last up date 2004.05.03

16-10
「頭の悪い働き者」

 軍組織論で有名なフォン・ゼークトは、人間を4つに分けた。「頭の良い働き者」「頭の良い怠け者」「頭の悪い働き者」「頭の悪い怠け者」の4つに。簡単に述べると、「頭の良い働き者」は戦略の構築や情報収集・分析などを行う中枢部に必要で、「頭の良い怠け者」は必要な時に必要なだけ知恵を巡らせて戦術を駆使する前線指揮官に向き、「頭の悪い怠け者」はただ命じられたときだけ命じられたことをする兵卒にはなれる。しかし「頭の悪い働き者」は最悪のクズだという。
 このフォン・ゼークトの言う「勤勉なバカ」ほど手に負えないものはないとは、よく聞く。だが、私としては「頭の悪い怠け者」にばかり手を焼き、苛立ってきた。私にとっては、如何にどうしようもない怠惰な奴を動かし、どうしようもないバカに仕事を理解させるかが常に大問題だ。が、ついに私もゼークトの言う「頭の悪い働き者」に出会い、困惑した。


 その人物は18〜19の高校出たてのガキなのだが、高校時代から苦学して飲食店のバイトをかなり精力的にやってきたという。それはそれで結構なことだ。その経験を誇りに思うのも自然なことだ。だが、バカなのだ。どのぐらいバカかというと、自分の飲食店のバイト経験や常識を、他の全ての仕事に応用できると考えるほどのバカなのだ。
 飲食店では、誰がどこに行った、何を注文された、何を用意した、ということを声掛けして示し合う。飲食店では、そうして全従業員が状況を把握する必要があるのだろう。だが、私のいるここは飲食店ではない。私が客や上役に呼ばれて席を外すときに、いちいち「**、ちょっと会議室に居ます!」と声を挙げてはいられない。もちろん誰がどこに行ったかは示した方がいいのだが、それは誰かに伝えるだけでいい。が、件のガキは、私が戻ったときに「晴天さんは、勝手にどっか行って!」と怒っていやがった。私の判断を扇ぎたかったのだろうが、物事には優先順位がある。貴様に許しを得る必要などない。さらに、私は黙って消えたわけではない。同室の別の人間に聞けば、私の所在も用もわかったはずだ。その努力をしていない。いちいち大声で「**行きま〜す!」みたいなことを全員にしていられるか!


 しかし奴は勤勉ではある。何かやれと言ったら、やり続ける。サボらない。が、人にはそれぞれの仕事があることを理解できない。自分達兵卒が手を動かしているとき、何もしていない(ように見える)人間が存在することを許せないらしい。時には待機も重要な仕事なのだが、それもわからない。フレキシブルな予備兵力がないとロジスティックは混乱する。誰もが常に最大限の力を振るわなければならないという発想は困りものだ。この発想は、手が多すぎて、全員が仕事をするフリをして歩き回ったり、何かを持って右往左往するような破滅的な状態に陥らせる。だからこそ人数は絞る必要がある。さらには指揮官は手を動かしてはいけない。前線の混乱に身を投じては、大局的な情報収集・分析・判断・指示・連絡ができなくなる。
 が、件のガキは、手の空いているように見える人間にいちいち働け、何かしろと言って回り、しかも言われても自分に従わない人間にはわざと肩で当たったりもしていた。肩書こそないが、自分よりも30も40も年上の人間に対してもだ。バッカめ。こういう「勤勉なバカ」がいると、すべての仕事が、割り振りが、責任の所在が、物品や人の所在が、情報伝達がわけわからなくなる。士気も下がる。いざこざも起きる。いっそお前は何もするな。言われたことだけをして言われたこと以外をしない「頭のわるい怠け者」の方がマシだというゼークトの論を、少しはわかったような気がした。


 そして奴はもちろん、4月からは存在しない。


注:本来ゼークトの4分類は「将校」の話であって、実は兵卒と将校を分かつものではない。けれども、ゼークトの生きた時代ではなく、現代の卑近な出来事に4分類を当てはめるのには、兵卒と将校を分かつ「誤用」の方がしっくり来るのであえて、「連絡将校」ではなく「兵卒」としています。 


