last up date 2004.07.04
17-10
ウズベキスタン等で発掘調査を行っている加藤九祚(かとうきゅうぞう)氏の著書を、ネット通販で検索したら、「この商品に関心のある人は、こんな商品にも関心を持っています」の欄に、「ネギま」や「空の境界」があるのはいかがしたことか。私はまだ注文していないのだが。
17-09
メモ蔑視
メモやノートを取ること、つまり文字で何か気になったことや重要な事柄を記録することを、蔑む声はしばしば聞く。曰く、メモを取っても役に立たない、講義は頭の中に書くものだ、ノートに書く奴はバカだ、いざというときにメモを読み返しているヒマはない・・・等々。これらは大学の教員や会社の教育担当でもそんなことを言う奴はいる。ある程度はその通りだが、メモを否定することはできない。
結論から言おう。メモを見ることは時には格好が悪いし、必要ならば情報はすべて頭の中に叩き込んでおき、自在に口頭でアウトプットできるようにしておく必要はある。だが、重要な情報を忘れたり、伝達すべき事を伝えられないよりは、格好悪くてもメモを見て確実を期した方がいいのである。客に何か聞かれて即答できず、手帳を引っ張り出すのは格好わるい。しかし答えられないよりはいいのである。重要な社内連絡でも、聞いてそのまま漏らさず伝えられればcoolだが、そんなことよりも確実な伝達の方が重要である。機械の操作や非常時の対応などは、メモを見ているヒマはない。しかしそれでも、間違って破滅的なことをしてしまうよりは、事前にメモを見てでも確実を期した方がマシである。緊急時や寝不足などによる低知覚状態では人間の判断力は驚くほど低下する。毎日触っているレバーやボタンの使い方さえわからなくなることもザラだ。そういうときに、文字でも何でも見て少しでも確実を期すのは最善ではないが、次善の策だ。
さらに言えば、情報を頭の中に叩き込んでおくためにも確実なアウトプットを出来るようにしておくためにも、一度メモをとっておいて後で情報を整理し、必要ならば調べ上げ、理解し、そして頭に叩き込むのが合理的だ。メモはただ書いて、あとは見ない、差し迫って情報が必要なときまで見ないというものではない。徹底的に情報を頭に叩き込むためのものでもある。教員や会社の教育担当、先輩などからちょっと耳で聞いただけで、完璧にその情報をモノにできる奴はなかなかいない。
メモをとらないことで自分は出来る奴だとの意識に浸ったり、あるいは聞いたその瞬間には理解しているつもりの奴は多い。必死こいてメモとるのはアホだ、自分はそんな必要ないと思うのも簡単だ。それですべての情報を頭に網羅していれば天才だろう。しかしこういう奴に何かを尋ねて、的確な答えが返ってくることは滅多にない。下手をすると、連絡があったことそのものや、指摘されたことそのものをも忘れているなんてこともザラだ。内容を覚えていたとしても、数字や固有名詞といったポイントや、頭に入れることが難しいはじめて聞く類の専門用語に至っては、正確にインプットするのが難しい。重要な数字や人の名前を間違えたり、自分の会社の専門用語を間違えたりするよりは、メモをとった方がマシなのは言うまでもない。
全情報を一字一句正確に書く必要は滅多にないが、自分の仕事に対してプロであればあるほど、メモは重要になってくる。例え一回ですべて聞いて覚える自信があっても、間違えやすい、忘れやすい、間違えてはならない点というものがある。そこはピンポイントでメモをとる。自分の仕事に誠実であればあるほど、漏らしてはならない点は確実に記録するはずだ。
私は外語に関わっているから、この点に関して通訳を挙げる。通訳はもちろん徒手空拳で、耳と舌だけですべての仕事をこなす能力が必要だ。もちろん文字ではなく音だけで仕事をしろと言われたら、出来なければならない。だが一流の通訳ほど、小さなメモ帳と短い鉛筆を持ち歩き、メモを大切にする。メモを許される場ならば、固有名詞、数字、専門用語はメモに落とす。それが最も確実な仕事だからだ。
