高尾山リベンジ
2008年10月26日(日)


 2007年07月07日には悪天候のためまさかの登頂断念をし、今年春のリベンジ計画においては私自身が肺を病んだため欠席するなどし、ようやく巡ってきた高尾山リベンジである。
 低山ハイクにおいては登って下りたら膝が痛むようになったので、今回はトレッキングポールを用意した。そうすると、膝の痛みは緩和したものの翌日全身筋肉痛になりましたわ。足底筋膜炎と気管支炎で低山ハイクをサボっている間に、大分ナマったもんです。

 さて、高尾山はミシュランガイドで高評価を受けたこともあり、来客が劇的に増えていました。私は高尾山に20回ぐらい登ってますが、「秋の日曜」という条件であっても、ここまでの人数は今まで見たことがない。
 モンキーセンターに客が入っているのをはじめて見たし、かつての古ぼけた商店群はミシュランガイドに載ったことでカネでも借りたのか、大分、設備投資されていました。活気のある観光地なんて、今日日滅多に見ませんよ。

 しかし蛸杉は鉄のフェンスで囲われるようになったし、たかが高尾山といえどもナメた格好で登る人も散見されるようになったし、人が増えるといろいろと問題も増えるようです。ケーブルカーが通っている「高尾山口」〜「高尾山」ぐらいの場所でも、サンダルやハイヒールみたいなナメた格好で登って、歩行不能になって助けを呼んだり。さらに、少し奥のハイキングコースへナメた格好・装備で踏み出したら、携帯電話も殆ど入らず人通りも殆ど無くなり、足をくじいただけでかなり大変なことになります。そういうトラブルが急増しているとか。

 訪れる人もまばらで、今では改装された土産物屋も閑古鳥がないており、猫がくつろいでいた時代を知る人間にとっては、盛況ぶりとそれに伴う問題を垣間見るのは、ちょっと寂しいかも。気分としては、売れない頃から応援していた芸能人が、俄にヒットしたのを見る様に近いかも。

 ちなみに我々が登ったルートは、多くの観光客のように「高尾山口」→「高尾山頂」ではなく、「相模湖」→「弁天橋」→「城山」→「高尾山頂」→「高尾山口」のルートなので、前半部はやはり人影は非常に少なかったです。

 学部時代はこのルートを踏破して山を縦断し、そしてそのまま八王子の河川敷を練り歩いて多摩キャンパスまで歩き通すのが定例行事でしたが、六尺棒や日本刀などのデッドウェイトを抱え、道着や袴でよく歩いたものですわ。

 ちなみに山中で、日本陸軍の兵隊の格好をした人を見ましたが、仲間と連れだって奇抜な服装をしている風でもなく(少なくとも周囲に仲間らしき人はいなかった)。中田商店で揃えたっぽい服装でしたが、装備一式揃えると安くはないだろうに、山歩きすると傷むと思いますよ。こうしたレプリカの強度がどんなものかは存じませんが。
 まさか、軍服に「摩耗とくたびれ具合」を施すために山歩きをしているのだろうか?




 リュックにトレッキングポールを括り付ける。
 ホーマックで買ったアホみたいな安いリュックだが、意外に機能性は高い。




 先輩のTem氏は、富士山を征服した際に用いた杖を持参。
 この杖が何人の生き血を吸ったのであろうか。




 久々のJR相模湖駅前。いつ来ても変わらない。




 相模湖公園にて1枚。




 1997年にはじめて来たことに目にした「古文書」は、すっかり見えなくなってしまった。「のりぴー」などと11年前当時にしてすでに死語な落書きがしてあり、毎年中大ウォーキングラリーでここを通った際にはここで写真など撮ったものだったが……。




 高尾山に来るたび毎回言ってる気がするが、「電脳警察サイバーコップ」で戦闘シーンが撮られたのは、このダムの上。




 前回の登頂断念した際は、ここの東屋で雨宿りをし、ここから相模湖駅へと引き返したものだった。




 ここでコーヒーを湧かして飲んだものだった。
 



 今日はさらにここから先へと進む。
 先といってもまだ一般道路だが。




 ここいらはまだ山ではなく、上に登ったらまだ住宅地。もう何十回も登ってるから今更な話だが。




 このペプシコーラの休憩所跡地は、朽ちるに任せているようだ。




 景色など。




 この背の高い木の下まで来ると、もう少しで城山頂上……のはずだが、意外にまだあったり。




 城山って圏外だっけか?
 場所によっては通話できた気もするが記憶違いか?




 城山で一服してから歩き出した先は、ほの暗い森だったはずなのに、木がことごとく伐採されていた。




 高尾山頂でコーヒーを。




 ちなみにコーヒーには有明水を使いました。




 ここにも店があった、私の同期が特攻服で食い物を注文した写真が残っているが、気がついたら展望台になって久しい。




 毎回同じ昔話を話し、書いてもいるが、1997年おいてはここで、道着姿の我々は外国人観光客の注目を浴びたものだった。




 フェンスで防護される蛸杉。




 下山して、昔懐かしい学部時代の馴染みの飲み屋へ。
 しかし日曜日が定休日だったようで……。




 学部時代のイベントスポットを散策など。
 ここのコンビニでは、1学年後輩の某氏が(以下略)。




 母校の学祭のポスターが貼られていた。




 聖蹟桜ヶ丘も文化的になったものだ。
 こうした文化施設が在学中にあれば、もっと生活は変わっていたことであろうて……。

 


 そして飲み屋で飲み食いするのであった。
 私は断酒中なのでノンアルコールカクテルでしたが。


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