last up date 2019.06.04

走り書き。あるいは思いついたネタ置き場。
なんにせよ、自分のためのメモである。
まあ、このサイトそのものが、自分のためのメモなのだが。
他者には理解不能な断片ばかり。
しかも自分にとってもそのときその瞬間の精神状態と認知の在り方とはすぐに過ぎ去りやはり理解不能になっていく。

※読むと高度の蓋然性で不快になります。
尚、人物についての記述は、立場・関係・場所・帰属・時期などを若干改変している場合があります。
なお、2010年以降において業務上観測した事象については、契約関係が終了した後においても記述することはありません。

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44-3
Меритократия

 私は長い間、「入試難易度がほぼ存在しないунив」というものについて、研究者に給与と肩書きと研究の場とを与える以上の役割を考えられなかった。かつて、そうしたунивを出た学士らが、業務に支障を及ぼすレベルでграмотаが出来ず、それゆえ擬声語擬態語といくつかのジャーゴンや卑猥語を連呼するばかりで接続詞を用いた10文字以上の会話が出来ない様を見て、そういう人間の中にいることについて絶望した経験が極めて大きい。「他者に自分に対する悪意や害意があって自分が何かをされた」のようなくだらない被害者意識の話ではなく、善意悪意以前の、差異がもたらす絶対的な非和解性、意思疎通の不可能性に絶望した。しかしそれは例え事実であったとしても(記憶なんぞは当てにならないので事実かどうかももはやわからん)、所詮多くても数十人の人間を観測して得た個人的な印象に過ぎず、そんなもので物事を語ることは非常に愚かしいことだ。

 もちろんそうした過去の体験なんぞは年々どうでもよくなってはいく上に、考えも年々変わっていく。特に決定的だったのは少し前に社会人修士課程で通っていたунивだ(院の社会人課程についても過去にはいろいろ思っていたが、それはさておき)。このунивの学部は、指導教官いわく「志願者は誰でも入れている」そうだ。つまり「入試難易度というものがほぼ存在しないунив」だ。地理的環境がよいので模試の結果などからまったくのボーダーフリーではない偏差値がはじき出されているが、実態としてはボーダーフリーである。ボーダーフリーунивの学生生活や授業の在り方というものは粗雑な想像をするしかなかったが、二度目の院在学中にはそうしたものについて垣間見ることが出来た。
 このунивはなかなかやり手で、様々な取り組みをし、学生を採用する企業からの印象も悪くない。その根幹にある方針は、徹底して行動させ、自信をつけ、会社に適応させるというものだ。教室内は「講義を聞く」というより「グループで協同作業」の風景が各段に多い。学部の授業風景を覗いたら、いわゆる講義の風景がほとんど見られず常にグループで何らかの活動をしており驚愕したものだ。また、授業以外でもオープンキャンパスにおける高校生への説明会など行事を学生が行っていた。指導教官いわく、学部の学生に対しては、不登校になったら「унивは楽しいところだ」と呼びかけて登校を促し、季節のイベントを数多くおこなっていたが、学内の季節に合わせた飾り付けからささやかなイベントまでほとんど学生自身が行っていた。とにかく協力して動いて共に認められ合っているという感覚を得て、そして自分よりも若く、後輩になるかもしれない高校生を客として迎えて自分たちの生活を先輩として語りもする。これは本当に有効なやり方だと思った。英語の単位もTOEIC375点で取れるなど、出来る連中から見たら信じられないような数値目標が設定されていたが、それとてそれよりも低い状態や下手したらまったくのゼロの状態からそこまで底上げするのだったら意義のあることだ。実現可能な目標を設定して、それを達成して評価されることは自信になるし、さらなる飛躍にもつながる。低い目標を低い目標だとしてバカにしても何もよいことはない。出来そうな範囲のことを出来るようにしていくことにこそ意味がある。