例え事柄を忘れて、外国人に外国語で何度も聞き返していても、日本語しかわからないクライアントは通訳がcoolな仕事をしていると思いこむ。話ながらメモを出して、書いたり読んだりしている通訳はダサいし、頼りない感じがする。メモをとる奴はアホだ、メモなしですべてをこなすのが一流だという妄想は、一般世間の間に蔓延している。メモさえなければ格好良く仕事をしているイメージを与えられる。だから、徒手空拳で仕事をし、聞き逃しても勝手に情報を取捨して知らないふりをし、何度も聞き返すことも厭わず、日本人クライアントへの体裁だけ整えるような輩も少なくはない。
だが、通訳の仕事は、適確にお互いのコトバを伝えること、齟齬がないよう確認をすることが肝要だ。coolに仕事をしている格好をつけることは、大して重要ではない。これもメモをとることがみっとみない半人前のことだというイメージが世間に溢れているのが困りものだ。
何かを学ぶに当たって、文字を介さずに音だけで覚えることも時として重要だ。メモなしに、よどみなく情報をアウトプットすることも必要な能力だ。文字なしにすべてをそらんじる訓練も場合によっては必要だ。だが、メモは必要なときにも欠かすことができない。メモなしで仕事をする為の事前準備にも、メモは役立つ。そして、メモなしで情報を間違うよりは、メモで確実を期した方がマシである。そんな当たり前のことがなんでわからないのか。時々、辟易しますよ。
まあ、学ぶ側にとっては聞いていればその瞬間はわかったつもりになるから、メモをとる必要を覚えなかったりするし、教える側にとっては学生や後輩が自分ではなく紙に相対しているような印象を受ける。それに、メモやノートをとっただけで満足して、その活用方法に苦心する奴は少ない。取ったままで読み返すことさえせず、いよいよ必要になったときに軽く読み返すぐらいしかしない。そういうバカがいるから、ノートやメモは蔑まれるのかもしれない。
17-08
死ぬなら今すぐ黙って死ね。生きるのならば、黙って生きろ。
とまあ過激なタイトルをつけてしまったわけだが、会社で同期がここ数ヶ月に渡って、一日60〜70回のため息をつく。数えていないがもっとかもしれない。誰だって疲れればため息ぐらいつきたくなるが、ちょっと何か意見を求められるたび、なにか頼まれるたびにため息つくのはいかがなものか。ケンカ売っとんのか。本人にはため息で「お前の頼みなんかだりぃ」と示しているわけではなく、本当にただただすべてが面倒くさいのだろう。短からぬつきあいでそれは思う。
さらには、「自分はもう十分生きた」「昔はどこそこで楽しい思いしたから、もうどうでもいい」「先なんかどうだっていい」「2X年でもう十分だ」と一日に10回以上聞かせるのもどうか。人間落ち込むこともあるし、希望も目標もただ惰性的に生きる気力さえなくなることもある。死にたくなることだったあるだろう。だが、毎日親でも兄弟でも親友でもない私に聞かせるな。
ただ陰鬱なだけならばまだしも、こいつはしばしば攻撃的にもなるからやっかいだ。職場の休憩室で棒キレ振り回すのは常軌を逸している。壁は殴るし机は蹴る。ストレスに耐えかねているのならば、人目を忍べ。しかしこいつめ、同年代の人間の前ではかまわずモノに当たり散らすが、上司がいるところではまったくやらないのだな。まあそこまでバカじゃないのは結構だが、いっそのこと主任の座っている机でも蹴りはしないモノか。
さらに言えば、こいつめ私が座って仕事をしている机を、紙束でぶっ叩きやがった。これは普通、ケンカを売っていると言う。私も、大して知らない奴にいきなりこんなことされたら怒鳴りつけるぐらいはするだろう。だが、私は1年以上の経験で察しは付いている。何かを思い出してキレて、思わず手に持っていた紙束をたまたま目の前にあった私の机に叩きつけたとき、彼の目には机の縁しか見えていなかったであろうことが。あまり使いたい言葉ではないが、彼は極度の視野狭窄だ。彼は決して私を攻撃しているわけではなく、自分の行動の結果私が怒るとさえ思っていない。
こういう奴が1人いると、士気が下がる。陰鬱な空気が支配する。皆大人だから、迷惑でもそこいら蹴っていても、何も起きていないようにしているが、彼をよく思っている人間は存在しない。黙って死ぬか、死なないまでも去るか、あるいは黙ってストレスや悲嘆をなんとかコントロールして生きるか、どれかはやく態度を決めて欲しい。
