last up date 2004.07.24

18-10
極端結構

 例えば、「りんごが好きか、みかんが好きか」といった質問をされたとしたら。どっちかをよほど強烈に好きな好きな人間はともかくとして、どっちが特に好きでもない人は、どう答えるだろうか。人にこの手の質問をされて、「どうでもいい」「どっちでもいい」と応えるのはコミュニケーションの放棄に等しい。いや、放棄したいのならば構わないが。
 ハッキリものを言いたがらない人には、こういうどっちでもいい質問に対して、明確な応えをしたがらない人が少なくなかろう。しかし、日本人やカンボジア人、アフリカの少数部族などの例外を除けば、世界の多くの民族ではハッキリしゃべらない奴をバカを見なす。「どっちでもいい」「どうでもいい」としか言わない奴を、しゃべることも考えることもできない、頭の鈍い愚鈍な猿と見なす。こんな受け答えをしていては、「愚鈍な日本人がニヤけていたっけ」という程度の記憶が微かに残るぐらいで、人々から関心さえ払われなくなる。義務と憐憫以外では、話しかけさえされなくなる。
 55:45のようなどっちとも言えない状態でも、「どちらか」と問われたら、みかんならばみかんと明瞭に応えた方が、よほどマシだ。ハッキリ言うことにはリスクが付きまとう。自分があらゆるフルーツの中ではみかんが何よりも好きだと必要以上に大きく捉えられ、いつも「みかん好き」として話題のネタになり、客に行ったらみかんを用意され、仲間内で「ミスターみかん」と呼ばれるようになる危険性はある。が、それでも「どっちということも……」と言うよりはマシである。少なくとも、覚えられる。そして、コミュニケーションの糸口にもなる。


 確かに、どうでもいいことを1つだけハッキリ言って、何かの権化のように見られることはしばしば不愉快だ。これを恐れている、あるいは避けたい日本人は結構いるのではないか。何かを強く、明確に主張すると、他のことを考えられない、違った視点を持てない、視野狭窄の単細胞野郎と見なされかねない。日本では、1つを強く主張する人間がバカな視野狭窄で、黙っている人間や「あれもよし、これもいいね」とすべてに対して割と肯定的なことを言う人間が、物事をよくわかっている冷静な分析眼を持つ人間と見なされがちである。私は強く主張することによって必要以上にバカと見なされ叩かれることが多かったし、1つの説を述べただけで、他を顧みる能力がないバカ野郎と見なされることほど不愉快なことはなかった。だからこそ、私にも1つを強く、明確に述べることを避けたい気持ちはある。
 が、非日本民族と話すときは別だ。私は何かの権化と見なされるリスクよりも、物事を考えられない、しゃべることも出来ない、愚鈍なアホな猿と見なされることの方が怖い。黙っていても、あれもいいこれもいいと言っても、誰も広い視野と冷静な分析眼を持つクールな奴だなどと思ってはくれない。主張して、発信して、ぶつかり合ってはじめて、こいつにはしゃべる能力がある、こいつには考えがある、多少は知っていることがあるとわかってもらえる。
 別に日本のような座談会が悪い、劣っているというわけではない。労働市場も、モノやカネの流通も、通信も、全世界規模になっている今、その気になったら闘う文化に沿って発信することが出来るようにならないと、生存することも難しいということだ。どちらのやり方を信奉するかではなく、いざとなったら出来る技術として。


18-09
あ?は?え?

 「あ?」「は?」「え?」と聞き返すのは止めよう。自戒も込めて。本当にコトバが出ないぐらい驚いたときや、相手を挑発したいときは別に構わないが、さして意味のない短い音だけで何かを示そうとするのは無理がある。相手がこちらの意図とは全く違った意味を勝手に見出すかもしれない。
 私は耳があまりよろしくない。精密検査で、特定の周波の音を聞き取る能力が、通常の半分しかないとわかっている。そのためか、他者の発言を聞き取れないことはしばしばある。そういうときは、もちろん聞き返す。わかっていないことに、肯定めいた返事をするのはトラブルの元だ。だが、「あ?」「は?」とだけ聞き返したら、しばしば「何言ってるんだ、お前」「二度とくだらんことを言うな」という意味で私が「あ?」と言ったと相手に解釈されたことがある。こうなっては、「聞こえなかったんだ、もう一度言ってくれ」「今何と言ったんだ」とコトバで聞き返しても、私が「黙れ、この野郎」と圧迫してきているようにしか思えないらしい。
 そして私自身も、誰かに「はぁ?」と間の抜けた音声を返されたら、すげー腹が立つ。例え悪意がなくても、だ。やはり、意味がはっきりしない短い音で、相手に自分の意図を伝えようとするのは無理がある。「聞こえなかった、もう一回言ってほしい」「何をバカげたことを言っているんだ」「お前はしゃべるな」など、様々な意味を解釈することが出来る。「あ?」「は?」「え?」という聞き返しは、相手が自分の意図のみを解釈するに決まっているという傲慢がある。他者からのアプローチに対しては、なるべく明確なコトバでもってレスポンスしたいものである。 


