last up date 2004.04.20

15-10
ブルーカラー至上主義

 現場研修を終えて、技術職の連中とは別に事務系総合職としてのスタートを切り始めた頃、「現場の奴が油まみれになっているのを見ると涙でる」、と先輩に言われたことの意図が理解できない。だからどうした。油も泥も洗えば落ちる。技術職の連中はそれはそれで大変だろうが、白いワイシャツを着た私が楽をしているわけでもない。

 しかもこの会社は、同じ年度入社した事務系総合職よりも技術系一般職の方が給料が5万以上高い。この状態は役職に就くまでの約12〜3年の間は覆らない。技術手当は基本給にある数字を掛けて算出されるので、役職手当をもらえない限りは差が開く一方だ。軍隊で言えば、少尉の給料が伍長のそれよりも低いことになる。しかも私は少尉になるために時間や学費(親が払っていようが、自分で奨学金を返済していようが、それは問題ではない)というコストを払ってきて、伍長よりも年を食っている。何に涙するというのだ。お互い自ら選んで学校を出て選んで会社に入ったのだから、この給与体系に文句はいわん。だが、技術系の連中が力仕事で油まみれになっているからと言って、こっちが引け目を覚える必要はまるでない。

 が、こういうドン百姓にとっては、ワイシャツを着て、コーヒーを手の届くところに於いて、ペンやキーボードで仕事をすることなぞ、遊びにしか見えないのか。肉体的機械的な艱難辛苦が、部署間の調整、金銭出納、対外折衝、法人営業の艱難辛苦よりも劣るとでも言いたいのか。
 現場の人間が、自らのプライドと自負から、自分と他者との優劣意識をもってそう言ったのならばともかく、同じ事務系幹部候補がそんなことを言ったことは我慢ならん。


15-09
私の持つ憎悪の根元は「ИНК」にある

 私がこの世で何よりも苛立たしく思うのは、「ИНК」と「ИНКの人間」である。私にとっての「ИНК」の定義とは、必ずしも人口の集中具合や、地理的な条件に規程されない。東京との対比で、釧路や札幌といった地方都市を「ИНК」と称することもあれば、北米・西欧との対比で日本全体を「ИНК」と称することもある。あるいは相対的な概念としてではなく、私が「ひでえ精神構造の人々が住むところ」という意味で目に付いた場所・地域を「ИНК」と称することもある。そういう意味では、東京にあろうと特定の地域・組織・集団を「ИНК」と称することもある。私にとってはどうやら精神のありようが「ИНК」たる条件らしいが、どういった精神を「ИНК的」と呼ぶのか。それは、

1,親密な、絶え間ない接触によって言語や発想、行動様式の同一性を高め、
2,すべての情報の開示・共有を当然として扱い、
3,この同一性を拠り所として他者と接触し、
4,皮膚感覚と情緒によってますます一体感を強めて他者性を希薄にし、
5,同じような場所で、同じような人間と、同じような発想や感覚に基づいた、同じようなコトバでしか意思疎通することが出来なくなり、
6,人間に対して想像できる幅を、極めて狭いものとしてしまい、
7,あらゆる現象を自分勝手に想像した人格でのみ捉えるようになり、
8,物事に対する正当な、客観的なアプローチを試みる努力や模索をせず、
9,何かを為すための手段を、漠然とした感覚や原始的な経験則でしか構築できなくなり、
10,認識方法が神秘主義かつ精神主義に終始するため、自分(たち)が万人共通の、唯一絶対の方法論を持っているかのような気持ちになり、
11,自分(たち)と同じように考え、行動しない他者が何故この世に存在するかもわからず、
12,共通した感覚や言語様式を持たず、自分(たち)が考えるような行動をしない人間と相対する術を持たず、
13,意思疎通が出来ないためますますイメージでもって相手を捉えようとするが、共通の基盤らしきものがない異質な他者をうまく捉えることができず、
14,唯一の方策として、「劣った人間」「異常な人間」とのラベリングをしてはじめて、異質な他者に対する納得のいく認識できる、
15,極めて閉鎖的かつ排他的、そして差別的な思考様式を持っているのにもかかわらず、
16,自分(たち)のコミュニケーション方法が狭い範囲の中でしか通用しないという感覚を持たず、
17,自分(たち)を相対化して顧みることも出来ず、
18,異質な他者が自分(たち)にどの程度同化するかどうかでしか、他者を評価できず、
19,他者の行動や言動を、合理性や効率といった客観的基準ではなく、自分(たち)のやり方との相対的関係と自分勝手な情緒でしか捉えられず、
20,結局、同化しない他者に対してはいかなる理解も意思疎通も試みようとしない、
21,極めて視野狭窄的かつ傲慢な精神。

 これを私は「ИНК者」と呼ぶ。「ИНК」に住む人間への滅茶苦茶なステレオタイプというよりは、こうした精神構造を持っているであろう人間を私は「ИНК者」と呼ぶ。こうした人間は、東京生まれで東京に育って、近代科学研究の中枢たる大学にもしばしば棲息していたりもする。一般的に「ИНК」とされる地方なんかにこんな人間とは比べものにならない優れた見識と異文化コミュニケーション能力を持つ人間がいたりもする。だが、偏見と狭い個人的経験から考えるに、こうした精神の持ち主は人間の出入りが少なく共同体意識が根強い「ИНК」に於いてこそ、相対的に多く棲息しているような気がする。そしてИНКか都会の別がなく、他の階層と大して接することがない職種にも多いような気がする。