17-07
貧乏根性
私には貧乏を笑えない。「貧乏は個人の病だ」というのはアホな考えだ。まあ確かに、働かない、勉強しない、気に食わなければ殴る、飲む打つ買うが生き甲斐で借金三昧・・・などというクズが仕事もなく貧乏暮らしをするのは、個人の責任かもしれない。が、どれだけ努力してもしなくても、人はいつ失敗するか貧乏になるかわからない。あるいはチャンスさえ巡ってこないかもしれない。当たり前のことだ。そこらの貧乏人を見て簡単に「自己責任」論で片づけるなど、19世紀の発想だ。だから生まれついての大金持ちでもないが生まれついての貧困層でもなく、東京の私立大学に通うことが出来、大学時代もそれ以降もパソコンやテレビに囲まれ、携帯電話を持ち、それなりに暮らすことが出来ている私は、貧乏人を簡単に笑うことは出来ない。
だが、貧乏根性を笑うことは出来る。
私はそれなりにモノを持っている。携帯MP3プレーヤー、デジタルスチルカメラ、DVD-RAMビデオレコーダー、フルフラットTV、デスクトップPC2台、B5ノート1台、液晶ディスプレイ2台、CRT1台・・・これらのものは、決して安いものではないが、日本で「人並み」の生活をしていればそれなりに買えるものである。だが、こういうものを見るたびに人を金持ち呼ばわりする奴には辟易しますな。
私のこうしたモノを見るたびに「金持ちですね〜」「贅沢しているなぁ」と感嘆する人は少なくない。中には私がすばらしく恵まれた人間であるかのように、あるいは私が金持ちだという前提に於いて、羨望や嫌味を込めたコトバを吐く奴もいる。だがしかし、こうした言動をする連中のほとんどは私と同レベル、あるいはそれ以上の所得を持っているのだ。そういう人々に、たかがデジカメやパソコンぐらいで、妙な感慨や悪意を持たれたくはない。具体的には、毎日外のメシ屋で600円700円の定食を食っている奴に、私が毎日昼食を105円のパン1つか2つで済ませてひねり出したカネで買ったデジカメをどうこう言われたくない。私よりも月に10万以上多く収入を持つ人に、DVD-RAMビデオごときで贅沢していると言われたくはない。
私は頻繁には飲まないし、昼メシは105円パン、飲み物は持参、朝晩は自炊、休日は3食自炊、菓子は買わない、タバコはやめた、車は関東に再進出して以来持っていない、アパートはオンポロ、電話はかけずメールで済ませる、まして性的サービスや酌にカネを落とすこともない。こうして捻出しているカネを、多少の電気機器に使ったからナンだというんだ。
私のような一介の無名市民でも、ちょっとした工夫でかくも電気製品を揃えることは出来る。日本はなんだかんだ言って物質的には相当豊かな国だ。私は日本の精神的風土には好きになれないところも多いのだが、物質的な豊かさには多大なる恩恵を受けている。しかし人々には貧乏根性が染みついているらしい。車を買い、携帯電話を持ち、自腹で英会話に通い、仕事帰りに毎週生ビールをあおり、たまに国内外へ旅行に行き、パソコンやDVDプレーヤーも持っている。そんな人間でも、自分が金持ちだという認識はなかなか持っていない。確かに上を見ればきりがないので、金持ちと思うのは難しいかもしれない。だが、貧乏人と思うのはいかがなものか。
貧乏人との自覚をなんとなく持っている連中は、凄まじい妄執をさも自然な発想のように抱いている。例えばこんな感じだ。「自分は思い通りに好きなことをできず、いいものを買えず、贅沢もできず、くだらない仕事に従事し続けなければならない貧乏人である。自分が貧乏なのは誰かのせいだ。どっかでカネという物質を隠匿している奴らがいて、そういう奴のせいで自分達にまでカネが回ってこない。カネ持ちなどというのは悪辣な手段で、あるいは先祖から受け継いだ財産でのうのうと好き放題しているクズだ。カネ持ちなどろくな連中ではない」と、極めて簡単な世界観を抱いている奴はいるものだ。しかもこれが「金持ち」を除いた万人共通の発想だと思いこんでいる奴って、意外にいると経験上感じている。こうした連中は、自分と相対している他者を「同じ貧乏人」か「金持ち」かにラベリングしたくてたまらないらしい。だから私がデジタルカメラの1台やそこら見せたぐらいで、「晴天の野郎は、自分とは別世界の人種だ。クソ金持ちだ」と思いたくなるのかもしれん。だが、私は僻まれるほどの金持ちではないのだが。まあ、「自分が恵まれていない、他者はみんな恵まれている」と思いたい奴は少なくない。
