last up date 2004.03.10

13-10
経験至上主義

私はとことん経験至上主義者が嫌いだ。しかしもちろん、自分の経験に基づいた範囲で物事を語る人、なかんずく珍しい経験をされた方の経験譚は敬意を持って聞く。何が嫌いかというと、

1,「本やデスクワークではなく現地見聞や現場労働」という意味に於いて「経験こそがノウハウ」と称する人が、自分が経験していないことのノウハウを語り、他者のノウハウを批判すること。

2,自分の些細な経験を権威化し、ごくごく僅かなミクロからマクロを導き出して結局はイメージとステレオタイプで全体像を構築しているのに過ぎないのに、それを認識しないこと。つまり経験に基づいていない範囲まで、自己の経験の名に於いて大言壮語すること。

3,自分もイメージとステレオタイプと予備知識でしか語っていないのに、他者がイメージとステレオタイプと予備知識で語ることを経験の名に於いて否定すること。

に尽きる。
 順に解説しよう。

1,いつものことながら、外国語を例に。その言葉が話される国に行ってネイティブと話すことのみが習得手段で、日本の学校なんかで教えられるものは「死んだコトバ」だ、などと言うのは寝言である。もちろん、ダメな学校などはいくらでもある。しかしネイティブと話すことのみが習得手段ではない。ネイティブと話すだけでは、大変苦労する面もある。さらに言えば、読み書きがろくに出来ず、なんとなーくブロークンで体当たりのコミュニケーションをやりゃいいだろうと思っている人は、言語習得目的で外国に長期住もうなどとしない方がよい。なぜならば、まともな言い回しが出来ないまま、とてもまともな仕事をするような語学力が身に付かず、それどころか語学力を上達させるための方法さえわからないまま固定化されてしまうからだ。それが何故かはどっかに何度も書いた
 なぜ経験至上主義者は、外国に長期住んだ経験もなければ日本の学校で一生懸命勉強した経験もないのに、これらの優劣を語ることができるのか。これには「机の上の経験」よりも「外に飛び出す経験」の方が優れているに決まっているという妄想があるのだろう。そして、日本で勉強することには「一日中机にむかってガリ勉しているんだろう」というような貧相なイメージしか持てないのか。結局はすべてイメージじゃないかい。


2,陥りやすいね。百聞は一見に如かないとは限らない。百聞も一見もそれはそれで価値があることだ。一見−つまり現地での経験「だから」なんでもすぐれているとも限らない。人間が目と耳だけでわかることなどたかが知れている。さらには経験することによって、経験しなかったがために自由でいられた視点や感覚を失うこともある。
 外国語を専門とする者の端くれとして、やはり外国について語ろう。外国に5年10年住んだところで、その国やそこに住む人々のことなんてごくごく一部しかわからない。それをもって「**国は〜」「**人とは〜」なんて語れない。もちろん渡航しなければわからないことは非常に多い。しかし文献による研究や日本を含めた第三国に於ける研究活動が、当該国に於ける調査経験よりも劣るとは必ずしも言えない。当該国にいることによって、他国にいるときにはなかったバイアスが必ずあらゆる情報にかかるようになる。現場でないと見えないものは多いが、現場にいて見えなくなるものも多い。しかし、現地にいる「から」、第三国に於けるあらゆる研究・分析・情報収集よりも、「正しい」見聞ができる、と思いこむ者は少なくない。
 もっと細かい話をしよう。例えば30年マイカーを乗り回しているおばさんと、免許も車もないけど車のことが好きで好きで毎日自動車誌や専門書を読んでいるカーマニア学生。運転していないからマニアの方が、おばさんよりも車について価値あることを言えないとは言い切れないね。私の母親も高校出てすぐ免許とった口だが、自分の車がFFかどうか、それどころかFFとは何かもわからない。そういう認識もない人が運転を重ねても、FFとFRと4WDの運転特性を身体で感じて区別し、認識できているかと言えばかなり疑問だ。そういう意味では、カーマニアが「FFというものは・・・」と語るのを、おばさんが「車なんか乗ったこともないくせにお前に何がわかる!」とどやしつけることはできないわけだ。
 同じようなことは、一丁二丁しか持っていない銃で、週末にたまに空き地でスイカを撃つアメリカ親父と、日本で数千冊の銃器専門書を読む銃に触れたこともないガンマニアとでも、必ずしもマニアがまったく何も知らないとは限るまい。どちらが優れているか否かでも、まして経験こそがすべてで摂取した情報なんて糞ゴミなわけでもない。ただ、持っている情報の種類が違うだけである。
 マニアがやたらめったら能書きを垂れたがるのは時として不快だが、限定された経験でもってすべてを語れる気になっている奴も同じく不快なわけなんですよ。


