忠臣蔵WR
2005年08月12日(金)


 前々から大学時代の先輩らと何かをしようと話し合っていた。いつものように高尾山にでも登ってから我が家で一杯というプランにまとまりかけたが、先輩である魔人氏(仮名)が忠臣蔵のルートを辿ろうとの提案を。さっそくこれを快諾して、実施することになった。徒歩による数時間に行程。まさにウォーキングラリーである。参加者は先輩であられるサクマ氏、魔人氏、そして同期のF氏(いずれも仮名)、そして私の4人である。JR両国駅に集結して吉良邸に至り、そこから赤穂浪士の終焉の地・泉岳寺まで歩く計画である。




 そして朝、新宿駅に集合。しかる後に両国駅に移動した。
 今回は魔人氏がWRのしおりを作ってきてくださった。
 史学で修士号をお持ちの先輩の案内は、なかなか詳細。
 これは当日の行程を終えてから、じっくり読む価値があります。




 さて、JR両国駅に到着。両国は私が上京してからのはじめての1年、つまり予備校時代を過ごした思い出深い土地であります。住んでいたのは文京区白山だったが、予備校がここにあった。言うまでもなくそれは両国予備校である。しかしこの予備校は、昨年度を最後に閉校したという。今ではどうなっていることか。時間を少し割いて頂いて、両国予備校跡地の方を少し回ることとした。


 予備校方面への寄り道を終えて、ようやく出発点である吉良邸跡地を訪れた。






 ここが吉良邸跡地のごくごく一部分の敷地を利用した記念碑的公園である。




 斜線の部分が本来の敷地で、黒い四角が公園である。私のアパートの部屋よりは広いが、公園とは呼べないほど手狭である。




 屋敷の間取りも掲示されていた。風呂や便所の数も多く、大層立派な屋敷だったことが窺える。
 ここに暮らしていた使用人や仕えていた武士は何一つ罪がないのに、討ち入りでその多くが殺されてしまったことであろう。いや、主君とて、私は歴史にはあまり詳しくないが、非業の死を遂げねばならないほどの罪を犯したのであろうか。しかしいつでも戦えることを示す為に名誉を至高のものと見なし、暴力の遂行によって名誉を守るのは、戦士を必要とした封建時代の常識。そういう時代だったのだ。しかしそれでもここが悲劇の地だったことには違いない。主君を守って殉死した人々の名が刻まれた慰霊の碑に、手など合わせて我々はここを立ち去った。
 ここからが、仇討ちを果たした赤穂浪士達の、主君の墓前に首級を捧げに向かう帰りのない旅である。我々はこの道を辿る。


 吉良邸を出て、隅田川沿いに南下する。




 その途中に見たこの猪はなんなのだろうか。
 血抜きをしているのではなくて、剥製の虫干しでもしているのであろうけど。
 いや、これは強烈であった。




 いくつかの支流にかかる橋を越えたのだが、この船は?
 「やくざと抗争 実録私設安藤組」(襲撃編に非ず)にこのような住居船が出てきたような気がする。
 海に近い方面はあまり来たことがないが、東京はなかなか奥が深い。






 途中にかかる橋の数々は、けっこう歴史があるらしいね。
 橋の関するプレートがとても多かった。
 それにしても、ここにドイツ語を刻んで、どれだけの人間に読まれたのであろうか。
 案内のためというよりも、ドイツ語を刻むことに意味があるのであろうけど。




 赤穂浪士休息の碑である。
 我々もここいらで一服することにする。
 しかし近くに飲食店は見あたらない。
 コンビニで食い物を調達して、公園で一服することに。




 ここのベンチで休むことにしたのだが、真ん中の植物。
 「バイオハザード」さながらに襲いかかってきそうだな。
 しかしサクマ氏はサブマシンガンで武装しているので安心だ。




 そのサクマ氏は甘党である。
 公園で一服入れるときにも、プリンを食するとは。
 ちなみに私は、乾燥梅干しなど塩の利いたものを携帯していた。
 甘いのはちょっと苦手。




 ちなみにこの公園は、隅田川に面している。
 ちょうど水上バスが走っていたが、あれは有明行きなのだろうか。
 だとしたら、今日は初日。
 利用者が多そうである。




 さて、一服したところだし、そろそろ行きますか。
 と思ったら、サクマ氏がリュックからなにか取り出す。






 サブマシンガンですよ、公園で!大学時代はサクマ先輩と人気のない殺風景な公園で射的なんぞやっていた。しかし所持品検査が頻発し、市民の目も厳しくなった今の時代。なかなか銃を携帯する思い切りがつきません。しかしまったく躊躇無くこうした内輪の会合の際には、あるときはM4カービン、あるときはショットガン、あるときは日本刀、またあるときは鎖イボ付鉄球と武装の数々を帯びて参上するサクマ氏には敬服いたしますよ。






 またいくつかの橋を越えて、隅田川を渡りました。
 ひとつひとつの橋は日本に名だたる名橋らしいのだが、私にはよく分からない。
 調べたら面白そうなのではあるが。




 それにしても、川岸の公園にあったこのゴミ箱。
 キノコが生えていますぜ。
 さすがは湿気が多い河川敷。




 日銀開設の碑だそうだ。
 ここいらは、かつては日本の中心地だったのであろう。




 と思ったら、首が流れ着いて供養した碑なんぞも。




 喉が渇いたのでドクターペッパーを一杯。私は前述の通り糖の入った飲み物をほとんど飲まないが、大学1年次は狂ったようにドクターペッパーを飲んでいた。それは「不味い缶飲料集め」を趣味とするサクマ氏に、わりと容易に手に入る不味い飲料として勧められた為である。私は不味いとは思わないが。サクマ氏、魔人氏、F氏という1997年の大学1年次の面々といると、ついつい飲みたくなってくるのです。ドクターペッパー。ちなみにサクマ氏は就職活動の履歴書の趣味欄にもそのように書き、実際に採用されてしまうのだから、敬服すべき先輩である。