「自分は不遇で、他者は恵まれていない」というのは、優劣関係をもたらすからね。「自分は苦労しているのに、恵まれている奴は苦労していない。あるいは苦労も出来ない青瓢箪だ。同じ条件ならオレの方がうまくできる」とか、妄想で他者と自己との関係を捉え直すことが出来るわけで。それは、時代が違うというのに、今の若者である私が現代の産品であるデジカメやパソコンを持ち、(私の居住地では)今や最低級の住宅にも付いている便所・風呂付き住宅に住むことを称して、「今の若い奴はぜいたくだ」と抜かす連中と近い心理なのかもしれん。
私に「今の若い奴は」と言ってくる人々は戦争や戦後に苦労した年寄りよりも、物心付いたときには日本が先進国だった30代の奴の方が多い。彼らが私ぐらいの年頃には、パソコンや携帯電話は普及価格帯になかったかもしれないが、その当時出ていた物品を十分に享受していたはずである。だいたい風呂便所共同アパートなどというのは彼らにとってさえ、親父の世代のノスタルジーではないのか。彼らとて、話を聞いていれば当時の速い車を競って買い、ファミコンやラジカセ、ビデオデッキに囲まれ、AFの35mmカメラも持っていたようだ。これとて特別の贅沢ではなかっただろう。今私が享受しているパソコン、携帯電話、デジカメといった電気製品も、それらとそんなには位置づけは変わらない。さらに言えば、札幌時代に業務命令で持っていたが、関東では車を持っていない。まして趣味で車を買ったことなどただの一度もない。
「オレは貧乏学生だった」「昔は貧乏だった」とノスタルジーに浸るのはまあ、勝手だ。しかし、人を勝手に金持ちと見立てて、勝手にひがみや羨望、さらには優劣意識をも剥き出しにするのはやめてもらいたいもんだね、ほんとに。
17-06
私は酒好きでもあり、猛烈に酒嫌いでもある
私は酒が好きだ。1人で飲むのも、友人と飲むのも好きだ。
まあカネと健康、そして有限な可動時間を潰すことが惜しくなって、最近はかなり控えめではあるが、そういう酒は決して嫌いではない。
しかし私は猛烈に酒が嫌いだ。付き合いで飲む酒ほど益体もないものはない。時間とカネと、健康の浪費だ。
一緒に飲みさえすれば腹を割った、親密になったと勘違いする奴と飲む酒はない。
様々な人間と飲めば、自分が社交的で、情報通になったという気になる奴は危うい。
猥談や色恋沙汰を話せば、秘密を共有した気になる奴など手に負えないバカだ。
仕事の不満や上司部下の批判を、勝手に吐くだけではなく同意を求め、批判や情報を引き出して共有しようという奴などは有害ですらある。
大酒飲めば英雄になれる、気に入られると思っている奴などは死ぬべきだ。
自分と同じ頻度・分量で飲まない奴を腰抜けよばわりするのはまだいいとして、人格の不良と見なすような奴は殺してくれる。
いい年こいて、大学の安サークルみたいなノリを醸し出して、大声張り上げれば誰にでもいかなる場所でもウケると思っている奴など、もはや直視することもかなわぬ。
こういうアホ連中と付き合って、貴重な時間と健康とカネを切り売りするぐらいならば、飲みに行かないことによって蒙るあらゆる情緒的不興を買った方がまだマシである。人生は有限だ。できることは少ない。明日死ぬかもしれない。太く短く生きるにしても、安定して長生きすることを至上目標としても、毎日毎週酒飲んでくだをまいているヒマなどない。まして、仕事をとっとと片づけて何も考えずに酒を浴びまくることを至上の価値とするような家畜と共に行動していては、失うばかりだ。些細な刹那の快楽に価値を見出す家畜的人間は、それでも快楽を得ることはできる。だが、私は苦痛しか得ない。何か出来たであろう時間と有益に使えたであろう時間、そしてもっと良好であったであろう健康までをも失う。しかし飲んだくれる畜生は何も失わない。得るばかりだ。刹那の快楽と、何かを誰かと共有しているという幻想を。私は時間・カネ・健康を失うばかりか、失ったことに苦痛さえ覚える。二重に失う。だから血中アルコール濃度を高めてさえいれば幸せな連中と付き合った結果、身体的にも精神的にも、死ぬのは私が先だ。