3,どうでもいい物事の認識の話。世の中はこんなふうになっているのだろう、というのは結局はイメージとステレオタイプだ。デカルト的懐疑を持ち出さなくても、何もかもを確認することなぞは不可能だ。で、ステレオタイプとイメージでものを語ること自体は当然のことだ。問題は、他者が自分のイメージとステレオタイプに反することを話したときに、「そんなことあるわけないだろう」「お前が自分の目で確認したのか」と言う奴である。
 「そんなことあるわけない」って、「ある」のか「ない」のか「あってもふしぎできない」のか、そんなことはお前も知らんだろう。「自分の目で確認していない」のは俺もお前も同じ。なぜそこで「ない」とか「ある」とか言えるのか。まったくもって不思議なものである。
 例えば。どうでもいいことなんだがね。大学時代、「試験の答案は、厳密につけられているとは限らない。ABCDの評価を、内容ではなく答案が重なっている順番でつけるなんてこともあるらしい」と話したところ、「そんなわけはない。お前はその現場を見たのか」と怒り狂った奴がいた。そういう現場を見たことはない。しかし、全ての教員が、全ての試験に於いて、全ての答案に対して、誠実に一枚一枚採点しているという確証もない。私は「誠実につけないやつもいるらしい」と言っただけで、「まともな採点をされないに決まっている」だの、まして「どこそこの誰々教授はそういう人だ」と言ったわけでもない。なぜ「教員がすべての仕事に対して誠実である」というイメージが、「たまには手を抜くこともある」というイメージよりも優るというのだ。根拠は何だ。言ってみろ。
 私には根拠がなかったわけでもない。それは、大学で非常勤講師をしている類の予備校講師、あるいは大学の教員、はては大学院生や教員の息子といった人々から、「そういったことをする奴もいる」という談話を聞いたからだ。彼ら全員がどのような経験に基づき、どのような意図でもってそのような話をしたのかはわからないとしても、複数人数から似たような話を聞くことがあるということは、「そういうことがあるかもしれない」とだけは言えるのではなかろうか。「ある」とか「あった」ではなく。
 物理的に起こりえることはすべて起こりえる。人間がやろうと思って実行可能なことは、やる奴がいても不思議ではない。そういう意味でも、「あるかもしれないね」ということは「無いに決まっている」ということよりも根拠があるのだがね。なにをもって「ない」と決めつけられるのか。経験至上主義に基づいて説明を受けたいものだ。



 ようするに、私は「経験上主義者」というよりも、「経験」という題目を挙げつつも自分が「経験」していないことを「経験」の名の下に高め、他者の見解や方法論を「経験」の何において貶めようというだけの、何もしていない出来ない愚かな人が嫌いなだけなんだわな。


13-09
大学では酒と遊びを覚えろ、と言っている奴に限り、酒の飲み方も遊び方も扁平で貧しい。

 まず大学では酒と遊びこそが第一義と言っている奴は、学んでいた奴を「人生の悦びとして常識としての酒の飲み方や遊び方も知らないかわいそうな奴で、人格的な欠陥さえある」と貶め、ろくな学業を為さなかった自分を大学で為すべきことはすべてやったとして高めているわけだ。だが、学業と遊びは二者択一なものではない。両方出来て当たり前。
 世の中には、学業は抜群で、社交的で話がうまく、教養のある話も世俗的な話も出来て、スポーツなんかも精力的にやって、友人も異性の交友関係も豊かで、カネがあり、顔までいい・・・そんな奴ぐらいいくらでもいる。エリートというのは本来こういうものだ。エリートと称する人間は何か欠落しているとか、本ばっかり読んでるから行動力がない孤独なもやし野郎だの、何か持てる者は何かを持っていないだのというのは、持たざる者の妄想と期待に過ぎない。