  ところで私は18年間「ИНК」たる北海道釧路市に住んでいた。だからその過程で、例えば家庭環境や小中学校なんかで嫌な思いにあったから、「ИНК」にこういうステレオタイプを抱いて憎悪するようになったと思われそうだ。しかし、それは違う。最初の18年間の間、「ИНК」にこのような憎悪を持つことはなかった。それどころか、高校時代の友人や教師の中には、非常に優れた見識を持つと畏怖した人物が少なからず存在した。私がステレオタイプと憎悪を込めて「ИНК者」と呼ぶような人間(例えば、下記の高校の担任)とも出会ったが、そのときは「ИНК者」とは呼ばず、ただ「おかしな、気に食わない個人」としか思わなかった。
 しかし、東京で6年間過ごしてから「ИНК」に戻ったとき、私はもはや「ИНК」には適応することも、「ИНК者」に受け入れられることもないと確信した。そして高校卒業までに出会った「気に食わない個人」も、生まれてから18年の間は我慢して、あるいは当然と思って触れてきた習俗も、大学卒業後に感じた「ИНК的な排他性と呪術的思考」と、すべてある程度リンクしているような気がしてきた。上の二十数項目のような特徴を概ね持っているような人間が、「ИНК」にはなんとも多いような。
 もちろん多い少ないというのは私の狭い狭い経験にしか依らず、私が出会った人間達に上記のような傾向を「見出した」のも、私の推測と感覚と妄想に過ぎない。もし、上記のような傾向を持つ人間をカテゴライズできるとしても、それを「ИНК者」と呼ぶのは適切かどうかはかなり疑問だ。だが、私は個人的な悪意と軽蔑を込めて、自分自身がИНК者の分際で、上記の意味で「ИНК者」というコトバを使っている。


 「ИНК」というよりは、ウェーバーが言う原始的共同体−呪術の園−ですな。集団的引きこもりというか。こういう連中は、闊達にあらゆる人間と接しているように見えて、その実ひどい、そして堅牢なaußenmoralを持って他者と接しているため、家の外に出ていようと精神の中は閉ざされている。他者と接して他者を見ず、他者とコトバをかわして他者と意思疎通せず。


15-08
「ただ働く」

 「ただ働く」という行為など、存在しない。仕事に対して、条件や待遇、環境、やり甲斐といったものを語ると「何でもいい」「なりふり構っていられない」「働かないと食えない」などと宣い、小さな個々人には選択の余地などない、ただ全てに堪えるだけだというようなことを言っただけで、全てを語り尽くしたような気になる奴がいるものだ。まだ社会に出ていない学生からいい年の親父まで、そう口にしていれば自分が「ものの道理をわかった人間」になれるかのように、簡単に物事を両断しようとする。
 が、「ただ働く」という選択しかしていない人間はあまりいない。人攫いかなんかに捕まって奴隷に身を落としているような人間ならば、命じられた通りに働いてその日を生き延びるか、働かずに殺されるか、というような選択肢しかなかろう。しかしこの日本で生まれた日本国民は、アホでも貧乏でも、職業選択の幅はとても広い。
 なんというか、「堪えればそれでいい」「堪えない奴はクズ」というような認識方法を持つのは勝手だが、それで成功する保証なんかはないでしょうが。私は常に、いい待遇と優れた環境、納得できるやり甲斐らしきものを求めている。自分にどれほどの能力があるとか、夢みたいなことを言うなとか言われそうだが、そんな突飛なことを言っているつもりはない。労働市場が変遷しているこの世の中、うまく立ち回っていかないとすぐに落伍しかねないし、例え生き延びることを至上としてもくっだらない仕事で人生を浪費はしたくない。あたりまえのことだ。これを当たり前と思わず、「ただ働く」ことが出来ればそれでいいと思っている人は、何故もっと名誉がないけどカネになる仕事をしないのか。なぜもっとカネになりそうだけれどキツく汚い仕事をしないのか。カネが欲しいのならば、もっとカネになる仕事はある。刹那的な稼ぎではなく安定した地位と将来性にこだわりたいのならば、なぜ安定と将来性を最大限希求しないのか。たーだ、永遠の昨日を再生産できると思っているのか。
 「ただ働く」なんて行為はない。現状に満足しようと出来なかろうと、もっと死ぬ気で選択をし続けろ。「ただ働く」ことが出来ればいい、ただ目の前のことに堪え続ければいい、という「選択の放棄」という選択しかしないのも勝手だが、自分の方法論が唯一絶対のように思うな。 


15-07
予習偏重主義

 高校の話を書いて思い出したが、高校時代に教師は、「予習をしろ」とは口をすっぱくして言っていたが、「復習」についてはあまり重視していなかった。復習などたまにやればいいという程度で、二者面談で「復習中心の勉強をしている」と言ったら、間違ったやり方だと言われたこともある。
 が、私思うに、予習とは「授業を効率よく受けるため」のものであって、必ずしも知識や学力を伸ばす行為ではないのだ。教師が予習を重視するのは、自分たちがやりやすいからだ。まあ、予習をして来ない人間相手にももちろん授業は出来るが、それでは授業の意味がかなり低減する。予習で疑問をはっきりさせてから、授業でそれをつぶした方が効率的だ。ただ、そこから先のこと(つまり復習)について、うちの高校の先生方はろくに言及しなかった気がする。テスト前にたまにやればいい、という程度で。
 しかし、知識認識を伸ばし実力を付けるのは、復習である。既に潰した疑問を再チェックし、知識を定着させ、認識のフォーマットを叩き、さらにそれを徹底して反復して確認して脳の酷使する行為。それが復習だ。ただ取ったノートを見るでもなく読み返すことが復習ではない。ノートを無意味と言っているのではない。「頭の中のノートに書け」とか得意げに言う奴もいるが、それでは情報の取りこぼしが多くなるので私のような凡人には無理。やはりノートは必要だ。使い方次第では、ノートは復習の極めて重要な武器となる。
 高校時代は1秒も勉強なんかはしていないし、授業にも存在はしたが参加していなかった私ではあるが、予備校で自分なりの勉強方法を確立し、それで志望校に入学でき、さらには現在に至るも語学学習を続けている私としては、予習偏重主義というのはアンバランスで一過的な代物だと自信を持って言える。


