last up date 2003.12.21

10-10
技術を習得せねば

 私の特徴のひとつとして、「真っ直ぐだ」とよく言われる。
 「真っ直ぐ」というのは、善良、情熱的、純朴、まして崇高な目標に邁進するという意味ではない。思ったことは全て真っ直ぐ相手に叩きつける、という意味だ。だいたいの道理が適切で正当だとしても、まっすぐに畳みかけると相手は反発する。私は声が大きく早口なので、とても威圧的になる。私は自分の主義主張をこうして表現し伝達するものと確信している。
 だが、日本ではあまりこういう物言いは好まれない。場を荒立てる者、ハッキリと欠点を指摘する者、相手に逃げ道を作らず追いつめる者は悪とされる。だから私には、敵と味方の二つしかいない。「一貫性があるから、敵が多い」と言われたことがあるが、その通りだ。態度や意見を使い分けて人気取りをし、その実、無責任かつ不誠実な行動をとる人間の真似は出来ない。しようと思っても、出来ない。
 とにかく、議事は全てハッキリさせなければならない。感情を害さないよう穏やかに、収斂点を模索しながら落としていく・・・などというの方法は、時間がかかりすぎる上に、問題に対して改善が出来ない。著しく合理性に欠ける。


 だけれども、どこに自分が落としたいかは考えなければならない。会議の技術を学ばねばならない。腹を探り合って、妥協点に落とすのでは主導権を取られて終わりだ。すべて馴れ合いで、すべて平均値に落とされる。大胆な事は出来ない。だから、ハッキリとものを言い、闘う議論をしつつ、どこに問題を収斂させるか、どこまで妥協を引き出すかが勝負の鍵になってくる。自分の論理・道理を言えば、(例えほぼ全員がそれを適切だと認めても)それで通るわけではない。反発は起き、人々は立つ瀬を確保しようと必死になる。
 ムラ社会の論理に丸め込まれないようにする技術を身につけねば。


10-09
ボンズのお守り

 最近は18〜19才のボンズと話す機会がしばしばあるのだが、正直なところ、どう応対すべきか困惑している。もちろん6つも7つも年下であろうとも、その経験や知識・見識に感心することはある。率直に興味を抱いて聞き入ることもある。年が上や下だからどうだ、などと言うつもりはない。けれども、どうでもいいことしか話さないで天下取った気になっているボンズには困りもの。
 私は他者と話すときに最重視するのは、相手にどれだけの快楽を与えるか否かである。もっとわかりやすく言えば、相手に話にどれだけ感心してやって、価値あることを話した気にさせるか、である。話の内容などあんまり関係ない。もちろん手放しで聞き入るような話だと存分に感心するが、そういう話を提示できる人間はあんまりいない。特に大学を出てからは、あまり会うことがない。
 交友範囲が限られてくる中学高校ならば、なんだかんだで周囲の人間の同質性は高い。想像できる人間の在り方の範囲が決まっている。だが18を越えてからは、一気に様々な人生を送ってきた人々と邂逅する。そこに於いて、今まで自分がはじめてやったことや、はじめて知ったこと、今まで凄いと周囲に思われていた(と自分が思う)ような知識や経験をひけらかしても、まったく大したことではなかったりもする。そういうことに気づかず、些細なことで天下取った、さも自分が偉大な人間であるかのようなことを言うボンズには辟易。


