last up date 2003.12.21

03-10
だりい奴らだ

 語学学校にて。テストや宿題を努力の契機にし、利用しなくてどうする。なんでも、身につけるためのインセンティブにしないと。独学で出来ないから学校来ているのだろう。
 ひたすら娯楽を享楽したい、楽したい、苦労したくない・・・そんなことを連呼し、宿題やテストや次誰が当たるとか、そんなことを本気で忌避しあって何になろうか。さらには自分が努力しないし出来ないから、努力する人間、出来る人間を貶める。曰く、こんな勉強しても意味がない、こんなこといちいちやっている奴はアホだ、とか。こういう貶めをアホ同士で共通言語にして安心する。


03-09
うそこけ

 ミスして多大なる迷惑をかけたのならばまだしも、くだらん間違いをしただけで、言われたくない。
 ウソと無知をどうして混同するかな。
 無知は能力の不足だが、ウソは人格的な問題に帰因するんだから。

百姓「おう、釧路に**ビルってあるだろう」
晴天「知らない。多分、オレが釧路出てから出来たんじゃないか?」
百姓「うそこけ。お前が小学校ぐらいのときに出来たはずだ」

とか。どーでもいいことですよ。どーでもいいからウソ呼ばわりされると腹立たしい。あと、小学校のとき、算数の問題まちがえたのを称して親や教師に「嘘ばっかり書いて!」と叱責されたことも、まるで悪を為したかのようで非常に心外な言われようだったことを今でもよく覚えている。
 ウソは意識的に、それも往々にして悪意をもって他人を謀る行為。過失と一緒にされたくはない。過失か故意かなどという区別が吹っ飛ぶぐらい重要なことをしでかしてしまったのならば、その限りではないが。いや、そういうときこそ過失を故意と認めると責任問題になるか。


03-08
自分の殻を破るとは

 「自己完結」的な人間に対して、もっと別の視座で見てみたり、あるいは別の価値基準で判断してみろ、という意味で「殻を破れ」というのはまだわかる。「自己完結」−つまり、思考回路が電気回路のごとく「短絡」を起こして、ひとつの方法論でしかものを見られない奴は不愉快なものだ。
 だが、もうひとつ、解せない用法がある。このコトバは共同体に於いて、周囲に交わり同化しろという意味でも用いられる。つまり、同化しない人間は殻に籠もっている、と。なにかひっかかる。上の「自己完結」とは違う気がする。


03-07
費用

 影山ヒロノブを学祭の呼ぼうという話が出たとき、出演料がフルバンドで180万円、カラオケで50万円とわかった。思ったよりは安い。しかしカネにものを言わせるのは中大らしくないとのことで、実行委員会では却下したらしい。頭とセンスで勝負、とのこと。


03-06
カテゴライズの強迫観念

 電車で性別がはっきりしない人が乗って来ると、目の隅に入っただけで違和感を覚える。無意識に男か女かカテゴライズしようと凝視していたりもする。カテゴライズしないと安心できない無意識か。これが差別意識につながり、失礼な詮索なんかに繋がるのだろう。


03-05
スカンバッグは、人に感情の持ちよう、表しようまで強要する。

 会社で、同期が多大なるミスを犯した。懲戒解雇モノだ。彼は私にそのことを打ち明けて相談してきた。私は「隠しても必ず発覚するから、思い切って申告するしかない」と言った。それしか言えなかった。彼は結局、私の言を採り入れたわけかどうか知らないが、自分のミスを上司に報告した。
 そして、紆余曲折を経て、彼は首の皮一枚で解雇にはならなかった。同部署の同期全員が集められて、経過を上司によって説明された。その帰り。ミスをした同期を囲んで、「よかったよかった」とみんな喜んだ。私は何も言わないで、彼の隣にいた。すると突然、別の同期にいきなり背中をぶっ叩かれて、「おまえ喜べよ!」と怒鳴りつけられた。
 つまり、皆さんと同じようなことを言って、同じような表情でいろ、と?アホか。ミスをした彼は、奴には何も言わず、私を信用してミスについて打ち明けた。そして私も、真摯に受け止めて話し合った。私なりに知恵を絞り、彼が職場における生存を得る可能性が最も高い選択を導き、誠意を持ってよかれと思うことを述べた。彼の背中を押した。それで彼が私のいうとおりに行動したとか、私のおかげで助かったとかいうつもりはない。しかしいきなり何も知らない、ミスした同期も何も打ち明けもしなかった奴に、私がよかったよかったと口にしない程度で、同期のミスを冷笑しているがごときクズ呼ばわりされる覚えはないんですな。