16-09
一方的なイメージと、一方的な拒絶妄想

 自分が何をしようとしているのか。何を見ているのか。何を考えているのか。そんなことわかる他者なぞはなかなかいない。当たり前のことだ。
 ただ、腹が痛くて顔をしかめているだけで、その日会ったわけでもない第三者の名前を出されて、「お前そんな顔して、また**の奴のことで何か思っているわけじゃねーだろうな」と訝しがれたこともあった。それに対して「いや、今日は腹が痛くて・・・」と言っても、私が誰ぞやのことで苦虫かみつぶしているという思い込みの下で、「**の奴もよくやっている。世の中もっとイカれた奴もいる」などと的はずれな説教をおっぱじめられたこともあった。


 人の顔色や視線の先にあるものを勝手に想像されて、その前提の下に話をされるのは大変迷惑だ。だから私は、相手がそうした一方的な思いこみの下に何か言ってきたら、まずはその思いこみを否定する。いい加減に、よくわからないのに「そうっすねえ」とか言ったものならば、全然話がかみ合わなくてアホだと思われるかもしれないし、あるいは全然関係ないことで叱責や非難をされるかもしれない。だから、相手の勝手な思いこみには私は乗らない。
 一方的な思いこみを前提にして勝手に話をされても、いかに相手と話を盛り上げようと私が思ったところで、思ってもいないことを前提に話をすることは出来ない。腹減ったなぁと思っているときに、視線に先にあるモノや人について私が何かを思っていたという前提の下に話をされても、何一つ考えていたわけでも考えたこともないことについて、何を言えようか。私は咄嗟に出任せを言えるほど器用ではない。


 しかし、相手の思いこみを否定すると、勝手に自分の全人格を拒絶されたかのような感覚を持つ人間が少なからずいるから困りものだ。「んなこと思ってねーよ!」と叩きつけるのならばまだしても、「いや、ただちょっとぼんやりしていただけ」「ちょっと腹減ったなぁって思ってただけね」とか柔らかく返しても、勝手に傷ついたり腹を立てたりするはどうしようもない。
 なにやら勝手に話をはじめた相手に「そういうことは思っていない」と言っただけで、お前は自分勝手な人間だ、自分のことしか考えていない、自分だけが正しいと思っているのか、オレにも今まで生きてきて考えてきたことがある、それを一言で切り捨てるのかとか、様々なことを言われたことがある。例えば私がこの仕事をどうするかなあと思っているときに、たまたま私の目の前にある張り紙や看板を私が見ているという前提で話をされて、そんなものは見ていないし考えていないと私に言われて、何をそこまでいじける必要がある。
 自分が提示したアクションに対して相手になんら価値も意味も見出してもらえなかったら、それはどんなくだらないことでも虚しいし、期待に応えてくれない相手がひどく冷徹な人間なような気もする。そういう感覚はわかる。が、自分の話がいかに的はずれだったかを省みず、勝手に前提をでっち上げられた人間が迷惑しているということも気の先ほども想像せず、勝手に被害者意識に閉じこもる奴など、ゲロ吐きたくなりますよ。


 まして、「自分のことしか考えていない」などとは幼稚極まりない非難で。もちろん私は自分のことしか考えてないし、私が他人を助けたり喜ばせたりするようなことがあっても、それは自分のため以外の何者でもない。「他者のため」に命をなげうつことがあったとしても、それは自分のためだ。あったりまえだろ。誰だって結果として利他的行動をとることは出来るが、利己と切り離された利他的発想など持てようもない。まして、他人が考えていることを勝手に想像するまではいいが、そんなことを考えてもいないと訂正されたぐらいで一方的に被害者感覚を持つような人間が、他人のことを考えていると自惚れるのか。くだらん。


16-08
堪えることにも、コスト対効果がある。さらにはそもそもの中長期戦略がある

 戦後日本経済が基本的に登り基調だったためか、なあなあのムラ社会が蔓延る民族性のためかは知らないが、何事も堪えればそれでいい、堪えない奴はクズだ、というような発想がここそこで蔓延っている。もちろん堪えなければならないことは多い。声をあげてもどうにもならないことも多い。が、何をどう勘違いしたのか、向上心を持つこと、少しでもいい待遇、いい環境、納得できるやり甲斐を求めることそのものを、何事にも堪えないクズのガキの寝言として笑うのはどうしたことか。