10-08
「不誠実=計算高い」

 よく描かれる二元論として、「誠実な奴」と「計算高い奴」がそれぞれ「善人」と「悪人」、「暖かい/熱い人間」と「冷酷/冷淡な人間」と見なされる。これはなかなか薄っぺらい人間観念だ。つまり、合理性云々と言う奴は手前のことしか考えていないクズ野郎で、暖かい人間・誠実な人間は物事を考える前に飛び出していくとでも言いたいのか。アホか。
 まず、合理性の追求という意味での計算と、誠実さと温情とは決して相反しない。それどころか、合理性という武器がない行動なんかは底が知れている上に、独りよがりなだけで却って迷惑になることが往々にしてある。それでも自分が温情で行動しているからその行為は尊く、また自分の無鉄砲な熱情が何よりも尊いとして、行動の意義や結果を疑えなくなる。こういう輩は、私にとっては何かをされることがこれほど迷惑な奴はいない。そして、こういう人間の行動言動が助けになったことなど、ほとんどない。
 次に、利己的という意味に於ける計算。これもかなり意味不明ですな。計算高いというのは、別に「他人を苦しめ、不利益を与えることそのものを目的としている人」のことではあるまい。稚拙すぎることだが改めて書くと、他人の助けになりたい、何かしてやりたいという自分の心や情熱や反射的な衝動を充足させるために行動することも、相手が喜び感謝する顔を見て嬉しくなるのも、すべて自分のための利己的な行動以外の何者でもない。人間が純然たる「利他」なるものに徹することは不可能。問題は、自分の行動が相手にどれだけ利益になり、そしてそのことが自分をどれだけ満足させるかでしょう。
 例え動機が温情でなくて、カネや評判、地位といったもっと即物的なものを欲してやったとしても、その行動によって助けられる人間がいれば、それはそれで他者にとって価値のある行為である。それをとやかくいうこともあるまい。売名行為のために募金をする人間を、鐚一文たりとても寄付しない人間が笑えるだろうか。
 純然な「利他」というものがあると思っている人間ほど、近くにいて不愉快なものはない。こういう人間は非常に自己完結的で、彼/彼女にとって温情を持つ自分はすばらしく、温情による自分の行動はすばらしいにと決まっている。問題は自分がそうした「すばらしい気持ち」を持っていることであり、それを示しさえすればそれでいいと思っていることにある。自分がひとに迷惑かけても、自分が「悪い」と思っていると示せばそれですべて許されると思っている人間と、何もかわらん。こういう輩にとって、自分の行動言動が相手にどれだけの影響を与え、利益を与え、どんな気持ちにさせるか、なんてことはどうでもいいのだ。「真心から」「うそいつわりなく」「何の利益も求めず(少なくともこれだけは妄想だ)」「温情を持って」「相手のために」行動する。そうすれば、相手の役に立つし、役に立たなくとも絶対に評価してくれるものと確信している。こういう人間の行動って、ひとりよがりで他者性がないから、実際問題として的はずれで恩着せがましくいい加減で無責任で、結局迷惑することの方が多いような気がする。少なくとも私はそう感じる。

 という程度の認識もない奴が、人情だ、誠実だ、合理性計算うんちゃらじゃねえ、とかいって人間を語るなボケ。
 そういう人間ほど自分がいい奴だと思って、迷惑と不利益と不快感をばらまく。 


10-07
海に守られ、稲穂は豊潤な実をつけるこの列島が、いかなる社会を生み出し固定化したか

 同じように行わず、同じように考えず、同じように言わない人間はクズである。礼儀作法や勤勉さ、まして公序良俗のことを言っているのではない。
 どんなに清廉な生活を送り、人々を慮り、他者や集団に対して敬意を払い、生産活動に精を出し、人よりも優れた成果を上げようとも、異端者であるというだけで人としての最低限の敬意さえも払われない。いかなる成果も生産も努力も決して評価はされない。為されることは、異なることを蔑まれ、叩かれ、そして自分達と同じように考え、行動し、喋るよう強要するだけである。それが例えどんなにくだらないことであっても、些細なことであっても。
 同化はとても簡単なことのように思えるが、ほぼ不可能なことである。異なる者がいかなる同化の努力をしたところで不自然さは否めず、却って恣意的として非難されかねない。そして、どうしても同じようにするのは不可能なこともある。物理的には可能だとしても、同化が生存目的やアイデンティティの根幹をも崩壊させかねないこともあり得る。
 さらに言えば、この列島には主張することを罪悪と見なす風潮がある。なぜ同じようにしないか問われたとき、あるいは同化を求められたときに、自分がなぜそのようにしないか、できないかを主張・説明したものならば、すぐさまクズとして断罪される。どんなに正当な理由があろうと、もっともなことであろうとも、何かを求められてしないというだけで罪悪であり、そして他者(なかんずく集団)に対してコトバで主張・説明をすることそのものが罪悪なのである。言い訳であり、弁解であれ、楽や悪を為すための口実なのである。そうとしか見なされない。
 結局、この原始共同体に於いて異端者は、死ぬか、逃げるか、それでも堪え続けるか。この3つしか選択肢はない。4番目の選択肢として、闘ってそうした風潮に立ち向かうというものもあるが、成功率は低い。世間的に(≒社会的に)抹殺される蓋然性が高い。


