last up date 2003.12.21

02-10
相づち

 話していて、相手の言に齟齬を覚えても、とんでもないステレオタイプを前提に話を進めてられても、黙って相づちだけ打って聞く人は少なくないのではなかろうか。黙って頷いていれば、相手は気持よく話せる。そして、あとから「しかし」を言う。

 これはあまり普遍性のあるやり方ではない。日本の外では通じないのではなかろうか。例えばアメリカではどうか。一度「同意」してから言い返すのは卑怯と言われる。だが、日本ではいちいちその場で「待った」をかけることが罪悪と見なされる。
 どっちがいいというわけではないけれども・・・。ただ、私は日本方式の「待ったをかけない」「とりあえず同意する」という姿勢にどうも慣れない。そして「とりあえず同意」をしなければ「自説に固執して、相手を完全否定する傲慢な悪党」呼ばわりされることがガマンならん。


02-09
ようするに、誰もが意志薄弱だ、と。

 大学入ってすぐだったか。「食費は1日1000円までにしている」と私が言うと、先に一人暮らしはじめていた某君は「最初はみんなそういうんだよ」と、吐き捨てるように言った。つまり誰もが出来ない、と。自分ができないことは他者も出来ない、ということか。そして、自分が自己管理の続かない意志薄弱な人間だから、他の人間の意志もそんなに強いわけがないと言いたい訳か。で、私は食生活の試行錯誤を経て安定期に入ってからは、実際問題として大抵の日は1日1000円もかけていないよ。人付き合いで飲み屋に行った日はその限りではないが、1人で過ごす日においてはどうやったら1日1000円以上メシにカネがかかるものなのか。さらには、大学出てからなんかは、一日あたり300円いっているかもあやしいもんだ。


02-08
常に加害者側が有利。

 何かされても、その場で目立った破損・外傷がなければ、後々それが原因で物品の耐用年数が減少したり、ダメージが残ったり、身体ならば問題が生じたりしても、因果関係を証明できない。そして相手は大抵忘れる。その場で加害者に注意・抗議したものならば、加害者は気分を悪くしつつ、しょうがないから謝る。そしてその場で謝っておけば、それで済んだとして忘れてしまう。結局、いかような問題が生じても、弁済やもっと真摯な謝罪は求められないで終わる。

 例えばノートパソコンを落っことされた場合。その場で慌てて電源を入れてみて起動しないのならば、弁済交渉にスムーズに入れる。加害者側が自分の過失によってパソコンが壊れた、と認識してくれるからだ。しかし電源が入って、何も問題がないかのように見える場合が困る。少し使ってから落としたことが原因でブッ壊れるということもある。しかし例えメーカーの修理に出して「落下による破損」という診断結果が出たとしても、落としたその場で壊れたと認識しなかった加害者は、自分がぶっ壊したという自覚を持たない。
 それでも決定的にぶっ壊れたのならばまだ弁済のさせようがあるかもしれないが、もっとも気分が悪く救われないのは、軽く壊れた場合である。ちょっと傷がついた、という程度では弁償のさせようもない。車ならばまだしも、電気製品やカメラのキズは修理不能だ。たとえ修理できたとしても、キズ直し代を車以外で取るのは難しい。そしてちょっと調子がわるくなった、という場合も難しい。決定的に壊れていない以上、修理代を出させるのは難しい。何故かというと、そういう細かい不具合はちょっと見ただけではわからない場合が多いからだ。長く使う所有者だけが気がつく。そしてちょっとした不調はメーカーの修理技術者もよくわからないことが多く、直らないことも少なくない。とにかく、加害者側がその場で全面的に自分の過失と故障との因果関係とを認めて、抜本的な解決を提供してくれでもしない限り、被害者側は一人損だ。不法行為に基づく損害賠償責任は、被害者が加害者の故意過失を立証しなければならないが、立証は往々にして困難だ。

 身体についてもそれはいえる。腰を打ち付けた、頭をぶつけたとしても、その場で死んだり血を吹き出したりしない限り、「大丈夫そうだな」で済まされる。頭や腰を強打すると、長く深刻な後遺症が残りやすいのだが、とりあえずは大丈夫そうにみえる。事故や暴行と後遺症との因果関係を証明してカネと謝罪をとるのは面倒を極める。そして何よりも身体を傷めた者は、いかなる謝罪やカネをもらおうとやはり不可逆な一人損に絶えるしかない。


02-07
ああ簡単な世界認識

 世の中、因果関係なんかわからない。
 優劣なんかもよくわからない。
 だけれども人は、確認したい。証明したい。特に、自分の優越と、自分の成果を。
 だからこそ、わかりやすい世界観と因果関係を頭の中で造り上げる。
 そして、「ダメな奴」をつくる。
 第三者に「あいつはダメだ」「これこれはダメだ」とい吹聴し、承認されることが安心。
 そして当人、それも気が弱くて御しやすい人間を(無意識に)選んで「お前はダメだ」と言い放ち、「指導してやる」のもその証明。相手が言い返さず、うなずきさえすれば、証明されたことになる。
 すばらしい快楽だ。
 だけれども、危険だ。
 何が危険かというと、自分の成功ではなく、他者の失敗しか問題にしていないからだ。