 私の大学時代は「失われた10年間」と呼ばれる不況期にあった。そのため、学生連中の危機感は年々高まっていった。1997年のキャンパスはサボる学生が多くて閑散としており、何か資格試験に情熱を持つような人間も司法試験を除いてはあまり見かけなかった。が、2000年からは学生がGWを過ぎてもキャンパスから減らなくなり、簿記やSEなど、大小の資格に時間を投資する人間が目に見えて増えた。危機感を払拭するために努力に向けるのはわるいことではない。大変結構なことだ。
 だが、何を勘違いしたのか、バブル期かそれ以前に社訓にでもされていたようなことを口にする学生もまた、やたらと増えてきた。それも、何もしないで、だ。ただ自分が真理を知っていて、真理に反する人間を叩いてそれでよしとしているだけのアホ野郎だ。会社には3年いないとダメだ、3年じゃダメだ、5年10年いないと労働市場で価値と見なされない、どこに行っても辛いのは同じだ、夢なんか持たない方がいい、働けさえすればうまくいくetc。もちろんこれは私自身の自己批判も含まれているが、これらの発想は「ただ働く」ことができればいい、それが「安定」だ、という軽薄な職業意識に他ならない。しかし「ただ働く」などというものはないのだ。ただ堪えて、「ただ働く」ことが安定ならば、誰も苦労しない。例え職場に従属しきっても、それで安定とは言い難い。
 実際問題として、「安定」と「我慢」の2文字のみを連呼したいた奴で、ろくな仕事についた奴がいない。 


16-07
盲信的人間とデカルト的人間

 自分勝手に世の中の常識っぽい、ただひとつの妥当な方法を自分が持っていると勘違いしているやつを盲信的人間という。つまり何か既定の、当然の前提から離れて物事を考えることができない人間を、盲信的人間と呼ぶわけだ。別に経典や説教を信奉する人間のこととは限らない。
 下の例で言えば、「仕事は3年いないとダメだ」という信仰がある。世の中がいかに変わろうが、そうした題目もそれなりの意義は持ち続けるだろう。が、ここから離れて考えることができない、別の基準に基づく発想があることを理解できない、違った発想に触れたら劣ったバカげた発想として自分の発想との優劣関係でしか捉えられない。
 だがね、「仕事3年」という発想は必ずしも有益とは限らない。人生は短い。くだらん仕事や適性に疑問がある仕事ならば辞めたって構わないだろう。生存するだけならば、いくらでも道はある。安定性や将来性などというものは、まったく予想が利かない。堅実に同じ会社で働き続けた方が、労働市場での価値を失わせることだって容易にあることだ。打って出た方が、社会的に成功することもあるし、却って低い給与に陥ってもそれで相対的に幸福ならばそれはそれでよかろう。「働かねば食えぬ」と適性もない、あるいは待遇の悪い仕事に、すべてに堪えてすべてを犠牲にしてやってきても、そのために精神や身体にダメージを受けて死ぬことだってある。それは本末転倒だ。「そんなのはよほどの弱者だろう」などと笑うことは容易だが、人間どうなるかはわからない。
 とまあ、1つの題目についても、いくらでもアンチテーゼを提出できるわけだ。なにを選択するのかは個々人の勝手だが、絶対的に「こうしなければダメだ」「そうしないやつはダメな奴だ」としか思わないのは、盲信的人間のわるいところだ。発想の範囲を狭め、他者の行動選択を阻害し、簡単な択一にすべてをすりかえるなどバカも甚だしい。
 それに対して、最初から1つのテーゼが当たり前などとは思わないのをデカルト的人間と私は呼ぶ。例え本人が1つのテーゼに拘泥しても、そのテーゼが唯一絶対かつ最も優れた当然のものだとは思わない。数ある発想の中から、自分にとって妥当なような気がするのを選んでいるにすぎない、という自覚を持っている。それがデカルト的人間だ。私はこうありたいと思っている。