15-06
下の話に関連して。

 高校時代の担任に、「ルールだから人を殺してはならないのではない」と言われたことがある。文脈は、当時流行っていた狂信宗教についての話だ。なぜか知らんが、私は地下鉄や住宅地で化学薬品を撒くような異常者教団のシンパだと担任には見られていた。私は当時流行って誰もが喜んで口にしていた教団の歌や教団用語を口にすることを不謹慎なことだと思っていたし、毒ガスの名前をギャグに使ったりもしていない。もちろん教団を讃えたり、肯定するようなことも冗談でさえ口にしていない。しかしなぜ私がシンパだと思われたか。まあ、私が日頃奇天烈な行動を繰り返し、規定の価値観に沿った言動をしない「異常者」だったから、「異常な」教団と一緒に考えたのだろうけど。で、私がその教団に対して好意的であるかのような前提で話す担任に、私は当然怒り狂った。
 しかし誰もが「ポアするぞ」「オレのホーリーネームは・・・」「お前の家にサリン撒くぞ」と笑いながら話している時に、私もただ1度だけ教団用語をギャグに使ったことがある。後にも先にも、このときただ1度だけだ。しかしそのとき教室にいた担任は、4〜5人の仲間とともに皆でポアだサリンだマスタードガスだと話しているときに、これ以上ないというぐらい嬉しそうな顔をしてにやけながら真っ直ぐ私の方に向かってきて、私のみに対して「お前は**教が好きだろう。東京の大学に行ってお前は**教に入るに決まっている」というようなことを言い始めた。前々から、「お前は**教だろう」「東京で一人暮らししたら気をつけろ」とは執拗に言われていたが、数人で話しているときに「私だけ」に対してこのようなことを言い放ち、公然と恥をかかせられたのはこれがはじめてだ。


 怒り狂った私は後に職員室に乗り込んで、このことを問いつめた。何故私にだけこのような屈辱的な言い様をするのか。下宿して大学に入って狂信宗教に気をつけろと教え子に言いたいのならば、何故私だけに言うのか。第一本当に私がその教団の好意的だと思っているのか。毒ガス撒いて人殺しするようなクズ共に何のシンパシーを抱くというのか、と。
 これに対する担任の返答が、「ルールだから人を殺してはならないのではないんだぞ」とのこと。何を言いたいのか。私が人殺しをクズだと称したことがそんなに気に入らなかったのか。それとも私が、「法に違反するから人殺しはいけない」としか思わないような、冷血な規範至上主義者とでも思ったか。担任の言は具体的にこうだ。

「不幸な人生で、なにやってもうまくいかず、スタート地点からして不平等がある人が、この**教ならば救ってくれる、教祖のいうとおりにすれば救われる、自分の人生の意味や目的を見出せるとして盲信したからといってもお前にそれを非難することができるのか。ルールだから人を殺してはならないのではないんだぞ」

 バカか!教団信者がどんな境遇から狂信に逃げ込み、言われるままに人殺しまでするようになったかなんて話はしていない。それとも彼らは「不幸」だから人殺しをしてもいい、とでも言いたいのか。私は「教団は悪」という簡単な前提の下で、なぜ私をその「悪」のシンパと見なしたかということを糾弾しているんだ。ここで「教団は悪」という認識を疑ってどうする。どんな事情があろうとも、人殺しを組織的に行った教団も、人殺しを実際に行った信者も、究極的には「悪」と称してよかろう。違うのか?何でも白黒塗りつぶすことにも、世間がこの教団は異常者だと喧伝するのにも、抵抗はあるかもしれない。しかしだからと言って、「人殺しはクズだ」と述べたところで、それを責められる言われはない。理由があったのならば狂信宗教に入って人を殺してもいいと言いたいのか。
 担任こそが教団へのマイナスイメージを前提とした上で、私が教団を好きだとか、教団に入信するだろうとか言っておきながら、それを責められて話をすり替えている。前提となる土台を相対化して、自分にとって都合の悪い言動を封じたつもりか(多分彼にそんな戦術などはなく、ただ、私が「教団は人殺しのクズだ」といったことに、抵抗を覚えてそれを口にしただけであろう)。


 さすがにそうは言えなかったが、「ルールだから人を殺してはならないのではないんだぞ」という私の人格と倫理観を薄っぺらいものだと見なすこの発言のみを、私はピンポイントで否定した。

「私は別に、法律が禁じているから人を殺さないのではありませんよ。私が人を殺さないのは、自分自身が人を殺すことに堪えられないからです」

 私が殺人に堪えられないかどうかは、まだ殺したことはないからわからない。わからないが、下で述べた4つ目の「個人の内的抵抗」とて私に存在しないこともないだろう。いくら私でも、「法で禁じているから」というだけの理由で殺人を否定するような扁平な情緒の持ち主ではない。
 私がこう述べると、担任は停止した。自分で自分の発想範囲を限定し、「考えている」と称しつつも同じ順路を巡っている人間は、自分の短絡回路では処理できないことを言われると数秒フリーズする。典型的だ。こういう人間にとって自分が考えていること以外のすべての発想や事象は、想定さえもできない、何でそんな発想が存在するのかさえわからないなのだ。そして静止の後、担任は言った。

「お前はルールが禁じているから人を殺さないんだと思っていた」

 あなたは私を何だと思っている。「AKIRA」や「北斗の拳」みたいに法が失われた瞬間に、すべてを叩き殺すクズとでも思ったか。私は殺人を「絶対否定」などしないし、場合によっては人を殺すこともあるかもしれない。しかし、「ルールを墨守するかどうか」ですべての価値判断をするほどのアホ野郎ではない。
 それにしても、私は胸に手を当てて、「私は人を殺すことに堪えられない」と「心情」を強調する芝居を打ちながら話した。が、(ルールを破って与えられるペナルティを恐れるのではなく)ルール化された社会規範を破ることそのものに抵抗を覚えることと、殺人と言う行為を自分の心が耐え難いと言っているのとでは、それほど大きくは違わないのだが。具体的に誰々を殺すというわけではなく一般論である以上、どちらも自分の内的規範から外れることに対して、心理的に抵抗を覚えているのに違いはない。しかし、担任は「法」や「ルール」というコトバが、心情や情緒とは無縁の血の通っていない冷たいものと思って区別していたんだろう。そう思ったからこそ、私は「心」を強調した。