 私が18や19の学部生だったらグループ学習や共同活動の多いここではやっていけないとも思ったし、何よりも若者らしき稚気を暴発させた異常風景がひとつもなく、セクトもいないのは物足りないし下手なことをしたら疎外される気もしたが、私に合うか合わないかはともかく。字を読めぬ人が字を読めるようになるならそれは良いことであり、自信のない人が自信を持つのもそれは良いことである。もしボーダーフリーунивがそういう役割を果しているのならば、それは世の中にとって有益であるし、学生個人に対してもすばらしい場所だと思った。もちろん都会に暮らしているか都会に下宿できて、カネのかかる私立унивに通える人間はそう多くはない。унивという少数の人間しかいけない場所が、初歩的な学力や自信に欠ける若者を勇気づける役割を果たす場所であるべきなのか(他の機関はないのか、もっと早い段階の学校で出来なかったのか)という疑問もある。しかしかつて思っていた「カネのかかる私立унивに通う境遇に恵まれながらも、こんなこともできないやつはクズだ」という発想は本当に徳が低いと痛切に思い恥じ入った。

 さて。私が長らく「унивまで行きながらграмотаもろくに出来ないやつはクズだ」と思っていた背景としては、меритократияへの素朴な信仰があった。努力や能力に優れた者が評価され、成功するべきであり、努力を怠り能力に欠けるものはそれにふさわしい低評価をされるべき、という辛辣な考え方にとらわれていた。もちろん自分が「評価され、成功する」ような努力を為したわけでも能力があるわけでもないのだが、かつて出会った「унивに行く機会を得ながら、ろくにграмотаもできない人間」に対しては、低階層に固定化されるべきであると願っていた。つまり隔離され、不可視化されることを願っていた。自分の成功よりも他者の不成功を願う極めて不健全な発想に長らくとらわれていたわけだ。まあ成功していたところで、やはり自分とは違う「成功しなかった」人間を努力不足や能力不足を理由に鞭打つ言動をしている成功者の例は巷間にとても多いが、とりあえず私は成功者ではないのに自分の成功を願いもしなかったし行動もしなかった。ただ自分より相対的に能力に劣るように見える人間が、「それ相応」の扱いを受けるべきだとして他者が「裁かれる」ことばかり願っていた。本当に徳が低い。

 たまに旧友と接すると、共通の知人の話でも社会問題の話でも、меритократияへの素朴な信仰とそれに基づいて他者を裁く言説が出てきて、とても居たたまれなくなることがある。しかしこれは、旧友が変わったわけではなくて、私が変わったのだ。旧友らは単に、かつての私には通じて、かつての私なら喜ぶであろう話を提示したに過ぎないのだろう(旧友らを責めているわけでもなく私がマシに人間になったと言いたいわけでもなく、話題の選ばれ方の問題として)。この手のмеритократияの話になると、努力の不足と能力の不足に加えて、選択の失敗についても他者を裁く理由として挙げられる。私は自分が選択に失敗したと確信しているから、人間について個人が何を為したかで評価するмеритократияに対して居心地がわるくなってきたのかもしれない。しかмеритократияに対して居心地が悪くなる段階から、ボーダーフリーунивに対する粗雑な発想を止めるまではかなりの年数を要した。個人をその努力や能力や成果によって評価することは一見正しいように思えるし、正しいという意見は多く、そしてそれに代わるものもなかなか思いつかない。しかしмеритократияは徒に他者を裁こうとする徳が低い考えにつながるとだけは強く思うに至った。

今回の要点:入試難易度においてボーダーフリーのунивにも、若者を勇気づけ、能力を底上げして、世の中に送り出す立派な役割を果たしている場合があるので、徒にバカにするべきではない。
注意点1:今まで散々為した徳の低い発想や言動は、考えを変えたところでなかったことにはならない。例え誰も覚えていなくても、自分自身が覚えている。それについては愧死しそうに思っている。
注意点2:Меритократияをよくない考えだと思うのは簡単なことだが、しかし身分家柄門地による評価が個人の努力能力実績よりも適切な評価ということにはならないだろうし、煩悶するところである。
記述日:2019.06.04