18-08
天然ウラン

 関東の今年の夏はクソ暑い。1996年4月に東京に引っ越して以来、札幌を除けば今年ですでに関東8年目。ここまでクソ暑い年はなかった。クーラーをほとんど付けず、予備校時代の電気代は数百円/月。大学時代も訪ねてきた後輩に「電気代払いますからクーラーつけてください」と懇願されてくらいだ(以来、来客時にはクーラーをつけるようにした)。が、今年はクーラーを四六時中つけている。家で勉強にならない上、体力を消耗する。パソコンにも悪い。
 というわけで、私に限らず、今までクーラーをあまり付けていなかった他の家庭でもクーラーを使い、エアコンがなかった家で新規購入したケースも増えていることであろう。新聞によれば、クーラーの売れ行きは好調で、前年比はかなり伸びそうとのこと。これは電力消費が増えますな。去年は、原発がトラブルによって全基稼働停止し、解体寸前の老朽火発まで復帰させた程だった。が、今年は原発が稼働しているから、電力会社が需給バランスを読み間違えない限りは、安定した電力供給は大丈夫だろう。


 しかし原子力発電も考え物だ。この際、危険性や核廃棄物の行方については考えない。ここで問題にしたいのは、天然ウランの埋蔵量だ。天然ウランは石油以上に消費量に対する埋蔵量が少ない。本来なら、空母や潜水艦ごときに使っていられるほど潤沢に存在するものではない。しかも中国、ブラジル、インドなどで次々と新規原発が建設されている。短期的に巨大な電力を得るには、原発以外の選択肢は存在しないからだ。一方でドイツが原発全廃を決めたのは、必ずしも安全性や環境保全の観点で決定されたわけではなく、2030年頃には天然ウランは枯渇している蓋然性が高いという長期的な目算も働いている。
 天然ウランが枯渇した後はどうなるのか。天然ウラン埋蔵量が今後飛躍的に増加する見込みは、ほとんどない。技術革新によって未知の大ウラン鉱脈が新たに発見されでもしないかぎりは、天然ウランだけでなく、プルトニウムをも活用しなければ原子力発電はなりたたなくなるは必定。


 しかし世の中は「原子力」「プルトニウム」と聞いただけで拒絶反応を示す。冥府の神プルトンの名を持つプルトニウムは、どうしても破滅的なイメージがある。長崎型原爆もプルトニウム爆弾だった。兵器というイメージも強い。(軍需と民需の区別が可能かどうかは別として)非軍事用途の原子力発電とて、スリーマイルやチェルノブイリの例を引け合いに出すまでもなく、生物にとって破滅的な危険をつねに纏っている。私も原発の近所には住みたくない。いや、離れたところに住んでも、事故の際の被害は免れ得ない。可能ならば、代替発電を発達普及させて、稼働している原子炉をすべて安全な方法で葬り去りたい気持ちはある。
 が、実際はどうだろうか。効率の悪い水力・地熱・太陽光発電で電力をまかなうのは、よほどの巨大事業でインフラを再整備しなければ不可能だ。かなりのカネと手間がかかる。日本にはドイツのように、本気で原発を全廃して現実的なオルタナティブを模索する覚悟はあるのか。こんな計画を推進し得る政治勢力もなければ、政治に原子力政策転換を求める国民の声もないに等しい。結局、「原発」と聞けば「怖い」「危険だ」「お国も電力会社も、なんか信用できない」とか情緒的に思う声はあれども、代替案を展開する努力はろくに為されていない。
 原子力発電は一民間会社の単なる営利事業ではない。当事国の国策であるばかりか、原子力技術や天然ウランの供給、核燃料の加工・再利用・廃棄までをも含めたすべてのプロセスに於いて、原子力大国同士の利害がせめぎ合い、安全保障にも関わる極めて政治色が強い事業である。この大事業を転換することは大変な労力が必要なのは言うまでもない。やはり今の日本の政治風土と国民気質では、このままプルサーマルを発達させて、既存のウラン資源を軽水炉で再利用し続ける道以外は考えにくい。それが良いか悪いかはしらん。が、真夏にクーラーを使いながら、PCを使い続けられる環境は保ちたいものではある。