 某宗教団体についての私の扱いを抗議したかったのだが、話はこの調子で脱線に脱線を重ねた。担任は、私に滅茶苦茶なステレオタイプを持っていた。まあ、他人が自分をどう思おうと、それだけの理由で相手を責めるのは傲慢だ。問題はそのステレオタイプを崩されることに、担任が拒絶反応を示したことだ。
 話の最初のうちは「お前を〜と思っていた」で済んでいたが、私に対して「お前は〜と思っているが」「お前は〜だが」と言うのを徹底的に覆しているうちに、「お前は人の言うことを聞けない人間だ。俺にも40年生きてきて考えてきたことがある。お前はそれを簡単に否定するのか」といじけおった。
 アホか。あなたが何十年何を考えようと、「お前はオ@ムだろう」と言われ、「お前は法律がなけれは明日にも人を殺すだろう」と言われて、「あなたがそう考えておられるのならば、私はそういう人間なのかもしれませんね」などと言えるか!!!さらには、「お前らは〜なわるいことをしてたんだろうが」「お前らは俺を〜と陰で笑ってるんだろうが」と事実ではない具体的な事柄を事実という前提の下で話されて、それを否定しないわけにはいかない。
 しかしこの担任は、自分の言ったことを否定されること、あるいは全面的に受け入れられないことに対して、あまりにもセンシティブすぎた。一字一句正確に自分の言動を受け入れてくれないことは、自分の全人格、今までの半生、教師としてのキャリアと能力、すべてが否定されたような気になるんだろう。言動の中身そのものではなく、相手と自分との相対的関係のみによって相手の言動を判断する者は少なくないような気はするが、これはあまりにも極端すぎだ。


 教師という職業を云々するつもりは毛頭ないが、彼は上から下にものを言うことに慣れすぎておかしくなったのだろうか。自分が正しく優れており愚かなガキを啓蒙するという感覚に溺れ、他者性を認識することが出来なくなり、自分の狭い思考範囲の中で、同じ順路を回ることを称して「思考」と呼び、それを受け入れられるか否かでしか、他者との関係を把握できないようになってしまっては、もうダメだ。こういう人間にはなりたくない。


15-05
「何故殺すか」「何故殺さないか」

 戦争によ犯罪にせよ、人殺しが報じられるたびに「なんで殺すんだろう・・・」というつぶやきをしばしば耳にする。この場合の「なんで」は行為の原因・理由を求めているかのようで、行為そのものを絶対否定するコトバである。
 まあ倫理的・心情的に、人殺しがこの世にあって欲しくないというのも、人殺しをする人間の動機や心理なんか知りたくもないし、いかなる理由であっても許せない、異常だと思いたがるのも、わからなくはない。だが、人殺しがあるたびに「なんで」と、起きるわけがないことが起きてしまったかのように感じるのはどうか。倫理や心情、願望によって、物理的に可能な行為の幅と他人の行動規範を狭くみてはいけない。人殺しはそれほど特殊な事象ではない。


 私としては、「なんで殺さないか」という発想の方が有意義に感じられる。この場合の「なんで」は「殺さない」などということはあってはならないという否定ではなく、原因・理由を求める疑問詞である。倫理的・心情的にはそれがあるべき姿かどうかは別として、私は「誰も人を殺さない状態」が必ずしも自然だとは思わない。
 物理的に手の届く範囲にいる他者は、殺すことできる。相手がどんな格技の達人でも屈強な大男でも、すこし工夫すれば誰でも殺せる。さらに言えば、刃物、鈍器、銃器、薬品、自動車、燃料といった文明の利器を使えば、かなり容易に人殺しを為し得る。なのに、人殺しを実際にする人間はごく少数である。なぜか。
 人間生きていれば、ぶっ殺したい奴の10人や100人には出会う。生理的嫌悪感をもたらす奴もいれば、侮辱や暴力を与えてくる奴もいる。正当な利益や名誉を損なわせる奴もいる。ぶっ殺さなければ、自分がいつか殺されるのではと思えるような奴だっている。他者がもたらす不利益やコンフリクトを解決する最も手っ取り早く確実な方法は、やはりぶっ殺すことだ。わかりあうとか妥協を得るなんて、この簡単さに比べたら糞食らえだ。いやそれどころか、人を殺せる能力を誰だって持っている以上、何気なくそれを行使してみたくなることもあろう。車に乗っているとき、ちょっとハンドルを左に切れば歩行者をなぎ倒すことが出来る。金属バットの1本もあれば、背後から後頭部を強打して撲殺できないこともない。職務や競技、狩猟で銃を持っているとき、そのへんの人間に向けて撃ってみることだって可能だ。だが、なぜ人殺しをする人間は少ないのか。


 その理由としては、まず人殺しをすれば罰せられることが挙げられる。近代国家では警察によって拘束され、裁判で刑罰を喰らう。前近代的な人間集団に於いても、集団の慣習や支配者の判断によって、やはり罰を喰らう。この罰が恐ろしいから、人を殺さない。これが一番強力な抑止力である。個人がどんなに抵抗しようと、警察にせよムラの自警団にせよ、より強大な暴力によってねじ伏せられてしまう。逃げたところで、やがて捕まって罰を喰らうし、捕まらずに逃亡したところで逃げ続けるのも辛いものだ。だから、人は大抵のことでは殺意を抑制する。抑制しなければ誰もが簡単に殺し合い、個々人が武器で意思を通そうとするので、社会の秩序がひどく不安定なものとなり社会全体としての生産力が弱体化する。だからこそ、殺人は社会秩序によって抑制される。
 だが、この抑止力も絶対ではない。死刑になろうと、懲役になろうと、一族郎党追放されようとも、野蛮な肉体的辛苦を与えられようと、誰それを殺さないよりはマシだと思うようになったら刑罰は抑止力を失う。また、例え刑罰を恐れたとしても、自分の犯行が発覚しない、発覚したところで逃げ切れる、と思うようになっても刑罰の抑止力は失われる。