飲むのが仕事だ、付き合うのが仕事だと称するのは簡単だ。飲まない奴を社会人として不適格だの、甘いだの称するのも簡単だ。だが、クソ酒で死んでは何にもならない。「付き合い」のために大酒飲んで、社会的に死んでしまってもどうにもならない。私の知人友人の中にも、「飲まないのは社会人として不的確」と言われ、無理して飲んで警察の世話になった奴がいる。直接の知己ではないが、無理に飲まされたあげく、死んでしまった奴のことも聞いている。さらには、頻繁に酒を飲んで付き合っていれば「艱難に堪えて立派に仕事をしている」「上司、先輩、本社、それに取引先にパイプをつくっている」という気にもなれる。だが、飲んだだけで仕事にはならないし、飲んだだけでパイプが出来るなどというのも妄想だ。まあ酒に付き合い、追従を言い、秘密を共有して気になれる奴というのは気分がいい。けどそれだけだ。いざというときに、それだけで便宜を図ってくれるような奴はいない。いたら、そいつもバカだ。酒であまったれた皮膚感覚を満足させるよりは、何かできる、何かをした人間の方が有益なのは言うまでもない。
だから私は、特定の人間以外とは飲まないことにした。「お前のようなクズと生産性にも乏しい時間を過ごして、くだらない奇声を罵詈雑言を飛ばし合い、猥談をおっぱじめれば秘密を共有したかのような気になって、一体感めいた錯覚と妄想を抱く行為に、自分の時間とカネと健康を犠牲にしてまで付き合う気になりません」と言わないかわりに、私はすべての飲みを断ることとした。例え昔のなじみであったとしても、あまり酒は飲まない。ごくごく希に、本当に少数の人間とだけ飲めばそれでいいのだ。などと言ったら、大抵の人間は自分がその「少数の例外」に入ると当然思うだろうけど、そうでない人間に対してはそうではないことを私の態度が示している。
17-05
「なぜならば、そこにカッターナイフがあったからだ」
遠方の県で、小学生女児が同じ小学生女児に頸動脈をかっ切られて殺されたらしい。まあガキがガキを殺す事件は、いつの時代にも、どこの地域でもたまに起きることだ。悲惨な事件ではあるし、家族の心中を察すると涙なしでは見ることの出来ぬニュースではある。が、「最近は異常だ」「最近のガキはおかしい」「最近の日本はおかしくなった」と、「最近」「日本」という限定をつけて驚きを持つ必要はない。
でもまあ、事件を聞いた人々が驚くのは無理からぬことだ。それが自分の子供が通っている学校や、あるいは近所の学校で起きた事件ならば、驚かない方が難しいだろう。で、NHKを回すとインタビューで近所のおばさんか学童の保護者かはしらないが、年輩の女性が話していた。「なんで・・・」と聞いた段階で、「なんでこんなことになったのか」「なんでこの平和な街で」「なんで子供が子供を・・・」というようなことに対して驚きを示したいのだと予想した。が、このおばさん、次に出てくるコトバには私が驚いた。
「なんでそこに、カッターナイフがあったのか・・・」
そういう問題か!!図画工作でもあればカッターナイフや小刀ぐらい小学生でも扱うし、子供が何百円か持って文房具屋に行けばカッターぐらい売ってくれる。拳銃や日本刀じゃないっての!存在に驚きを示してどうする。まさか、カッターナイフがあったから今回の事件は起こった、カッターナイフさえなければ事件は起こらなかった、だから子供に手の届くところに危ないモノを置いてはいけない・・・などというクソ単純な発想ではなかろうな。