 そして、酒と遊びに大学時代のすべてを費やしたと豪語する人間で、すばらしく精力的に遊び飲んだ、という奴にはほとんど会ったことがない。
 こんなすげーことをやったと言う奴。私にとってみれば児戯のようなことをなぜそんなに自慢するのか。私の大学時代を描いたサイト「本日ハ晴天ナリ」を見れば私の大学時代の在り方はなんとなくわかる。たいしたことないと思われるか、ただのバカ野郎だと思われるかはしらんが、そうした私の大学時代の遊びに比べても、スケールが小さく、行動力が無く、労力もカネも掛けず、人間も動員せず、頻度も低く、危うささえ足りない。つまり、限定された範囲で、特定のごく少数の人間と、あるいは顔もわからないようなmassの中で大した主体性も発揮せず、労力をかけることを忌避し、世間体を気にし、カネをかける度胸もなく、そのためスケールの小さいことしかしなかったわけだ。それで満足しているのなら結構なことだが、それだけが遊びで、もっと別な蛮行が存在することも考えず、そして自分よりも学業で優れていそうな人間を遊んでいないとして貶め、自分が偉大なことを為したかのように優越意識に浸ろうとする奴など、失笑を禁じ得ない。
 酒の量や回数ぐらい飲んだのかもしれないが、バリエーションが貧相で、使い分けが出来ない。取引先との会食でも、糞オールラウンドサークルの糞イッキみたいなことかまして叫べば気に入られる、盛り上がる、顔が売れると思いこんでいる奴は実在する。そして酒に関する知識もないし、酒の種類も飲んでいない。さらにはかなりオカルト的な妄想と信仰を酒に抱いている。曰く、飲んで口にすることは本音だの、飲めば強くなるだの、酒を飲めない体質の奴は人格に異常があるだの、酒には殺菌作用があるから飲めば病気が治るだの(そんなに血中濃度が上がったら死にますって)・・・。つまり、同じような仲間と、同じような場所で、同じような酒を、同じような方法で、飲んだだけである。


13-08
他者と自己との区別がつかない奴には辟易。

 例えば。高校時代や大学時代、私がちょっと小難しい本を買ったり、本棚に小難しい本があったりすると、「読んでいない『積読』」「見栄の見せ本」と決めつける奴が必ずいた。自分が本を読まず、そして読む能力がないから、晴天の野郎も読んだり読めたりするわけがないと思っているのだ。別に私を貶めたり、ナメたりしているのではなく、無意識にそう思う奴はいるものらしい。こういう奴は、私が「読んでいない」「買っているだけだ」などというコトバを言うのを待っている。期待しているし、そうに違いないと確信している。読んでいるなんといることはありえない。ありえないことではなく、「当然のこと」つまり私が「本など読まない」ということを確認したいのだ。
 しかし。いずれ私が本をそれなりには読んでいることはわかる。ここで異質な他者としての私に邂逅した人間は、大いに動揺する。そして様々なステレオタイプを醸造してむちゃくちゃなことを言い出す。私が何でも知っているインテリのように心底褒め称えた奴もいた。大学の試験なんか「ノート集め」だけで事足りるから、こんな本読むのはノートを借りることもできない孤独な、要領の悪いバカのやることだ、と貶めようとしてくる奴もいた。
 いやはや。本なんか、今日日そんなに高いものでもないし、カネ出せば誰でも買えるでしょう。そして高校生や大学生は文盲なわけではないから、本を読むことそのものぐらいは出来るでしょうに。何を得るか得ないかは別として。しかし自分が読まない、読もうとしても机に向かい続ける忍耐力も、知らない専門用語を調べる意志も、作者の言わんとしていることを酌み取ろうとする能力もない様なアホ野郎は、ただ「本を読んでいる他者」に出くわしただけで、動揺せずにはいられないらしい。
 ついでに私、本なんかろくに読んでいないよ。まったく読まなかったわけではないというだけで。