44-2
なぜ排除しなければならないという衝動が湧くのか

 最近少し関わった人間(業務上の関わりではないが、それなりの地位の人物)の言動が、今日の社会を生存するのに必要な倫理水準を著しく下回っていることに驚愕する経験をした。1つ2つの失言ではなく、あまりにも頻繁に、息をするように今日では命取りになりかねない言動をする。例を挙げれば、その場にいる人間らに対するセクシュアリティの開示の質問、性的少数者への生理的嫌悪感の表明、生理的嫌悪感に基づく性的少数者排除の主張、他国他民族を犯罪者として語る言説、他国他民族は犯罪者であるので「敷居を跨がせるな」「婚姻などもっての他」という暴言、子供のいない既婚者に対する性生活への極めて下世話な揶揄、配偶者への性的な侮辱、などなど。正直こういう危険思想の持ち主は生きていてはいけないのではないかとさえ思った。他者に「生きていてはいけない」と思うこと自体も危険思想だとは思うが。

 さて、私は別にこの人物から直接暴言を浴びせられたわけでもないし、第三者に対する暴言を聞かされて不愉快である以上の迷惑を蒙ったわけでもない。別に雇用関係にも取引関係にもなく、業務外の知己に過ぎないが、それでも少しばかりその知見が私の役に立った。まあ別に今後特に世話になる予定はないし、むしろこんな危険思想の持ち主と関わりたくもない。大した恩があるわけでもなく、大した仇もない。便益と損失とを秤にかけたら、不快感や危険思想の人間と関わるリスクという損失の方にふれるので、これからは付き合わない。それだけの関係だ。それにも関わらず、この人物の言動を然るべき方法で公知し、何らかの処罰を受けさせられはしないか、どうにかして世の中の表舞台から排除できないかという願望も胸に疼く。もちろん決定的な証拠を持っているわけでもなく(たまたま別の目的でしていた録音が拾っている部分もあるが、今ひとつ弱い)、リスクとコストとをかけて何かをしても何もできないばかりか、私が逆に誹謗中傷を為したとして罰せられる可能性が高いので何もしないが、こういう著しく正義に反する言動を為し、頻繁に他者を愚弄し冒涜し傷つける人間を放置することもまた、不正義ではないかとの思いもよぎる。

 しかしふと思うのは、なぜ、そこまでして私がこの人物を「排除しなければならない」という気持ちになったのかとい疑問だ。他者をどうこうしようというエネルギーはだいたい被害者意識に基づく。客観的にはまったく「被害者」と言えるようなものでなくても、人間は信じられないロジックで被害者意識を持ってしまうものだ。しかし今回は、「不快な言動を聞か『された』」「私がそのような危険思想に賛同すると見な『された』」「危険思想を窘めることを耐える不正義を強い『られた』」ぐらいの牽強附会な「被害者意識」はなくもないが、しかし被害者意識だけでは説明しきれない。この人物の言動は他者を傷つけるものだとは思うが、しかし私は第三者の心の痛みにまで共感が及ぶほどの想像力は乏しい。結局、私が抱いている思いは、「異端排除」ではないのか。「異端排除」だからそれがよいとかわるいとかいうのではなく、私のこの人物に対する衝動の説明として。

 ここで少し飛躍するが、現生人類が他の旧人類を圧倒して生き残り繁栄した理由は、認知の力だった。群として感覚器が認識できる個体数はたかが知れているが、同じ物語を共有するという認知の力が、より大きな群を為すことに資した。だから現生人類は体格で勝る旧人類にも打ち勝つことが出来た。そしてその後の歴史においても、同じ物語を共有することで人間は共同体を為し、繁栄してきた。国民統合だって物語を共有する認知の力による点では同じことだ。原始時代から人類が培ってきた「同じ物語を共有している人間を味方とする」という認知のあり方においては、異質な存在は脅威となり外的となり、同化の強要や排斥か抹殺がされてきた。他と違うとして周囲に同化を強要されることは、私が一時期非常に辛苦を味わった体験であり、今なおその時期の経験に強く思考や情緒の在り方が引きずられている。が、しかし、私もやはり自分の信じる群の物語、別のコトバで言い換えると倫理や規範に著しく反すると感じたものに対しては、やはり「屈服させて自己批判させ、同化させねばならない」「さもないと抹殺か排除をしなければならない」という心の動きがするらしい。そういうことがわかった。