 浅野内匠頭江戸上屋敷跡であります。
 松の廊下事件の3日後には、すでに屋敷は明け渡されていたという。
 かつて主君の上屋敷だった場所へ赤穂浪士は寄ったわけか。
 なんとも悲壮な。




 ちなみに上屋敷の碑の隣には、芥川龍之介生誕の地の表示が。




 ここいらは日本の近代の幕開けの中心地となったようで史跡がとても多い。




 築地についたところで遅い昼メシを。
 新鮮な魚介類でも食うべし。




 寿司屋に入ったのだが、昼はランチサービスで丼をやっている。
 それにしてもくじら丼とは。食いたかったかも。くじらはここ数年食ったことないので。




 私が食ったのはえんがわ丼。
 やはり新鮮な魚介類ときたら、えんがわですよ。
 1200円也。
 これはなかなかうまかった。




 そして銀座です。
 この時計の時計塔を見て「サクラ大戦」という単語しか頭に浮かばないF氏はどうかと。
 「サクラ大戦」にプラスして「ゴジラ」という単語が浮かぶ私もどうしたものか。

 


 あとはひとすら真っ直ぐ道なりに歩くだけである。




 そしてゆりかもめ駅。
 繰り返すが今日は初日。
 乗車率はとても高いことであろうて。






 さて、危険地帯に来ました。正直我々はにとって、ここは最も来たくない鬼門なのですが、道を案内して下さる魔人氏によってここを通ることとなりました。無事何事もなかったが・・おそろしい。肝どころか、心臓が冷える。




 危険地帯から大分歩いたところで、公園にて一服。




 ちなみに私の持ち物はこんな感じである。
 この肩掛けカバンはよく活躍してくれるわい。





 セフィーロへ召還される!
 などとアホなことを言い合ったのは言うまでもない。




 カネのかかった立派な建物ではあったが、警備員の姿は全くみられなかった。
 ロシア大使館は、大使館に招待された正式な用のある人間を日本の警官が入念にチェックする程なのに。






 史跡地図には「勝海舟・西郷隆盛会見の地」とある。田町駅のすぐ近くだ。いい場所だ。きっと駅前のスターバックスで話をしてのに違いない。などとサクマ氏が。当時は鉄道すら通っていないっすよ。




 清涼飲料水しかない自販機。
 酒用を転用したのか、免許証による年齢確認装置がついている。




 大石良雄自刃の場所らしい。
 この碑が建っている場所はけっこういいマンションの敷地である。
 サクマ氏曰く、人の家の軒先で死ぬとははた迷惑な、とのこと。
 まあ確かに、当時も民家ぐらいはあったかもしれぬ。




 「東京府」と読める。
 この碑を建てたときは、まだ東京都ではなかったわけか。
 碑自体もまた古い。




 それにしても面妖な・・・。
 これはいったい。江戸時代の前衛芸術らしいが。




 港区立の小学校である。なんという立派な小学校か。やはりカネのある自治体は施設が違う。うちの田舎じゃあ、小学校でつい最近まで石炭燃やして、体育館には鳩が住んでいたものだったのだが。




 そして泉岳寺。目的地である。




 私とサクマ氏とで線香をあげなどした。

 


 赤穂浪士の記念館は、ちょうど閉館したばかりであった。残念。




 そして47士の墓の配列図である。墓の写真などは撮らない。
 20代の若い奴が多かったが、60過ぎの年寄りも少なくなかった。10代の若者もいた。彼等は、主君の仇を討ち果たし、首級を墓前に掲げて満足だったのであろうか。暴力でもって名誉を守り、暴力でもって忠誠を示す。そして自らの死を恐れない。戦士を必要とした封建制の価値観は、なんとも罪深い。




 そして品川駅。とりあえずWRを果たした我々は、それぞれが帰宅するのに都合のよい新宿まで出て、そこでメシを食うことにした。





 もちろん新宿に来たら、行くべき場所は新宿書店。
 しかしここに来たのも前回はいつだったか。今年でさえなかったような気がする。
 ちなみに断っておくが、私以外の面々はそれほど二次元愛好者なわけではない。F氏はゲーム好きマンガ好きだが、同人誌を買うような習慣はまったくない。サクマ氏もゲーム好きロボットアニメ好きアニメも習慣的に観るお方だが、新宿書店のような店には私が連れ込まない限りは決して入るまい。魔人氏に至ってはまったくそうした趣味はない。そうしたちょっと二次元趣味を嗜む程度の人々を新宿書店のようなヘヴィーな店に連れ込むのが、1997年風なのですよ。魔人氏にはちと居づらかったと思う。申し訳ないことをしたかも。




 そしてメシである。
 夕食を済ませて、メシ屋でしばらく談笑。
 大学時代はあたりまえにできたことが、今では年に1度2度である。
 貴重な時間だ。




 そしてメシ屋が混んできたので一端出て、今度は茶店に。
 ここでは客が少なかったこともあり、閉店時間まで談笑などしておりました。




 そして改札へ。8月12日なので、東京はすでに人が少ないように思える。




 そしてそれぞれのホームに通ずる通路で分かれようとしたら、二次元ポスターが。
 ソフトパワーとしてその価値が浸透してきたのであろう。
 これを背にして、それぞれの帰途についたのであった。


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