 では、社会的な制裁以外の理由としては、何があるか。それは私的な報復である。殺人被害者に親兄弟や子供、親友、あるいは何らかの信奉者がいた場合、報復をされる可能性が出てくる。例えどんな品行方正で社会秩序を遵守する人でも、自分の肉親を惨殺されれば加害者に殺意を抱く。中には上述のような刑罰や、これから述べる他の抑止力や抵抗を無視して、犯人の抹殺を唯一の生存目的として報復を試みる者も出てくる。さらには、暴力集団に被害者が所属している場合は、集団の面子にかけて報復が為される。また、殺害を試みてそれが失敗した場合、相手は怒り狂って、あるいは脅威の排除のために逆に刃を向けてくるかもしれない。
 法秩序が整備された社会では仇討ちは名誉とは見なされがたく、実際に被害者の係累が報復をすることは多くはないだろう。しかし実際に殺人犯の出所を待って射殺する、あるいは裁判所に武器を隠し持って被告人を殺害する、というケースは実際に先進国たるアメリカで起きている。他の国でも調べれば必ずそうした事例を見ることができるだろう。そういうことまで考えて殺意を抑えるケースはあまり多くないかもしれないが、暴力集団の構成員に対しては多くの人間が報復を恐れることであろう。また、法秩序が不安定で私刑が横行している社会や、仇討ちがありふれている社会では、報復が一般市民の殺害に対しても抑止力になりえよう。
 しかしもちろん、自分が惨殺されようともかまわないから相手をぶち殺したいと強く思う人間、あるいは相手をぶっ殺した後に逃亡できるという確信がある人間、自分が殺したという証拠が見付からないという確信を持つ人間に対しては、報復は抑止力にならない。


 殺人を思いとどまる3つ目の理由としては、人殺しをまともな人間とみなさない第三者の目がある。人を殺してしまった段階で、刑罰がどうあろうと被害者家族からの報復がなかろうとも、それまでの生活は破綻する。大抵の仕事はクビになるし、隣人には疎外され、日本のような世帯単位で人が見られる社会では家族まで誹謗や迫害を受ける。そして、糊口を凌ごうにもそれなりの名誉のある安定した仕事に就くことは今後困難になる。いかなる能力や適性を持っていても、誰でもどんな低能でも出来るくだらない仕事に低賃金で従事し、不安定かつ貧乏な生活を余儀なくされることとなる。世帯単位で人を見る社会では、家族までもが就職や結婚で差別を受ける。
 アメリカのように、前科による雇用差別を法で規制している国もあるが、噂はどこからともなく伝わり、様々な理由をつけられて雇用は拒否され、うまく就職したところでバレればやはり様々な理由をつけられて解雇される。アパートもなかなか借りられないし、結婚なんかはさらに難しい。人を殺すと、社会生活そのものが困難になる。
 このようにも社会生活を送れなくなることは、場合によっては刑罰よりも辛いことかもしれない。例え懲役に堪える覚悟でも、逃げ回って時効を迎えるつもりでも、自分が、そして家族までもがまっとうな社会生活を送れなくなると考えると、殺人を犯す手を留めることにもなろう。ただしもちろん、憎い相手を殺すことのみが自分の唯一の道で、完遂さえすれば自分がその先どうなろうが知ったことではない、という人には何の抑止力にもならない。


 そして人殺しを思いとどまる最後の理由としては、殺意を持つ人間自身が抱く、人殺しそのものへの心情的・倫理的抵抗がある。自分が殺す他者が覚えるであろう身体的・精神的な苦痛、その家族が受ける辛苦を自分勝手に想像するにせよ、倫理や道徳やらが説く「殺すな」「生命礼賛」の発想に反することを「罪」と見なすにせよ、相手を殺したら何らかの理由によって自分勝手に後悔や何かの念に苛まれるのではないかと思うにせよ、これは殺意を抱く人間の体内にしか存在しない抵抗である。
 これは極めて不安定な代物である。場合によっては脆くも崩れ去り、場合によっては他のあらゆる外的抑止力が失われても残る強固なストッパーにもなりえる。しかしこんなものは、ちょっとしたキッカケや体調、精神状態によっていくらでも変化する。その時々のタイミングに依存しているとさえ言える。


 大まかには、以上の4つの理由によって殺人はなかなか実行されない。決して、「殺人がいけないものだから」「殺人はあってはならないことだから」、多くの人間がそれを行わないと言えるほど簡単ではない。外的な抑止力が働き、内的な心理的抵抗が存在してはじめて、人は他者を殺すことを思いとどまる。
 もちろん、自分の全存在をかけて誰ぞを叩き殺してやろうというケースも少なくないが、人を殺すなんて「凄まじいこと」をしでかす人間には「よほど思い詰めた事情」があるに違いない、とも言えない。些細な憎みすらなく、なんとなく人をぶっ殺すことだってある。あるいはなんとなく殴ってみた撃ってみた、死ぬかもしれないとは思った、死んだ、というような未必の故意のケースもある。「なんで人を殺すのか」と、あり得ないように語られることが多いが、殺人は必ずしも「なぜ!?」といちいち聞けるほど大した問題ではない。


