札幌2〜3日目−シスプリと駒大苫小牧
2004年08月21〜22日(土〜日)
札幌滞在2日目。1000時には起きた。札幌のその筋のスポットは昨日で回ってしまったこともあり、今日は伊佐坂宅で過ごすこととした。が、メシは食わねばならん。近場の安い定食屋へと向かう。
その定食屋は大将が奥さんと2人で切り盛りしている小さな店で、室内も使っているものはすべて古い。が、客の入りは悪くなかった。そしてカウンターに置かれた14インチの中国製テレビは、甲子園の準決勝、駒大苫小牧−東海大甲府戦を流していた。
私は郷里・北海道も、野球をはじめとした球技も決して好きではない。
進歩と開放を謳いながらも、排他的で保守的。北海道には、アメリカに於けるリベラル思想に近い、フロンティア特有の思想風土がある。簡単に言ってしまうと、こうだ。自分達開拓民は旧弊な旧大陸の因習からは自由である、と思う余り他を否定する。自分達のやるようにやり、自分達の土地に住むことが最高の幸福で、そうしない奴は不幸である。自分達と違った生活や思想は劣った不幸なものであり、下手をすると何故自分達と違った生活習慣や思想があることそのものを理解出来ない。思い上がった、形骸化したフロンティアスピリッツだ。私はこれを非常に嫌っている。
自分自身そうした思い上がりと排他性を長い間持っていたし、東京に出て6年後に札幌に移住してからは、自分がもはや「胡散臭い、気の毒なよそ者」でしかなかった。あらゆる場面に於いて自己批判して北海道至上主義に忠誠を誓わなければ、生活にも仕事にも重大な支障が出ると思い知らされた。
球技が嫌いなのは、球技そのものが嫌いというよりはやる人間に好かない奴が多かった為だ。断っておくが私は球技が嫌いなだけであって、スポーツや運動そのものは愛好している。さらに言えば、個人的に球技が嫌いなだけであって、球技そのものの否定はしていない。
思いっきり極論だが、球技を好む人間にはこんな思想の奴がしばしばいる。球技こそが人生最大の悦びの1つで、誰もが学校では球技を楽しみ、家では誰もがテレビ中継を観る。誰と会っても球技が当然共通言語になって盛り上がれる。球技をプレイしない観戦しない人生が存在することを理解できない。ガキの頃も大人になっても、そういう人間には結構出くわしてきた。私にとっては、自分にとっての悦びや幸福や生活習慣が万人共通だと確信している人間ほど、不愉快なものはない。例え自分と同じ趣味の人間だとしても、そういった自分と他者の区別が付かない人間とは付き合いたくないが、それが私が毛の先ほどの興味がない球技の至上主義者だと処置無しだ。
さらに言えば、プロ選手やスポーツ業界関係者にでもならない限り直接「役に立つ」ことはない球技を多くの人が礼賛するのに、座学や読書を「役に立たない」として多くの人が当然のように蔑視することも不愉快だった。自分自身が悦びとする球技を手放しに礼賛して、自分が嫌いな座学や読書をやりたくないがために、アンチテーゼも論理的な批判もないまま否定する。これは小中学校までは絶対的に支配的な空気だったし、いくつになってもこんな単純な二分論で学校や人生を語る奴はいるものだ。球技を好きなのも手放しに礼賛するのも勝手だが、他者にとっての悦びや知識・技能の習得方法を簡単に否定する連中は不愉快なものだ。
日本に於ける王道的球技たる野球と、郷里・北海道。これは最悪の組み合わせのように思える。が、それでも私は駒大苫小牧を手に汗握って応援した。一回戦だったら観なかっただろう。サッカーだったら北海道の高校が出ていても気づかなかっただろう。が、北海道の高校が、76年ぶりに夏の甲子園の準決勝まで進んだ。それだけでも、私の血がわき上がった。所詮何言おうと、北海道人としてのアイデンティティを否定したがっていても、私も北海道人だったということか。