武器がなければ人は人を殺さないというのはナンセンスだ。今回の事件に於ける殺人の動機はまだわからない。聞いても理解できるかできないかはわからないし、大した動機らしきものがないかもしれない。が、人を殺す奴は、殺すという強固な意思を持っていれば、どんな手段を用いてでも殺すものだ。例えそれが小学生であっても、だ。私も小学のときに、憎くて憎くてたまらない奴をぶっ殺そうと企んだことがある。もちろん実行はしていないが、その方法は実家の石油ストーブ用のポリタンクから石油をバケツに移して、そのバケツを待ち伏せしてそいつにぶっかけて焼き殺そう、というものであった。子供だからと言って、危なそうなモノを取り上げれば何もしないといわけではないのだ。やろうと思えば、何だって出来る。何者をも省みず、帰り道や逃げ道を考えなければ石ころでも野球のバットでも、なんでも人は人を殺せる。ナイフや小刀や肥後守をとりあげたところで、台所から包丁を失敬すれば十二分に強力な武器が手に入る。武器になるものや、殺人の手段となりえるものをすべて取り上げることのは不可能だ。両手を切り落とすぐらいしかないのではなかろうか。
このように、武器になりそうなものがなければ世の中平和だ、というのは「人間が物理的に可能な行動範囲」と「可能なことならば何でもやる人間の意志」を考えられない人の発想だ。まして、子供が子供を殺したという特異な事件に対して、武器を手の届くところに置かなければそれでいい、というのはあまりにも短期的な考えに過ぎる。それはすなわち武器が手元にあれば、ガキという生物は人を殺しかねないという発想だ。武器を隠すというのは、「うちのガキは最近ヤバい。もう限界だ。今にも人を殺しそうだ」という極限段階になってからとる選択肢であって、まず必要なのは倫理・道徳教育、民事・刑事責任を含めた犯罪がもたらす(情緒とは別の)実際的なデメリットについての啓蒙。そして、ガキが殺人者にまで追い込まれかねない有形無形の暴力、理不尽、抑圧移譲といった問題に常に目を向けること。そして、接触と意思疎通を絶やさないこと。いささか理想論だが、こういった日常的な、ありきたりの努力について言及することなしに、「ナイフがあるからいけない」などと抜かすのは愚かである。
圧倒的大多数の人間は、そこいらに包丁やカッターがあっても、人をぶっ殺さない。人間生きていれば、たまには猛烈な殺意を抱くこともある。目の前に棒でも石でも工具でもあれば、これで頭カチ割ってやりたいと思うことだってあるだろう。しかしそれでも殺人者は、どれだけ社会に犯罪が増えようが、少数者に過ぎない。当たり前のことだ。様々な理由によって、人は殺意を抑えているからだ。しかしその、人を殺さないという「当たり前」の状態を維持できなくなる人間が出現するのは、決してそこにカッターナイフがあったからではない。武器がなければそれでいいなどというバカげた、単純化しすぎた因果関係で物事を捉えて、すばらしい抜本的な解決策を言ったような気になるなど、社会と人類に対する犯罪である。
17-04
他者のルールに乗らない男
先日中途で入った人はすごい。何が凄いといったら単純な能力もトップトラスだが、それ以上に発言の仕方が凄い。他者のルールに乗らない男だ。言い換えれば欧米的なわけだ。どうも日本のごとき国民同士の同質性が高いかのような意識が蔓延る社会では、対人関係の在り方話し方に、既定のルールがあるかのような気になる奴が多い。お互いがすり寄りながら、相手のルールに合わせていく。これが日本的だ。座談会みたいな、秩序があるようで明確な秩序はない状態だ。ただ対立を恐れ、「暗黙の取り決め」「万人共通のルール」があるかのような妄想から逸脱することを恐れる姿勢だ。
私はこうした姿勢が糞嫌いでしてね。結局、何にも生み出さない。結局そんな「暗黙のルール」なんてものは妄想に過ぎず、実際には存在しないのだ。ただ、全体的な流れらしきものが生まれるのを待って、ただ大して自己主張せずに流れらしきものに従う消極的な態度だ。黙ってなぁなぁでやっいれば、自分が「大人な態度」をとっていて、偉大なる何かに参画したかのような気にさえなれるという糞習慣だ。これが生み出すのは「異端」だけだ。逆に言えば、異端の認定と攻撃によってはじめて流れが出来るとも言える。しかしその流れはとてつもなく遅く、尖鋭的な方向には進まず、徹底した行動を追求できず、それでいて一度決まった方向は修正できない。まったくもって糞だ。
だが、件の男は凄い。ルールの破壊者であり、創造者でもある。議論の仕方をわかっている人間だ。数カ国語ものコトバを出来、商社にも関わっていた人物だからこそ、か。この人物が、わがセクションにいかなる影響を与えるか。とても楽しみだ。そして彼の姿勢は勉強になると同時に、勇気づけられる。