18-07
ネコ耳

 私は「ネコ耳」だそうだ。と言っても、おぞましい女装コスプレをしたわけではなくて、耳鼻科的な話。私は日本人には少ない「湿性耳垢」を溜まる人間らしい。この「湿性耳垢」タイプの耳を称して、「ネコ耳」と呼ぶそうな。この湿性耳垢は綿棒で耳掃除をすると、耳垢奥に詰め込んでしまうことになりがちで、それが長年耳の奥に溜まると完全に耳が聞こえなくなることもあるらしい。もちろん、耳鼻科に行って専門的な器具で掃除して貰えば聴力は回復する。
 これは怖いですな。日本ならば片耳が聞こえなくとも耳鼻科に行って説明できる。治療費も大したことあるまい。だが、外国滞在中はどうか。聴力が不安定で、空間認識能力・平衡感覚さえも急に狂った状態で、病院に行くのは冒険だ。さらには現地で通用する保険に加入していないと、耳掃除でも高額になる。あまり貧乏な国に行くと、その程度の器具さえないかもしれん。
 というわけで、綿棒を全て廃棄し、耳かきのみで耳掃除をすることにした。


18-06
武装デモ

 7月11日、イラクのバクバでフセイン支持勢力200人が武装デモを行ったそうな。カラシニコフやRPG-7を携行して、サダム・フセイン賛美とアラウィ首相の批判をシュプレヒコールして1時間街を練り歩いたという。アサルトライフルと対戦車ロケット!デモ行進にしてはえらく物騒だ。だが勘違いしてはいけない。武装デモはそれほど特異な現象ではない。間違っても「英米侵攻後のイラク特有の現象」だの「911以降特有の現象」だのと思ってはいけない。よくあることだ。
 政治結社や民族団体が武装デモや武装パレードを行い、国家の軍隊や警官隊と市街戦になるようなことは、特別珍しいことではない。先進国ではなかなか起きないが、戦間期まではアメリカでもドイツでもしばしば起きたことだ。国軍への影響力を個人で持つ有力者が分立し、私兵集団も割拠するような開発独裁国家や、開発独裁にさえなれない国軍と私兵の区別さえつかない貧乏な国では、今でもよくあることだ。


 日本のような、武器を国家が管理し、軍や法の強制執行機関以外に事実上武装集団は存在せず、警察行政や司法にそれなりの信頼が置け、国民統合に成功してほとんどの国民が「日本人」という共通のアイデンティティを持つ国に住んでいたら、武装デモなんぞ別世界のことに思えよう。武器を持った連中が街を練り歩く武装デモなんかはいかにも悪魔的な行為に見えることであろう。そして、国家が市井から武器を没収して管理すればそんな恐ろしいことはなくなり、ある程度平和で安全になるなどと脳天気なこと考えそうだ。そんなに簡単じゃねーんだよ。


 誰が武器を集めて管理する。国家か?武器を剥奪しきれるほど管理能力と武力を持つような、豊かで強力な国家は少ない。さらには人々から武器を手放させるにはとどうすればいい?例え外国人の軍隊が強力な管理能力と武力で武器を没収しようとしても、なぜ人々が武器を差し出そうと思おうか?日本人は国家が武器を管理すればいい、警察だけが銃を持てばいいと簡単に言うが、その国家が信用できず、武器を持ってでも破壊・変革したくなるような社会だからこそ、武装デモなどが起きるのだ。
 「武器のない安全な社会」は万人にとって大切なことではない。「武器のない社会」は、ただ粗暴犯罪がなくなることのみを意味しない。現行の社会構造・経済構造を固定化することを意味する。武器で殺し合うことよりも、貧乏で特定の人々が死に、労働力を搾取されて長生きできず、必要な福祉・医療を受けられずに子供や老人が死に、国家の理不尽によって殺されることの方がマシなわけはない。さらには、アイデンティティを踏みにじられ、思想信条・宗教・民族性の放棄を強要されるのは死ぬよりも辛いことだ。だからこそ人々は武器を持って武装デモを行い、もっと過激な奴はゲリラ活動に出るのだ。それをただ悪いことだ、人殺しはよくない、武器は危険だ、だから武器を奪えなどというのは愚鈍すぎる。さらには、私兵集団・武装勢力の「兵士」をどう動員解除する。動員解除された元「兵士」をどのように社会復帰させる。安定した社会を作るのは並大抵のことではない。