定食屋の誰もが野球に注視し、一球一打に歓声が上がった。大将も奥さんも客に「この7番はいい」「オリンピックなんかよりも面白いね」と声を掛け、客も大将に話しかける。本来だったら、こうした会話はもっとも嫌うところだ。誰もが野球が好きで、地元のチームを応援しているに決まっているという前提の会話だ。こうした前提に当てはまらないことが多い私は、周囲と会話が成立しない。黙っていられるのならばそれでいいが、当然同族だと思われて話しかけられ、結局異端者扱いされる田舎は一分一秒が苦痛だ。が、今日このときだけは私も同じチームを同じクニの代表を応援する、一田舎者に過ぎなかった。
今日のような、同化することの快楽はわかるけれどもね。けれども、普段はしようとしても同化できないことの方が多いし、多くの場合は同化したくもない私としては、やはり田舎は肌に合わない。だがそれでも、今日このときは、私は駒大苫小牧が点差を付けられれば悔しがり、同点へのランナーを出せば興奮し、逆転すれば歓喜し、せめて決勝までと願う一北海道人になっていた。私は複雑なことを考えていると思われがちだが、実は単純な人間である。
ちなみに伊佐坂と野球の話をしたのは、11年の付き合いではじめてかも。
定食屋を出てからは、夕メシと夜の酒を調達しにスーパーへと行った。
ここでも高校野球のラジオ中継が、当然のように店内で流されていた。
私としても、試合の行く末は気になっていたので、これはありがたかったが。
肉なぞは買わなかったが、ふと焼肉用の牛肉のパックを観てみた。サガリとは、牛の横隔膜のことで「内地」ではハラミに匹敵する。確認したことはないが、サガリは「内地」の肉屋とは切り方が違うが故にサガリだとも聞く。北海道の焼肉屋では定番メニューだ。私が焼肉屋に行くのはサガリを食うためと言っても過言ではなく、東京ではカネを持っていても人付き合い以外では焼肉屋へ行くことはない。
なぜわざわざサガリのパックを確認したかというと、札幌でも「サガリ」という名称が使われているかどうかを確認するためだ。この名称が普及しているに決まっているのだが、改めて。何故かというと、大学時代に北海道出身のアホな同期(釧路の日記に書いたカツゲンの人)に、「内地の焼肉屋にはサガリがないんだってよ」と話しかけたら、「サガリって何?」と言い放たれたからだ。同郷の2人で周囲の「内地人」にサガリの話でもしようとしたのだが、北海道人たる同期に率先して「サガリなんて聞いたこともない」と周りに言われた。そのため、周囲の「内地人」に私が妙なことを言っていると見なされ、「北海道の焼肉屋にはサガリなるメニューがある」という私の話そのものの信憑性を疑われる結果になった。私はこのことを根に持っている。
札幌近郊に生まれ、19年間暮らした彼がサガリを知らないということは、彼は菜食主義者ではないから、焼肉も食えない貧乏人に違いない。あるいは、私を陥れる為に敢えて知らないフリをして、私の発言から信憑性を剥奪したのか。私が極度に執念深く、事実を話して相手が無知であるが故にバカ扱いされることに最大の屈辱を覚える人間と言えども、サガリにこだわるというのはやはり私も所詮北海道人ということか。
スーパーではビールにスミノフアイス、よくわからない健康酒、カップ焼きそばの「やきそば弁当」、飲料水、氷などを購入して帰った。
伊佐坂宅ではまずはテレビをつけて、高校野球の続きを観た。
打撃戦の末に駒大苫小牧が東海大甲府を下した。
普段あまり野球に興味がない我々も、テレビにかじりついていたものであった。
これで北海道勢ははじめて夏の甲子園で決勝まで進んだ。準優勝だとしても快挙だ。出身地の高校が優勝できるかも・・・などと思うのは、北海道人としては初の経験だ。野球がどうだ、北海道がどうだと言っても、私は定食屋や地下街のスクリーンで歓声を上げる札幌人同様、駒大苫小牧の打撃力に惚れ込んだ一北海道人に過ぎんらしい。地元チームが強ければ夢中になる。単純なものだ。
