last up date 2004.04.10

14-10
2002年度卒業式

 2003年3月25日、つまり私が行けなかった卒業式の伝聞。

・卒業する課長(仮名)が、大学に来たけど卒業式そのものはサボった。
 昼間っから学食で酒を飲み、大声張り上げていた。
 いつも飲んだくれて大暴れする課長を見ている人々からしても、その日の彼はひどい酔っぱらいぶりだった。
 「ばんざーい!」と叫ぶが誰も乗らず、引いたとのこと。


14-09
ポケット拳銃と白ロシア

ベレッタが出した、.22sとか.25ACPとかシケた弾薬を使う小型拳銃は、
「ミンクス(Minx)」

白ロシアの首都は、
「ミンスク(Minsk、Минск)」

 最近どっちがどっちだったか気になって仕方がない。

 あと、イスラエルの戦車は
「メルカヴァ(Merkava)」である。
 メガドライブ版「スーパー大戦略」でこの戦車と邂逅して以来、つい最近まで間違った発音で覚えていた。恥書く前に気づいて良かった。


14-08
何を看破したつもりだ

 オンラインでもオフラインでも、「イラク日本人人質事件」が「狂言」でないかという声ばかりでうんざりだ。「狂言」というのは、人質となった日本人が実は何らかの意図があって攫われたことにして、日本政府に自作自演で要求やメッセージを送ったのではないか、というものだ。事件の真偽を判定することなどできない。今ここで事実か狂言かを論ずるつもりはないし、ニュースの限られた情報しかない中で真贋を論じても不毛だ。だが、少なくとも私は「狂言に違いない」とは決して思っていないし、誘拐されたことが「多分事実だろう」とも思っている。


  ただ、「あれは狂言だ」と言って、その根拠めいたことを並べただけで、自分がすばらしい看破をしたかのように、天下取った気になっている人には辟易する。で、どうしたの?「狂言」だから無視しろと政府に求めるつもりか?もしも「狂言」だったとして、この事件が政府の政策から投資リスク、さらには一見関係ないような企業にまで及ぼす影響が、「事実」である場合とどう違ってくるのか?「狂言」だから何事も無かったかのように収束するとでも言いたいのか?看破するのならば、そのへんまで検証をしてもらいたいものだ。言いっぱなしの発言に価値も説得力もない。


 だいたい「根拠」というのが実にくだらない。ここそこに溢れているものをいくつかコピーしてみる。

・日本人の人質が、自衛隊派遣反対論者ばかり。

 だからどうした。日本人で自衛隊派遣反対の人間は決して少なくない。統計によるが、下手をすると過半数を超えるのではないか。イラクで、目について攫いやすい人間を攫ったときに、その人間が持っている思想信条なんかは偶然に過ぎない。しかも、イラクでNPO・NGOに参加している人間の大半は、自衛隊派遣に反対している。「捕まったのは自衛隊派遣反対論者だから、実は捕まったのではなく狂言だ」という発想が、「たまたま捕まったのは自衛隊派遣論者だった」という発想を否定するものではない。
 被害者の思想信条は、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない。

・アメリカに対する主張がなく、自衛隊の撤退要求しかしていない。

 「犯行声明でアメリカについて触れられていないのは、日本人が自国の自衛隊に対するメッセージを出すための狂言だからだ」と言いたいのか。たまたま日本人を捕まえたから、日本の自衛隊に対する要求をしているだけだろう。あるいは、警備厳重なアメリカ人ではなくて、狙いやすい日本人を敢えて選んだのかもしれない。日本人を攫った以上は、日本政府に日本の自衛隊についての要求をするのが当然で、日本人をタテにアメリカに何が言えようか。それに、犯人グループは、特に日本に対して何かの意図や憎悪があったのかもしれない。いくらでも動機や主張なんて考えられる。
 犯行声明でアメリカについて触れられておらず、日本についてしか触れられていないことは、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない。