 武器は必ずしもただの人殺しの道具ではない。社会構造や制度をも破壊する力となり、さらには新しい秩序を生み出すこともある。武力で秩序を作るのは難しいことだが、武器なしで秩序は作れない。が、武器であるべき社会の姿を巡って殺し合い、威嚇しあうような社会には私はもちろん住みたくはない。すでに武力が私兵組織ではなくただの公務員による官僚機構となり、その力によって確立された秩序の上で、あるべき社会の姿を巡って法技術を駆使して闘う方が、マシではある。
 だが、そこに至るまでには武器が要る。武装解除にも武器が要る。外国の軍隊が来ればそれでいいというものでもない。やくざ者から警察が拳銃を押収するのとは違う。どうすればよいかは簡単に論じることはできんが、ただ武器をなくせとかいうアホが世の中を安定させられるわけはないのだ。


18-05
魔術の園

 下のコンプライアンスのことで思い出したが、私の某社時代にも大小の不正や安全義務違反は横行していた。そのときに私を最も絶望させたことは、不正や違反を行う人々がアホすぎたことである。多くは語るまい。ここではただ1つのことについて書こう。私はもちろん不正や違反には難色を示したし、100%抵抗しきれたわけでもないが多くのことには従っていない。で、私が不正や違反に対して難色を示したときに繰り返し言われたことが、絶望を禁じ得なかったわけだ。


 下記のように「大人になれ」とか「青臭いことを言うな」と言われた方が、どれだけ救われたことか。私の場合はなんと、「ほら、大丈夫だって!」と言われた。目の前でその行為をやって見せながら。そんなことが何度もあった。
 具体的なことは言わないが例えて言えば、改竄データの入力ならば、目の前でその数値のキーを叩いてリターンキーを押して見せて、「ほら、大丈夫だって!」と言ったようなものだ。不法侵入ならば、敷地を区切る線一本超えて、他社の敷地でジャンプして見せて「ほら、大丈夫だって!」と叫んだようなものだ。こいつらバカか。
 私が何を恐れていると思っているんだ。もし不正な数字を入力したら、リターンキーを叩いた瞬間に警察が踏み込んでくると私が思っていたとでも!?あるいは他社の敷地に入り込んだら、境界線を超えた瞬間に雷に打たれると私が思っていたとでも!?それとも野球ボールを取りに庭に忍び込んだガキみたいに、窓を開けた家主に怒鳴りつけられるとでも!?まあ、せいぜいこいつらアホにとって恐れるべきことは、上司や先輩に怒鳴られることしか思いつかないのだろう。何かやってみて、誰かに怒られなければそれでいい、誰にも怒られなければそれで大丈夫だ、と。学校でガラス割ったとか、便所でタバコ吸ったとか、その程度のことと同じレベルでしか物事を考えられないのであろうか。


 こんなアホにそれ以下のアホと見られたこと、そしてここまでアホな人間が存在していると知ったことは、本当に腹立たしい経験であった。


18-04
事件になる前だったら

 周知の通り、■■自動車は今、一連のリコール隠しの発覚によって大きく揺らいでいる。一度世間にひとつの事件が知れ渡ったら、連鎖的により多くの問題が発覚し、あるいは暴露される。こうして信用とイメージが失墜するのは、現代の企業にとって最も恐ろしいことである。エンロンの例を挙げるまでもなく、世間に爆発的に蔓延したイメージは大企業を倒しうる。
 ■■自動車に恩も仇もない私としては、この事件が他の企業のコンプライアンス徹底への一石になればと願うだけである。もっとも■■自動車が倒れたり、まして異国に買い叩かれたりするのは国益に適わないが、まあ■■グループが総力を挙げて支援しているし、潰れることはないだろう。時間をかけて、いい会社に脱皮することを期待したい。今回一番気の毒なのは、各地で独立した個人が経営しているディーラーですな。


 それにしても、どうしても思うことがある。今は元社員や現役社員が、個人サイトから大手新聞に至るまで「不正の実態」を告発している。過熱する「■■自動車叩き」に反発を感じたり、一社員に憐憫を覚えたりする人はいるだろうけど、不正そのものについては大抵の人は快く思っていまい。現に、■■製自動車の売り上げは目に見えて激減している。ディーラーの中には廃業を余儀なくされているところまである。だが、もし■■自動車の従業員が、こうして事件が世間で取りざたされる前に、「不正」について述べたものならば、世間の人間はどう思ったであろうか。
 社内の意見具申や内部告発の話ではない。そこまで大きな話をするつもりはない。学生時代の友人や、息子や兄弟が、「うちの会社の不正には堪えられない」「こんなひどい会社でやってられない」などと言った時に、友人や家族はどう言ったか。中には「世の中そんなもんだろ、キレイごと言うな。大人になれ」「そんな青臭いこと言ってたらメシ食えんぞ」「そんないい会社入って**万ももらって、カネに苦労したことのある奴は、絶対にそんな仕事手放さないぞ」などと言った奴がいたのではないか。つまり現状肯定を勧めるばかりで、不正に対して大した関心を示さなかったのではないか。
 別に転職先を紹介したり、告発を勧めたりしろと言っているわけではない。「ひどい会社だ。お前は苦労しているんだな」「もし事件になったら、転職も出来なくなるんじゃないか」ぐらいのことを言った奴よりも、「大したことがない」「そんなものだろ」と言った奴の方が、多数派だったのではなかろうか。確認しようもないが、そんな気がしてならない。