13-07
できない奴ほど、経験至上主義に逃げ込んで、ノウハウを語る。

 ダメな奴は、まず他者の方法論の批判をする。「批判」というのもおこがましいような、くだらん妄想で誰それのやり方はダメだ、これこれこんな方法は意味がないと言う。その根拠はその方法を行うような人間が人格的に劣る、あるいはその方法が無味乾燥で、経験至上主義的観点で見ると無意味だ、というものがほとんど。まあ批判するのは結構だが、それだけですべてを言った気になる奴も少なくない。意見を言えと言ったときに、誰かの意見はダメだ、としかいわない奴もいるものだ。
 そしてたまには、オルタナティブとしてノウハウらしいことを語る奴もいる。要約すれば、経験至上主義的に行動あるのみ、というような代物だ。結構なノウハウだ。で、それを実践しているのか?他者の方法論を批判し、こうでなくてこうしなきゃいかんと言って、自分が高説通りにやっている奴など、私は滅多に合わない。経験至上主義者ならば経験至上主義者らしく、自分の経験に基づいてノウハウとやらを語ってほしいもんだね。例えば「外国語をしゃべるには関係代名詞がどうとか紙の上の勉強なんか糞食らえで、外国に行って外国人と話せ!」とか言っている奴。ただ自分がそう思って言っているだけならば、経験至上主義者がもっとも嫌うはずの「イメージと紙の情報だけでの言説」になる。

 ちなみに、度胸だけで外国に行っても話せるようになりません。なったとしても、基礎を固めていった人間よりも滅茶苦茶時間がかかる。
 「私バナナほしいかうカネある」しか言えなくてもメシは食えるしバスにも乗れる。けども、こんな猿並の奴と話すような暇人はまずいない。私だってこんな奴と話すのは面倒だし、相手をしたくない。話せないから友達が出来ず、友達が出来ないから話が上達しないという悪循環に陥る。結局、糞スラングとちょっとした買い物程度のコトバだけ覚えて帰ってくる。そんな奴なんかいくらでもいる。
 楽な道なんかはない。日本で苦労して読解や文法は完全に近いほど叩き、そしてオーラルもまた事前に叩いてそれなりのレベルにしてから行かないと、上達する糸口や方法を見つけることさえも困難になる。


13-06
消費電力ゼロなわけあるか

 新聞拡張員や押し売りの類が、ドアの上を見上げて電気メーターを凝視しつつ、チャイムを連打しているのを見たことがある。彼らの想像力からすると、電気メーターが回っているということは在宅の証拠であり、チャイムを押して出てこない奴は居留守に違いないという発想なのだろう。
 天井から吊るす裸電球と、たまに使うラジオぐらいしか電気製品がなかった時代ならばいざ知らず、現代に於いて留守宅の電力消費がゼロなどということはまずありえない。よほどの長期不在でブレーカーを上げでもしているのならばゼロにもなるだろう。だが、あらゆる電気機器はスイッチをオフにしていても、コンセントを挿しているだけで電力が消費される。
 さらに冷蔵庫には電源オフというものがない。冷蔵庫が作動しているだけでも、メーターは目に見えて回る。コーヒーメーカーや電気ポットを常時保温にしている家庭もある。あるいは帰宅後メシを食うために、タイマーでメシを炊いているかもしれない。私の知っている範囲には、エアコンの電源を切らずに出歩くような人も1人ならず存在する。こうした電熱器が動作していると、猛烈な勢いでメーターは回転する。
 ちなみに私は、最大3台のPCをCPU負荷率100%にしたまま外出することがしばしばある。それだけでもかなりの勢いでメーターは回転する。

 まあ、押し売りや新聞その他招かれざる客に対して、私は追い返す時間さえも惜しいので、メーターを見ながら叫ぼうがドアを叩こうが知ったことではない。破壊や居座りといった強硬手段に出られたら、警察に電話して布団をかぶって救援を待つなり、催涙ガスと特殊警棒を握りしめて躍り出るなり、まだ対処のしようがある。しかし、私が留守のときに猛烈な勢いで回る電気メーターを見た招かれざる客が、居留守と勘違いして激高し、玄関先の物品でもぶち壊しではしないか・・・というのは少しだけ気になる。少しだけ。


13-05
ドラマの影響か?