・犯行声明を発表した組織は無名の組織。

 「本物の事件ならば、実績ある有名組織が行うに決まっている。組織が無名なのは、日本人がでっち上げたからに違いない」と言いたいのか。RPGやAK47がここそこに溢れている国では、誰もが思いついただけでにわかテロ集団になれる。物理的に、極めて簡単にありうることではないか。
 犯行組織の知名度は、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない

・自衛隊派遣はイラクでは歓迎されているのに、何故撤退要求がされるか。

 「イラク人は自衛隊に好意的だから、自衛隊撤退要求をするわけがない」と言いたいのか。あまりにもくだらん。世論によって、物理的に起こりえることの幅が規定されるとでもいいたいのか。イラク人の誰もが、日本を歓迎しているとは限らない。例え日本に反感を持つイラク人が少数であったとしても、「少数」といっても何万人といるだろう。そのうちの、何人かが行動を起こすということは十分あり得る。武器が溢れ、秩序が無く、不満や不安が溢れている中で、たまたま日本を攻撃しようという少数の人間が行動を起こした、というのがそんなに不思議なことか。
 さらに言えば、犯人はイラク人かどうかもわからない。というかイラク人だという証拠も挙がっていない。
 これはちょっと突飛になるが、自衛隊云々と称しつつも、途中でカネを要求してカネで手打ちにするような高度な戦略がある、ただの犯罪者かもしれない。 
 イラクでの大まかな世論が日本に好意的であろうと、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない。

・拘束されてすぐにアルジャジーラに犯行声明が放送されたのは、早すぎる。

 「拘束されてすぐにアルジャジーラに放送が流れたのは、計画的狂言だったから」という発想が、「拘束されてすぐにアルジャジーラに放送が流れたのは、犯行グループの計画的犯行だったから」という発想を否定するのか。犯人の手際がよく、アルジャジーラの情報網が優れていたとは考えられないのか。第一、今の世の中は情報の伝達が速い。イラクはИНКだから通信機器が未発達とでも思っているのではなかろうな。
 拘束から放送までの時間の短さは、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない

・人質の手足が拘束されていない。

 「仲間だから手足を縛っていない」と言いたいのか。アサルトライフルを持っている犯人グループのアジトで、抵抗や逃亡などほとんど不可能。必ずしも手足を縛る必要はない。
 手足をしばっていないことが、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない

・ビデオでは目隠しをされて、次の瞬間目隠しが外されている。

 本当に何も見せないために目隠しをしているとは限らない。目隠しは、カメラの前で拘束しているということを示すためのパフォーマンスではないのか。あるいは撮影する部屋までの順路を隠すために目隠しして、到着した部屋の中で目隠しを外す、ということも十分あり得るじゃないか。また、ビデオの途中で目隠しをつけたり外したりしているのは、ただビデオの演出が下手なだけではないか、とも言える。狂言ならば、なおさらそんな隙を見せたりしないのではないか。
 目隠しを外したことが、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない。

・人質が落ち着いているように見える。しかも親しげに話しているように見える。

 今すぐ殺されるわけではないし、とりあえず「ビデオの撮影に協力する」という共通の目的がある。この一致した目的に対して行動しているうちは、安心だ。リラックスしたところで不思議ではない。案外、誘拐犯と被害者とは、仲が良くなることもある(ストックホルム症候群)。それに、犯人グループが紳士的なのかもしれないし、人質が聡明なのかもしれない。
 人質の態度が、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない。

・丸腰の日本人を拘束しているのにRPGを持っている奴がいるのは大げさだ。

 ビデオというパフォーマンスでは、一番強い武器を見せるのが演出というものでしょう。弱い日本人だからと、ナイフ一本やアストラ(拳銃)一丁で脅迫ビデオ作ってすごんでも迫力がない。
 見せびらかした武器の種類は、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない。