02-06
必勝策

 多くの会社が中国市場に集中し、学生も中国語が大人気。
 戦略として何を考えようとそれはよいのだが、それが必勝策であるかのように語られるのには違和感がある。
 しかし必勝策なるものは存在しない。
 そして必勝策の信奉者は崩れるのも早い。

 中国が躍進しているからといって、他国が消滅したわけでも他国語が使われなくなるわけでもない。
 中国で疫病が流行ったからといって、中国の購買力、労働力、設備、インフラがなくなるわけでもない。
 他の国でも今後疫病や戦乱、天変地異が起こらないとも限らない。

 まあ当たり前のことだ。しかし、やれ「これからはITだ」「中国語が求められる」「ネットワーク技術者が強い」だのと必勝策が信奉される。誰がどんな戦略立てて何を目指そうが勝手だが、確実な安定を求め、自分が唯一絶対の選択を知っていると錯覚し、あまつさえ違うことをする人間を無条件でバカにするような奴は観ていて不愉快だ。

 私はロシア語をやっているが、身近な中国語習得者よりも成功するかもしれない。うまくいかないかもしれない。そんなことわからんよ。
 ただ、「ロシア語なんかダメっすよ。これからは中国語の時代ですよ」と言う奴には我慢ならない。そうか。ロシア連邦や、ロシア語ないしそれに近い言語を公用語とする国々は、これから核戦争かなにかで消滅するのか。それとも、中国がこれらの国々を占領して、北京語が公用語になるのか。知らなかったよ。
 まあとにかく、そのコトバを話す人がいるかぎり、糊口をしのぐチャンス自体はどのコトバの習得者にとっても、少なくとも皆無ではないのだが。ロシアは人口が多く、アンバランスといえども工業が発達し、国民の教育程度も高く、富裕階級や中産階級もかなり生まれている。日本とも国境を接しているし国交もある。ロシア語でメシを食うという選択には、特別すばらしい仕事やチャンスが転がっているとも思わないが、絶望的に何もないとも思えんが。


02-05
怒られるから?

 大学出て、会社に入っても、「怒られるかどうか」でしか物事を考えられないアホが少なからずいるというのは、日本の将来に対して不安にならざるを得ない。そしてそういうアホに、私の行動基準もまた「怒られたくない」という程度のものだと見なされるのは我慢ならない。仕事上まずいと思えることをちょっと注意したり、あるいは自分がまずそうなことをやらなかったりすると、「怒られるから?」とか「怒られないって!」とか言われるとは、大学出て大企業入って言われるとは思わなかったよ。
 いやまあ、それしか考えられない人間に対して、それ以上を求めるのは酷なのだが。就職難で、優秀な人材がここそこに溢れている中で、こんなアホを採用した人事の見識を疑う。それともフォン・ゼークトの言う「頭の悪い怠け者」こそ組織の基礎には必要だというのか。だったら我が人事部も大したものだ。しかしそれだったら3号俸の大卒である必要はないのではないか。


02-04
すばらしい世界認識

 アホは二元論を好む。
 アホは相反するような気がするものは、両立しないと安易に考える。
 片方聞いただけでもう片方はありえないと思う。

 出来るやつは遊びを知らない。遊び人は学がない。
 クリエーターは金儲けではない。商売がうまい奴はクリエーターじゃない。
 医は算術にあらず。商売がうまい医者はろくな医者じゃない。

 などなど。なんて単純明快な世界認識。
 アホか。


02-03
流れを妨げられること。

 他者に、同意されない。
 自分がやろうとしたことを止められる。
 自分がやろうとすることに、ノってこない。

 このような、予定していた流れのとおりになる、という快楽を妨げられることは不快だ。
 私はこの基本的にこの観点で他者と接している。
 どれだけ快楽を与え、どれだけ不快感を与えるかと。
 どれだけ譲歩し、どれだけ叩くか、と。


02-02
フリーズ

 しばしば、話している最中に10秒ぐらい静止する人間がいる。決まり切った「型」としての会話しかできない、バラエティー番組でやるような「ウケがとれる」と事前に決まっているコトバを提示し合うことしか出来ない奴ほど、静止する傾向にある。
 10秒の静止なくして、(どんなテキトーなことでも)矢継ぎ早にレスポンスを返したら、「お前すげーな」「頭キレるな」とか言われたりも。アホか。


02-01
特別

  「研修」だろうと失敗すれば事故るし、研修でも実際に売り歩く際は売れば利益になる。売らないとならない。大変だ。
 これに対して、試金石やテストは「どうでもよいこと」でやれという声もある。
 しかし失敗しようと手を抜こうとどうということのない「どうでもよいこと」に従事させておくのは、よほど余裕のある場合だけだ。
 往々にして、限られた人間を今まさに迫っていることに使わなければならないことの方が多いのではなかろうか。


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