 デカルト的人間である(ありたい)というのは大変なことだ。大学でも会社でも、私はいつでも盲信的人間の失笑を買った。私の方が的確な仕事のやり方や分析をしている場合が圧倒的に多いにもかかわらず、だ!そしてどこでもわたしがそうしたクズ共を支え助けてきた!しかしそれでも盲信的人間は決してそのようなには思わない。自分の糞テーゼから外れる人間は異常者で低能で、自分と同じ方法をとらない人間は不気味で、自分だけが正しいと思っている独善者で、他者に歩み寄ってこない邪悪で冷徹な人間としか見えないらしい。
 私は天才ではない。ただ地道かつ堅実なだけだ。予断や思いこみを排して漠然としたものを確認しようとしているだけだ。物事の行程をすべて予想し、それに関わるモノと人の確認をすれば仕事は十中八九うまくいく。だが、人々はそれを滑稽としかおもわない。自分が何もできないくせに!ただなぁなぁで、なんとなーくうまくいくだろう、やってくれるだろう、伝わっているだろうで済ませる。それだけだ。確認をとることを嫌がり、連絡徹底をくどいと思い、聞いたからもう言うなと言い放つ奴が物事を理解していたことはなく、それどころか私が連絡したことそのものを忘れ、権限も情報もないくせにしきりたがり、人の指示に従うことを屈辱としか思わない。カスばかりだ。私が役に立つことも認められることもありゃしねえ。あるとしたら私がいなくなってからだ。大学の部やゼミも札幌の支社も、私が抜けて初めてその価値に気づいた。わたしは所詮『明治の農村』だ。
 明治の農村とは、近代化の無理と矛盾のすべてのしわ寄せをうけ、帳尻をあわせるために低く理不尽な地位に固定化されていた。わたしもまた、なぁなぁでやっているクズ共の社会を支えたが誰も評価せず、上役も事態を改善せず、たまに励まし、たまに高価な飯や酒を飲ませてごまかし、辞める・改革すると言ったら異常者・落伍者と叩くだけで、すべてを犠牲にしてすべてを支える位置に固定化しようとしかされなかった。


 しかし宗教的人間であったのならば、これほど楽なことはない。ただ妄想に基づいて、それも集団的妄想に基づいて、不徹底に仕事めいたことをするだけでいいのだ。それだけで本人(たち)にとってはうまくいくのだ。行動は誰かがやってくれるに違いないし、意思や情報は伝わっているに決まっているし、そしてうまくいったとしたら自分が「当然」のやり方をしたからなのだ。うまくいかなかったとしたら、「当然」のやり方に欠けているものがあったからだ。同じ妄想を共有している人間が複数いたら、もう言うことはない。いつまでも客観(めいた)評価をしなくても済むのだ。ダメな奴・ダメな原因などいつでもはっきりしていて、それをたたけばいいのだ。影で実直に支えている誰かが見放すまでは、そうして集団的引きこもりもたいな精神に逃げ込んでいられる。私はそれを幸福とは思わないが、楽ではあるだろうな。


16-06
第2新卒

 朝のNHKで、第2新卒(入社後3年以内に辞めて再就職を希望する人)を積極的に採用するという話が出てた。曰く「ただ安定」を求める新卒とは別の判断軸を持っているので、上昇志向や目的意識が違う、と。私はこのニュースが非常に苦々しい。
 NHKで扱うということは、もはや「そんなこともある」というレベルではなく、世の中がすでに変わりつつあるということを示している。全国ニュースがいう「こんな兆候がある」という情報は基本的に遅い。だが、そこらのアホ共はなにもかわらない。就職活動をしている大学生や新人サラリーマンなど、若造ほど年寄り以上に保守的だ。「3年いないとダメだ」「5年10年いないと市場価値がつかない」と念仏のように繰り返し、「落伍者」を常に探している。くだらん題目を並べて、くだらん基準を絶対視して、「落伍者」を叩くことが、自分の「優越」と自分が「正当」な選択をしている証と思っている愚かな人間ばかりだ。いわゆる「宗教的人間」ってやつだ。それを連想したからこそ、だからこそ苦々しい。
 別に私は第2新卒でも、第2新卒だったわけでもないのであしからず。ただ人生の選択についての「盲信的人間」が嫌いなだけですよ。その定義はおいおい。


16-05
PC初心者2

 誰でも最初はいかなることに対しても初心者である。当然ながら、何事も知るまでは知らない。自分が無知であるという認識さえなかったりもする。もちろんPCに対してもこれは言える。私とて、PC9801RS21からPC歴があるが、出来ることも知っていることもたかが知れている。が、それでも初心者の行動にはときどき度肝を抜かれることはある。