 特に、上記4つの抑止力・抵抗が弱いシチュエーションに於いては、人殺しはパンを切ったり、タバコを吸ったりするような屁でもない行為に成り下がる。一番簡単な状況は、戦場だ。義務として、名誉として、自己や部隊、国家の生存を勝ち得る手段として、人は敵兵や敵国人を殺す。が、それはどうでもいい。職務としての殺人に社会的抑止力など働かず、個人の抵抗も最小限に抑えられる。殺すのが当然の行為とされ、殺さなければ自分自身が敵か上官にぶっ殺されて、名誉も地位もすべて剥奪される。そんな二者択一では、殺人に個人の裁量など働かない。問題にしたいのは戦場に於ける個人的な殺人である。
 戦場では、些細な憎しみやトラブルで、あるいはただの暇つぶしや冗談半分で、簡単に民間人や投降した敵兵を殺すことがある。これは個人的殺人だ。しかし、戦争という非常時に於いて、民間人や捕虜を虐殺することは容易に隠蔽できる上、なかなか罰せられない。戦時国際法や陸戦条約、さらには国内の軍隊法によってそうした個人的殺人は禁じられてはいるが、自国兵士を罰して戦力を低減させることよりも1人でも多くの兵士を戦力として投入することが重視され、また、軍事法廷で事件を裁くことによって不祥事を認める不名誉も避けたい。だからこそ、戦時下の兵士はかなり気軽に個人的な殺人を楽しめる。現代の戦争に於ける先進国の軍隊とて、外国人報道関係者や現地住民をぶっ殺しても「誤射だった」「武器を持っていると誤認した」「抵抗を示した」などすればそれで済む。もしかしたら、面白半分で撃ってみたり、強姦や略奪しようとして抵抗されて撃っていても、軍がそのような理由付けで事件を片づけてしまえば、あとは他に誰も罰する存在はいない。となれば、ちょっと気が向けばいつでも人を殺せることになるのだ。あとは上官がどういう人間で、どれぐらいまでは大目に見られるか考えておくだけでいい。あとは個人の内部の心理的抵抗だけがものを言ってくる。


 殺人という行為は、いつでもどこでも起こりえる、よくあることだ。よくあることだから、社会に安定した秩序と人々の安心を得るために外的抑止力が設置され、心理的な抵抗を生むために宗教でも集団倫理でも、殺人を禁忌とする思想が説かれる。殺人を「あってはならないこと」「絶対悪」と見なすのは勝手だし、それはそれで大層な思想ではあるが、それは天下開闢以来の既定の倫理ではない。こうした戒律が物理的に起きえることの幅を規定するものでもない。殺人は「あってはならないこと」だから、「簡単におきるはずがない」などと馬鹿なことを考えたり、殺人を屁とも思わない人間やいかなる抑止力・抵抗をもねじ伏せて殺人を完遂しようという人間に対して、「殺人はいけないことなのに、どうして殺すんだ」などと「原因・理由の探求」ではなく「絶対否定」としてのwhyを提示してすべてを言った気になったりするなど、愚かなことである。そんな発想では、殺人が本当にどういうメカニズムで起きるか探求することも、また殺人に事前事後の対応をすることも、困難になることであろうて。


 余談だが、「いや、人殺しはよくないことなんですよぉ」と何を言われても連呼するだけですべてを言い切った気になり、それ以外何も言えない奴は、精神の自由を前提として物事を探求する場所たる大学に於いてさえ実在した。しかも、法学部法律学科の人間がだ。「よくないこと」と思うのも感じるのもそれはそれで結構なことだし、いかなる殺人に対してもその姿勢を貫くのは立派なことではある。が、一言提示するだけですべてを語った気になるな。それで全てが済むのならば、裁判はもっと簡単になるし、世の中の殺人に対する対策も要らなくなる。
 法律を扱うということは、心情、思想、発想といった人間そのものを探求することだ。もし、「殺人を犯した者にはこれこれの刑」と機械的に刑罰を適用できるのならば、こんな簡単なことはない。しかしそうじゃないから大変なんでしょうに。例え機械的に刑を当てはめるとしても、故意と未必の故意と過失とでどういった線引きをするか、人の外的要因による死のどこまでを殺人として、どうまでをその加害者とするか、考えなきゃいかんことは山ほどある。「人殺しはいけないことなんですよー」で済めば苦労しない。まあ「人殺しはいけないことなんですよー」ですべてを言い切った気になる奴は、自分がムラ長気分なわけだ。原始的なムラ共同体のシャーマンや長老は、自分のイメージと印象だけで事件を決めつけて、こいつは「いけないこと」をしたからこれこれの刑、と気分で述べることが出来る。すべてが自分のイメージと情緒に終始する。こんな簡単なことがあるか!それが社会で他者とせめぎ合って生きる人間の発想か! 


15-04
武装学生

 バグダッド市内のムスタンシリヤ大学に、銃器で武装した学生が構内に立てこもったらしい。何の為かはしらん。米軍が大学を包囲し、投降を呼びかけているとのこと。こんなことが起きるバグダッドは確かにテリブルな状態だが、武装学生がキャンパスに立てこもるという事象自体はめずらしいことではない。
 アメリカでもイギリスでも、フランスやドイツ、日本でも、かつては学内にバリケードを作って、角材や鉄パイプで武装した学生が立てこもるという事件はよくあった。アメリカの州立大では州兵が発砲し学生数人が射殺されたし、日本でも死者は出た。が、私は先進国のスマートな闘争のことを引き合いに出したいわけではない。
 先進国でそうした学生争議があった時代、開発途上国に於いてはもっと苛烈な大学闘争があった。大学構内にM16ライフルやM1カービンが常備され、体制派の学生が学内を警備し、共産ゲリラに荷担する学生と銃撃戦をするようなことさえザラだった。大学がインフレを起こしている先進国の大学と、大学が政治的にもっと重要な意味と力を持っている開発独裁国家の大学とは、かなり異なった代物と思った方がよい。
 途上国に於ける大学は政府・軍からの直接の支援を受けて武装が進み、体制派学生が体制と大学を守るためにアサルトライフルを手に取っていた。優秀な学生(ないしコネのある学生)は在学中から職業軍人・中央官庁・国策企業の幹部候補生扱いである。もはや体制の成員である。そうした幹部候補学生は金持ち・権力者の子息ばかりとは限らず、苦学して学ぶ一般市民出身者もいた。一般人にとって大学とは、先進国のように「いい仕事につきたいから」などという曖昧な目的意識ではなく、成り上がるためのほとんど唯一の登竜門として存在した。国民の多くがひどい貧乏と理不尽に堪え忍ぶ中、多少なりともよい収入と社会的保証を得たいというのは、「出世願望」などというよりは「生存の可能性を高める行為」と言った方が妥当だ。苦労して大学に入った学生は、大学を攻撃する敵に対して必死に闘う。
 しかしインテリの中には、学ぶことによって歪つな体制に疑問を持ち、論理的な批判と実践的な体制打倒を目論むようになる者も出る。こうした学生は、ただプラカードを持って街中を歩き回るなどという平和的な闘争に終始するとは限らない。大学や体制側の施設を暴力的に占拠する、体制側の人間を人質にとるなどというのもザラだ。中には本格的に共産ゲリラ・テロ組織に参加する者も出てくる。さらに言えば、共産国家の指導・援助を受けた農村の赤貧ゲリラや海外からの革命分子が、重要な攻撃目標として「大学そのものの破壊と殺戮」を目論み、アサルトライフルを持って大学を攻撃するようなことさえもあった。