・犯行声明に宗教的表現がなく、キリスト教の西暦が使われている。

 「すべてのテロリストが、宗教的な表現を絶対に使う。使っていないのは狂言だからだ」などと言いたいのか。知名度のないグループなので、文を書いた奴がヘボかっただけかもしれん。さらに言えば、宗教的グループではなく、ただの民族主義者や欧米・日本など先進国を嫌う人間、あるいはもっと別の主義主張をもった人間の犯行かもしれない。
 文章がこれまでのテロ声明の体裁を踏襲していないことが、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない

・他にも商社員、テレビマンなど、多くの日本人がいるのに、なぜ市民グループやフリージャーナリストという「小物」を狙ったか。

 たまたま「小物」が目の前にいて、狙いやすかっただけかもしれない。「大物」は警戒が厳重で手が出せなかったのかもしれない。日本政府が、一介のフリージャーナリストよりも一介の商社員を殊更大切にするとも思えない。さらに言えば、一介の市民でもこれだけの騒ぎを起こせている。「小物」か「大物」かは大した重要ではない。
 人質が「小物」だったことは、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない

・紛争地域ではスポートのコピーを持ち歩き、原本を持ち歩かないのが慣例なのに、全員が持っていた。

 イラクにいる日本人全員が、絶対そのような習慣を持って、徹底しているとは限らないでしょう。
 パスポートの携帯は、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない。

・日本人がバグダッドに入ったその日に攫われた。早すぎる。

 たまたま目に入った日本人をさらったら偶然入国初日だったのかもしれないし、交通機関やタクシーかなにかに仲間がいて、入国を知っていたのかもしれない。
 入国から誘拐までのスピードは、狂言であるという根拠にも、事件が事実であるという根拠にもならない


 まったくもってくだらん。根拠といえるのかこれが。「少し不自然ではないか」「こういうこともあるのではないか」というレベルを超えないでしょうが。自分で自分のステレオタイプに閉じこもり、イメージでものを語り、物理的にあり得るかどうかという発想を封じている。さらに、人間の行動というのは洗練されていないものだ。無名の犯行グループの不慣れなビデオ撮影が不自然に見えるのも、それほど不思議なことではないだろう。にわか推理小説マニアみたいに「ちょっと不自然な点」を自分勝手なイメージで並べただけで、何か言ったつもりになる奴ほど不愉快なものはない。結局、「事件が狂言である」と確証が持てるほどの根拠とはとても言えない。「狂言ではなかろうか」とちょっと思えるほどの説得力さえまるでない。


 「狂言」だと思いたければ勝手に思えばいいが、自説を述べたいのならば、こんなくだらん根拠めいたことを並べただけで、全てを言った気になるな。事件が「狂言」だと仮定して、「3日で自衛隊撤退」という物理的にも、法的にも、政治的にも、ほとんど不可能な要求を突きつけた狙いは何か。「狂言」で政府の政策、現地自衛隊の任務、企業の姿勢にどういう影響を与える意図だったか。「狂言かもしれない」という不確定性に対して、政府がどういう姿勢をとるべきか。そういうことを聞きたいものだ。
 さらに言えば、件の事件が「事実」であろうと「狂言」であろうと、考えねばならない点は多い。(少なくとも短期的に)これだけの話題性を持ったこと。いつでもこういう事件が起こりえる状況。自衛隊が、現地邦人の宿営地への一時避難を認める、「邦人保護」という本来存在しなかった性質を帯び始めたこと。今回の事件について語るのならば、そういうところまで語ってみるべし。


 ネットだろうと、茶店や床屋だろうと、ただ自説を述べただけでは世の中はどうにもならない。しかしそれでも、ただ何か一点の意見を言っただけですべてを言い切った気になり、それ以上の発展したことを言えないような人間にはうんざりですよ。ちょっと簡単な、気の利いたことを思いついただけで、すべてを見抜いたような気になって思考停止する人間が、中長期的には国を滅ぼす。
 ちなみに、私にとってイラクは他人事ではない。会社の命令で、行きたくなかったのに向こうに行かざるを得なかった人を知っている。その人も、いつ囚われるか、殺されるかわかったものではない。だから、この事件が「狂言」だと「看破」したぐらいで、何か言った気になっている奴の軽薄さが気に食わない。