それからは私のノートPCをTV出力して、伊佐坂が作者・久坂宗次氏から直接買ったCG集を鑑賞。これはなかなかの逸品だ。私も欲しくなってきた。ATMさえ周囲にない函館時代に、仕事でなかなか振り込みするヒマさえとれない伊佐坂が、無理を押して買っただけのことはある。
ノートPCでswfをいくつか上映し、残虐アニメ「エルフェンリート」や「なるたる」の凄惨なシーンだけ流した後は、「シスタープリンセス」の最初のテレビシリーズを。私はオンエアしたのを1度観ただけなので、かなり忘れていた。しかしDVD版はやはり違うね。話には聞いていたが、衛が窓を叩き割って降ってこないとは。堀江もOPで歌わないし。
またしても明るくなってから、伊佐坂が風呂を沸かしたくれた。今度私が選んだ入浴剤は、「紅葉の山々」この色彩に惹かれた。朱い。
この朱さ、まさに鮮血。これぞトリエラの・・・(検閲)。
これは浴びるしかない、などと話したものであった。
風呂から上がってすぐに寝る予定だったが、何やら話しているうちに0530時になってしまった。新千歳発の飛行機は0930時発。ここからは1時間かかる。それに飛行機の離陸時間から1時間前には空港に着きたかった。となると0730時出発。0700時起床にしても1時間半か。上等である。荷物を片づけ、セッティングしてあったノートパソコン一式を収納してから寝た。
私は徹夜明けでコミケに行った男。26才を過ぎもうすぐ27才になると言えども、まだまだ睡眠不足にも堪えられる。0700時きっかりに起床して、伊佐坂とメシ代の精算などしてマンションを後にした。気になっているのは、私の財布に千円札が少なく精算の際1000円足りなかったことだ。彼はおごるぐらいの気前でいてくれたらしいが、仕事で忙しい中休みまで取ってくれて私を歓待してくれた家主に、決して私以上の金銭的負担をさせてはならない。これは帰ってから、何か贈らなければならんな。以前のように、ダッチワイフカタログや録画した深夜放送の自作ビデオCDなんかではなく、まともな物品を。
なにはともおれ、世話になりました。
伊佐坂宅2泊に於いての会話内容は、
・シスタープリンセス 90%
・その他二次元関連 5%
・近況報告・旧友の消息 2%
・駒大苫小牧の奮戦 1%
・その他 2%
といったところか。いやはや、相変わらずである。というか、昔に比べて二次元度が強化されているような・・・。
余談だが、私が札幌支社時代にこの街の生活になじめなかった理由の1つとして、孤独だったこともあるだろう。孤独を味わう前から、前述の違和感はあった。だが、孤独だとすべてが色あせて見えるものだ。
札幌支社時代には連絡のとれる知人友人は、誰も札幌に住んでいなかった。札幌の大学に進んだ旧友連中も、既に全員就職で札幌を去っていた。だが、知人や友人がいないだけでは、孤独には不十分である。意思疎通を出来る人間がいないことこそが孤独である。これは友好的な付き合いをするかどうか、敵対するか味方をするかといった、某かの人間関係に至る以前の問題である。
排他的かつ魔術の園に生きていた会社の同期や同僚とは、上辺の付き合いすらまったく出来なかった。くだらない雑談だけではなく、業務上の連絡伝達にさえ苦労した。これは善意や悪意以前の、根本的なコミュニケーション能力の問題であった。
いわゆる大企業に入れた私は、当然会社には同じMARCHの人間や旧帝大卒の人間がここそこにいて、同期もそういう人々だと想像していた。だが、まったく違った。北海道に生まれ育ち、地元でもそう評判のよろしくない高校に通い、高校の延長のように地元私立大に通い、似たような人間と似たような生活しかしてこなかった連中が圧倒的大多数の札幌支社。そこでは私は異質すぎた。道内では地域トップの進学校に通い、18で北海道に見切りをつけて東京の予備校に通い、東京の名の知れた大学に通っていたというだけで、もうエイリアンも同然だった。親しくなる努力をする前に疎外されていた。