 いや、バグダッドの学生が何をしたかったのかは本当にまだわからないし、それほど大した意味も持たずに事件は終わるだろう。けど、銃を持った学生がキャンパスに籠城というのは、非民主的な開発途上国に於ける学生闘争を連想させたわけです。


15-03
バカはコトバの意味をただひとつしかないと思う。

 同じコトバでも、意味づけ、使い方というものがある。そこで自分が持っているコトバに対する扁平な、決まり切った用法以外の用法を提示されたとき、バカは対応できない。対応できないどころか「コトバの誤用」としてニヤける(優劣関係を見出した快楽の笑み)。あるいは相手がコトバもわからんバカだと思って怒る。
 「**というのは、〜という意味で使っているんだ」というような、齟齬を修正するようなことを言ったところで、おそらくバカは「間違ったコトバ遣いをして敗北した人間の言い訳、屁理屈」と捉える。意見が正しいかどうかではなく、話し合うに当たって言葉の意味づけを確認する、という作業そのものを理解できない。しかも、コトバの意味づけ、使い方の齟齬に際して、「相手が間違った、相手がバカだ」という優劣関係に溺れ、話の本題そのものにさえ決着がついたような気分にさえなる。こういうバカに何を言ったところで、「見苦しい言い訳」としか見なすまい。一度感じた優劣関係を誤解だと認識するのは困難なことだ。さらには、コトバとは唯一絶対、万人普遍の意味と用法を持っていると思いこんでいる人間は、「お互いの意味づけを摺り合わせた上で話す」という「不確定性を前提として、とりあえず共通の足場を便宜上でっちあげてから闘う」という発想を理解できまい。


 くだらなーい例しか思い浮かばないが、例。
 「地方」というコトバを「東京」に対して使うと、「誤用」だとしか見なさないバカはいるものだ。「地方」←→「中央」という使い分けでは、「東京」を「地方」と称するのは違和感を覚えるかもしれない。場合によっては誤用になる。しかし「地方」←→「全国」、「地方」←→「国家」という、「部分」対「全体」という意味ではもちろん「東京」にも「地方」というコトバは使える。
 東京には日本全土を統べる「中央政府」があるが、東京都や区市町村といった「地方政府」だってもちろんある。東京都職員は地方公務員だ。さらには、「全国」の中の「地方」だからこそ、東京地方裁判所という役所もある。天気予報でも「東京地方の雨の確率は・・・」と言う。当たり前のことだ。
 地方自治について考えるとかいうテーマで東京に触れただけで、「地方」と「東京」の組み合わせに違和感を覚え、地方自治を述べるに当たって東京に触れようとした人間をアホと感覚的に思いこみ、それだけで相手の意見の内容を聞かず、もうすべて終わったかのような気になった人間は実在する。


 もう1つ。
 「現代」との対比で「近代」というコトバを使う場合、近代とは「古い」とか「旧弊な」というニュアンスを持つ場合もある。明らかに、「現代」と「近代」という二つのコトバを対比して、繰り返し用いていた文を読んで、「近代」というものに「新しい」「すばらしい」「画期的な」というイメージしか持ち得ない人間が、「現代より古い」という意味で「近代」というコトバを使っていることに対し、「〜のどこが近代的なんだ」と明らかに書き手を嘲笑して、自分がデカい面するために言ってきた事例も、なんと大学構内に於いて発生した。
 コトバというのは繊細なものだ。決まり切った自分だけの意味で物事が伝えられるわけでも、酌み取れるわけでもない。辞書的な意味とは別に、イメージや感情が添付され、またイメージや感情を起こさせる。誰に聞こうが、自分で考えようが、辞書を引こうが、万人共通、天下普遍の意味なんてものはない。そんなことは当たり前だ。そんなよくわからないコトバに対して、本の著者であれ話の相手であれ、他者がそのコトバに意味づけをし、どんな感情を込めているか。あるいは自分のコトバを相手がどうとるか。永久に終わり無き模索を続けなければならない。
 大学に於いてまず身につけなければならない発想の第一歩というか、足を上げる直前のごとき行為として、「本来不確定な代物であるコトバに対して、とりあえず共通の足場を作って、あるいは自分が相手の足場に乗ってから向き合う」必要がある。大学に4年も5年もいて、「近代」という多用されがちで、その意味するところの幅に対して議論が堪えないコトバに対し、自分の貧困なイメージのみで捉えるような奴がいるとは、日本の大学、ひいては日本の将来が危ぶまれる。   


15-02
銀シャリ

 いつもはcoopブレンド米なる無洗米として一番安い米(2100円強)を生協で買っているが、お米券をもらったため、コシヒカリ(3380円)を買ってみた。そしていつもは麦や十穀を混ぜるが、何も入れないで炊いた。そしたら炊きたての米のうまいのなんのって。3合炊いたけど、1合半ほとんどおかずもなしにくっちまった。
 しかし麦や十穀をまぜたらたちどころにいつものメシの味になった。もっともいつものブレンド米は、米だけで炊いてもおかずなしに際限なく大食いするほど美味ではなかろう。いや、贅沢はいかん。米ばっか食っていると脚気になる。副食が乏しい生活では、主食にも工夫せんといかんわけですよ。