 さらに言えば、私は狂言説について、「そういうこともあるかもな」とは軽く思うが、「おそらくは事件は事実である」と思っている。物事を考える際も、「狂言説」を前提にして考えることはほとんどしない。根拠は、武器が溢れた無秩序な現地では、いつそういう人質事件が起きても不思議ではない、という程度のことだ。確かに、「今回の事件が事実であること」を証明する決定的なものではない。しかし、そこそこ名の知れた活動家やジャーナリストが、突然共謀して、自分達の記者生命・活動家生命を脅かしまで、芝居を打って無茶苦茶な要求をするほどバカではなかろう、という私個人の感覚もある。
 もちろん決定的な根拠など、川崎の自宅でコーヒーを片手にコンピューターに向かっている私には言えようもない。が、少なくともここそこで言われている「狂言説」の根拠にはまるで説得力がない。糞くだらないものだ、と断ずることができる(巷で言われている「根拠」に説得力がないから、「狂言」ではないに決まっていると言っているのではない)。
 私には人様に言えるような意見はないから、これ以上は語らない。(事件が「狂言」ではなく「事実」だという一応の前提に於いて)事態の推移を見守るとともに、私の知っている某人物の無事を祈り、そして大局的にこの事件ないしこうした事件が起こりえる状況が、今後の日本にどういう影響を与えるか、自分なりに想像してみたい。それだけである。


14-07
2004年度の目標10

・高校卒業以来ろくに読んでいない「月刊Gun」バックナンバーを再通読する。
・PCパーツ、デジカメは故障など差し迫って必要ない時以外、買い足さない。ただしプレゼントは別。さらには間違っても、使いもしない4台目のPCを買ったり組んだりしない。預金残高を増やそう。→LGのDVD-multiドライブなど買いたし。
・ロシア語検定3級取得する。出来れば2級。
・英語もやり直す。具体的な検定・点数・等級はまだ検討中。
・政治学の基本書を再通読。
・ロシアに対するエリアスタディを進める。
・故意に自分の所有物を破壊しない。特に携帯電話。
・緊急回避以外で、誰も直接的には殺さない(「直接的」と入れたのは、先進国民として嫌でも構造的暴力に荷担している自覚があるから)。
・翌日が平日の場合、ウォッカを飲まない。
・禁煙続行。→勧められて数度吸った。

 実現不可能な目標なんざははなから実現ののための努力もされんが、上記目標はそれほど困難ではなかろう。しかしどれぐらい実現できているかは1年後の楽しみだ。
 まあしかし普段から、人付き合いがないときは1800時以降は一切の食物を口にしない(つまり夕食はそれ以前にとる)とか、定期的に長時間歩くとか、多少のことはしているものだ。そういう細かい自分に課した律を忘れたら、なんとも日常は張り合いのないものになることだろう。自分自身が堕落するし。


14-06
何を述べるかではなく、相手の言動を受け入れるか否定するかでしか語れない人間っているもので

 本気で相手を心底バカと思った瞬間。
 いつ、どこでの会話かは伏せておこう。ただ、最近ではない。

 子供への犯罪が増えている。登下校中に暴行するなど。
 その一方で、少子化のための学校の統廃合が進み、通学距離は長くなる。
 ペド犯罪大国アメリカでは、国土の広さという別もファクターもあるが、子供はスクールバスないし親や親戚の自家用車で送迎するのが常識だ。日本でも、出来ればそうした方がいい。夜暗くなってから、部活や塾を終えて帰る子供を1人で、歩きや公共交通機関で帰らせるなんてのは危険すぎる。だから親が送迎するべきだ。


