6,城山から高尾山へ
2005年12月29日(木)


2005年12月29日、12:58:44

 さて、城山で一服したのちは、城山を下ってそれから高尾山に登る。またしても下って登るわけだ。ちなみに一服しているうちに身体が冷えたのが、コートを着ていることからよくわかる。サクマ氏がリュックの左に括り付けているのはゴミ袋。もちろん山にゴミを残しなどしない。ただし、この袋に誰もが勝手に自分のゴミを詰めていたような気もするが。



2005年12月29日、12:59:02

 さすがに、日影にはまだ霜が溶けずに残っている。
 やはり12月も末なのだ。



2005年12月29日、13:01:40

 1997年の公式WRでは、私はやはりサクマ氏の近くにいたが、私1人が大声で放歌していたことをよく覚えている。城山というWR全体を通してもっとも苦しい難所を終えて、城山山頂で十分な休息を取った後なので、ここいらでは気がゆるむのだ。仲間と同行しているとは言えども、1人で「マジンガーZ」や「ムーンライト伝説」を放歌する19才の男。もちろん当人は最高によい気分だったのだが、端から見ると得も言えぬ光景であったことであろう。ちなみに翌年の1998年には、後輩達が集団で合唱していたが、20才になった私は、急に恥ずかしくなって歌えなかった。もちろん今回28になってまで歌えるわけもなく。
 というようなことを話ながら歩いた。



2005年12月29日、13:06:06

 ここは分岐路である。左右どちらへ行っても同じところへ着く。右は登ってからまた下る不毛なルート。左は必要なだけ登る合理的なルート。私がこの説明をすると、先頭を切って進んでいたサクマ氏は迷わず左の楽なルートを選んだ。私は長いことこの高尾山に登っているが、左を選んだのは何年ぶりだろうか。サクマ氏は無理をしないお方なのである。と言うか、30才を超えておられるので無理は禁物。



2005年12月29日、13:16:18

 ここでは3方向に分かれる。もちろんどれを選んでも同じところに着く。高尾山山頂へと続く石段の真ん前に着くのだ。真ん中は登って、かなり登って階段まであって、そして下るという不毛なルート。右は選んだことが多分ないのでよくわからない。左は、平坦で最後だけちょっと登るルート。もちろんサクマ氏は左を選択された。ここで左を進むなんて、これまた何年ぶりのことか。いつも真ん中通っていたのですよ。



2005年12月29日、13:16:42

 ろくに運動もしないで暮らしてきた為、心肺も足腰も苦しかった1997年。私はこの左のルートを辿った。だが、当時は平坦な左のルートでさえ、最後の上り坂で苦しい思いをしたものであった。19才のときの私は、なんと運動不足だったのか。今では、いつまでたっても平坦なようにしか感じない。






 左のルートから真ん中のルートを見上げると、崖には不思議な形の氷がいくつも見られた。最初、誰かがトイレットペーパーでもばらまいたのかと思ったが、氷であった。薄い曲がりくねった氷。どうやって出来たのだろうか。地面から隆起したのだろうか。



2005年12月29日、13:30:16

 そして高尾山山頂へ登る階段。これ、大したことのないように見えて、けっこう堪える。石段の勾配は、ただの坂よりもキツイものがある。同じ高さで足を上げ続けなければならないのも、かなりの負担だ。だから、「くれぐれも無理をしないように。とにかくゆっくり、スローモーションのように登れば、楽に登れます。一気に登ろうと走ったりしないように」と念を押してから登ったものである。ここでもっとも堪えたのは、30才を超えておられるサクマ氏と魔人氏であった。私は「Семеро одного не ждут.」などという、この状況では悪辣すぎる諺なんぞを口にしていたり。これはもっと笑える状況で使うべきだった。失敗。


 ちなみに「7人は1人を待たない」という意味である。
 ロシア人は、本当に旅先であってさえ遅れた人間を待たず、自力到達を求めるシビアな面があるという。
 だけれども、20代の後輩達が先に登り、30代の先輩方が音を上げているときに使うのは不適切だったかもしれん。年齢による体力の衰えは深刻な問題です。

次へ


戻る