 大学時代、はじめてPCを買ってそしてネット接続もできるようになった知人や友人は、すでにサイトを持っていると知れ渡っていた私のサイトをしばしば訪れたものだった。私のサイトはすべてのページに「戻る」が設定されているので、サイト内部の移動に不慣れな初心者にもわかりやすい、と私は考えていた。が、私のサイトを訪れた後輩が言った。
「晴天さんのホームページ、なんか気が付いたら自動車保険とかクレジットとか、わけわかんないところに行っちゃいますよ」
 当時の掲示板は無料のレンタルCGIで、もちろん広告が入っていた。もっとさかのぼれば、サイトそのものが無料スペースにあったため、ページの一番上には広告が表示されたものであった。が、ネットをやるの当たっては広告なぞは無用な情報。見る必要もクリックする必要もまるでない。ネット広告の中にはろくでもない代物も少なくない。本当に商品やサービスが欲しくても、ネット広告で契約する人は滅多にいない。好奇心であちこちネットを巡回しているときでさえ、広告をクリックする必要なんかはない。見たところでどうせ面白くはない。
 が、ネット初心者にそうした「常識」を求めるのは酷かもしれぬ。けれども、まさか保険やクレジットカードという明らかに私が作ったとも思えない画像広告を目にして、それが「私のサイトの内部」と「外部」との境界という判断がつかないとは思わなかった。


 類似する別の出来事をもう1件。こっちは私にとって実害を及ぼしかねないものであった。
 1998年のこと。ある友人が私の家を訪れた。そして世にも珍しい、噂に聞くインターネットとやらをやらせてくれというので、テレホーダイ・タイムを待ってネット接続した。そして友人は、好奇心のままにネットを徘徊していた。そしてあるサイトにたどり着いた。そこはいわゆる、恣意的なバカサイト。ありもしないことを、公然の事実のように書くという代物。で、そのサイトの中に、こういう記述があった。

「(省略)この生物は、東京都**区**や神奈川県横浜市**区**での目撃証言があるが、未だ未確認である。我々**探検隊は、この奇怪な生物の目撃情報を募っている。目撃された方は**探検隊まで!

 つまり、「木曜スペシャル」のようなノリのサイトである。最後のメールアドレスとて、本当に情報収集を目論んで設置したものではなかろう。が、このページを読んでいた友人はこのメールアドレスをクリックした。メーラーが起動して、サイト管理人のアドレスが宛先となった新規メールが開く。そして友人はいかにも面白そうにそこになにやら書くではないか。
「東京都多摩市**○丁目にて発見。」
 番地までは書かれていなかったが、これは私の住所だ。まさかとは思っていた。私相手の冗談かと解釈した。が、奴め、このまま送信を押すではないか!私のメールアドレスから、私の住所の片鱗を書いた、意味不明なメールを!
 私は怒鳴りつけたい衝動を抑えつつ、なんてことをしやがると詰め寄った。が、彼は自分が何をしたのかまったくわかっていなかった。何しろメールを送ったという自覚さえなかった。貴様のやったことは、私の住所氏名を書いたハガキにわけのわからんことを書いて、どこの誰とも知れぬ相手に送ったのと同じだ、と言ったが理解されなかった。カンベンしてくれ・・・。
 後日、このサイト管理者から「こういうメールが来たが、これはどういう意味でしょうか?」というメールが返ってきた。私から、「私の友人が、貴サイトの『***』のコーナーの『目撃情報』宛にメールを出してしまったようです。申し訳ありません」という主旨のメールを送ったところ、管理人は快く許してくださった。しかし私のメールアドレスからのメールである以上、「友人が・・・」などと言っても通じないことの方が多かろうて。先方に大した不快感も与えなかったようでよかった。


 サイトという概念を捉えるのは、初心者には難しい。だからこそ、妙なところをクリックして悪徳サイトに迷い込み、ブラウザークラッシャーやウィルスを喰らったり、あるいはよくわからないまま住所やクレジットカード番号を入力してしまったりするような、信じがたいことが起きるのであろうか。