悪意のためではない。彼らが私に接する方法を知らず、私も彼らと接する方法を知らなかった。いや、彼らは自分と違った人間がこの世の存在することそのものを理解できなかった。ならば、今まで通りのやり方で少なくとも形だけは盛り上がることができ、下手をすれば知人の知人レベルでは全員と繋がる地元大出身者同士でいる方が楽だったからだ。それでも同じ支社にいる以上、多少は交流せねばならないと交流を試みたが、接すれば接するほど違いが明らかになってきた。私の思い上がりではなく、彼らは掛け値なしにバカだった。
「昨日」「明日」程度の字を書けない。「誓う」「violence」程度の字を読めない。読んだところで意味がわからない。接続詞を使った、わりと長い会話を受け止めることが出来ない。「環境」「適応」程度の単語を出しただけで理解できない。そもそも短い同じコトバの繰り替えと妙な音声でしかコミュニケーションをとれない。その他、21世紀に生きる22才を超えた学士とは思えないほど、彼らは迷信深く愚かだった。
東京本社での研修では、新卒約80人中、大卒者は20人程度。残りは専門学校等だ。しかし、全員大卒者の北海道グループが何故か一番バカだった。私が仲良くなれたのは、他地域の専門学校出身者達であった。北海道の同期だけがたまたまバカだったわけではなく、研修所から札幌に本配属されても周囲は迷信深く排他的な人間が多かった。
彼らと接する為には、私も獣のような奇声と単純なくだらないコトバを使い、魔術の園に生き、同じ思考回路を持つしかなかった。が、それは出来ない。やろうと思っても出来ない。もし彼らと親しげに話しをする術を身につけたところで、共通の趣味の会話が出来る人間、同程度の知的レベルの人間がどこにもいなけれぱ、会話による悦びを一瞬たりとも得ることができない。支社の会話に24時間365日埋没するということは、私が24年間かけて築いてきた全能力・全思想・全人格を根本から否定することであった。
会話による悦びとは、どうでもいい雑談とは限らない。闘うことも出来ないということだ。コトバが通じない人間とは闘うことも出来ないし、何を言っても誤解しかされず、それを是正することも出来ないということだ。必要な伝達もスムーズではないということだ。新しい発想や自分の意見は受け入れられるられない以前に、まったく伝わらないということだ。社内競争に乏しい穏やかなこの会社に、悪意や対立はあまり存在しない。しかしそれでも、人間同士は部分的にも分かり合えないし、どうでもいいこともなかなか伝達できない。なんとももどかしい場所であった。
もちろん職場の環境には、大なり小なり堪えなければならない。が、周囲に家族も知人もいない私には、同期の「忌憚ない愚痴の言い合い」にウソでもそれっぽいことが言えない私には、発散の場も会話による悦びの場もなかった。しかしたった1人でも共通の趣味を持つ人間がいて、どうでもいいことを言い合えたら。例え趣味が違っても、同程度かより優れた知的レベルの友人がたった1人でもいて、どうでもいい世間話でも多少coolに出来れば。私の札幌支社時代は少しは違っていたことだろう。
もし私が札幌に再び住むことになっても、二次元話が出来る旧友が1人住んでいるだけでも随分と違った生活を出来ることであろう。ちなみに伊佐坂は、私が高校時代にはしばしば畏怖さえ覚えた、頭のキレる人間である。いや、転勤が宿命付けられている伊佐坂とて、私がもしかすると札幌に再転進するかもしれない2006年に、まだ札幌にいるかわからないのだが。
札幌に行くと、どうしても札幌支社時代のこと、そして今後再び札幌に引っ越すかもしれないことを考えるね。