 ということを言った。
 しかしこれに対して「親が犯罪者だったらどうする」と真顔で言ってきたバカがいた。そんなことはしらん。確かにペド犯罪の犯人は3/4が被害者の知人・親戚で、しかもそのうち1/4は親兄弟だという統計もある(アメリカで読んだUSA TODAYによる)。だがこれは話が違うだろう。親が子供を守るためにはどうすればいいかという話であって、おかしい親が多いとか、親がおかしかったらどうしようもないから送迎は意味がないとか、そんな話ではない。


 どんなコトバも、否定も覆すことも出来る。一言で語った意見なんて情報量が少ないんで、どこからでも突き崩せる。同じ土台の上に乗らなければ、相手の主張の異議や価値を無視することもできる。そうすれば自分が相手を否定して優劣意識を持ち、さらには何も言っていないのにすばらしいことを言った気にもなれる。
 けれども、これはひどすぎる。バカか。お前に子供が出来て、夜道危ないから送った方がいいネと話したら、「俺は危険なペドだから、娘と二人で車に乗ったらなにをするかわからない」とでも言うのか。個人的な事情はどうでもいいが、一般論で子供の安全を語っているときに、安全に対してまったく益するところのないことを言って、何を言ったつもりだ。けれども、これを言った人間は本気だったんですよ、多分。


 会社の研修でも、何かについて1人ずつ意見を言えという場面で、「〜ではない。〜ではない」と直前の奴が言ったことを否定しただけで、何も言わずに終わった奴がいたものだ。多分彼もまた、自分が偉大なことを言って、なんて優れた人間だと思っているような口振りだった。  


14-05
ありゃあ筋者だ

 某日、秋葉原でメディアを購入した帰り。
 電車の中に筋者を見た。

・紫地に黒い薔薇柄のシャツ。
・深い紺色の地に、明彩の赤・黄・青でチェックのズボン。
・裸足に雪駄。
・日に焼けた顔でまる坊主。
・時計・指輪なはいが、鎖のごとき太さの金のネックレス。

 調子こいたガキやそれに類する服装の20代後半、30代の人間はしばしば見る。もちろんまともな人間でないと思ったらそれには脅威は覚えるし、関わりたくもない。しかし、この今日の筋者。これももちろん関わりたくもないが、なかなかの服装センス。感動した。今日日こうも気骨ある服装は例え本職でもなかなかいまい。


14-04
ひでえ状態とは

・選択肢が選べないこと
・唯一の選択肢が、ひでえ代物なこと
・それでもその選択肢をとらないと生存できないこと

 例としてはやはりИНКがあろう。近代の知的所作の集合体たる企業という皮をかぶっていようとも、ИНКに存在する企業はひでえもんだ。某全国企業の北海道支社はひでえもんだった。他の地域、とりわけ関東関西はまともなのに、北海道は(他のИНК支社と比較しても)飛び抜けてダメだった。

 「選択肢がない」とは、別にサラリーマンとしての拘束のことではない。同じような背広を着て、同じような時間に、同じように働き、社内ヒエラルキーに基づいて権力関係が生まれ、尊敬や礼儀を求められるなんてことは当たり前だ。そんなことではない。契約関係以外のあらゆる場面において、休暇の過ごし方、カネの使い方、使う言葉(敬語ではなく、意味づけと語彙数)、思想、世界観、ライフスタイル、趣味嗜好、さらには家庭や性的な在り方まで、あらゆるものの許容範囲が極めて狭いということだ。それらから少しでも逸脱する者は「異常者」「人格的欠陥の持ち主」「自分達の域に至らぬ劣った人間」としてしか見なされず、しかもそれは契約関係に於ける評価や待遇にも結びつく。「社会人としての態度、行動」という美名の下に、同化が強要された。