 コンプライアンスは確かに大切だ。だが、徹底するのは難しい。不正というのは、誰か特定の悪い奴がいて、悪人が悪辣な企みでもって行うものとは限らない。多くの場合、「そうしなければならない雰囲気だった」というように、明確な発生点がなかったりもするものだ。そしてこの社会には、「堪えればそれでいい。堪えない奴はクズでガキだ」「世の中そんなものだ」「やむを得ない」とかいうコトバが濫用されている。事態を変えることそのものが、ものを知らない愚か者の所業で、しかも事を荒立てる悪行であるという風潮がある。
 つまり、なんとなく「こうしなければならない」という流れがあったら、それが人類開闢以来から続いているかのように踏襲されていて、もっともらしい理由があって変えられないかのような気になる社会だということだ。その習慣が法令や倫理を逸脱していても、だ。しかしこうした繰り返されている行為は、よく検証してみればそれほど必要なことでも重要なことでもなかったりもするのだ。意味不明に伝統的正統性があるような気がするものは、実はそのほとんどを変えられるし、しかも変えることは合理的で、利益率を上げる場合さえあるのだ。私は経験的にそう思っている。どうも「変える」ということは、合理性や利益率を無視した青臭い空虚な寝言だと思いこんでいる人は少なくないが、そんなこともない。
 こういう奴隷根性が跳梁しているからこそ、「不正」や「問題」について愚痴や相談を受けた人間は、「不正」や「問題」に対してとる態度として、「諦念」や「受容」の類しか思いつかないのだろう。


 不正というのは私にとっても決して他人事ではないから、ちと思ったわけですよ。■■自動車の社員である友人や家族が会社の不正について愚痴を言ったときに、「大したことがない」「そんなものだ」と言った奴は必ずいることであろう。そう言った人は、今何を思っていることやら。


18-03
安定という宗教

 安定志向ってのは、言うなれば宗教だ。死ぬまで長期に渡って安定した収入、社会的地位、福利厚生を得たいというのはよくわかる。先がわからないというのは、不安なことだ。まして、生きる糧に関わることならば、なおさらだ。明日メシを食えるという保証があってはじめて、様々なことを考え、先の計画をも立てられる。メシを食えるかどうかわからないのならば、メシをどうやって確保するかしか考えられまい。だからこそ、安心を得たいというのはよくわかる。


 が、安定というのは難しいものだ。安定していそうなもの。将来性がありそうなもの。世間では様々なことが言われる。安定を求める人々は、そうした見立てに基づいて行動する。だが、例えば、学校を出て入った会社が定年まで保つか、保ったとしてまともな待遇をするか、といえばわからない。昭和30年代の学生は鉄鋼や造船に殺到し、アホな学生が仕方なく「胡散臭い業界」たるテレビ局に入ったりもした。だが、生涯年収も退職金も大学の同期の中ではテレビ局に行った奴がトップで、鉄鋼や造船は平均を割っていたという。有名な話だ。
 私の在学中は、「鉄鋼や造船を志望している」などといったらアホ扱いされ、したり顔で「これからはITだ」などとよく言われたものだ。だが、それから僅か数年で、「重厚長大型工業」各社はそのITとやらを活用してドラスティックに脱皮し、格付け会社の評価を上げる会社が続出。だからすばらしい会社かどうか、待遇ややり甲斐はどうか、今後利潤を上げ続けるかと言えば、んなことわかるわけはない。ただ、名前を出しただけで「そんなのはダメだ」と言われるような会社ではない。一方、鳴り物入りで登場した「IT企業」とやらは、わずか数年で潰れるところが相次ぎ、競争がある程度落ち着いた今でも「これからの学生はみんなITへ行こう」などとお気楽に謳えるほど「安定」しているようには見えない。また、今は公務員は大人気で、中途退社した知人のほとんどは勉強を重ねて公務員試験を受けて、そして通っている。しかし公務員とて、すでに重複の叩き出し・合理化が進められているし、これから人員削減・民営化される部門も少なくないだろう。お国そのものとて、これからどうなるかはわかったものではない。