10-06
時には、沈黙は金ではあるが

 闘いを、主張をしなければ、問題があった際には最も都合の良い解釈をされる。
 自分が適切なことをしていても、そのことを主張しなければ必要以上にクズと見なされる。笑って、あるいは追従して、あるいは黙って、相手に歩調を合わせて相手の感情の高ぶりが引くまで待つことも時には必要だが、とんでもない不利益を被ることもある。
 自分が適切なことをしても、適切な主張をしても、相手がとんでもなく間違っていても、異常なことを言っていても、黙っていては相手に自分が間違っているとされる。それだけならばまだしも、なまけている、屁理屈言ってサボる口実としているなどと見なされ、なおいっそう間違ったやり方での業務を強要される蓋然性は高い。行動はする。最終的には従うしかない。だが、主張したという事実は残せ。


10-05
それしか言語がない人

失敗や滑稽を笑うのはよし。
しかし、自分がその失敗で不利益を受けて根に持っているわけでもないのに、それしか言わず言い続けるのはアホだ。
他に言語を持たないということか。
とにかく、主張そのものに取り合わず、内容や言い方の滑稽さだけで片づけるようになったら、仕事人としてはもうダメだ。


10-04
自家麻薬中毒

すべては脳内の問題。
人間は、目の前に誰もいなくても記憶やイメージ、妄想に怒る。
記憶やイメージ、妄想に絶望する。
これは一種、麻薬中毒症状と言えなくもない。


10-03
快楽

 刹那の快楽しか追えない奴はクズだ。
 人間の生存目的に刹那の快楽以外に何があるか。もちろん、先を思うこともまた刹那の快楽。つまり、先を考えて堅実な生活プランを立てて、出世を考えて仕事に励むことも、子供のため家族のために立派に働くことも、その瞬間瞬間では想像に対する刹那の快楽でしかない。まあ、思い描く行動の具体的な種類が問題か。
 セックス、酒、ゲーム、テレビ、博打しか快楽(つまり人生の目的)と見なさないやつはダメだ。
 さらに言えば、仕事も出来ない分際で、飲む、打つ、買うこそが人生の目的で、それらを極めることの前には仕事をきちんとするとか、社会的責任を果たすことなんてクソだ、などとほざくやつは殺した方がいい。自分が飲む、打つ、買うを人生の目的と見なすのは勝手だが、他者がそれらをしないことを称して生きていても仕方がないようなようなことを言って愚弄し、あまつさえ自分がするようにすることを強要し、しないと社会人としてクズなどと抜かすような奴は殺すべきだ。


10-02
お前が楽をしたいだけだろう

 外国語の複雑な会話を理解するためには、「関係代名詞」「不活動体男性名詞」「不完了体動詞」といった分析概念を使った方が早い。なんの文法知識もなく、体当たりの経験だけを積んで、自分の母語にはないような言語の在り方を把握するのは極めて難しい上に、時間が掛かる。
 けれども、「コトバってーのは、『ゼンチシ』がどう『フクシ』がどうとか、そんなんじゃないんだよ!経験と度胸とハートだろう」とかいう寝言は極めてよくもてはやされる。目の前の勉強を批判し、結局何もしない。「経験と度胸とハート」とやらによるコミュニケーションの努力も一切しない。何もしない口実を提示しつつ、人はアホになる。


10-01
生産や向上や変革に一切結びつかない、現状維持・停滞のための甘え

 自分に対してであれ他者に対してであれ、何か言ったり思ったりすればそれでいい、それで片づく、それで許される、あるいはすべてを他人や社会に丸投げする。しかし自分が何か思ったり、言ったりしただけで、自分が為すべきことはすべて為したと思いこむバカが少なくないような。内罰というのはその典型だね。


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