 その「唯一の選択肢」が、多少なりともマシなものであったのならば、仕方なく従ったかもしれない。頭のキレる人々による都会的なライフスタイルであったのならば、同化することに悦びさえ覚えたかもしれない。しかし某社の北海道支社に於ける選択肢は、ひでえものだった。
 具体的なことは書かない。だが、ИНКのドン百姓どもの馴れ合いに同化することは不可能。低俗で自堕落な生活習慣に従うことは、とてもできない。カネと時間をあまりにムダにつかう、今日日役所でもやっていないような無意味な経費流用しての享楽に参加するなど、後々何が起きるか。彼らが使うような頭のわるいコトバとも言えない音声を使いこなすことも不可能。さらに言えば、彼らのちんけな思想信条に従うことはもっと不可能。出来の悪い中学生並の知識認識そのままに世界観を構築している彼らと、同じ言語と観念を持つことはさらに不可能。努力しても同化などできない。今まで十数年、二十数年やってきたことはすべてムダだということになる。大学を出ていきなり小学校にぶちこまれ、学級会や学芸会のやるようにやれと言われたようなものだ。
 しかもよかれと思い、仲間にしようと思い、あらゆる行動言動思想発想の同化を求められるからたまらない。悪意ではないからこそ、困る。悪意ではないのだから、よくなりようがない。異文化との邂逅という感覚も発想もそもそも存在し得ない異文化人と、所詮わかりあうことも親しむこともできない。相手に同化し、屈従する以外に、受け入れられる手段などない。人と人とはわかり会えるなどというのは妄想だ。少なくとも簡単ではない。

 だが、ただ休日に家や友人宅で過ごしたり、カネを自分の好きなものに使ったり、くだらんコトバづかいをしなかったりというようなことは、大変なリスクを持つ。別に、休日返上で働けとか、先輩の結婚式があるとか、そういうことではない。ただヒマな瞬間に於いて、自分達と一緒に同じスタイルで休暇を過ごすことこそが幸福である、と確信している。自分たちのようなコトバと発想をもつのがフツーでありまっとうであり、私生活でも仕事でもうまくやる唯一の方策と確信している。だからこそ、同じ生活をいかなる場面においてもしなければならないのだ。そうしなければ、「あいつはダメだ」というムラ社会的意識が、契約関係にさえいかなる評価と待遇をもたらすか。さらには、業務上必要な伝達は、公的な場ではなされない。
 なんかの申請書類をいつまでに出せとか、いつこういう会合があるとか、伝わらなかったら担当者が困るようなことまでも、伝達されない。すべてくだらん私的な場所でなぁなぁで伝えられる。皮膚感覚が蔓延る、似非アットホームな職場というのはこういうことだ。すべてを、精神、人格までをも捧げなければ、ただ会社に存在することも、仕事をすることさえできないのだ。

 最初に、北海道支社に配属されたことは、私の人生に於いて多大なるマイナス以外の何者でもなかった。こんなくだらん甘っちょろい馴れ合いの中で生きるぐらいならば、カネの使い道もないぐらい仕事に忙しい地域の方がマシだったかもしれない。様々な事情でぬるい北海道だからこそ、人々は堕落するのだ。堕落するのにも、もともと採用した人間自体がバカすぎる。内内定式の際に私はすでに絶望したが事実は想像を超えるものだ。

