ連軍の火砲とともに。
 別にソ連軍フリークでも共産主義者でもないのだが、ロシア語を多少読める人間としてはちょっと惹かれた。




 資料館は年1回の公開らしい。しかも撮影厳禁とのこと。それでも、いつか見学したいものである。




 屋外の戦車・装甲車を撮影していたら、突然バスに乗った団体が押し掛ける。
 どこの旅行会社が、このようなツアーを立てたのであろうか・・・。




 90式戦車。これはどうやら故障車らしくそのせいでサスが沈んでいるが、それでも背が低いことが伺える。




 私は敢えて、60式自走無反動砲と。
 驚くほど小さい。
 カタログデータで「小柄な車両」との記述は読んでいたが、ここまでとは。




 203mm榴弾砲と。
 砲口のスケールがまったく違う。




  消えかかっているが、石灰で描かれた線が見学地帯を表す。ここから先に行くと、不法侵入ということになる。
 戦車の前のチェーンも同じ。



 それにしても、ここまで戦車・装甲車を見るなど、ただの市民にすぎない我々にとってはなかなかない機会であった。




 予科練記念庭園。
 日本本土を模した庭園である。
 戦没者の慰霊碑とも言える場所につき、物見遊山で訪れた我々は気軽に写真を撮る気にはなれなかった。
 そして、予科練記念館「雄翔館」も見学。
 戦死者−その多くは爆装機や回天で片道攻撃に出撃した−の遺品や遺影等が展示されていたのだが、ここではさすがにコトバは少なくなった。私も美津濃氏も、ほとんど無言でほぼすべての展示品に目を通した。女工からの激励の寄せ書きが、またなんともいえなかったね。
 そして「雄翔館」から外に出ると、すでに空は暗くなりつつあった。
 受付にバッチを返してバス停へと戻る。バス停の時刻表によると、本数はかなり少ないようであったが、今回もちょうどよく1〜2分も待たないうちにバスがやってきた。かくして我々は、この旅行におけるすべての目的を果たした。

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