両国の寄り道





 ここに両国の広告があったはずなのだが、医学部進学予備校に替わっている。
 似たような広告に入れ替えるのが、需要を引き継ぐ広告戦略の基礎ですか。




 私が1年間通った改札である。
 しかし1996年当時はこんな改札だったっけ。
 違ったような、変化がないような。
 もう思い出せない。




 駅前の様子は間違いなく変わった。
 ・・・ような気がする。
 当時は飲食店なんか目にも入っていなかったので、自信がない。






 さて、どこが両国予備校だったのだろうか。もうぶっ壊されていて、新しい建物が建設されている場所が予備校跡地だったのか?明らかに予備校の建物(確か20号館)があった場所のひとつを特定できたが、そこはやはり建物の建設中であった。














 理系学部志望の連中が通っていた棟や事務所があった棟はまだ現存していた。
 これらも売却されたのであろうか。
 これから更地にされるのであろうか。




 そしてここは忘れもしない。6号館のあった場所だ。文系学部志望者用の校舎のひとつで、これからさらに錦糸町側の12号館にいた私も、ここでメシを食ったものであった。なにせ12号館まで弁当を支給する業者がやってこなかったので。




 懐かしい、この歩道橋。
 毎朝毎朝ここを登って、遠く離れた文系学部志望者用の棟まで通ったものですよ。



 ここの真下を都営12号線、いわゆる大江戸線が走っている。
 予備校時代はまだ工事中であった。




 そして中央分離帯の鉄柵。あまりにも両国生がここを横断するので、柵が立てられ、さらにそれをくぐったりする奴が続出したので、工事用の鉄板で塞ぎなどされていたものであった。しかし今では新しい鉄柵がひとつあるだけでる。もちろんここを飛び越える両国生はもういない。




 そして歩道橋を越えて、6号館を通り過ぎ、私が学んだ12号館へ。
 文系学部志望者は、医・歯・理工学部志望者に比べて冷遇されているとよく言われたが、その根拠の1つは駅からのこの遠さである。




 そして夏の暑い日は、朝から照りつける日差しの下、汗をかきながらここまで登校してきて、このファミリーマートでドリンクを1本買ったものであった。100円程度の値段で、500mlの麦茶をよく買っていたことを覚えている。予備校時代は糖の入った飲料をほとんどまったく飲まず、歩いてばかりいた。だから体重が10kg落ちたかもしれない。




 12号館はいまだ健在なり!




 他の棟は看板まではがれていたが、12号館は表記がしっかりと残っている。




 この狭い入口から入って、6階まで毎日階段で上ったものだった。
 エレベーターは学生の使用禁止だったので。
 おかげで少し減量できましたよ。
 それにしてもここは建物が新しいので、取り壊さなくても何かに転用は出来ることでありましょう。


 ここで両国予備校跡地訪問は終わった。もう予備校はなくなった。更地にされた場所には新しい建物が建ちつつある。古い建物も取り壊され、同じ運命を辿ることであろう。新しい建物も売却されてまったく違った事業に使われるに違いない。時代は移りゆくのであるな。
 同行の3人も私の解説と校舎や風景などに関心を示してくれ、この寄り道の最中、退屈させることもなかったようである。私の我が儘に付き合ってくだされ、ありがたいことです。




 そして吉良邸へと向かう為、大通りに出てから反対方向へと戻った。その道中、私がしばしば立ち寄った雑多な商品が売られている安売り店を見つけた。ここでジッポ・ライターやその皮ケース、ヴィクトリノックスのツールナイフとそのホルスター、専用砥石などを購入し、これらの品々は大学時代の前半に活用したものであった。




 このみずほ銀行、当時は富士銀行だったが、私はここで仕送りを引き出し、そして受験料を振り込んだものであった。まだまだここそこに私が多少なりともかかわった建物が見てとれる。やはり上京して最初の1年を過ごした経験は、今なお忘れがたいものがあるのであろう。


 そしてこのみずほ銀行を通りすぎて、ようやく本来のルートに戻ったのである。


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