 私は諸事情により、ここ数年間で医者の仕事について聞くことが増えた。というわけで、たまに医者の人事や給与の話なんかになると聞きかじったことを口にしたりするのだが、途中まで話しただけで「ああ〜ですね」と妙なイメージで私の話さんとしていることに先制されることがしばしばある。私が聞きかじった程度の屁みたいな知識などは言われるまでもない、と主張するのはまあよいのだが、「ああ〜ですね」の内容がすべて「大学病院の研究医」に限定されるのはどういうことだ。私は「研究者」ではなく、「医者」の話をしているのだが。例えば、市立病院の勤務医の人事の話で、どうしていきなり「教授選挙」とかいう単語が出てくるんだ。すべての医者が学会で発表し、大学でのポストを狙う研究者なわけではない。第一、研究医よりも臨床医の方が圧倒的に多いんですが。


 こういう経験は一回や二回ではない。学会とも大学のポストともさほど関係のない話をしているのにもかかわらず、人の話を勝手に「大学病院の、それも相当な地位にある研究医」の話だと解釈して、まったく私がいわんとしていることとはかけ離れた話を述べられるのは。先日は、「大学の研究者としての医者ではなく、市立病院なんかで患者を診ている医者の話だ!」と数回に渡って訂正しても、勝手に「大学病院の研究医」としての話と解釈されたものだ。
 これはすべて、「白い巨塔」とかいうドラマの影響なんでしょうかね。医者は誰もが少なからず研究者としての側面を持っているが、大学での研究に特化した研究医は少ないし、その中でも教授選挙だのポスト争いに白熱できるような人間は極めて少ない(ポストそのものが少ないのだから当たり前だ。これは他の研究者でも同じだが)。「医者」と聞いたらすべて「白い巨塔」のイメージで見えてしまうんだろうかねえ・・・。


13-04
 1語1語に対する「点」のイメージでしか文章やセリフを捉えられない奴はアホだ。だが、そういう奴はあまりにも多い気がする。インテリを気取って他者の「視野狭窄性」を叩けば自分が優れた人間でいられるとでもいいたげな奴にも、こうした傾向を強く持つ奴はいたりする。
 ちょっと何かを聞くと、使われているコトバ珍妙だったり滑稽な気がしたり、低俗・世俗的なイメージとリンクしたりすることは誰にでもあることだ。だが、それだけで相手が言わんとしていることそのものにまで把握することなく、1点からより多くを勝手に導き出そうとするような奴は、どうにかならんもんかね。


13-03
経験至上主義者を気取る奴が、数十年の経験や何億人といる外国のことを、2〜3の質問でわかろうとするのはいったい何故だ。


13-02
不毛な2項対立ですべてを語った気になるな

 「勉強」とか「学ぶ」とか言っただけで、なぜ「エラい」「エラくない」、「楽しい」「楽しくない」とくだらん二元軸のみで語ろうとする奴がいるのか。「役に立つ」か「役に立たない」かという対立軸は思いつかないらしい。いや、そういう人々には、そもそも「勉強なんぞは役に立たない」という絶対前提があるのか。私がここで言う「役に立つ」というのは「仕事に繋がる」「仕事で役に立つ」」という即物的なものから、もっと情緒的なことまでふくむ。

 「勉強」についてはさておき、「知っている」「知らない」ということにこだわらない人にはあまり出くわしたことはない。流行のアーチストや話題のスポーツマンに詳しいかどうか、車の仕組みや型番に詳しいかどうか、仲間内での人間模様に詳しいかどうかなんてことは、「勉強」に対してはクソだと言うような人々の間でもステータスとなるし、芸能スポーツや車については知りたがる。
 さらに、「自分よりも物事を知らない人間」を見出すとこれ以上ないぐらい喜ぶ。性風俗や博打、酒・タバコ、さらには犯罪事情についてお前は知らないだろう、誰々は知らないに違いない、と言うときの人々の顔は実に嬉しそうだ。武力・金銭・情報は人間が他者に影響を及ぼすパワーとしてもっとも基本的なものだが、とりわけ「情報」の優越こそが最も高等であり強力である。それを肌でわかっているのだ。だからこそ、「知」の優越に対しては、勉強なんざ頭にねえ人々でも非常に快楽を感じる。