15-01
銃器評論家

 日本語で評論を行う銃器知識人として、私が最も敬意を抱いているのは、「月刊Gun誌」に記事を書かれている高野武氏、そう、Turk Takano氏だ。氏の経歴は一介のガンマニアとして驚嘆と尊敬に値する。


 日本で平凡なサラリーマンをしていた氏は、競技射撃に触れて、銃器評論家を最終目標と思い立つ。サラリーマン生活から一転し、陸自の空挺に入隊。射撃に専心してライフルマンとして好成績を残す。が、4年で除隊。格安で海外に飛び出すためのほぼ唯一の手段であるフランス郵船の貨客船で、マルセイユに向かう。ヨーロッパをヒッチハイクしながら回り、スイスでは働きながらドイツ語学校に通い、コトバを鍛えた。英語にドイツ語をプラスし行動範囲を広げた氏は、ヨーロッパをさらに旅して回り、やがてイスラエルに渡る。傭兵になるためだったが、日本国籍を理由に断られた。しばらく現地の銅山で働いた後、イギリスに渡り、便所掃除、皿洗いとあらゆる仕事を精力的に行い、カネをためようとする。が、物価の高い英国ではままならず、見切り発車で本来の目的地たる米国に裸同然で渡ってしまう。カネがない人間の入国は当時難かったのだが、ここではさまざまな人に助けられたそうだ。
 そしてアメリカ。氏はニューヨークで身を粉にして働き、そしてガンスミス学校に入学した。ここをトップの成績で卒業した氏は、学院長の推薦で小さな銃器会社シーレン社に入社。シーレンはやがて世界に知られる会社に急成長し、氏は1979年にはここで主任設計技師を勤めておられた(それ以後のシーレンと氏との関わりがどうなったかは、私は知らない)。


 氏は、銃器評論家を目指してから、陸自で軍隊経験と射撃経験を積み、各国を旅して銃器事情に触れ、ガンスミス学校で銃の構造について体系的に学び、技術を身につけ、そして銃器会社で実務経験を積みつつ、「Gun誌」に記事を送って文章力を鍛えている。氏の唯一の心残りは、傭兵志願が断られ、実戦経験を得られなかったことだという。しかしそれ以外は、様々な回り道はしているであろうけれども、自分のただ1点の目標のためのステップを踏んできた。こんな様々な経験と技術と知識を持つ氏よりも優れた、日本語を用いる銃器評論家を、私は知らない。(氏の経験については、「Gun誌」1979年8月号。和智香氏の記事を参考にした)


 日本人の銃器評論家には3種類ある。
・1年2年傭兵経験をした日本人。軍隊経験と実戦経験はあるが、銃器の専門技術や体系的な知識がない。戦場の、それも局地的な戦場に於ける銃器事情しか知らないし、触れた銃の種類も限られる。実戦経験・軍隊経験は日本人としては貴重なものであり、それはそれで尊重すべきものである。しかし銃器そのものを語るには、十分ではない。

・銃が好きで、あちこち旅行しつつ撃って歩いている日本人。もともとマニアで、軍隊経験や実戦経験がなく、職業人としての専門技術もない。好きで本をたくさん読み、各国でマニアや軍・警察関係者に話は聞いているかもしれないが、体系的な知識ではない。銃を求めて世界に出て、あちこち回っている段階で「ただのマニア」ではなく、その経験は尊重すべきものである。だが、やはり職業として専門的な訓練・体系的な勉強をしたわけではないので、好事家の域を出ない。銃器そのものを語るには、十分ではない。
 ただし、日本語の銃器評論で一番面白いのはこういう人物が書いた記事であると、個人的には思う。

・自衛隊や旧軍、銃器メーカーに勤務した銃の専門家たる日本人。確かに専門知識や専門技術にすぐれ、軍隊経験がある人もいる。が、旧軍関係者を除いて実戦経験はない。各国の銃器事情を回って見聞きしたり、好事家が好みそうな銃について調べたりはしていない。職業として鍛えた技術と経験、仕事として勉強した知識は優れたものである。しかしこういう人はマニアではなく仕事として行っているため、その知識・経験・技術、そして興味の範囲は、職域という狭い範囲に留まっている。銃器そのものを語るのには、十分ではない。

 それを考えると、実戦経験こそないが、軍隊経験、世界の銃器事情の見聞、銃器工としての訓練・勉強、技師としての実務経験、そしてあくなき銃器への興味を兼ね備えたTurk Takano氏こそが、日本語で銃器評論を行う銃器知識人としては、最高峰であると私は自信を持って言える。


 氏に比べると、銃に触ったことも、撃ったことも、分解したことも、商売道具にしたことも、まして何かの手段のための道具にしたこともない私など、ただ本をちょっと読んだだけのアホ野郎だ。それも三度のメシよりも銃が好きで、貴重な情報を得ようと本にしがみついたわけでもない。まあ私は、銃で商売をしているわけでも、アクション小説を書いているわけでも、まして評論家めいたことでメシを食っているわけでもないので、恥じる必要はないのだが。
 ただ、なにげなく高校を出て、当然のように予備校に通い、大学でも享楽の日々を過ごし、留年し、そして大した目的意識もなく、入れる会社に入り、そこで明らかに能力に欠ける人々(※)に囲まれた日々に怒り狂い、会社にとってさえ意味があるとも思えぬ仕事に従事することに失望しきっていた私は、氏の目的意識と、長期戦略、そして行動力と比べて、なんとも卑小な人間だ。自虐や落胆や恣意的な謙遜でなくて、ただ率直にそう思ったね。

※明らかに能力に欠ける人々・・・
ものすごい思い上がった言い方だが、何年も教育を受ける機会を得て尚、掛け値無しに読み書きも満足にできない機能的非識字者の状態に留まっていて簡単な仕事に支障を来すような人々を称するに当たって、間違った表現ではない気はする。しかしそんなことに文句ばかり言ってるようではダメだね、やっぱり。 


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