 もし、一生ドン百姓のムラの中で生きるしかないのならば、墓場か刑務所を選ぶ。


14-03
昔はひどいものだった

 私が中学高校のときは、テロがどうした、国防がどうだ、身近な犯罪をどう予防しどう対応する、などと話しただけで、異常者、強迫観念のカタマリ、右翼、軍国主義者、はては終末思想の信奉者とさえ見なされたものだった。
 冷戦の終結宣言が出されて、平和になると漠然と思っているアホがここそこに溢れかえっていた。「北朝鮮による拉致疑惑」などを語り出したら、くだらんサブカル本を真に受けて、宇宙人の来襲や超古代文明の存在を語っているかのようにさえ見なされた。
 家に、出入りの瞬間以外の常時鍵をかけておいただけで、家族に異常者扱いされたものだった。賊の侵入に備えて自室に野球のバットとモンキーレンチを用意していたのに対しては、もう明日にでも通りで人殺しをするかのように言われたものだった。
 しかし、昨今はニュースから俗悪週刊誌に至るまで、「テロ」「国防」「有事」「危機管理」「ピッキング」「窃盗団」「武装すり団」など焦臭い単語が踊り、床屋でも飲み屋でも、井戸端会議なんかでも北朝鮮がどう、テロがどう、犯罪がどうしたと語られるようになってきた。10年前には信じられないことである。
 だからと言って、私がにわか有事論者や、ただ過激なことを言えばそれでいいと思っているような輩を快く思っているわけではない。平和と安全に対する理論と技術が構築されてこず、経験も体系化されてこなかった為、くだらん安全神話や情緒的平和希求論への反発だけが一人歩きしている。が、ドアに鍵も掛けないで寝るような姿勢よりは、相対的にはマシなような気はする。


14-02Ж
含まれる情報を知らず

 札幌時代のドン百姓どもはいちいち気に食わなかったが、単に気に食わないだけではなく、その受け答えが不思議なこともあった。

百姓「お前年いくつだったっけ」
晴天「24だ。もう少しで25だ」
百姓「ハハハハ!24の次に25なのは当たり前だろう!(以下、嘲笑が続く)」

 彼は10文字以上の言語を使いこなす能力がないので、ドン百姓氏はもうちょっと雑な、断片的な言い方をした。が、要約するとこういうやりとりがあった。なぜ「もう少しで25」というのが嘲笑を誘ったのか。「今日から、誕生日が近いか遠いか」ということを示しているのと同時に、「今年度すでに誕生日を迎えたか、これからか」という情報までをも示しているだけではないか。「24」の次は「25」なんてことがわからないほどアホだと、彼のことを扱ったわけではないのだがね。コトバをあまり知らない未開人に、多くの情報を伝えようとした私が間違っていた。 


14-01
思い上がり

 私とAは親密な時期もあったが、多くの理由によって現在は私がAを軽蔑し、Aは私を憎んでいる。もう会うこともないだろうし、連絡もとっていない。が、共通の知人は存在する。で、その知人の中には復縁させようと余計なことを言ってくる奴が何人かいるわけだ。で、その中の1人のコトバに私は激高した。

知人「晴天よう。Aと会うといつもAは晴天はどうしていると気に掛けているぞ」
晴天「ふん。奴にとって私は、未だにそんなに大きな存在なのか」
知人「それはお前の思い上がりだ。ただAはお前を気遣って気にしているんだよ」

 とまあ、傍目には大したことがなく、知人に発言に何ら悪意がないことはわかっている。しかし、もう私に対してマイナスの感情以外を持たなくなり、そして自分の生活の中で私のことなど考えることもなくなったと思っているAが、未だに私のこと考えていると聞かされれば、「Aにとって私は未だに大きな存在なのか」と聞き返したくもなるでしょう。それに対して「思い上がり」とは何だ。そう言わせたのはその知人の言ではないか。
 さらに、Aは私を気遣って、気に掛けていると?だからどうした。だから全てを忘れてAの前に行って笑えというのか。第一私がAに気遣われるような理由も言われも何一つとして持ち合わせていない。私はAのそういう思い上がり−すべてを自分の庇護下に於き、他者に対する支配的存在たろうという根性−を軽蔑していたし、軽蔑している。
 別にこの知人が、私がAとともに昔のように共に笑ってほしいと言うのは、迷惑だがどうでもいい。別にしつこいからと言ってこの知人との関係まで悪化させることは望まない。ただ、この知人の今回の言によって、私はますますAと会いたくなくなった。それだけは確かである。


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