 では、何故「勉強」に対しては、エライエラクない、楽しい楽しくない、としか言えないのか。
 「勉強」が「紙の上や座学だけのくだらんもの」であるからか?私は「勉強」がそこまでくだらんものとは思わない。「勉強」以外の「知」とて、雑誌やテレビや、ちょっと聞きかじった程度のことばかりではないか。だいたい「本や座学」と「行動、経験」とを分けて考えることがおかしい。読書も座学も十分アグレッシブな行動・経験たりえる。本や講義とて、他者との邂逅、未知との邂逅に他ならない。同じような人間とだけ合って、同じようなコトバだけ提示し合って盛り上がったような「型」をなぞるだけの人が、必ずしも24時間家にいて様々な本を読んでいる人よりも見聞が広いとは思わない。さらに言えば、「本や座学」だけで一日が終わる人間なんてなかなかいない。大抵はもちろん他の行動も少なからずしている。「本や座学」で得た知識文言を、行動にリンクさせれば十分血が通う。
 
 結局、小学中学でやるようなことが「つまらなかった」「楽しくなかった」から、すべてその延長で捉えているのか?かなりあり得る話である。小学中学で学ぶことに悦びを覚えなかった人は、大学や大学院、さらには仕事でものを調べたり、生涯学習としてほとんど趣味で勉強するのも、すべて扁平なイメージでしか見られない。曰く、勉強する奴は親に、社会人になってからは上司に褒められたいから勉強している、と。別に親を喜ばせるのも、上司に評価を受けるのもわるいことではないのだか、アホな連中は(日本はアホでも大学までは惰性的に上れるから)大学生になっても社会に出ても、「あいつは『いい子』でいたいんだ」という程度の貧しい発想しかできなかったりする。先生や親に「いい子だ。エライエライ」と言われている奴を見るのと同じ目で、「勉強できたってエラくねえ云々」としか言えなかったりもするわけだ。

 あと妄想がある。「勉強の出来る奴」が政治家や官僚になって、世の中を悪くしている、というひどい妄想が。逆に言えば、高学歴者が権力者になっているから世の中がわるい、と。そして自分はイノセントであるという前提まで含む。
 つまりなんだ。自分がクソも楽しめなかった勉強ばかりして、親に褒められたがって、上司には点数稼ぎし、自分がしているようなセックスや博打や酒や車なんかを全然楽しんでいない、家からろくに出もしない、何も経験していない本の知識しかないような青瓢箪が世の中を動かしているから、世の中が悪くなる、と言いたいわけか。そんなに世の中簡単かよ。
 こういう貧相なイメージこそが、ろくな行動もしないで似たような人間と付き合い、似たような生活範囲でしか生活していないのにもかかわらず、メディアの表面なめただけで摂取した糞イメージで世界観構築しているだけではないか。けど、こういうこと本気で考えている奴ってマジでいるからカンベンしてほしい。


13-01
 手持ちぶさただから、「今日**のアホと飲みに行く」と携帯電話でメール送っただけで、「友人のいない自分への当てつけか」と怒り狂われた。「あいつはクズだ」と言った奴と後日飲んだら、「晴天の野郎に騙され、裏切られた、捨てられた」とキレられた。
 もちろん自分の行動言動なんかは、意図通りに解釈されることなどまずない。思ってもいないような意味を見出されて、一方的に怒り狂われたり悲嘆に暮れられたりすることなんかは、たまにあることだ。そういう覚悟もなしにはあらゆる行動はできない。自分がどんなつもりであろうとどんな意図だったと主張しようと、誤解はなかなか解けない。自分の行動言動から相手が受ける印象をも考慮に入れないと、何事もうまくいかない。
 しかし、私の行動からどんな印象を受けようと、過去の私に関するどんな事象やイメージと関連づけようとそれは勝手だが、自分の解釈やイメージを疑えない人には辟易する。それも、自分だけが被害者だったり、他者がすべて自分を一方的に、完全に、何の動揺もなく自分を陥れたとかいう発想には、もううんざり。


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