 まあよくわからないということだ。安定を求めるのはそれはそれで大変結構。安定していそうな会社に入ってもいきなり潰れるかもしれない。潰れたとしても、どっかに買いたたかれて安い給料で使われるかも知れない。再建に尽力しているうちに、待遇がよくなるかもしれない。別の会社に再就職して、うまくいくかもしない。うまくいかないかもしれない。まあ、人間万事、塞翁が馬だ。安定を求め続けるのもわるくはない。いい結果が出ることもあるだろうし、出ないこともあるだろう。当たり前のことだ。
 一方、長期的な安定など見込まず、短期的にいい待遇を探し求めて渡り歩く道もある。忠誠心や長期的な展望なぞ持たず、会社を渡る歩くワークスタイルはこれから日本でも増えていくかもしれない。これを「だらしがない」「不安定だ」と思う人もいるし、「長期的には渡り歩いた方が安定している」と思っている人もいよう。私の知っている人間でも、最初国内の大銀行に勤めたが、すぐに離職。専門知識・語学力を武器にあちこちの会社を渡り歩き、今ではそのまま銀行にいたらもらっていたであろう収入の数倍を得ている奴がいる。奴もこのままどっかの会社に収まるかも知れないし、渡り歩き続けるかもしれない。どっちの選択肢を取った結果として、それなりにやっていけるか、躓くかは、誰にもわからない。


 さらには、安定など最初から大して重視せず、いわゆる「やりたいこと」をやる。あるいは、一攫千金を企む。そういう選択肢もありだ。安定しているように見えない上に、最低限の糊口さえしのげなくなる可能性もあるような気もする。こんなワークスタイルをしている人間は、かなりの蓋然性で「だらしがない」「ガキだ」と言われることであろう。
 だが、うまくいくかどうかはわからない(さすがに私でも「うまくいく」蓋然性は低い気はするが)。それに明日交通事故で死ぬかもしれないし、紛争や金融混乱で今まで命張って築いてきたものがすべて灰燼に帰すかもしれないのが世の中。賢者ぶって安定にすべてを捧げても、ダメになるときはある。それならば、最初から冒険をして生きるのもわるくはないだろう。その結果貧乏暮らしでも、納得できるかもしれない。
 さらに言えば、安定していそうな仕事に就いても、適性に難がある場合がある。例え能力があっても、職場環境に適応できないこともある。無理をしても、出来ないもの出来ないのだ。そう考えると、シケた商売でもやりたいことをやっているという自負とささやかな満足感を持っている方が、「我慢がすべて」「夢や目標を棄て、自分を捨てれば安定できる」などという信仰を持って、適性のない仕事に従事し続けて身体や精神を壊すよりは、安定しているかもしれない。


 まあ何を目論んで働くかは難しいものですよ。安定は魅力的だが、安定した会社・業種などというものは、見立てで図るしかない。究極的に言えば、信仰なのだ。まあ、「やりたいこと」とか「一攫千金」などというのも、信仰だ。デカルト的懐疑を持ち出す間でもなく、確かなものなど何一つない。自分の感情や幸福でさえも、よくわからないものだ。それが10年30年先にまでなると、まったく予想がつかない。結局、安定志向な人も、一発屋も、遠い目標を追い求めている人も、結局信仰に基づいているのに過ぎない。それはそれで結構なことだ。個人的には、何も考えず、しいて言えば「何やってもムダだ」という信仰を持って、ただ何をするでもなく日々寝っ転がって見たくもないテレビをザッピングし、酒あおっているだけのクズよりは、よほど好感が持てる。
 が、安定という宗教を信仰する、あるいは信仰したい人々には辟易する。現代日本で一番支配的な宗教は、安定志向だろう。だから、辟易することが多い。誰が安定を求めて、そして何に安定を見出すのかは本人の勝手だ。どこが安定していそうか研究して、安定に邁進して欲しい。何に辟易するかと言ったら、人を不安定だとして非難すれば、自分が安定の方策を知っている気になって安心する奴だ。先にも出したが、就職談義で鉄鋼や造船の名を出しただけで人をアホ呼ばわりして、「これからはITの時代だ」とかしたり顔で語るような奴。啓蒙したいのか嘲笑したいのか、とにかく他者と自己との間に優劣関係を見出せば自分の「安定策」に自信を持てるのか。こういう奴は、「不安定」そうな奴を見つけて、どこかで聞きかじった「必勝策」を吹聴したくてたまらないらしい。
 就職しない奴には「就職しない奴はクズだ」、早期離職者には「3年いないと市場価値がつかない」、マイナー言語学習者には「これからは英語/中国語の時代だ」云々。言っていることが実に薄っぺらい。自分のいう「必勝策」どおりにしないと死ぬかのような口振りだ。