16-04
PC初心者1

 誰でも最初はいかなることに対しても初心者である。当然ながら、何事も知るまでは知らない。自分が無知であるという認識さえなかったりもする。もちろんPCに対してもこれは言える。私とて、PC9801RS21からPC歴があるが、出来ることも知っていることもたかが知れている。が、それでも初心者の行動にはときどき度肝を抜かれることはある。


 大学時代の半ば頃、私はサイト作りをはじめた。具体的には1999年のことである。パソコンやインターネットがかなり一般的になってきた時代ではあるが、まだまだパソコンを持っていない、あったとしてもネットに接続していない、PCやネットに触ることも少ない大学生が過半数を超えていたであろう時代だ。
 別に私は知人友人にURLを熱心に触れ回ったりはしていなかったが、「晴天の野郎が、ホームページとやらを開いたらしい」と人づてに聞いた友人から、URLを教えてくれと言われたことがある。隠す理由もなかったので、私はURLを書いて渡した。
 それから数日後、その友人から電話がかかってきた。当時彼はパソコンも携帯電話も持っていなかったので外でURLを試し、帰宅後に自宅から掛けてきた。
「お前のホームページだけどよ、大学のPC室でアドレス打ち込んだけど見られねーよ。どうなってるんだ」


 最初はURLを書き間違えたと思って、1文字1文字確認した。が、合っている。
 次に「~」の記号を「〜」か何かと間違ったのではと、それも確認した。シフトキー押しながら、Backspaceから二つ左のキーを押したのか、と。これは友人をバカにしたわけではなく、私自身かつてそういう間違いをしたからだ。が、それも間違っていないようだ。
 ではいったい何がわるいのか。私はURLをどこに打ち込んだのか聞いてみた。友人は私が何を聞かんとしているのかもわからなかった。「ブラウザ」というコトバも知らないような初心者である。しかし私がこうしたか、こういうふうにやったか、と聞いたら、「インターネットエクスプローラーというのを起動させて、そこにアドレスを打ち込んだ」と言う。間違っていない。が、友人は続ける。「Yahooを開いて打ち込んだが見付からなかった。exciteでも見付からなかった」と。



 何ですと!ポータルサイトの検索欄にURLをそのまま打ち込んだというのですか!おそらく彼にとって「インターネットをやる」ということは、「ポータルサイトに検索語を入力する」ということと同義だったらしい。もしかすると、Yahooやexciteがネット上に存在する1サイトに過ぎないことも知らず、これらの大手ポータルサイトをインターネットそのものと捉えていたのかもしれない。



 今の検索エンジンならば、URLを検索ワードとして打ち込んでもそのサイトにたどり着くことはできる。が、当時の検索エンジンにそのような気の利いたマネはできなかった。それどころか、推薦を受けて登録されたサイトしか表示しないYahooは、検索としては当時最も使えない代物のひとつだった。ロボットを巡回させるタイプとて、今のgoogleのように精力的な情報収集はしていなかった。したがって私のサイトは、URLはもちろん、サイトタイトルを入れてさえ、検索結果として表示されることはなかった。だからURLを教えたのだ。



 ブラウザのアドレスバーに直接URLを打ち込む。こういう発想そのものがない人間が、URLを聞くとは思わなかった。家にネット接続したPCがない人間と言えども、URLを聞いてきた以上は、この文字列をどうすればいいのかわかっているのだろう。そう思ったのは私の過大評価であったようだ。1999年の思い出深い出来事であった。今の初心者は、例えURLを聞いてそのままgoogleの検索欄にぶちこんでも、それで済んでしまうから。それはそれで、いいようなわるいような・・・。 