今回の要点:自分が被害者意識をほぼ持たずとも、自分の生きる社会が共有する(と自分が考えている)物語を共有していない人間に対しては、排除や抹殺、同化の強要をしなければならないという心の働きが私にもある。
注意点1:どういう心の働きであろうとなかろうと、当該人物の言動はやはり不正義であり、それを放置温存することも不正義ではあるとは考える。
注意点2:「自分の信じる倫理に反する」という理由で、他者に対して排除抹殺あるいは同化の強要を望むことは、非常に危険な心の動きであり、容易に暴走しかねないので、感情のみに基づかず慎重になる必要があると強く懸念もする。
注意点3:社会が共有する倫理を持たない人間を排除したい同化させたいという感情が、いい歳こいてそんなにめずらしいのかという話でもある。でも、自分はずっと同化強要を『される』側ではないかという意識があったので意外に感じた次第。
記述日:2019.01.25


44-1
理由が必要なのか

 習慣の違いについて理由を問われると困惑する。そもそも習慣の違いなど、往々にして他人が納得のいくドラマティックな理由なんぞはない。しかしこの手の「なぜ」は本当に理由を聞きたいわけでもなく、習慣の違いが存在することそのものに困惑しているのだろう。それはわかるが、習慣について詮索するのは不躾ではないか。

 私は10年以上に渡り、飲酒の習慣を生活から排除している。しかし酒を飲まないと決まって不躾にその理由を聞かれる。病気なのか、酒で過去に何かやらかしたのか、アルコール依存症なのか、云々と。なんだ、他人の病歴や前科前歴をそんなに聞きたいのか。私はアルコール依存症でもないし前科前歴もないが、もしそういう理由があったら本当にそれを聞きたいのか。そうした事情を聞き出してよいと思っているのか。

 さらにこの手の失礼な詮索は、別の問題に容易に抵触する。「北海道人のくせに酒も飲めねえのか」的なことはそのひとつだ。私は自分を北海道人だとは認識していない。これは必ずしも私が若き日に上京したからと格好つけてひとりで勝手に思っているわけではく、土地でずっと暮らしている人間が共有するような体験を一切せずに都会や外国で過ごしてきた為、土地の人間から異端者と見なされてきたことにも基づく。もちろん人はそんなことを知るよしもないし、普段は出身地について語られるのも看過するが、しかし習慣への不躾な詮索と出身地とを紐付けられるのは看過しきれない。

 酒についてはさらに問題を複雑にしているのは、別は私が酒を飲めないわけでないこと、過去には非常に愛好していたことだ。考えが変わって習慣も変わっただけなのだが(大した理由でもないのでいちいちそれについては言及しない)、しかし今飲まないことについて、過去も飲まなかった、酒も飲んだこともない青二才なのかと侮られるのも看過できない。ましてや飲んだこともないという誤った前提において、飲んだら旨さがわかるとか、弱いなら鍛えられて強くなるとか得意になって世迷い言を語られはじめると、どうしたものやら。

 だいたいこの手の話は、輪になってひとりひとりが不躾な質問を思い思いに繰り出し、一周すると二周目には最初の人間が誤った認識に基づいて私の「経験の不足」を云々しはじめ、三周目には口々にくだらない体験談や奇妙な健康理論に基づいて「アドバイス」をしてくる。酒を飲まないことについて詮索する人間は、だいたい同じようなことを聞き、同じようなことを言ってくる。まったくめんどうくさい。30を超えても40を超えても、酒を飲まないというだけで「酒を飲んだことない」と決めつけられて、結論は「飲め」となる。それもそれなりに年齢や社会的地位のある人間たちから。まったく度しがたい。

今回の要点:習慣の差異について詮索するのは不躾である。特に酒を飲まないことについて人は不躾な詮索をしがちに感じる。
注意点1:酒を飲まないことに対する気の利いた口上があればよいのかもしれないが、しかし私は「飲めない」「弱い」「体質に合わない」といった虚言を弄する器用さがなく、また、「飲めない」「弱い」「体質に合わない」と申告すると劣った人間だと侮られることが看過できない稚気もある。
注意点2:どんな理由を申告しようと、根性のない「言い訳」だと見なされて、最終的には奇妙な理論に基づいて「飲め」と言われるに決まっている。面倒くさいので何も応答しないに限る。
注意点3:自分自身、過去においてはどうしようもない酒飲みだったので、たぶん記憶にないだけで他者に対して似たような言説は吐いていたかもしれない。
記述日:2018.12.03


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