 私はロシア語学習者だから、よく「これからは中国語の時代だ」みたいなことを言われる。こういう奴らに、「そんなに中国語が役に立つというのならぱ、中国への過剰投資がバブルなのか、実体を持つのか教えてくれ」などというと、急に黙り込む。さらには「過剰投資はあと数年、せいぜい北京オリンピック後にバブル崩壊と信認喪失の伝染が起きるんじゃないか」などと、テキトーな見立てを述べたら、「そうなの?」「そうなったらどうなるの?」と急に不安になって私の意見を欲し出したりもする。アホか。北京語を習得して商売するのも結構なことだ。だが、中国の投機熱が破綻を呼び込もうと、中国が消滅するわけでも、北京語を話す人々や設備が消滅するわけでもない。逆に安値で人や設備、在庫を買いたたいて新しい商売をはじめることもできよう。それと同じように、英語や中国語が人気になろうとも、他の言語を話す人々が消滅したわけでもない。
 さらに言えば、そんなに中国語がありがたいのならば、なぜお前が中国語を学んでいない!「中国語を知らないと生きていけない」「中国語を出来ないといい仕事につけない」と心底思っていたら、どんなに忙しくても少しずつでも、死ぬ気で勉強するのだ。そうやって人々は、支配者の言語や強者の言語を習得してきたのだ。勉強していないということは、そこまでして中国語は勉強するものではない、と自分で認めているではないか。
 こういう薄っぺらい信仰を持った持った人間のしたり顔には、辟易しっぱなしですよ。


18-02
駅の階段

 日常では、譲歩すべきか意志を通すか、悩まされることが多い。そんなときは、駅の階段が彷彿される。
 例えばラッシュ時に混み合う階段で、反対側を歩く奴がはみ出してきたとき。避けないとぶつかる。ぶつかるとトラブルになりかるない。しかし横柄にはみ出してきた奴になぜ道を空ける必要があろうか。あるいは避けても、ぶつかるかもしれない。避けても、相手はこっちが避けた余白の分だけ、さらに寄ってくるかもしれない。さらには、無難にアホを避けようとしても、こちらには避ける余地もないかもしれない。譲歩すればすべて無難にいくというわけでもない。難しいものだ。
 まあ、譲歩すること我慢することが平和の秘訣だ、世の中理不尽なモノだとしたり顔で言う奴も少なくないが、譲歩することによってよけい事態が悪化することもあるし、譲歩しようと思ってもしようがないこともある。そもそも譲歩すればすべて穏便にいくなどというのは、事態の本質ではなくただトラブルを避けようという表層に終始する発想だ。経験的に、ミューニックに類することだけは御免だが。


18-01
現職警察官から聞いた話。

・漫画喫茶の個室と、歩道橋はレイプ事件が多発しているらしい。まさか漫画喫茶でと思わなくもないが、カネのないガキがラブホ代わりに使うので、それらしき音がしても店員は気にしないという。被害者にナイフでも突きつけて黙らせるか、猿ぐつわでも噛ませれば、事が終わるまでは事件性を伝えることも出来なかろうて。大抵は、犯人グループが何食わぬ顔して出て言ってから、事件が発覚するそうだ。
 あと夜の歩道橋は、車がひっきりなしに通ってうるさい場所ならば、叫ぼうが何しようが、かき消されてしまう。しかも押し倒してしまえば下からは見えない。夜は歩道橋を登る人間は滅多にいない。下の道路さえも歩行者は稀になる。
 油断禁物である。私は男だからレイプはされないだろうけど(同性愛者による強制猥褻事件とて、油断は禁物なのだが)、この死角・多少騒いでも気づかれないというのは、物取りや恐喝にも応用できる。気を付けねば。

・韓国や台湾から渡ってくる犯罪者は、大抵の奴は兵役を経験しているので腕が立つとのこと。ナイフの扱いにも慣れていて、素人ではかなわないらしい。しかも捕まっても強制送還で済むし、日本国内で裁かれたとしてもいい待遇のムショに入られる。だから好き放題。最近警察官の発砲規定が改正され、撃つようになってからは、多少は大人しくなったとのことだ。しかも規定改正後は警察官の殉職者が激減したとか。

・警察官を見たらアジア系犯罪集団は逃げない。向かってくる。逃げたら背後から撃たれるから、先制してから逃げるという。だから催涙ガスをぶっかけ、包丁やナイフで切りつけ、それから逃げる。