17-03
紛争解決請負人
シエラレオネや東ティモールで紛争問題に当たっておられた伊勢崎賢治氏は次のような言う。
NGO活動はビジネスライクでなければならない。
「感情でやる」「タダでやるボランティア」「人道」などという御旗は自己完結的な甘えを生むだけ。
プロとしての仕事が必要、と。
巷には、ボランティア=タダとか、カネをもらってはダメだとか、合理性より人情とか寝言が蔓延るが、氏のようなつわものがそうした声に冷水ぶっかけるような発言をされたので、なんとも痛快である。
17-02
SD-RAMの種類ではない。
Disarmament武装解除
Demobilization動員解除
Reintegration職業訓練
17-01
何があったかではない。どんな精神風土だったかが問題だった。
札幌を離れて1年ちょい。もう言ってもいいだろう。私がいた札幌の某支社はとことんクズだった。別に侮辱されたとか、仕事を押しつけられたとか、休みがないとか、過酷な目標を設定されたとか、そういうことを言いたいわけではない。あまりにもいた人々がバカだったことが苦痛であり、耐え難かった。自信をもって具体例を示して言える。私よりも札幌の連中の大半の方がバカだったと。
まあ字を書けない読めないとか、接続詞を使って会話を出来ないとか、とにかくものや世の中を知らないとか、精神が魔術の園にある・・・などということは、何度も書いた。これはこれで、こんな連中と何十年も一緒に仕事をすると思うと絶望を禁じ得ない事象だが、もっと笑えないレベルでもバカだった。それはコンプライアンスの問題だ。具体的な物証と共に漏洩したら、もしかすると**社バッシングが始まりかねないとんでもないことが恒常的に行われていた(そのうち世間に知れ渡るだろう)が、それについてネットで書く度胸はない。もっとくだらないレベルのことを書こう。
札幌支社には企業防衛という概念がなかった。社員にも、自分のメシと社会的地位を保証する会社を守ろうという発想がなかった。不正と言えども利益を得るためのものだったら、私もそんなには絶望を感じなかったかもしれない。なぜに自分で自分のクビを締めようと思うのか。
例えば。1つだけ例を挙げよう。会社から帰ってCATVでアニメを見ていたある日、携帯に電話がかかってきた。わりと遠い営業所に配属された、ちょっと知っている奴だ。少し酒飲んだぐらいで親密になったと勘違いしている類の愚図だ。で、奴の要件はとある情報を教えろ、というのだ。これは仕事ではない。奴の要求を要約すると、公表日よりも前に内部情報を外部に漏らす為に教えろ、というものであった。しかもその情報は私の部署で扱っているものではない。隣の部署で扱っている情報だ。私は「**課のオレに聞かれたってわからねーよ」とやわらかく断ろうとしたが、奴は「盗み見ろ」と言うのだ。あのねえ。それは背任というのですよ。情報の用途によってはインサイダー取引とかもかかわってくるかねえ。かっぱらってコピーを取ったら窃盗もつく。それをやれというのか!
奴が確信犯(この場合は、犯罪とわかっていて為す罪の意)であったのならば、別に大して絶望もせずに然るべき処置をとった。が、奴は自分のやっていることにまったく無自覚なのだ。誰に教えてくれと言われたのか知らないが、同郷のよしみとか、大学時代の先輩後輩とか友情とかいう名の下に、ちょっと頼まれたからちょっと一肌脱いでやろうという程度の認識しかないのだ。私は「んなことできるか!」と強く拒絶したが、奴は私を劣った人間と扱いはじめた。ようするに、こうやって盗めとか猿知恵を伝授し(例え盗むにしても、私が考えて盗んだ方がうまくいくようなレベルのものだ)、見付かるわけがねえとか、何も起きないとか大丈夫だとか・・・とにかく私が言われたことも出来ないような能力欠如者であり、ありもしないことを恐れるような迷信的な恐怖心に震える小心者で、自己の保身だけを図る狡猾な人間として誹謗し、自分が正義かつ有能な人間であるかのように喧伝ぶってきやがったわけだ。
この電話の半年後、奴がどっかのビルで突っ立って、警備員をやっているのを見かけた。