 あと、感情の持ちよう表しようの強要としては、「平和」と「第二次世界大戦」を巡る悔恨共同体としての日本に於いても、強烈ですな。「戦争」と聞いたら、悲しみ嘆き怒らなければならない。そうしない奴は悪魔的だ。などというような簡単な感覚が、日本の平和論の構築を遅れさせ、安っぽい有事論や偏狭なウルトラナショナリズムを爆発的に流行らせたといえるのではなかろうか。


03-04
「自然」だから当然と考えられ、「自然」だからこそ危険な発想

 「ダーウィニズムや生殖を究極目的とする発想」を人間に当てはめると、コンフリクトと暴力を生む。もちろん動物的生存本能と競争原理を唯一絶対の価値と思うのは勝手だが、口にすることにはリスクがある。そうではない人の気分を害する。場合によっては社会的な不利益をも受ける。
 この生物原理主義に於いては子供を産まない女は異常者。子供を育て終えた女は不要物。生産力を失えば男も不要物。病人障害者はゴミ。いつでもどこでも性交を第一に考えない人間、特に男、は異常者。さらには病気、病弱、性的不能、性交意思の欠如は人格の欠陥と見なされる。

 かくして他者の気分を害すると、企業ならば生産性が落ちたりチームプレイに重大な支障が生じる。企業は従業員のモチベーションを維持して、収益よりも遙かに低い給与で働かせるのだから、仕事と関係ない面で貶めることにはいかなる妥当性もない。また、個人レベルでは単純に殴られたり軽蔑されたり、さらには第三者からも軽蔑や憤怒をかうことにもなりかねない。こうした不用意な発言に罰則がある場合には、武器として使われる。特に仕事は足の引っ張り合い。こうしたくだらん言説でもって、自らに不利益をもたらすのはアホだ。


03-03
引けば開くこともある

 一度あるベクトルに力をかけたら、うまくいかなくても同じベクトルに力を掛け続ける。あるいはもっと強い力を掛けるしかしない。そういう感覚で行動する人間はしばしば存在する。どんな心理か?ただの思考放棄?それともベクトルを変えたり力を緩めるのを敗北・屈辱とでも?間違いを認めたくない?


03-02
変わらない

 過去は改竄できない。
 今起こっていることならば、競争し、戦い、晴らすことはできる。
 だが、終わったこと、なかんずく、すでに相手もコミュニティも目前にないことに対しては、競争によって屈辱や敗北を晴らすことはできない。


03-01
聖書の、いつか使う文句

「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない」(ルカ6:37他)
「自分に罪のないものから石を投げなさい」(ヨハネ8:7)
「愛と赦しの教えに従うものが人を裁いていいのか」

 神も、神の代理人の僭称者もいないし、いたところで目の前で力を行使することもない以上、凡俗な人間同士が裁き合うしかない。罪があるからといって他者を裁けないのでは、あらゆる間違いを正せず、あらゆる問題が解決しない。
 自分が何か責められたり注意されたときに、「うるせー、お前だって〜しただろう」「ナンだ、お前エラいのか」としか言えない人間は、大企業の大卒社員にも実在する。では、神のごとき完璧な人間か、あるいは神のごとき権力を持った上司が注意すれば聞くのか。それでは遅い。


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