16-03
「ИНКの道路すなわちムダ」

 私はИНКが嫌いだが、ИНКに道路を造ることそのものがムダであり政治的腐敗だ、というがごとき発想は、ひどい偏見だと断じたい。私が事情を知っている釧路について触れるが、確かに近年郊外〜湿原方面に建設されている道路はかなりの部分重複する。偉大なる大湿原に徒に一筋の傷が入ったとの声さえある。さすがに重複箇所が近すぎて、経済効果もほとんどまったく見込めない。それでも使う人はいるし、新しい観光ルートや流通路にもできなくもないが、別の道路と重複してまで観光資源(自然保護という理想論ではなく、あえて経済的観点で語る)たる湿原に傷をつける意味があるとは思えない。30年前の計画をそのまま見直さずに、財政事情・流通事情が変わり、似たルートの高規格道路の外環道路が計画・着工されてもそのまま作られた代物だ。計画は見直さない、一度為した仕事を否定しないという、役所の内部価値ゆえのことか。
 だが一方で、私は道東自動車道についてはムダとは思わない。「北海道」で「高速道路」というと、なぜ人々は即座にムダとしか言わないのか。道東人や北海道人が言うのならばともかく、釧路が太平洋側にあるのかオホーツク海側にあるのか、人口が5万か40万かも知らないような内地の人間が、「キツネと熊しか走らない」とか侮蔑的な表現のみによって「ムダ」と断じきるのはいかがなものか。だがこういう内地の世論が案外力を持つ。が、こういう内地の人々は現地の道路事情をまったく知らない。道東が高速道路真空地帯しかないことさえ知らない。釧路に高速道路が存在しないと言うと、大抵「え!?そうなの!?」と驚く。そんな人間が熊と狐がどうだの言うのはどうか。確かにカネがないこの時代、全国に整備されているのに道東にはない、という理由によって高速道路を建造する必要は必ずしもない。工事の優先順位や道路の体裁(例えば高規格道路化)などは見直さなければならないかもしれない。しかし道路すわなちムダというのは、あまりにも粗末だ。
 どこかで似たようなことを書いたが、再びそうした言を聞いたので、ちょっと書いた次第である。 


16-02
用心するのは大変結構なことだ

 先日、空港で金属探知器をくぐったときのこと。私のカバンが引っかかった。昔は預け荷物に特殊警棒が入っていたためにしょっ引かれそうになったことがあったものだが、今はさすがに空路では何も持たない。まして手荷物にはT字剃刀1つ入れやしない。だが今回は、配線の山が怪しいと見られたようだ。ノートPC用のコンセント、USBケーブル*2、IEEE1394ケーブル*2、USBのxDピクチャーカードリーダー、プレゼン用Sケーブル+オーディオケーブル、さらに携帯電話の充電器。銅線だらけだ。X線を通したらさぞかし怪しげに見えたことだろう。あるいは、銅線だらけで、ナイフがあっても見えないと判断されたのかもしれない。というわけで、カバンが再検査されることになった。


検査員「お客様のお荷物にコード類は入っていますか?」
晴天「山ほど入ってます」
検査員「中身あらためさせて頂いて、よろしいですか?」
晴天「どうぞ」
検査員「中身あらためさせて頂いて、よろしいですか?」
晴天「ええ、どうぞ」
検査員「ッ・・・中身あらためさせて頂いて、よろしいですかッ!!」
晴天「どうぞどうぞ」


 見るならとっととしてくれ。やましいことは、今回に限ってはない。が、どうも検査員は同じことを繰り返し、だんだん焦っているように見えた。どうやら検査員は、私にカバンを開けて欲しいのだろう。客の荷物を検査員が直接開けてはいけないという規則でもあるのかもしれない。だったらそう言ってくれ。「え?私が開けるんですか?」と言っても返事がない。返事がないが黙っていても何にも進展しそうにないので、私がカバンを開けて、配線袋を取り出して見せる。すると、検査員は無言で配線袋とカバンを別々にして、あらためてX線に通した。
 そのとき、別の検査員がこの検査ブースへ、警備員を連れて急いできたのに気づいた。もしかして、私が暴れ出すとでも思ったのですか?結局、私のカバンと配線袋は別々に再検査を受けて、何事もなくOKが出た。すると、検査員に「もういいよ」と言われて警備員はどこかへ戻って行った。検査員は「よろしいです」の一言だけで、いつも言うような「ご協力ありがとうございます」とも「忘れ物にご注意下さい」とのコトバもなかった。