・警察官が車を購入するのには、決裁が必要とのこと。面倒なのだな。ここから先は私の想像だが、たかが車一台私費で買うような私生活にまで決裁や許可が必要というのは、怖いことだ。素行が悪い奴、あるいは「悪い」とされた奴なんかは決裁が下りにくいだろう。この判定に、いかなる恣意が介入することか。

・外国語の出来る警察官は、たまに別の部署へ呼ばれることがある。だが、用が済んだら「はい、帰っていいよ」。体のいい便利屋。ねぎらいの1つもない。おそらく評価の対象にもならない。語学を出来ると採用試験で有利だが、優遇されるとも限らないみたいだな。

・ニューナンブは重い。SAでもトリガーは重い。女の子は、両手の人差し指でトリガーをひくのもいたとか。トリガーが、がく引きにならぬよう、研修中は皆ガスガン買って、サイトあわせてブレないようにトリガーを絞る練習をしていたという。

・地下射撃場の空気はわるく、緊張もあり、射撃練習はカラダを壊すとのこと。

・ニューナンブで20メートルまではなんとか野球ボールに当てられる。15メートルならば確実。射撃は練習量に比例。入職前に遊びでガスガンのプリンキングしていたことも、プラスになっているという。

・射撃はわくわくすると思うだろうが、手を壊す。手が痛くて、めしもくえん。出来ればやりたくないとのこと。

・S&W・M37は軽いが、反動も強い。

・アメリカ警察の講演で、腰・脇・防弾着の内側・足首に四丁の銃を身に帯び、ひとつの事件で全部撃ったことがある奴がいたらしい。車から運転しながら撃ち合ったこともあるとか。

・アジア系武装スリ団や強盗団の催涙ガスは、市販や警察用の10倍の濃度。軍用。接近戦でガスは最強。ガスかけてからナイフで首筋を狙う。同僚にガスを吹きかけられたのがいるとのことだが、涙目の中一瞬の輝きを見て、反射的に身を捻った。ほとんど偶然でかわしたが、身体をひねっていなければナイフで首を切られていたとのこと。この事件の犯人は逃亡。

・警察官が25口径でアジア系強盗団を撃った事件もあったそうな。.25ACPを日本の警察でも使っていること自体は読んだことがあるが、実際に使っていたとは。

・「銀行に外国人がたむろしている」とひゃくとう(110番)すれば、警察官は必ず来るという。 
数ヶ月前、私がカネを下ろそうとしたら背後にアジア系外国人が3〜4人おり、怖くなって何もせずに銀行から出ようとしたら、ATMコーナーからは見えない銀行の出口付近にもさらに2〜3人いた。もし私が大金を下ろしていたら、狙われていたかも。この話を警察官の彼にしたら、いつどこで、どんな奴らがいたかと詳しく聞かれた。同じ時期にその近くで、類似事件があったという。恐ろしい。そういうときは110番してくれとのこと。

・警察官の時計は大抵Gショック。でないとすぐ壊される。

・制服の寿命は短い。
 返り血あびて制服廃棄。
 死んだホトケの油脂で廃棄。
 とにかくすぐ廃棄。

・人間は油脂で出来ている。風呂で死んでいた事件では、湯船に油脂が厚い層となっていたとのこと。

・異臭のする家に通報を受けて行ったら、郵便受けから蛆が出ていた。ドア開けて、すぐ閉めた。中では床が動いていた。蛆虫が層を成していたという。中には蝿が飛び回る。孤独死なんかで、死体がそのまま腐るケースは多いらしい。

・列車飛び込みの現場にも行くらしい。手や脚といった末端は発見しやすいが、あとはなにがどこやら。頭は大抵そのへんに転がっているが、たまにいくら探しても頭が見付からないこともある。木っ端微塵になったのだろう。ただし、頭だけかなり飛ばされて、線路沿いの畑から発見されたこともあったという。

・任官して間もない頃は、3ヶ月モノの死体処理のあと、「度胸試し」として先輩に焼き肉へつれていかれたとか。ユッケくわされたが、彼は平気で食ったという。

・3ヶ月ものの死体は持ち上げようとしたら滑るし、皮や肉がズリ落ちてなかなか持ち上げられないとか。ゴム手は必須。

・「踊る捜査線」に影響されて、青島みたいなボロコートを着ている若いのはしばしばいるという。しかも、「踊る捜査線」の影響で警官を志望した人間も必ずおり、自分の制服姿を鏡に映して悦に入っている奴もかなりの割合でいるとか。そういう奴らは、死体処理ひとつできまいと、彼は軽蔑していた。


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