 もちろん剃刀一本でハイジャックが出来てしまう以上、検査を厳重にするのは当然のこと。検査の煩雑化に伴う苛立ちからか、空港職員への暴行が相次いでいる中、警戒をするのも自然なことだ。だが、カバンがX線に引っかかったときに、私自身がカバンを開けて見せろと言われればすぐに従ったし、私がすぐにカバンを開いたら、検査員は警備員を呼ばなかっただろう。検査員が求めるようにしない(ように見えた)私は、不敵な挑発的な態度をとる不審者にでも見えたのか。
 マニュアルが悪いのか、検査員の要領がわるいのか、客自身の手によって手荷物を開けて見せて欲しいのならば、そう言って欲しいものだ。「あらためさせて頂いてよろしいですか」というのは、必ずしも客自身がカバンを開けて見せろという意味ではないはずだ。少なくとも私は、検査員が勝手にカバンを開いて見るものと解釈した。私の解釈が間違っていたとしても、私が「どうぞ」と言っている以上は、非協力的な姿勢をとっているのではなく、意思疎通に問題があったとみるべきだ。私を難しい言い回しがわからないバカな奴だと思ってもらっても結構だ。執拗にまったく同一のセリフを連呼せず、少し言い回しを変えてみるということは出来ないのか。
 この一件以来、私は空港で「手荷物をあらためてよいか」と言われたら、すぐに自発的にカバンを開けるようにしている。どこの空港でも、「あらためてよいか」とは言われるが、「開けて見せろ」とは言われず、それでいて検査員自身がカバンに触れようとしないからだ。が、私自身にカバンを開けさせて、もし中に銃やナイフでもあって、私が武器を取りだして私が暴れ出したらどうするんだ。


 大した訓練もしていない臨時雇いのアルバイト職員に、短時間でたたき込める即席マニュアル。アメリカの空港は9.11以来警備を厳重にしたが、低賃金の短期契約職員の質は低く、検査は穴だらけで態度もよくない、という論評をどこかで聞いたことがある。日本も大して変わらないのかも。安全のためならば多少の不便や不快感は甘んじて受けよう。だが、マニュアルや訓練に不備があるのならば整えて欲しいものだ。


16-01
メシ

 私は小学校高学年になった当たりから肉や揚げ物を好んで大喰らいするようになり、中学高校時代は結構デブだったものだ。しかし罵詈雑言で「デブ」と言われたことは数えるほどしかなく、私を一言で言えという質問をしたものならば、例え悪意でも「軍事オタク」とか「右翼かぶれ」とか別のコトバが真っ先に出てきた。が、「痩せている」と言われることはただの一度もなかったし、自分でもそんなことは思わなかった。
 予備校時代に食生活が改善され、体重が10キロ落ちた。大学時代には運動部に入って稽古を重ね、さらにはカネをケチって食生活が地味になった。食事の嗜好そのものがあっさりしたものを好むようになった。そのため高校時代に比べてかなり人相は変わり、「部でデブを挙げろ」「ゼミでデブを挙げろ」と言われて私の名が出ることはなかった。しかしそれでもまだまだ腹は出ていた。デブとヤセの二元論では、もちろんデブに分類される。

 しかし会社に入ってから驚くべき事が起きた。私が「痩せている」と認識呼称されるようになったのだ。そんなことを言われるのは、幼稚園〜小学校低学年以来だ。もちろん私の体型は入社前と入社後とではまるで変わっていない。体重も168cmで65kg程度だ。ただ、周囲にいる人間の多くが、桁違いのデブだった。
 会社に入ると人は運動しなくなり、不規則な生活で不規則な食事をし、カネに物言わせて肉や油ものばっかり喰うようになって太るのか。それとも肥満率全国ワースト1の北海道へ急に移動したから、周囲の平均体重が変わったのか。とにかく回りは、東京の大学時代には30〜40に1人程度の百貫デブが、3〜4人に1人ぐらいの割合で存在した。
 さらに言えば、そうしたデブは私に自分と同じ食事の取り方をするよう強要してきた。自分と同じようにメシを喰わないと力が出ない、仕事ができない、喰わない奴は根性がない弱い人間だなどと抜かしおる。太らせよう、無理に喰わせようという悪意は感じなかった。ただ、彼らの半分か1/3程度しか喰わない私が信じられなかったのだろう。私は長い一人暮らしの中で、小食になっていたのか。しかしそれで力が出ない思いをしたことななく、中年太りの腹も引っ込まない。


 だが、関東に戻ってからは、周囲の体重状況は大学時代並に戻った。小食だと言われたことも、痩せていると言われたことも、関東再進出以来一度もない。北海道も東京も、私が帰属する場所などたかが知れている狭いものだが、メシや体重の在り方に於いても、私は既に北海道にはそぐわないのかもしれない。などというのは、あまりにも郷里をバカにしすぎか。


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